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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 宗教改革

ツヴィングリとは わかりやすい世界史用語2570

著者名: ピアソラ
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ツヴィングリとは

16世紀のヨーロッパを揺るがした宗教改革の物語は、しばしばドイツのマルティン=ルターやフランスのジャン=カルヴァンといった巨人たちの名によって語られます。しかし、彼らと並び立ち、時には彼ら以上に急進的な改革を推し進め、スイスの地に独自の宗教改革の礎を築いた、もう一人の重要な人物がいます。その名は、フルドリッヒ=ツヴィングリ。彼は、ルターとは独立して聖書研究から改革思想に至り、市民共同体の伝統が息づくチューリッヒを舞台に、聖書を唯一の羅針盤として、教会と社会の徹底的な変革を断行した改革者です。彼の生涯は、ヒューマニストとしての知的な探求、愛国者としての政治的な情熱、そして牧会者としての深い信仰が、分かちがたく結びついたものでした。ツヴィングリの物語は、宗教改革が単一の運動ではなく、各地の固有の文脈の中で多様な花を咲かせた、複合的な現象であったことを、鮮やかに示しています。
ツヴィングリは、1484年1月1日、スイス東部のトッゲンブルク谷にあるヴィルトハウスという小さな村で生まれました。奇しくも、それはマルティン=ルターの生年から、わずか7週間後のことでした。彼の家系は、代々その地域の共同体で指導的な役割を担う裕福な農民の家柄でした。父は村の村長を務め、母方の家系にも聖職者がいるなど、彼は比較的恵まれた環境で育ちました。アルプスの雄大な自然に囲まれたこの故郷の風景と、自由と自治を重んじるスイスの共同体の精神は、ツヴィングリの人間形成に深い影響を与えたと考えられます。彼は生涯を通じて、自らを単なる神学者としてではなく、スイスの自由を守る愛国者として強く意識し続けました。



幼い頃から非凡な知性を示したツヴィングリは、聖職者であった叔父の計らいで、早くから高度な教育を受ける機会に恵まれました。彼はまず、ヴェーゼン、次いでバーゼル、そしてベルンへと移り、当代一流のヒューマニスト(人文主義者)たちの下で学びました。特にベルンでは、高名な古典学者ハインリヒ=ヴェルフリンに師事し、ラテン語の古典文学や修辞学に深く親しみました。この時期に、彼は、中世のスコラ神学の煩瑣な哲学よりも、古代ギリシア・ローマの古典に立ち返り、人間そのものへの洞察を深めようとする、ヒューマニズムの精神を吸収していきました。
1502年、ツヴィングリはウィーン大学に入学し、哲学、天文学、物理学など、幅広い学問を学びます。当時のウィーン大学は、ドイツの著名なヒューマニスト、コンラート=ケルティスの影響下で、人文主義研究の一大中心地となっていました。ここで彼は、後に宗教改革の盟友とも、論敵ともなる、多くの同世代の知識人たちと交流しました。1504年には再びバーゼル大学に戻り、そこで文学士号と修士号を取得します。バーゼルでの彼の師であったトマス=ヴィッテンバッハは、免償(贖宥状)の弊害を批判し、聖書研究の重要性を説くなど、後のツヴィングリの改革思想に通じる考えを持っていました。
1506年、ツヴィングリは、まだ神学の正規の訓練を終えていませんでしたが、故郷に近いグラールスの町の教区司祭に任命され、叙階を受けます。ここから、彼の牧会者としてのキャリアが始まりました。彼は、教区司祭の務めを熱心に果たしながらも、知的な探求を決してやめませんでした。彼は、ギリシア語の独学を始め、新約聖書を原語で直接読むことの重要性を痛感します。そして、オランダの偉大なヒューマニスト、デジデリウス=エラスムスの著作に深く傾倒していきました。エラスムスは、教会の腐敗を痛烈に風刺し、スコラ神学を批判して、聖書と初期の教父たちの思想に立ち返る「キリストの哲学」を提唱しました。ツヴィングリは、エラスムスを自らの師と仰ぎ、個人的に文通するまでになります。1516年にエラスムスが、ギリシア語の新約聖書を新しいラテン語訳と共に校訂・出版すると、ツヴィングリは早速それを手に入れ、むさぼるように読みました。彼は、パウロの手紙のギリシア語原文をすべて書き写し、それを常に持ち歩いて暗記するほどだったと言われています。
この時期、ツヴィングリは、スイス人傭兵の従軍司祭として、二度にわたってイタリア戦争の戦場に赴いています。当時のスイスは、貧しい山国であり、多くの若者が、フランス王や教皇といった外国の君主に雇われる傭兵として、生計を立てていました。しかし、ツヴィングリは、マニャーノ(1513年)やマリニャーノ(1515年)の戦場で、スイスの若者たちが、外国の利益のために互いに殺し合い、多くの血を流す悲惨な現実を目の当たりにします。特に、マリニャーノでのフランス軍に対する壊滅的な敗北は、彼に大きな衝撃を与えました。彼は、この傭兵制度が、スイスの社会を道徳的に腐敗させ、その独立を脅かす元凶であると確信するようになります。彼は、説教壇から、傭兵制度を厳しく批判し始め、スイスの同胞たちに、外国の金銭に惑わされることなく、自国の平和と独立を守るよう、熱心に訴えかけました。この傭兵制度反対の主張は、彼の最初の公的な活動となり、彼を、単なる一介の田舎司祭から、スイスの政治問題に発言する、愛国的な改革者として、世に知らしめることになりました。
10年間務めたグラールスを離れた後、ツヴィングリは、1516年から、巡礼地として名高いアインジーデルンの修道院で、説教師としての務めに就きます。ここは、彼が、自らの改革思想を、より明確な形で形成していくための、重要な場所となりました。彼は、修道院の豊富な図書館を利用して、教父たちの著作、特にアウグスティヌスの研究に没頭しました。そして、エラスムスのギリシア語新約聖書に基づき、福音書を連続して講解説教するという、当時としては画期的な試みを始めます。彼は、説教の中で、聖母マリアへの過度な崇敬や、巡礼といった外面的な行いよりも、キリストへの内面的な信仰こそが重要であると説き、免償の販売を公然と批判しました。彼の説教は、多くの巡礼者に感銘を与え、その名声は、スイス中に広まっていきました。このアインジーデルンでの経験を通じて、ツヴィングリは、ヒューマニストとしての聖書研究と、牧会者としての実践的な関心を、一つの改革思想へと統合させていったのです。彼の心の中では、もはや教会の改革は、単なる道徳的な改善の問題ではなく、聖書の福音そのものに立ち返る、根本的な神学的な問題となっていました。
チューリッヒでの改革の開始

1518年末、ツヴィングリの人生に、決定的な転機が訪れます。スイス有数の都市であり、政治的な影響力も大きいチューリッヒの、大聖堂(グロスミュンスター)の民衆司祭(説教師)のポストに、彼が選出されたのです。彼の傭兵制度反対の主張や、アインジーデルンでの説教者としての名声が、この選出の決め手となりました。1519年1月1日、彼の35歳の誕生日に、ツヴィングリは、チューリッヒ大聖堂の説教壇に立ち、その第一声から、聴衆に衝撃を与えました。彼は、教会が定めた、断片的な聖書日課に従うのではなく、マタイによる福音書を、その冒頭から、一章ずつ、連続して講解説教していくことを宣言したのです。これは、聖書全体を、その文脈に沿って、体系的に解き明かそうとする、ヒューマニスト的な聖書解釈の実践であり、神の言葉そのものを、教会の伝統や人間の解釈よりも上に置くという、彼の改革の基本姿勢を、明確に示すものでした。
彼の説教は、力強く、明快で、人々の日常生活に即したものでした。彼は、難解な神学用語を避け、平易な言葉で、聖書のメッセージを直接、市民の心に届けようとしました。彼は、キリストの福音を、罪からの赦しと救いのメッセージとして説くと同時に、社会的な不正義や、政治的な腐敗を、聖書の光に照らして、厳しく批判しました。特に、彼が長年訴え続けてきた傭兵制度反対の主張は、チューリッヒの市民の間で、大きな共感を呼びました。彼の説教壇は、単なる宗教的な教えの場ではなく、チューリッヒの社会全体を改革するための、力強い発信源となったのです。
1519年の夏、チューリッヒをペストのパンデミックが襲い、市の人口の4分の1が命を落とすという、未曾有の危機が訪れました。ツヴィングリ自身も、この病に倒れ、生死の境をさまよいます。しかし、彼は奇跡的に回復しました。この死の淵からの生還は、彼の信仰をさらに深め、神の恵みと摂理への絶対的な信頼を、確固たるものにしました。彼は、この体験を「ペストの歌」という詩に綴り、自らの命が、完全に神の御手の中にあることを告白しました。この経験を経て、彼の説教は、さらに力強さと確信を増していったと言われています。
ツヴィングリの改革運動が、公的な形で、カトリック教会の権威と正面から衝突する最初のきっかけとなったのが、1522年の「ソーセージ事件」です。四旬節(レント)の期間中、カトリック教会は、肉食を禁じていました。しかし、ツヴィングリの支持者であった印刷業者クリストフ=フロシャウアーが、この期間中に、友人たちを集めて、ソーセージを食べるという、意図的な挑戦行為を行いました。ツヴィングリ自身は、その場にいましたが、ソーセージは食べなかったと言われています。しかし、彼は、その後の説教で、肉食の禁止は、聖書に根拠のない、人間が定めた規則に過ぎず、キリスト者の自由を束縛するものであると主張し、フロシャウアーの行動を擁護しました。
この事件は、チューリッヒを管轄するコンスタンツ司教の介入を招きました。司教は、教会の規則を破った者を罰するよう、チューリッヒの市参事会に要求します。これに対して、ツヴィングリは、『食物の選択と自由について』と題する小冊子を著し、聖書のみが、キリスト者の信仰と生活に関する、唯一の拘束力を持つ規範であると、改めて主張しました。彼は、教皇や司教、公会議といった、人間の権威を、聖書の権威の下に置いたのです。ここに、彼の改革の根本原則である「聖書第一主義」が、明確に表明されました。
この対立を解決するため、チューリッヒの市参事会は、スイスの都市の伝統に則り、公開討論会を開催することを決定しました。これは、ツヴィングリの改革の進め方を特徴づける、極めて重要な手法でした。彼は、改革を、君主の権威によって上から押し付けるのではなく、市民の代表である市参事会の決定を通じて、共同体全体の合意形成を図りながら、進めようとしたのです。
1523年1月29日、第1回チューリッヒ公開討論会が、市の庁舎で開催されました。600人以上の聖職者と市民が見守る中、ツヴィングリは、自らの改革の綱領となる「六十七箇条の提題」を提示し、聖書に基づいて、それに反論できる者がいれば、名乗り出るよう挑戦しました。この提題は、キリストが人類の唯一の救い主であること、教皇制の否定、ミサの批判、聖職者の結婚の権利、聖像崇拝の否定など、彼の神学の核心を網羅するものでした。コンスタンツ司教の代理として出席した代表団は、このような公開の場で神学的な問題を議論すること自体を拒否し、公会議の決定を待つべきであると主張するだけで、聖書に基づく具体的な反論を、ほとんど行うことができませんでした。討論の終わりに、市参事会は、ツヴィングリの主張が、聖書によって論破されなかったことを認め、彼が、これまで通り、聖書の福音を説き続けることを、公式に許可する裁定を下しました。
この第1回討論会の勝利は、チューリッヒの宗教改革にとって、決定的な一歩となりました。それは、チューリッヒの教会が、司教の管轄権から事実上離脱し、市参事会という世俗の権威の下で、聖書を唯一の基準として、自らの改革を進めていくことを、公に宣言した瞬間でした。ツヴィングリの改革は、もはや一個人の運動ではなく、チューリッヒという都市共同体全体の、公式なプロジェクトとなったのです。この後、数年のうちに、チューリッヒの教会と社会は、彼の指導の下で、根本的な変革を遂げていくことになります。
改革の徹底と神学の確立

第1回チューリッヒ公開討論会での勝利を足がかりに、ツヴィングリと市参事会は、改革を具体的な形にしていく作業に、本格的に着手しました。そのプロセスは、聖書という唯一の基準に照らして、旧来の教会の制度や慣習を、一つ一つ吟味し、聖書に根拠のないものを、徹底的に排除していくという、急進的なものでした。
改革の次の焦点となったのは、ミサと聖像の問題でした。ツヴィングリは、カトリックのミサが、キリストの十字架上での一度きりの犠牲を、繰り返し再現する「犠牲」であると見なすことを、聖書に反する冒涜であると批判しました。また、教会内に置かれた聖像や聖遺物は、人々を偶像崇拝に導くものであり、十戒の教えに反すると考えました。しかし、これらの改革は、市民の間に混乱を引き起こす可能性があったため、市参事会は、慎重な姿勢を取りました。
この問題を議論するため、1523年10月に、第2回チューリッヒ公開討論会が開催されました。この討論会では、ミサと聖像の是非が、3日間にわたって、徹底的に議論されました。ツヴィングリは、聖書を引用しながら、ミサの犠牲的な性格と、聖像の使用を、厳しく論難しました。この討論の結果、市参事会は、ツヴィングリの主張の正しさを認め、ミサと聖像を、段階的に廃止していく方針を決定しました。
この決定に基づき、チューリッヒの教会からは、聖像、十字架、祭壇、そしてオルガンまでもが、次々と撤去されていきました。教会の壁は白く塗りつぶされ、礼拝の空間は、華美な装飾から解放された、簡素で、説教に集中するための場所へと、その姿を変えました。そして、1525年の聖木曜日、ついに、ラテン語によるミサが完全に廃止され、それに代わって、ドイツ語による、新しい聖餐式が、初めて執り行われました。この聖餐式では、信者たちは、祭壇の前にひざまずくのではなく、長いテーブルを囲んで座り、パンとぶどう酒を、互いに手渡しました。それは、キリストの犠牲を再現する儀式ではなく、最後の晩餐を記念し、キリストを頭とする信仰共同体の一致を確認する、共同の食事として、位置づけられました。
教会の改革と並行して、ツヴィングリは、社会の改革にも力を注ぎました。彼は、修道院を解散させ、その財産を没収しましたが、それを、貧民救済や、公共教育のために用いるよう、市参事会に働きかけました。また、彼は、聖職者の結婚を、聖書的に正当なものであると主張し、自らも、1522年に、アンナ=ラインハルトという名の寡婦と秘密裏に結婚し、1524年に、それを公にしました。これは、聖職者の独身制という、長年の教会の伝統を打ち破る、象徴的な行動でした。
さらに、ツヴィングリは、聖職者の教育と、聖書の学術的な研究のために、新しい教育機関を設立しました。1525年に、大聖堂の参事会を改組して作られた「プロフェツァイ(預言の学校)」は、その中心的な機関です。ここでは、毎朝、聖職者と神学生が集まり、旧約聖書のテキストを、ヘブライ語、ギリシア語(七十人訳)、ラテン語(ウルガタ)、そしてドイツ語で読み比べ、その意味を解き明かすという、徹底した聖書研究が行われました。この研究の成果は、市民のために、ドイツ語の説教として、分かりやすく解説されました。このプロフェツァイでの共同作業から、1531年には、最初のプロテスタントによる完全な聖書翻訳である「チューリッヒ聖書」が生まれました。これは、ルターのドイツ語訳聖書よりも、数年早く完成した、画期的な業績でした。
これらの改革を通じて、ツヴィングリの神学も、より体系的な形で確立されていきました。その集大成が、1525年に出版された主著『真の宗教と偽りの宗教に関する注解』です。この著作の中で、彼は、自らの神学の全体像を、包括的に示しました。ツヴィングリの神学の根底にあるのは、神の絶対的な主権と、神の摂理への、揺るぎない信頼です。神は、世界の創造主であり、その御心は、歴史のあらゆる出来事を通じて、実現される。人間の救いは、人間の側の功績や選択によるのではなく、完全に、神の永遠の選びと、恵みによるものである。この厳格な予定説は、後のカルヴァンの神学にも、大きな影響を与えました。
また、ツヴィングリは、聖と俗、教会と国家を、厳格に二元論的に分離するルターとは異なり、両者の一致を強調しました。彼にとって、キリスト者の共同体は、目に見える教会であると同時に、市民共同体でもありました。市参事会のような世俗の権威もまた、神によって立てられたものであり、社会に正義と秩序を維持し、神の御心を実現する責任を負っていると考えました。この神政政治的な思想は、教会と国家が、協力して、市民生活の隅々にまで、聖書の教えに基づく規律を浸透させようとする、チューリッヒの改革のあり方を、理論的に支えるものでした。
しかし、ツヴィングリの改革は、すべての人の支持を得たわけではありません。彼の右側には、改革のペースが速すぎると感じる、保守的なカトリック教徒がいました。そして、彼の左側には、彼の改革が、あまりに生ぬるく、妥協的であると感じる、より急進的なグループが登場しました。これが「再洗礼派」です。彼らは、ツヴィングリの弟子たちの中から現れ、幼児洗礼を否定し、国家から完全に分離された、真の信者のみからなる、純粋な教会を設立しようとしました。彼らは、ツヴィングリが、聖書の教えを徹底せず、市参事会という世俗の権力と妥協していると批判しました。ツヴィングリは、彼らと何度も討論を行いましたが、決裂は避けられませんでした。彼は、再洗礼派の主張が、教会と社会の秩序を破壊する、危険なものであると見なし、市参事会による、彼らへの厳しい弾圧を、容認することになります。これは、ツヴィングリの生涯における、最も暗い側面の一つとして、しばしば指摘される点です。
プロテスタント陣営の分裂とツヴィングリの最期

チューリッヒで確立されたツヴィングリの改革運動は、ベルン、バーゼル、シャフハウゼン、ザンクト=ガレンといった、スイスの他の主要な都市や地域にも、次々と広がっていきました。これらの改革派の諸都市・諸州は、1528年に「キリスト教都市同盟」を結成し、カトリックの諸州に対抗するための、政治的・軍事的な連携を強めていきました。ツヴィングリは、この同盟の、事実上の神学的・政治的な指導者となり、スイス全土を、福音の信仰の下に統一するという、壮大なビジョンを抱いていました。
この目標を達成するためには、スイス国外のプロテスタント勢力、特に、ドイツのルター派の諸侯との連携が、不可欠であると、ツヴィングリは考えました。当時、プロテスタント勢力は、カトリックの皇帝カール5世からの、強大な軍事的圧力に直面しており、政治的な団結が、急務とされていました。この政治的な必要性から、プロテスタント陣営の二人の指導者、ルターとツヴィングリを会わせ、神学的な合意を形成させようという試みが、ヘッセン方伯フィリップの主導で、計画されました。
1529年10月、ドイツ中部のマールブルク城で、歴史的な会談が実現しました。ルターとツヴィングリは、それぞれの主要な協力者(ルター側はメランヒトン、ツヴィングリ側はエコランパディウス)を伴って、数日間にわたり、集中的な神学討議を行いました。驚くべきことに、彼らは、三位一体、キリストの神性、信仰義認といった、主要な教義のほとんどの項目で、合意に達することができました。しかし、最後の、そして最も重要な一点、聖餐論において、両者の間の溝は、埋めがたいほど深いものであることが、明らかになりました。
ルターは、聖餐において、キリストの身体と血が、パンとぶどう酒と「共に、その中に、その下に」、真に、そして実体的に臨在すると主張しました(共在説)。彼は、ヨハネによる福音書6章の「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得る」という言葉や、最後の晩餐における「これは、わたしのからだである」というキリストの言葉を、文字通りに解釈することを、頑なに譲りませんでした。
これに対して、ツヴィングリは、より象徴主義的、あるいは記念的な見解を取りました。彼は、聖餐を、キリストの死を記念し、信者がキリストへの信仰と、共同体への所属を、公に表明するための、象徴的な行為であると解釈しました。彼は、キリストが昇天して、父なる神の右の座に着かれた以上、その身体が、物理的に、地上の多くの教会の聖餐に、同時に存在することはありえないと、合理的に論じました。彼にとって、「これは、わたしのからだである」という言葉は、「これは、わたしのからだを象徴する(意味する)」と、比喩的に解釈されるべきものでした。彼は、ルターの主張が、パンの中にキリストの身体を閉じ込める、迷信的な考えであり、キリストの人間性を損なうものであると批判しました。
両者の議論は平行線をたどるばかりで、合意に至る見込みは、全くありませんでした。伝えられるところによれば、ルターは、議論の初めに、テーブルの天板にチョークで「これは、我が体なり」と書き、議論が行き詰まるたびに、その布をめくって、自らの立場を譲らないことを示したと言われています。会談の最後に、ツヴィングリは、涙ながらに、ルターを「兄弟」として認めてほしいと懇願しましたが、ルターは、「あなた方は、我々とは異なる霊を持っている」と述べ、握手を拒否したとされています。
このマールブルク会談の決裂は、プロテスタントの歴史における、悲劇的な瞬間でした。それは、プロテスタント陣営が、ルター派と改革派(ツヴィングリ派、後のカルヴァン派)という、二つの大きな流れに、決定的に分裂することを、象徴する出来事でした。政治的な同盟を結ぶという、当初の目的も、達成されることはありませんでした。ツヴィングリは、失意のうちに、チューリッヒへと帰ることになります。
スイス国内では、改革派とカトリック派の間の緊張が、ますます高まっていました。ツヴィングリは、カトリック諸州が、福音の宣教を妨げ、改革派の信徒を迫害していることに、強い憤りを感じていました。彼は、カトリックの抵抗を打ち破るためには、武力を用いることも辞さない、という強硬な姿勢を取るようになります。彼は、カトリック諸州に対して、食糧の禁輸措置という、経済的な圧力をかけることを、キリスト教都市同盟に提案し、実行させました。
しかし、この禁輸措置は、カトリック諸州を屈服させるどころか、彼らの怒りと反発を、さらに煽る結果となりました。食糧不足に追い詰められたカトリックの五州(ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデン、ルツェルン、ツーク)は、密かに軍備を整え、1531年10月、チューリッヒに対して、奇襲攻撃を仕掛けました。
不意を突かれたチューリッヒは、混乱の中で、急いで軍を編成しましたが、その数は、カトリック軍に、はるかに及びませんでした。ツヴィングリは、自らも、兜をかぶり、甲冑を身につけて、チューリッヒ軍の従軍司祭として、戦場へと赴きました。1531年10月11日、チューリッヒの南、カッペル・アム・アルビスの地で、両軍は激突しました。準備不足で、数も劣るチューリッヒ軍は、たちまちのうちに打ち破られ、壊滅的な敗北を喫しました。この戦いで、ツヴィングリ自身も、負傷して倒れ、敵兵によって命を落としました。享年47歳でした。彼の遺体は、カトリック兵によって、異端者として四つ裂きにされ、火で焼かれて、その灰は、豚の糞と混ぜて、まき散らされたと言われています。
ツヴィングリの突然の死は、チューリッヒの改革運動に、計り知れない衝撃と混乱をもたらしました。彼の後継者となったハインリヒ=ブリンガーは、ツヴィングリの急進的な政治路線を放棄し、より穏健で、牧会的なアプローチを取ることで、チューリッヒの教会を再建し、その改革の成果を守り抜きました。ブリンガーの賢明な指導の下で、チューリッヒは、ヨーロッパの改革派神学の、重要な中心地として、その地位を維持し続けました。そして、後に、ジュネーヴのジャン=カルヴァンとの間で、神学的な合意(チューリッヒ協定)が結ばれることで、ツヴィングリの遺産は、より大きな改革派(カルヴァン主義)の伝統の中に、合流していくことになります。
フルドリッヒ=ツヴィングリの生涯は、志半ばで、悲劇的な最期を遂げた、未完の改革者の物語です。しかし、彼がスイスの地に蒔いた種は、決して消えることはありませんでした。聖書を唯一の権威として、教会と社会の徹底的な改革を目指した彼の情熱、ヒューマニストとしての知性と、愛国者としての気概が一体となった彼の姿は、宗教改革の多様性と、そのダイナミズムを、力強く証ししています。彼は、ルターの巨大な影に隠れがちですが、プロテスタンティズムの、もう一つの源流を形成した、独自の、そして偉大な改革者として、歴史の中に、その名を刻んでいます。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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