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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / ルネサンス

ラファエロとは わかりやすい世界史用語2537

著者名: ピアソラ
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ラファエロとは

ラファエロは、レオナルド=ダ=ヴィンチ、ミケランジェロと並び、盛期ルネサンスを代表する三大巨匠の一人であり、その作品は、優美さ、調和、そして人間的な温かみにおいて、西洋美術史における一つの理想形を確立しました。わずか37年という短い生涯の中で、彼は驚異的な多作ぶりを発揮し、その芸術はウンブリア派の敬虔な様式から、フィレンツェで学んだレオナルドとミケランジェロのダイナミズム、そしてローマで開花した壮大で古典的な様式へと、目覚ましい発展を遂げました。宮廷画家の子としてウルビーノの洗練された文化の中で育った彼は、その穏やかで社交的な人柄によって、気難しいミケランジェロとは対照的に、多くのパトロンや協力者に恵まれ、大規模な工房を率いて数々の大事業を成し遂げました。特に、教皇ユリウス2世とレオ10世の庇護のもとで手掛けたヴァチカン宮殿の「ラファエロの間」のフレスコ画群は、キリスト教神学と古典哲学を見事に融合させた、盛期ルネサンスの知的・芸術的達成の頂点とされています。彼の描く聖母子像は、神聖さと人間的な愛情が完璧に溶け合った姿として、後世の芸術家たちにとって永遠の模範となり、その明晰な構図と優雅な人物表現は、アカデミズム絵画の基礎を築きました。



ウルビーノでの幼少期と初期の修業(1483年–1504年)

ラファエロの芸術の根底には、彼が生まれ育ったウルビーノ公国の、洗練された宮廷文化が深く刻み込まれています。15世紀のイタリアにおいて、ウルビーノは、傭兵隊長でありながら優れた人文主義者でもあったフェデリーコ=ダ=モンテフェルトロ公の統治のもと、最も輝かしいルネサンス文化の中心地の一つとして栄えました。ラファエロの父、ジョヴァンニ=サンティが、この知的な宮廷に仕える画家兼詩人であったことは、彼の芸術家としてのキャリアの出発点において、計り知れないほど重要な意味を持っていました。幼いラファエロは、父の工房で絵画の初歩を学び、ウルビーノ宮殿に出入りする当代一流の芸術家や人文主義者たちの薫陶を受けながら、その類まれな才能の基礎を築きました。しかし、若くして両親を相次いで失うという悲劇に見舞われた彼は、故郷を離れ、ウンブリア派の巨匠ピエトロ=ペルジーノの工房で、本格的な画家としての道を歩み始めることになります。
父ジョヴァンニ=サンティとウルビーノの宮廷

1483年4月6日の聖金曜日、ラファエロは、中央イタリアの小都市ウルビーノで、宮廷画家ジョヴァンニ=サンティと、商人であった母マージア=ディ=バッティスタ=チャルラの間に生まれました。父ジョヴァンニは、単なる職人画家ではなく、フェデリーコ公の生涯を叙事詩として綴るほどの教養を持つ、宮廷文化の重要な一員でした。彼の工房は、ウルビーノ公国の芸術的中心であり、ピエロ=デッラ=フランチェスカやパオロ=ウッチェロ、ペドロ=ベルゲーテといった、イタリアやフランドルの先進的な芸術家たちの作品が集まる場所でした。ラファエロは、このような国際的で知的な環境の中で、幼い頃から絵画の道具に親しみ、父から素描や絵具の扱い方といった基本的な技術を学びました。父の工房で、彼は、ピエロ=デッラ=フランチェスカの厳格な遠近法や光の表現、そしてフランドル絵画の細密な描写といった、多様な芸術的要素を吸収し、その後の彼の芸術の基盤となる、幅広い視野を養ったのです。
若くしての孤児

ラファエロの穏やかな幼少期は、突然の悲劇によって終わりを告げます。1491年、彼がまだ8歳の時に、最愛の母マージアが亡くなりました。父ジョヴァンニはその後再婚しますが、その3年後の1494年、ラファエロが11歳の時に、父自身もこの世を去ってしまいます。若くして孤児となったラファエロの後見は、父方の叔父であるバルトロメオが務めることになりましたが、継母との間には遺産を巡る争いが生じました。しかし、父の工房は、彼の協力者であったエヴァンジェリスタ=ダ=ピアン=ディ=メレートらによって引き継がれ、ラファエロは10代半ばには、すでにこの工房で独立した画家として活動を始めていたと考えられています。1499年頃には、彼はすでに「マエストロ(親方)」と呼ばれており、父から受け継いだ工房と人脈を足掛かりに、ウルビーノ近郊のチッタ=ディ=カステッロなどの都市で、最初の独立した祭壇画の注文を受けるようになります。
ピエトロ=ペルジーノの工房へ

ラファエロの初期様式に決定的な影響を与えたのは、当時ウンブリア地方で最も名声の高い画家であったピエトロ=ペルジーノでした。ラファエロがいつ、どのような形でペルジーノの弟子になったのかについては、正確な記録がありません。ヴァザーリは、彼が幼い頃に父によってペルジーノの工房に預けられたと記していますが、現代の研究では、彼が父の死後、1500年頃に、すでに一人の親方としてペルジーノの工房に協力者として加わった可能性が高いと考えられています。この時期、ペルジーノはペルージャで大規模な工房を運営し、多くの注文を抱えていました。ラファエロは、この工房で、ペルジーノの様式の特徴である、甘美で静謐な人物表現、左右対称の安定した構図、そして広大で穏やかな風景表現を完璧に習得しました。彼の学習能力は驚異的であり、短期間のうちに師の様式を完全に自らのものにしたため、二人の作品を見分けることが困難なほどでした。
初期の独立した作品

1500年から1504年にかけて、ラファエロは、ペルジーノの強い影響下にありながらも、徐々に自身の個性を発揮した、いくつかの重要な祭壇画を制作しました。チッタ=ディ=カステッロのサンタゴスティーノ聖堂のために描かれた『トレンティーノの聖ニコラウスの戴冠』(現在は断片のみ現存)は、記録に残る彼の最初の大きな注文でした。ペルージャのサン=フランチェスコ教会のために描かれた『キリストの磔刑(モンドの磔刑)』では、ペルジーノ風の穏やかな人物像の中に、より自然な人体表現への関心が見られます。そして、この時期の集大成ともいえるのが、1504年に完成した『聖母の結婚』です。この作品は、ペルジーノが同じ主題で描いた作品(カーン美術館所蔵)に直接想を得ていますが、ラファエロは、師の構図をよりダイナミックで、空間的に説得力のあるものへと発展させています。人物たちの配置はより自然で多様性に富み、背景の神殿は、より壮大で古典的なプロポーションを持っています。この作品において、ラファエロは、もはや単なるペルジーノの模倣者ではなく、師を凌駕する独自の芸術家としての才能を明確に示しているのです。
フィレンツェ時代:レオナルドとミケランジェロからの洗礼(1504年–1508年)

1504年、ウンブリア地方で若き巨匠としての地位を確立したラファエロは、さらなる芸術的成長を求め、ルネサンス芸術の中心地であったフィレンツェへと向かいました。この時期のフィレンツェは、レオナルド=ダ=ヴィンチとミケランジェロ=ブオナローティという、二人の巨人が互いに競い合い、芸術の革新がまさに起ころうとしていた、刺激的な場所でした。ラファエロは、この芸術の都で、ウンブリア派の静謐な様式から脱却し、二人の巨匠が切り開いた、よりダイナミックで、解剖学的に正確で、そして心理的に深みのある新しい芸術言語を、貪欲に吸収していきます。彼は、レオナルドのスフマート(ぼかし技法)やピラミッド型構図、ミケランジェロの力強い人体表現を学び、それらを自身の持ち味である優美さと調和させることで、独自の様式を築き上げました。このフィレンツェでの4年間は、彼が数多くの美しい聖母子像や肖像画を制作し、盛期ルネサンスを代表する画家として、その地位を不動のものにするための、決定的な飛躍の時代となりました。
レオナルド=ダ=ヴィンチからの影響

フィレンツェに到着したラファエロに、最も大きな衝撃を与えたのは、当時50代に達し、芸術家として円熟の極みにあったレオナルド=ダ=ヴィンチの作品でした。ラファエロは、レオナルドがヴェッキオ宮殿で制作していた壁画『アンギアーリの戦い』の、激しい動きと感情表現に満ちた下絵(カルトン)を熱心に研究しました。また、彼は、レオナルドが「モナ=リザ」で完成させた、人物の心理的な深みを表現する技術や、輪郭線を柔らかくぼかす「スフマート」技法、そして人物群を安定した三角形の中に収める「ピラミッド型構図」を学び、自身の作品に積極的に取り入れました。ラファエロがこの時期に描いた『マッダレーナ=ドーニの肖像』は、そのポーズや構図において、「モナ=リザ」から直接的な影響を受けていることが明らかです。しかし、ラファエロはレオナルドの神秘的な謎めいた雰囲気をそのまま模倣するのではなく、それをより明晰で、穏やかな人間性へと翻訳しています。
ミケランジェロからの影響

フィレンツェでラファエロが学んだもう一人の巨匠は、彼より8歳年長のミケランジェロでした。ミケランジェロは、当時、巨大な大理石から「ダヴィデ像」を彫り上げ、その英雄的で力強い人体表現によって、フィレンツェの芸術界に衝撃を与えていました。また、彼もレオナルドと同様に、ヴェッキオ宮殿で壁画『カッシーナの戦い』の制作に取り組んでおり、その下絵に描かれた、複雑でダイナミックなポーズをとる裸体の兵士たちは、ラファエロに、人体の解剖学的な構造と、その表現の可能性について、新たな目を開かせました。ラファエロは、ミケランジェロの素描を模写し、その彫刻的な量感と力強さを自身の絵画に取り入れようと試みました。その影響は、1507年に描かれた『ボルゲーゼの十字架降架』に顕著に見られます。この作品の、苦悶の表情を浮かべ、ねじれたポーズをとる人物たちの姿は、ミケランジェロ的なパトス(悲壮感)を反映していますが、ラファエロの作品全体の調和を重んじる性質とは、必ずしも完全には融合していませんでした。
聖母子像の連作

フィレンツェ時代は、ラファエロが、彼の芸術の代名詞ともいえる、一連の優美な聖母子像を制作した時期として特に知られています。これらの作品は、裕福な市民からの私的な礼拝のための注文であり、彼はこの主題を通して、レオナルドやミケランジェロから学んだ新しい芸術言語を、自身の様式へと昇華させる実験を繰り返しました。レオナルド的なピラミッド型構図とスフマート技法は、『牧場の聖母』や『鶸の聖母』、『美しき女庭師』といった作品群に、安定感と柔らかな雰囲気を与えています。これらの作品の中で、聖母マリア、幼児キリスト、そしてしばしば幼児洗礼者ヨハネは、神聖な存在でありながら、同時に、愛情に満ちた自然な親子や友人として描かれています。彼らの間の親密な視線の交錯や、優しさに満ちた仕草は、観る者に深い宗教的な感情と、人間的な共感を同時に呼び起こします。ラファエロは、これらの聖母子像において、神聖さと人間性、そして理想化された美と自然な感情表現という、相反する要素を完璧な調和のうちに融合させる、彼ならではの才能を確立したのです。
肖像画とその他の作品

フィレンツェ滞在中、ラファエロは肖像画家としても高い評価を得ました。裕福な織物商人アニョロ=ドーニとその妻マッダレーナを描いた一対の肖像画は、彼の肖像画家としての技量を示す代表作です。これらの作品は、フランドル絵画の影響を受けた細部の精密な描写と、レオナルドから学んだ構図や心理描写を組み合わせ、モデルの社会的地位と内面性を見事に捉えています。また、この時期の重要な祭壇画としては、ペルージャのサン=セヴェーロ礼拝堂に描いたフレスコ画『聖三位一体と聖人たち』や、フィレンツェのサント=スピリト聖堂のために制作された『天蓋の聖母』などがあります。これらの作品は、彼がウンブリア派の様式から、より複雑でモニュメンタルな盛期ルネサンスの様式へと移行していく過程を示しています。フィレンツェでの4年間は、ラファエロにとって、様々な芸術的要素を吸収し、それらを統合して自身のスタイルを確立するための、実り多い学習と実験の期間でした。
ローマでの栄光:教皇の画家として(1508年–1520年)

1508年、ラファエロのキャリアは、彼の才能を高く評価した建築家ドナト=ブラマンテの推薦により、教皇ユリウス2世にローマへ召喚されたことで、決定的な転機を迎えます。この時、ローマは、野心的なユリウス2世のもとで、古代ローマ帝国の栄光をキリスト教世界の首都として蘇らせるという、壮大な文化プロジェクトの中心地となっていました。ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井画の制作に苦闘していたまさにその時、25歳のラファエロは、ヴァチカン宮殿内にある教皇の私的な居室(スタンツェ)の装飾という、名誉ある大事業を任されることになります。ここから彼の死までの12年間、ラファエロは、ユリウス2世とその後継者レオ10世という、二人の教皇の首席画家として、その才能を最大限に開花させました。彼は、大規模な工房を組織し、フレスコ画、祭壇画、肖像画、タペストリーのデザイン、そして建築に至るまで、驚くほど多岐にわたる分野で精力的に活動し、ローマの芸術界に絶対的な支配者として君臨しました。
ユリウス2世と「署名の間」

ラファエロがローマで最初に手掛けた仕事は、後に「署名の間(スタンツァ=デッラ=セニャトゥーラ)」として知られることになる、教皇の書斎兼私設図書室のフレスコ画でした。この部屋の装飾のために、ラファエロは、神学、哲学、法学、そして芸術という、人間の知識の四つの主要な分野を寓意的に表現する、壮大で知的なプログラムを考案しました。壁面の一つに描かれた『聖体の論議』は、天上の教会と地上の教会が一つの聖体を巡って神学的な議論を交わす場面を描き、「神学」を象徴しています。そして、その向かい側の壁に描かれたのが、西洋美術史上最も有名なフレスコ画の一つである『アテナイの学堂』です。この作品は、プラトンとアリストテレスを中心に、古代ギリシャの哲学者や科学者たちが一堂に会する様を描き、「哲学」を象徴しています。ラファエロは、これらの複雑な主題を、明晰で秩序ある構図と、生き生きとした人物描写によって、見事に視覚化しました。この「署名の間」の成功により、ラファエロの名声は不動のものとなり、教皇は他の画家のフレスコ画を破壊してまで、残りの部屋の装飾もすべて彼に任せることを決定しました。
『アテナイの学堂』の分析

『アテナイの学堂』は、盛期ルネサンスの古典主義の理想を完璧に体現した作品です。ラファエロは、壮大な古代ローマ建築を思わせる建物の下に、古代の偉大な思想家たちを、まるで同時代人のように生き生きと描き出しました。画面の中心には、天を指さし理想主義を象徴するプラトン(レオナルド=ダ=ヴィンチの顔で描かれているとされる)と、地を指さし現実主義を象徴するアリストテレスが、対照的な姿で描かれています。彼らの周りには、ソクラテス、ピタゴラス、ユークリッド(ブラマンテの顔で描かれているとされる)、ヘラクレイトス(ミケランジェロの顔で描かれているとされる)といった、数多くの哲学者が、議論をしたり、思索にふけったり、あるいは生徒に教えたりする姿が、巧みな群像表現によって描かれています。この作品は、単なる過去の偉人たちの肖像画の寄せ集めではありません。それは、古代の知恵がルネサンスの時代に復活し、キリスト教の真理と調和するという、人文主義の理想そのものを視覚化した、壮大な知的パノラマなのです。
ヘリオドロスの間とボルゴの火災の間

「署名の間」に続いて、ラファエロと彼の工房は、「ヘリオドロスの間」と「ボルゴの火災の間」の装飾に取り掛かりました。「ヘリオドロスの間」のフレスコ画は、神が教会を奇跡的に守護したという歴史的な出来事を主題としており、より劇的でダイナミックな様式への移行を示しています。『神殿から追われるヘリオドロス』では、激しい動きと劇的な光の効果が用いられ、『ボルセーナのミサ』では、奇跡を目の当たりにした人々の心理的な反応が巧みに描き分けられています。これらの作品には、ヴェネツィア派絵画の豊かな色彩表現からの影響も見られます。続く「ボルゴの火災の間」の装飾は、主に教皇レオ10世の時代に行われ、その主題は、歴代のレオという名を持つ教皇の功績を称えるものでした。壁画『ボルゴの火災』では、ミケランジェロ的な力強い裸体表現の影響が顕著に見られ、ラファエロの様式が、より壮大で英雄的な方向へと展開していったことがわかります。これらの後の部屋の制作においては、ジュリオ=ロマーノをはじめとする、有能な弟子たちの役割が次第に大きくなっていきました。
レオ10世の時代の活動と工房の拡大

1513年に、芸術を愛するメディチ家出身のレオ10世が教皇に即位すると、ラファエロのローマでの活動は、さらなる頂点を迎えます。彼は、教皇の首席画家として、ヴァチカンのプロジェクトを継続するだけでなく、数多くの祭壇画や肖像画の注文をこなしました。この時期の代表的な祭壇画としては、その劇的な構図と神秘的な光の表現で知られる『フォリーニョの聖母』や、後世の聖母子像の規範となった『システィーナの聖母』、そして彼の最後の作品となった『キリストの変容』などがあります。また、彼は、レオ10世やその廷臣たちを描いた、優れた肖像画も数多く残しています。増え続ける注文に対応するため、ラファエロは、ジュリオ=ロマーノ、ジャンフランチェスコ=ペンニ、ペリーノ=デル=ヴァーガといった、多くの有能な画家たちを集め、50人以上もの規模を誇る、極めて効率的な工房を組織しました。この工房では、ラファエロが全体の構想と主要部分の素描(カルトン)を担当し、弟子たちがその指示に従って制作を進めるという、分業システムが確立されていました。
多様な活動:建築、タペストリー、古代遺産の保護

ローマでのラファエロの活動は、絵画の領域にとどまることなく、驚くほど多岐にわたっていました。彼は、建築家としてもその才能を発揮し、友人であったブラマンテの死後は、サン=ピエトロ大聖堂の主任建築家という大役を引き継ぎました。また、彼は、システィーナ礼拝堂を飾るための壮大なタペストリーの連作の下絵を制作し、版画の分野でも、マルカントニオ=ライモンディとの協力により、自身の作品を広く普及させました。さらに、教皇レオ10世から古代ローマ遺跡の監督官に任命された彼は、古代建築の調査と記録に情熱を注ぎ、その保護を訴えました。これらの多様な活動は、ラファエロが、単なる一人の画家ではなく、レオナルド=ダ=ヴィンチにも匹敵する、ルネサンス的な「万能人」であったことを示しています。彼の尽きることのない好奇心と創造力は、ローマという都市の芸術と文化のあらゆる側面に、深い足跡を残したのです。
建築家としてのラファエロ

ラファエロの建築家としてのキャリアは、裕福な銀行家アゴスティーノ=キージのために設計した、ローマのヴィッラ=ファルネジーナ内の礼拝堂から始まりました。彼はまた、ブラマンテが設計したサンテリージョ=デリ=オレフィチ教会の建設を引き継ぎ、そのクーポラの設計を行いました。1514年にブラマンテが亡くなると、ラファエロは、当時キリスト教世界で最も重要な建築プロジェクトであった、サン=ピエトロ大聖堂の主任建築家の一人に任命されます。彼は、ブラマンテによるギリシャ十字形の集中式プランを変更し、より伝統的なラテン十字形のプランを提案しました。彼の計画は、後任の建築家たちによってさらに変更されたため、完全には実現しませんでしたが、彼の建築家としての構想力と、古典建築に対する深い理解を示しています。彼の建築作品として最も完成度が高いのは、自身のアトリエでもあったパラッツォ=ブランコニオ=デッラクイラ(現在は取り壊されている)や、メディチ家のために設計されたヴィッラ=マダマ(未完)であり、これらの作品は、古典的な要素と豊かな装飾を組み合わせた、優雅で洗練された様式を特徴としています。
システィーナ礼拝堂のタペストリー

1515年頃、教皇レオ10世は、ラファエロに、システィーナ礼拝堂の下層の壁面を飾るための、10枚の巨大なタペストリーの連作の下絵(カルトン)の制作を依頼しました。このタペストリーは、聖ペテロと聖パウロの生涯における重要な出来事を主題とするもので、教皇権の起源と正当性を視覚的に示すことを目的としていました。ラファエロと彼の工房は、これらの複雑な物語の場面を、壮大でモニュメンタルな様式で描き出しました。人物像は、ミケランジェロの天井画の人物にも匹敵するほどの力強さと威厳を持ち、その構図は、古典的な浮き彫りのように明快で、劇的な効果に満ちています。特に有名な『奇跡の漁り』や『聖ペテロへの天国の鍵の授与』といった場面は、彼の構図家としての卓越した能力を示しています。これらのカルトンは、ブリュッセルの有名な工房で、金糸や銀糸をふんだんに用いて織り上げられ、完成したタペストリーは、ヴァチカンに比類のない壮麗さをもたらしました。現存する7枚のカルトン(ロンドン、ヴィクトリア&アルバート博物館所蔵)は、それ自体が盛期ルネサンス絵画の最高傑作と見なされています。
版画と工房の協力

ラファエロは、自身の芸術をより多くの人々に広めるために、版画というメディアの可能性をいち早く認識した芸術家の一人でした。彼は、ボローニャ出身の優れた版画家マルカントニオ=ライモンディと緊密に協力し、自身の素描や絵画に基づいた版画を制作・販売する、一種の事業を組織しました。ラファエロは、版画で再現されることを前提とした、特別な素描をライモンディに提供し、ライモンディは、その素描を、驚くほど精密で、光と影の効果に富んだエングレーヴィング(銅版画)へと翻訳しました。この協力関係によって生み出された『パリスの審判』や『諸聖人の虐殺』といった版画は、ヨーロッパ中に流通し、ラファエロの構図や人物像を、イタリア国外の芸術家たちにも広く知らしめる上で、絶大な効果を発揮しました。この版画事業は、芸術家の独創性と、それを再現する職人の技術とを区別し、芸術作品の複製と普及という、近代的な概念の先駆けとなるものでした。
古代ローマ遺跡の監督官

ラファエロの古典古代への深い関心は、彼の絵画や建築だけでなく、古代遺跡の保護活動にも向けられました。1515年、教皇レオ10世は、彼をローマの古代遺跡監督官に任命し、古代の大理石の碑文を記録し、古代建築の破壊を防ぐという任務を与えました。当時、古代ローマの壮大な建造物は、新しい建物のための石切り場として、無残に破壊されることが横行していました。ラファエロは、この状況を深く憂慮し、人文主義者バルダッサーレ=カスティリオーネの助けを借りて、教皇に宛てた有名な書簡を執筆しました。この書簡の中で、彼は、古代ローマの建築を体系的に調査・測量し、その復元図を作成するという壮大な計画を提案し、これらの人類の貴重な遺産を破壊から守ることの重要性を熱く訴えました。この計画は、彼の早すぎる死によって完全には実現しませんでしたが、この書簡は、近代的な文化遺産保護と考古学の精神の、最も早い表明の一つとして、歴史的に高く評価されています。
私生活と早すぎる死

ラファエロの私生活は、彼の芸術と同様に、成功と賞賛に満ちたものでしたが、その詳細は謎に包まれた部分も少なくありません。ヴァザーリによれば、彼は優雅な物腰と魅力的な人柄で、誰からも愛される存在でした。彼は、枢機卿や銀行家、人文主義者といった、ローマ社会の上層部のエリートたちと親しく交流し、洗練された宮廷人のように振る舞いました。彼は生涯結婚しませんでしたが、枢機卿ベルナルド=ドヴィーツィ=ダ=ビッビエーナの姪マリアとの婚約や、「ラ=フォルナリーナ(パン屋の娘)」として知られる、マルゲリータ=ルーティという女性との長年にわたる恋愛関係が伝えられています。富と名声の絶頂にあった1520年の春、ラファエロは突然の高熱に倒れ、わずか2週間の闘病の末、37歳の誕生日と同じ日である聖金曜日に、この世を去りました。彼の早すぎる死は、ローマ中の人々を深い悲しみに包み、一つの時代の終わりを告げる出来事と見なされました。
人物像と社会的地位

ラファエロの人物像は、しばしば、孤独で気難しい天才であったミケランジェロと対比されます。ヴァザーリは、ラファエロを「優雅で、勤勉で、親切で、誰に対しても礼儀正しく、動物でさえも彼を愛した」と絶賛しています。彼の工房は、弟子たちが互いに協力し合う、和やかな雰囲気に満ちていたと伝えられています。彼は、芸術家としての高い自負を持ちながらも、社交的で、交渉能力に長けており、強力なパトロンたちの要求に巧みに応えることができました。彼は、ローマで壮麗な邸宅を構え、多くの弟子や使用人を抱え、その生活ぶりは、もはや一介の職人ではなく、貴族や宮廷人に匹敵するものでした。この芸術家の社会的地位の向上は、盛期ルネサンスの時代を象徴する現象であり、ラファエロは、その成功したキャリアを通じて、芸術家が宮廷において不可欠な、知的な存在となりうることを証明したのです。
ラ=フォルナリーナ(パン屋の娘)

ラファエロの恋愛相手として、最も有名で、ロマンティックな伝説に彩られているのが、「ラ=フォルナリーナ」として知られる女性です。彼女の正体は、トラステヴェレ地区のパン屋の娘であったマルゲリータ=ルーティであると信じられています。ラファエロは、彼女の肖像とされる、二つの美しい絵画を残しています。一つは、ヴェールを被った姿を描いた『ラ=ヴェラータ』(フィレンツェ、ピッティ美術館所蔵)であり、もう一つは、半裸の姿で描かれた『ラ=フォルナリーナ』(ローマ、バルベリーニ宮所蔵)です。後者の作品では、彼女は左腕に「ウルビーノのラファエロ」と署名された腕輪を着けており、二人の親密な関係を示唆しています。ヴァザーリによれば、ラファエロは彼女を深く愛し、彼女を傍に置くために、アゴスティーノ=キージからの仕事の依頼を断ったことさえあったと伝えられています。ラファエロの死後、マルゲリータ=ルーティという名の女性が、ローマのサンタポッロニア修道院に入ったという記録が残っており、これがラファエロの恋人のその後の運命であると考えられています。
突然の死と『キリストの変容』

1520年3月末、ラファエロは原因不明の熱病に倒れました。ヴァザーリは、その原因を「過度の恋愛」によるものとしていますが、実際には、ローマで流行していた感染症(マラリアなど)であった可能性が高いと考えられています。彼は、15日間にわたって病床にあり、その間に遺言を書き、財産を恋人や弟子たちに分け与えました。そして、1520年4月6日、奇しくも彼が生まれた日と同じ聖金曜日に、37歳の若さで息を引き取りました。彼の遺体は、ヴァチカン宮殿に安置され、その枕元には、彼が死の直前まで制作していた未完の祭壇画『キリストの変容』が掲げられました。この作品は、上半分にキリストが神々しい光に包まれて変容する場面を、下半分にてんかんの少年を癒すことができずに混乱する弟子たちの場面を、劇的な対比で描いています。ヴァザーリは、この傑作と、若くして亡くなったその作者の亡骸が並んで置かれている光景は、見る者すべての心を打ち、涙を誘ったと記しています。ラファエロの遺体は、古代ローマの神々を祀った神殿であり、彼自身が敬愛したパンテオンに埋葬されるという、最高の栄誉を与えられました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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