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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / ルネサンス

ボッティチェリとは わかりやすい世界史用語2529

著者名: ピアソラ
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ボッティチェリとは

フィレンツェ・ルネサンスの黄金時代、15世紀後半の芸術界に、ひときわ異彩を放つ一人の画家がいました。彼の名はサンドロ=ボッティチェリ。その作品は、ルネサンスの他の巨匠たちが追求した、科学的な遠近法や解剖学的な正確さ、量感あふれる写実主義とは一線を画し、むしろ詩的で、装飾的で、そしてどこか物憂げな、独自の美の世界を築き上げました。彼の描くヴィーナスや聖母は、現実の肉体を持つ人間というよりも、神話や夢の世界から抜け出してきたかのような、非現実的な優美さをまとっています。
ボッティチェリの芸術は、当時のフィレンツェの支配者であったメディチ家、特に「偉大なるロレンツォ」として知られるロレンツォ=デ=メディチの宮廷文化と深く結びついていました。ロレンツォの周囲に集った新プラトン主義の哲学者や詩人たちの思想は、ボッティチェリの神話画に深い知的な奥行きと、複雑な寓意を与えました。古代の神々が、キリスト教的な真理や人間精神のあり方を象徴する存在として、彼のキャンバスの上で再生したのです。『プリマヴェーラ(春)』や『ヴィーナスの誕生』といった彼の代表作は、単なる美しい絵画ではなく、ルネサンスの教養人たちが解読を楽しむ、知的な謎解きでもありました。
しかし、彼のキャリアは、フィレンツェの栄光と没落の軌跡と、あまりにも密接に重なり合っていました。ロレンツォ=デ=メディチの死後、フィレンツェは政治的な混乱と、ドミニコ会修道士ジロラモ=サヴォナローラによる厳格な宗教改革の嵐に見舞われます。サヴォナローラは、贅沢や異教的な文化を激しく非難し、フィレンツェの市民に悔い改めを迫りました。この精神的な激動は、ボッティチェリの芸術にも深い影を落とします。彼の後期の作品からは、かつての神話画に見られたような、明るく優美な雰囲気は消え去り、より敬虔で、感情的で、そして時には硬質で苦悩に満ちた、中世的な宗教性が前面に現れてきます。
ボッティチェリは、その死後、急速に忘れ去られた存在となりました。レオナルド=ダ=ヴィンチやミケランジェロといった、盛期ルネサンスの巨匠たちの、より力強く写実的な様式が主流となる中で、彼の繊細で様式化されたスタイルは、時代遅れと見なされたのです。彼が再び脚光を浴びるのは、19世紀後半、イギリスのラファエル前派の芸術家たちによって、その詩的な美しさが再発見されてからのことでした。
初期の経歴=フィリッポ=リッピの工房から独立まで

サンドロ=ボッティチェリが、フィレンツェ・ルネサンスを代表する独創的な画家としてその才能を開花させる以前、彼の芸術の基礎は、当時のフィレンツェで最も尊敬されていた画家の一人、フィリッポ=リッピの工房で築かれました。この修業時代は、ボッティチェリの様式形成において決定的な意味を持ち、師から受け継いだ優美な線描と繊細な感情表現は、彼の生涯にわたる作品の基調となりました。
金細工師から画家へ

アレッサンドロ=ディ=マリアーノ=ディ=ヴァンニ=フィリペーピ、後にサンドロ=ボッティチェリとして知られることになる彼は、1445年頃、フィレンツェの皮なめし職人の息子として生まれました。「ボッティチェリ」という愛称は、「小さな樽」を意味し、太り気味だった彼の兄の一人につけられたあだ名が、いつしか家族全体、そしてサンドロ自身の通称になったと言われています。
ルネサンス期の芸術家の常として、彼の少年時代は、まず職人としての技術を身につけることから始まりました。ジョルジョ=ヴァザーリの『美術家列伝』によれば、ボッティチェリは最初、金細工師の工房に弟子入りしたとされています。金細工師の仕事は、金属を精密に加工し、装飾を施す、極めて繊細な技術を要求されるものでした。この経験は、ボッティチェリに、シャープで明確な輪郭線を描く技術と、細部の装飾に対する鋭い感覚を植え付けたと考えられます。彼の絵画に見られる、人物の髪の一本一本や、衣装の金の刺繍、植物の葉脈に至るまで、驚くほど精密に描き込まれたディテールは、この金細工師としての初期の訓練の賜物といえるでしょう。
しかし、彼の情熱は、すぐに絵画へと向かいました。父親は彼の才能を見抜き、当時フィレンツェで高い評価を得ていた画家、フィリッポ=リッピの工房に、彼を弟子入りさせました。
師フィリッポ=リッピからの影響

1460年代半ば、ボッティチェリが弟子入りした当時、フィリッポ=リッピは、初期ルネサンスの第一世代の巨匠、マザッチオの写実主義を受け継ぎつつ、それに優美で叙情的な独自の様式を加えた、フィレンツェで最も人気のある画家の一人でした。リッピの描く聖母子像は、その人間的な温かみと、繊細で優雅な表情で知られています。
ボッティチェリは、リッピの工房で、フレスコ画やテンペラ画の技術、工房の運営方法など、画家として必要なあらゆる知識と技術を学びました。特に、リッピの芸術から彼が吸収した最も重要な要素は、以下の三点に集約されます。
第一に、流麗で表現力豊かな「線」の使用です。リッピは、人物の輪郭や衣服のひだを、柔らかく、しなやかな線で描くことを得意としていました。ボッティチェリは、この線の美学をさらに発展させ、彼の様式の最大の特徴としました。彼の描く線は、単に形を定義するだけでなく、それ自体がリズムと生命感を持ち、人物の動きや感情を表現する、主要な手段となります。
第二に、理想化された女性美の表現です。リッピの描く聖母や女性聖人は、しばしば楕円形の顔、少し傾げた首、そして物憂げで内省的な表情を持っています。ボッティチェリは、このタイプの女性像を受け継ぎ、さらに洗練させ、彼の描くヴィーナスや聖母たちの、あの独特のメランコリックな美しさを創り上げました。
第三に、繊細な色彩と光の表現です。リッピは、透明感のある明るい色彩を好み、柔らかな光で人物を包み込むように描きました。ボッティチェリもまた、この色彩感覚を受け継ぎ、特に初期の作品では、師の影響が色濃く見られます。
ボッティチェリは、リッピがプラート大聖堂の後陣に描いた壮大なフレスコ画連作『洗礼者ヨハネ伝』と『聖ステファノ伝』の制作にも、助手として参加したと考えられています。この大規模なプロジェクトで、彼は、複雑な構図の中に多くの人物を配する技術や、物語を劇的に表現する方法を学びました。
独立とヴェロッキオ工房との交流

1467年頃、師であるリッピがスポレートへと移住すると、ボッティチェリはフィレンツェに残り、独立した画家としてのキャリアを歩み始めます。1470年には、彼は自身の工房を構え、最初の公的な注文である、フィレンツェの商事裁判所のための寓意画『剛毅』を制作しました。この作品は、当初、別の画家ピエロ=デル=ポッライオーロに依頼された連作の一部でしたが、ボッティチェリはメディチ家の支援を得て、この一枚を制作する機会を勝ち取ったのです。この作品には、まだ師リッピの影響が見られるものの、人物の堂々とした存在感や、金属的な光沢を放つ甲冑の描写には、新たな影響源が見て取れます。
この時期、ボッティチェリは、アンドレア=デル=ヴェロッキオの工房と密接な関係を持っていました。ヴェロッキオの工房は、当時のフィレンツェで最も活気のある工房の一つであり、レオナルド=ダ=ヴィンチやペルジーノといった、次世代を担う多くの若い才能が集まっていました。ヴェロッキオ自身、彫刻家、画家、金細工師として多岐にわたる活動をしており、彼の工房では、解剖学的な正確さや、人体の動きの力強い表現が追求されていました。
ボッティチェリは、ヴェロッキオやポッライオーロ兄弟といった、彫刻的な量感や人体構造の正確さを重視する芸術家たちの影響を受け、自身の様式に、より力強さと写実性を加えようと試みました。初期の聖母子像や『東方三博士の礼拝』などには、リッピ風の優美さと、ヴェロッキオ風の彫刻的な力強さが、興味深い形で共存しています。
このように、フィリッポ=リッピの工房で優美な線の芸術を学び、ヴェロッキオらの工房との交流を通じて彫刻的な力強さを吸収したボッティチェリは、1470年代半ばには、フィレンツェで最も有望な若手画家の一人として、その地位を確立しました。そして彼は、フィレンツェの最も強力なパトロン、メディチ家の目に留まることになるのです。
神話画の黄金時代

1470年代半ばから約15年間にわたるこの時期は、サンドロ=ボッティチェリのキャリアにおける黄金時代でした。彼は、フィレンツェの事実上の支配者であったメディチ家、特にロレンツォ=イル=マニーフィコ(偉大なるロレンツォ)とその弟ジュリアーノの庇護を受け、彼らの洗練された知的サークルの一員となりました。この環境の中で、ボッティチェリは、単なる宗教画の画家から、古代神話や哲学的な寓意を絵画化する、ルネサンスの教養を体現した芸術家へと変貌を遂げます。彼の最も有名で、最も謎めいた傑作である『プリマヴェーラ』と『ヴィーナスの誕生』は、このメディチ家のサークルとの密接な関係の中で生み出されました。
メディチ家との結びつきと『東方三博士の礼拝』

ボッティチェリとメディチ家の関係を決定的なものにしたのが、1475年頃に制作された『東方三博士の礼拝』(ウフィツィ美術館所蔵)です。この作品は、銀行家グアスパーレ=デル=ラーマの依頼で、サンタ=マリア=ノヴェッラ教会の礼拝堂のために描かれました。ボッティチェリは、この伝統的な宗教画の主題を、メディチ家一族を称賛するための、壮大な政治的プロパガンダへと巧みに変えました。
絵の中心で聖母子を礼拝する老博士には、メディチ家繁栄の礎を築いたコジモ=イル=ヴェッキオ(大コジモ)の肖像が描かれています。そして、その息子であるピエロとジョヴァンニが、他の二人の博士として描かれています。さらに、画面の両脇には、当時フィレンツェの若き指導者であったロレンツォ=イル=マニーフィコと、その弟で「美貌のジュリアーノ」と謳われたジュリアーノ=デ=メディチが、堂々とした姿で描かれています。画面の右端には、鑑賞者の方をまっすぐに見つめる、ボッティチェリ自身の自画像も描き込まれています。
この作品は、単なる肖像画の寄せ集めではありません。ボッティチェリは、古代建築の廃墟を背景に、多くの人物を巧みに配置し、自然で変化に富んだ構図を創り出しています。人物の心理的な描写も見事で、メディチ家の人々の威厳と、聖なる出来事に対する敬虔な態度が、見事に表現されています。この作品の成功により、ボッティチェリは、メディチ家の寵愛を受ける画家としての地位を不動のものとしました。
新プラトン主義と神話画の誕生

ロレンツォ=デ=メディチの宮廷は、単なる政治の中心ではなく、当代一流の詩人、哲学者、人文学者が集う、活気あふれる知性の中心地でした。特に、マルシリオ=フィチーノやピコ=デッラ=ミランドラといった学者たちが主導した「新プラトン主義」の思想は、このサークルの精神的な支柱となっていました。
新プラトン主義は、古代ギリシャの哲学者プラトンの思想を、キリスト教神学と融合させようとする、ルネサンス期特有の思想です。フィチーノらは、古代の神話や異教の神々を、単なる偶像としてではなく、キリスト教的な真理や、人間の魂が神へと至る過程を象徴する、寓意的な存在として再解釈しました。彼らの思想によれば、地上の「美」を観想することは、天上の神的な「美」へと至るための、第一歩であるとされました。特に、愛と美の女神ヴィーナスは、地上的な肉体の愛を司る「俗なるヴィーナス」と、知的で精神的な愛を司る「天上のヴィーナス」という、二つの側面を持つ重要な存在として解釈されました。
ボッティチェリは、メディチ家のサークルで、こうした複雑で知的な思想に触れ、それを視覚化する役割を担うことになります。彼の神話画は、こうした新プラトン主義の哲学を背景として理解する必要があります。
『プリマヴェーラ(春)』=愛と豊穣の寓意

1482年頃に制作された『プリマヴェーラ』は、ボッティチェリの神話画の最高傑作であり、ルネサンス絵画の中で最も解釈の難しい作品の一つです。この作品は、ロレンツォ=デ=メディチの従弟にあたる、ロレンツォ=ディ=ピエルフランチェスコ=デ=メディチの結婚を祝して描かれたと考えられています。
絵は、オレンジが実る森を舞台に、9人の神話上の人物が配されています。画面は、右から左へと物語が展開するように構成されています。右端では、冷たい西風の神ゼフュロスが、ニンフのクロリスを捕らえようとしています。ゼフュロスに触れられたクロリスの口からは花がこぼれ、彼女は花の女神フローラへと変身します。この部分は、冬から春への移り変わりと、愛の力による豊穣を象徴しています。
画面の中央には、愛の女神ヴィーナスが、まるで聖母マリアのように、静かに佇んでいます。彼女は、この庭園の支配者であり、愛の様々な側面を統括する存在です。彼女の頭上では、息子のキューピッドが目隠しをして、三美神に向かって矢を放とうとしています。
ヴィーナスの左側では、優美な衣装をまとった三美神(カリス)が、手を取り合って輪舞を踊っています。彼女たちは、美、貞節、喜びなどを象徴し、ヴィーナスの従者とされています。そして、画面の左端では、神々の伝令であるマーキュリー(ヘルメス)が、カドゥケウスの杖で、庭園の平和を乱す雲を払い、穏やかな春の世界を守っています。
この絵は、新プラトン主義的な愛の寓意、メディチ家の繁栄、そして春の訪れによる世界の再生といった、複数のテーマが複雑に織り込まれた、壮大な詩編のような作品です。ボッティチェリは、人物を平面的に配置し、背景の奥行き感を抑制することで、現実の空間というよりも、夢の中のような、幻想的な世界を創り出しています。流れるような線描、繊細な色彩、そして人物たちの物憂げな表情が一体となって、この作品に独特の詩的な雰囲気を与えています。
『ヴィーナスの誕生』

1485年頃に制作された『ヴィーナスの誕生』もまた、メディチ家の依頼による作品と考えられています。この作品は、『プリマヴェーラ』と対をなすものとして、しばしば並べて論じられます。
絵は、海の泡から生まれた愛と美の女神ヴィーナスが、巨大な帆立貝に乗って、キュプロス島の岸辺に漂い着く場面を描いています。彼女は、恥じらうように体を覆い、その表情はどこか物憂げで、内省的です。このヴィーナスのポーズは、「恥じらいのヴィーナス」として知られる、古代ローマの彫刻に基づいています。ボッティチェリは、古代の異教の神を、等身大の裸婦像として、キリスト教世界で初めて描いた画家の一人でした。
ヴィーナスの左側では、西風の神ゼフュロスが、ニンフのアウラ(またはクロリス)を抱きしめながら、ヴィーナスが岸にたどり着くように、優しい息を吹きかけています。彼らの周りには、バラの花が舞っています。右側の岸辺では、季節の女神ホーラの一人が、ヴィーナスの裸体を覆うために、星々と花で飾られた豪華なマントを差し出しています。
この作品は、新プラトン主義の思想に基づいて解釈されることが多く、ヴィーナスの誕生は、神的な美が、物質世界に顕現する瞬間を象徴していると考えられています。彼女の裸体は、肉欲を煽るものではなく、むしろ純粋で汚れのない、天上の美の象徴です。この絵は、鑑賞者の魂を、地上の美から天上の美へと導くための、一つの精神的な道筋を示しているのです。
様式的には、『ヴィーナスの誕生』は、『プリマヴェーラ』以上に、非写実的で様式化されています。人物は、まるでレリーフのように平面的に描かれ、背景の海や岸辺も、現実味のない、装飾的なパターンとして処理されています。ボッティチェリの関心は、現実空間の再現ではなく、流麗な線と調和の取れた構図によって、詩的で理想的な美の世界を創造することにありました。
これらの神話画の成功により、ボッティチェリは、フィレンツェで最も独創的で知的な画家としての名声を確立しました。彼の芸術は、メディチ家の黄金時代の、洗練された文化と精神性を、最も雄弁に物語る証人となったのです。
ローマ滞在とシスティーナ礼拝堂壁画

1480年代初頭、サンドロ=ボッティチェリの名声は、フィレンツェの境界を越え、ローマの教皇庁にまで達していました。彼は、教皇シクストゥス4世からの招請を受け、フィレンツェを代表する芸術家の一人として、ヴァチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の壁画装飾という、当代で最も名誉あるプロジェクトに参加することになります。このローマでの経験は、ボッティチェリのキャリアにおける頂点の一つであり、彼の芸術家としての地位を、イタリア全土に知らしめるものとなりました。
教皇からの招請とフィレンツェの芸術家チーム

1470年代後半、教皇シクストゥス4世は、ヴァチカン宮殿内に、自身の名を冠した新しい礼拝堂、すなわちシスティーナ礼拝堂の建設を進めていました。この礼拝堂は、教皇の私的な礼拝の場であると同時に、コンクラーヴェ(教皇選挙)をはじめとする、教皇庁の最も重要な儀式が行われる場所となる予定でした。そのため、その内部装飾には、最高の技術と芸術性が求められました。
1481年、教皇は、当時イタリアで最も芸術的に先進的な都市であったフィレンツェの事実上の支配者、ロレンツォ=デ=メディチに、最高の画家たちをローマへ派遣するよう要請しました。これは、教皇とフィレンツェとの間の政治的な和解を象徴する、文化外交の一環でもありました。ロレンツォは、この要請に応え、サンドロ=ボッティチェリ、ドメニコ=ギルランダイオ、コジモ=ロッセッリといった、フィレンツェを代表する画家たちを、チームとしてローマへ送り込みました。ウンブリア地方から来たペルジーノも、このプロジェクトの中心的な役割を担いました。
ボッティチェリは、この芸術家チームの中で、事実上のリーダー格であったと考えられています。彼は、全体の装飾プログラムの統一性を監督する役割を担った可能性があります。彼らが任されたのは、礼拝堂の側壁中層部を飾る、壮大なフレスコ画連作の制作でした。
装飾プログラム=モーセとキリストの生涯

システィーナ礼拝堂の壁画プログラムは、極めて精緻な神学的構想に基づいていました。その中心的なテーマは、旧約聖書の指導者モーセと、新約聖書のキリストとの間の「予型論的関係」、すなわち、モーセの生涯における出来事が、キリストの生涯における出来事の「予型(予兆)」であるという思想です。
礼拝堂の向かって左側の壁には『モーセの生涯伝』が、右側の壁には『キリストの生涯伝』が、それぞれ対になるように描かれました。例えば、ペルジーノが描いた『キリストからペテロへの天国の鍵の授与』は、教皇権の神聖な起源を直接的に示す場面ですが、これはモーセが神から十戒の石板を授かる場面と対比されています。このようにして、壁画全体が、旧約から新約へ、そしてキリストからその代理者であるペテロ(とその後継者である教皇)へと続く、神の権威の正統性を、視覚的に論証する壮大な物語となっているのです。
画家たちは、全体の統一感を出すために、いくつかの共通のルールに従う必要がありました。人物のスケールを統一すること、地平線の高さを揃えること、そして金の使用など、共通の様式的規約が設けられていました。
ボッティチェリが担当した三つの壁画

ボッティチェリは、この壮大な連作の中で、三つの主要な壁画を担当しました。これらの作品は、彼の物語画家としての卓越した能力と、複雑な構図の中に多数の人物を巧みに配置する技術を示しています。
『モーセの試練』

この壁画は、『モーセの生涯伝』連作の一部であり、一つの画面の中に、モーセの青年時代の七つの異なるエピソードを同時に描き込むという、「異時同図法」を用いています。右側では、モーセがエジプト人の監督を殺害し、ミディアンの地へ逃れる場面が描かれています。中央では、彼は井戸のそばで羊飼いたちからイテロの娘たちを助け、彼女たちのために水を汲んでやります。左上では、モーセは燃える柴の前にひざまずき、神から民を導くよう召命を受けます。そして左下では、彼は家族と共にエジプトへと帰還します。
ボッティチェリは、これらの異なるエピソードを、巧みな人物配置と風景の区切りによって、一つの調和の取れた構図の中に見事に統合しています。人物たちの動きは優雅で、衣服のひだの描写には、彼の特徴である流麗な線が生きています。特に、中央でイテロの娘たちを守るモーセの姿は、力強く、英雄的です。
『コラ、ダタン、アビラムの懲罰』

この壁画は、モーセとアロンの権威に反逆した者たちが、神の罰によって地面に飲み込まれるという、旧約聖書の物語を描いています。この主題は、教皇の権威に逆らう者は、神の罰を受けるという、明確な政治的メッセージを持っていました。
画面の中央では、大祭司アロンが、神への香を焚いており、その権威の正しさを示しています。彼の周りでは、反逆者たちが、モーセに向かって石を投げつけようとしたり、不正な香を焚こうとしたりしていますが、彼らは神の怒りの炎によって打ち倒され、地面が裂けて飲み込まれていきます。背景には、コンスタンティヌス帝の凱旋門を模した壮大な古代建築が描かれており、ローマの権威を象徴しています。ボッティチェリは、この劇的な場面を、激しい動きと、恐怖や驚きといった多様な人間感情の描写によって、迫力満点に描き出しています。
『キリストの誘惑』

この壁画は、『キリストの生涯伝』連作の一部であり、悪魔が荒野でキリストを誘惑する三つの場面を描いています。画面上部の左側では、悪魔がキリストに石をパンに変えるよう誘惑します。中央上部では、悪魔はキリストを神殿の屋根の頂上に立たせ、そこから飛び降りるようそそのかします。右上では、悪魔はキリストに世界のすべての国々を見せ、自分を拝むならこれらすべてを与えようと誘惑しますが、キリストは断固としてそれを退けます。
前景では、これらの誘惑の物語とは直接関係のない、旧約聖書に基づく清めの儀式が、詳細に描かれています。これは、キリストの犠牲によって清められた、新しい共同体(教会)を象徴していると考えられます。背景の神殿は、教皇シクストゥス4世がローマに再建した、サント=スピリト病院を模しているとされ、教皇の慈善事業への賛美も含まれています。
これらのシスティーナ礼拝堂の壁画は、ボッティチェリが、個人的な神話画だけでなく、壮大な公的記念碑の制作においても、第一級の能力を持つ画家であることを証明しました。彼は、複雑な神学的プログラムを、明快で劇的な視覚言語に翻訳し、ルネサンスの物語画の一つの頂点を築いたのです。1482年、父の死を機にフィレンツェに戻った時、彼の評価は、もはやフィレンツェ一の画家ではなく、イタリアを代表する巨匠の一人として、確固たるものとなっていました。
後期の作品とサヴォナローラの影

1482年にローマからフィレンツェに戻ったボッティチェリは、名実ともにイタリアを代表する巨匠の一人となっていました。彼は大規模な工房を経営し、聖母子像や肖像画など、数多くの注文をこなしていました。しかし、1490年代に入ると、フィレンツェの政治的・精神的な風景は劇的に変化します。彼の最大のパトロンであったロレンツォ=デ=メディチの死と、ドミニコ会修道士ジロラモ=サヴォナローラによる宗教改革運動の台頭は、ボッティチェリの晩年の芸術と人生に、深く暗い影を落とすことになります。彼の作品からは、かつての優美で装飾的なスタイルは後退し、より厳しく、感情的で、そして神秘的な宗教性が前面に現れてきます。
フィレンツェへの帰還と工房の活動

ローマから帰還した1480年代は、ボッティチェリの工房が最も多忙を極めた時期でした。彼は、フィリッピーノ=リッピ(師フィリッポ=リッピの息子)をはじめとする有能な弟子や助手を抱え、様々な種類の絵画を量産しました。特に、聖母子像は人気が高く、工房では、ボッティチェリの原画に基づいて、多くのヴァリエーションが制作されました。『ザクロの聖母』や『マニフィカトの聖母』といった円形画(トンド)は、この時期の代表作です。これらの作品は、優美な聖母と愛らしい幼児キリストを、多くの天使たちと共に、複雑かつ調和の取れた構図の中に収めており、ボッティチェリの円熟した技術を示しています。
また、彼は、ダンテの『神曲』の挿絵という、極めて野心的で個人的なプロジェクトにも着手しました。これは、ロレンツォ=ディ=ピエルフランチェスコ=デ=メディチの依頼で、羊皮紙に描かれた、壮大な素描連作です。ボッティチェリは、地獄、煉獄、天国の各場面を、驚くべき想像力と精密さで描き出しました。このプロジェクトは、彼の深い文学的教養と、ダンテの詩の世界への共感を示していますが、完全には完成しませんでした。
サヴォナローラの台頭と「虚飾の焼却」

1492年、フィレンツェの偉大な庇護者であったロレンツォ=デ=メディチが亡くなると、都市は政治的な不安定の時代に突入します。1494年には、フランス王シャルル8世の侵攻により、メディチ家はフィレンツェから追放され、神権政治的な共和国が樹立されます。この新しい共和国の精神的な指導者となったのが、サン=マルコ修道院の院長、ジロラモ=サヴォナローラでした。
サヴォナローラは、燃えるような情熱を持つ説教家であり、当時の教会の腐敗や、社会の道徳的退廃を激しく非難しました。彼は、フィレンツェを「新しいエルサレム」とすべく、市民に厳格な禁欲生活と悔い改めを求めました。彼の説教は、終末論的な預言に満ちており、多くのフィレンツェ市民の心を捉えました。
サヴォナローラは、ルネサンスの人間中心主義的な文化や、異教的な主題を持つ芸術を、「虚飾」として厳しく断罪しました。1497年と1498年には、彼の指導のもと、「虚飾の焼却」として知られる出来事が起こります。市民たちは、鏡、化粧品、豪華な衣装、賭博道具、そして異教的な内容の書物や絵画などを、シニョリーア広場に積み上げ、巨大な焚火で燃やしました。
ヴァザーリによれば、ボッティチェリもまた、サヴォナローラの熱烈な信奉者(ピアニョーニ=泣き言派、と呼ばれた)となり、この「虚飾の焼却」で、自らの手でいくつかの作品を火の中に投じたと伝えられています。この逸話の真偽は定かではありませんが、サヴォナローラの運動が、ボッティチェリの精神に深い影響を与えたことは、彼の後期の作品の様式変化から明らかです。
後期の様式の変化と『神秘の降誕』

1490年代半ば以降、ボッティチェリの作品は、劇的な変化を遂げます。かつての作品を特徴づけていた、流麗な線、明るい色彩、そして穏やかで優美な雰囲気は影を潜め、代わりに、硬く角張った線、暗く強烈な色彩、そして激しい感情表現が現れてきます。『ピエタ』(ミュンヘンとミラノに2点)や『聖ゼノビウス伝』の連作といった作品では、人物は苦悩に満ちた表情を浮かべ、その動きはぎこちなく、不自然です。ボッティチェリは、もはやルネサンス的な調和や美しさを追求するのではなく、中世の芸術を思わせるような、直接的で、時には荒々しいほどの宗教的感情の表現へと向かっていきました。
この後期の様式の集大成であり、彼の画業の終着点を示す作品が、1500年に描かれた『神秘の降誕』(ロンドン=ナショナル=ギャラリー所蔵)です。これは、ボッティチェリが署名と制作年を入れた、唯一の現存する作品です。
絵は、伝統的なキリスト降誕の場面を描いていますが、その雰囲気は異様で、神秘的な熱気に満ちています。中央の簡素な小屋の中では、聖母マリアが、通常よりもはるかに大きな姿で描かれた幼児キリストを礼拝しています。小屋の屋根の上では、三人の天使が平和の歌を歌い、その上の金色の天蓋では、12人の天使が輪になって踊っています。前景では、三人の天使が、三人の人間を抱きしめています。彼らは、サヴォナローラの説教で約束された、地上の平和と和解を象G徴しているのかもしれません。しかし、その足元では、小さな悪魔たちが、地面の裂け目に逃げ込んでいきます。
この絵の上部には、ギリシャ語で書かれた謎めいた銘文があります。それは、この絵が、イタリアが混乱していた1500年に描かれたこと、そしてヨハネの黙示録に預言された、悪魔が鎖につながれ、その後再び解き放たれるまでの「千年王国」の時代の困難の始まりを、自身が描いたものであると宣言しています。この銘文は、ボッティチェリが、サヴォナローラの終末論的な預言を深く信じ、当時のイタリアの政治的混乱を、世界の終末の前兆と捉えていたことを、生々しく物語っています。
この作品の様式は、ルネサンスの合理的な空間構成を、完全に放棄しています。人物の大きさは、遠近法ではなく、その象徴的な重要性によって決定されています(聖母子が不自然に大きいのはそのためです)。空間は非現実的で、人物は感情的な激しさのあまり、硬直し、ぎこちないポーズをとっています。ボッティチェリは、15世紀の初めにマザッチオらが確立した、ルネサンス絵画の基本原則から、意図的に背を向け、中世の宗教画が持っていた、象徴的で精神的な表現へと回帰しているのです。
1498年、サヴォナローラは教皇から破門され、異端者としてシニョリーア広場で火刑に処せられました。しかし、彼の教えは、ボッティチェリの心に、消えることのない刻印を残しました。彼は、その後も制作を続けましたが、その数は次第に減っていきました。ヴァザーリによれば、晩年の彼は、仕事もなく貧窮し、杖なしでは歩けないほど衰えていたと伝えられています。
1510年、ボッティチェリはフィレンツェで亡くなり、彼が洗礼を受けたオニサンティ教会の墓地に埋葬されました。彼の死と共に、フィレンツェ・ルネサンスの一つの時代が、終わりを告げました。彼の芸術は、メディチ家の黄金時代の華やかな文化と、サヴォナローラの時代の宗教的な苦悩という、フィレンツェの光と影の両面を、誰よりも深く映し出した、類まれな鏡だったのです。
死後の評価と再発見

サンドロ=ボッティチェリは、その生涯の後半において、フィレンツェの政治的・精神的激動の渦に巻き込まれ、その芸術様式もまた、時代の主流から離れていきました。そして彼の死後、その名は急速に歴史の陰に埋もれていきます。レオナルド=ダ=ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロといった盛期ルネサンスの巨匠たちが確立した、力強く、写実的で、モニュメンタルな様式が、ヨーロッパ絵画の規範となる中で、ボッティチェリの繊細で、様式化された、どこか古風でさえある芸術は、ほとんど忘れ去られてしまいました。彼が再び光を浴び、今日我々が知るような、ルネサンスを代表する巨匠として評価されるようになるまでには、実に3世紀以上の歳月を要しました。
忘れられた巨匠

16世紀に入ると、絵画の価値基準は大きく変化しました。ジョルジョ=ヴァザーリは、その記念碑的な著作『美術家列伝』(初版1550年、第2版1568年)の中で、ボッティチェリに一つの章を割き、彼の生涯と作品について記述しています。ヴァザーリは、ボッティチェリの才能を認めつつも、彼が晩年にサヴォナローラの信奉者となり、制作を怠って貧窮したという逸話を強調し、どこか否定的なニュアンスで彼を描写しています。ヴァザーリにとって、芸術の歴史は、ジョットに始まり、ミケランジェロにおいて頂点に達する、自然の完璧な模倣への進歩の物語でした。その観点から見ると、晩年にルネサンス的な写実主義から意図的に後退したボッティチェリの様式は、理解しがたい「退化」と映ったのです。
その後、バロック、ロココ、新古典主義といった時代を通じて、ボッティチェリの名は、美術史の専門家や一部の収集家を除いて、ほとんど知られることはありませんでした。彼の代表作である『プリマヴェーラ』や『ヴィーナスの誕生』は、メディチ家の田舎の別荘にひっそりと置かれ、ウフィツィ美術館に収蔵された後も、長らく注目されることはありませんでした。
19世紀における再発見

ボッティチェリの運命が劇的に変わるのは、19世紀半ばのことでした。この時期、ヨーロッパ、特にイギリスでは、盛期ルネサンスの古典主義的な理想に対する反動として、それ以前の、より「誠実」で「精神的」な芸術への関心が高まっていました。この動きの中心にいたのが、ジョン=ラスキンやウォルター=ペイターといった批評家たち、そして「ラファエル前派同盟」として知られる芸術家グループでした。
ラファエル前派の画家たち、例えばダンテ=ゲイブリエル=ロセッティやエドワード=バーン=ジョーンズらは、ラファエロ以降のアカデミックな絵画を陳腐なものとして退け、中世末期から初期ルネサンスにかけての、素朴で、精神性の高い芸術に、新たなインスピレーションを求めました。彼らにとって、ボッティチェリの芸術は、まさに理想そのものでした。彼の作品に見られる、流麗な線、装飾的な美しさ、詩的な主題、そしてメランコリックな雰囲気は、ヴィクトリア朝の感性と完璧に合致したのです。バーン=ジョーンズの作品には、ボッティチェリからの直接的な影響が、明らかに見られます。
批評家ウォルター=ペイターが、1873年に出版した『ルネサンス=美術と詩の研究』の中で書いたボッティチェリに関するエッセイは、彼の評価を決定的なものにしました。ペイターは、ボッティチェリの作品の中に、甘美な憂愁と、どこか病的な繊細さを見出し、彼をデカダンで耽美的な芸術家の先駆者として描き出しました。このペイターによる、ややロマンティックに過ぎる解釈は、ボッティチェリのイメージを大衆に広める上で、大きな役割を果たしました。
この再評価の波に乗り、ボッティチェリの作品は、美術市場で高値で取引されるようになり、ヨーロッパやアメリカの美術館が、競って彼の作品を収集し始めました。ウフィツィ美術館でも、『プリマヴェーラ』と『ヴィーナスの誕生』は、最も重要な作品として、展示の中心に据えられるようになりました。
20世紀以降の研究

20世紀に入ると、美術史の研究は、より科学的で客観的なアプローチを取るようになります。ハーバート=ホーンやアビ=ヴァールブルクといった研究者たちは、ロマンティックな解釈から離れ、古文書の調査や、図像学的な分析を通して、ボッティチェリの芸術を、その歴史的な文脈の中で正確に理解しようと努めました。
特に、ヴァールブルクは、ボッティチェリの神話画が、単なる美しい絵ではなく、当時の新プラトン主義哲学や、古典文学、そしてフィレンツェの祝祭文化といった、複雑な知的背景を持つことを明らかにしました。彼の研究によって、ボッティチェリは、単なる憂愁の画家から、ルネサンスの教養を体現した、知的な芸術家として、その真価を認められるようになったのです。
今日、サンドロ=ボッティチェリは、フィレンツェ・ルネサンスが生んだ最も個性的で、最も魅力的な画家の一人として、不動の地位を占めています。
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・ボッティチェリとは わかりやすい世界史用語2529

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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