サン=ピエトロ大聖堂とは
ローマのヴァチカンの丘にそびえ立つサン=ピエトロ大聖堂は、単なる一つの教会ではありません。それはカトリック教会の総本山であり、何億もの信者にとっての精神的な故郷であり、そして西洋文明の歴史そのものを体現する、壮大な石の記念碑です。その巨大なドームはローマのスカイラインを支配し、その前に広がる壮麗な広場は、世界中からの巡礼者たちを両腕を広げて迎え入れます。この大聖堂は、建築、芸術、そして信仰が、かつてないスケールで融合した奇跡であり、その建設の物語は、2000年近くにわたる西洋史の縮図ともいえます。
この場所の神聖さは、キリストの第一の弟子であり、初代ローマ教皇と見なされる使徒ペテロの殉教と埋葬にその起源を発します。1世紀、皇帝ネロの迫害によって逆さ十字架にかけられたとされるペテロが、このヴァチカンの丘の共同墓地に葬られたという古くからの伝承が、この地をキリスト教徒にとって特別な場所としました。4世紀、キリスト教を公認したローマ皇帝コンスタンティヌスは、この聖なる墓所の上に、最初の壮大なバシリカ式教会堂を建設しました。この旧サン=ピエトロ大聖堂は、その後1200年近くにわたり、西ヨーロッパのキリスト教世界の中心として、戴冠式や公会議、そして無数の巡礼の舞台となりました。
しかし15世紀末、この由緒ある教会は老朽化し、崩壊の危機に瀕していました。そして16世紀初頭、野心的な教皇ユリウス2世は、この古い聖堂を完全に取り壊し、古代ローマの栄光をも凌駕する、全く新しい大聖堂を建設するという、前代未聞の決断を下します。この決断から、120年以上にわたる、西洋建築史上最も壮大で、最も複雑な建設プロジェクトが始まりました。
この物語の主役は、ルネサンスからバロックに至る、イタリアの最も偉大な芸術家たちです。最初に壮大なギリシャ十字形のプランを構想した盛期ルネサンスの創始者ブラマンテ。彼の計画を引き継ぎ、よりダイナミックで彫刻的なヴィジョンを提示した万能の天才ミケランジェロ。彼の設計した壮大なドームは、信仰と人間の創造力の象徴として、今なおローマの空に君臨しています。そして、対抗宗教改革の要請に応えて身廊を延長し、壮麗なファサードを完成させたマデルノ。最後に、大聖堂の内部空間にバロック芸術の劇的な輝きを与え、聖ペテロの墓を覆う巨大な天蓋「バルダッキーノ」と、信者を抱擁する大柱廊広場を創造したベルニーニ。
サン=ピエトロ大聖堂の建設史は、芸術家たちの競演の物語であると同時に、教皇たちの野心、神学者たちの思想、そして時代の政治的・宗教的激動が複雑に絡み合ったドラマでもあります。建設資金を捻出するための贖宥状(免罪符)の販売が、マルティン=ルターによる宗教改革の直接的な引き金の一つとなったことは、歴史の皮肉といえるでしょう。
起源とヴァチカンの丘と聖ペテロの墓
サン=ピエトロ大聖堂の存在意義と、その場所が持つ深い神聖さを理解するためには、時計の針を約2000年前にまで戻し、ローマ帝国時代のヴァチカンの丘へと遡る必要があります。大聖堂の壮麗な建築の礎の下には、一人の漁師、すなわちイエス=キリストの第一の弟子であり、カトリック教会が初代ローマ教皇と見なす使徒ペテロの物語が眠っています。
ローマ帝国時代のヴァチカンの丘
1世紀のローマにおいて、現在のヴァチカン市国がある「アゲル=ヴァティカヌス(ヴァチカンの丘)」は、ローマの市壁の外に位置する、あまり評判の良くない地域でした。テヴェレ川沿いのこの湿地帯は、一部に富裕層のヴィラや庭園が点在していましたが、大部分は粘土を採掘する場所であり、また共同墓地(ネクロポリス)が広がっていました。
このヴァチカンの丘の歴史が大きく動いたのは、皇帝カリグラの治世(西暦37年=41年)です。彼は、この地に母親アグリッピナの庭園を拡張し、巨大な競技場(キルクス)の建設を開始しました。この競技場は、後の皇帝ネロの治世(西暦54年=68年)に完成し、「ネロの競技場」として知られることになります。この競技場では、戦車競走や、見世物としての公開処刑が行われました。競技場の中央には、カリグラがエジプトから運ばせた巨大なオベリスクが建てられていました。このオベリスクこそが、現在サン=ピエトロ広場の中央にそびえ立つ、あのヴァチカンのオベリスクです。
西暦64年、ローマで大規模な火災が発生します。歴史家タキトゥスによれば、皇帝ネロは、この大火の責任を、当時ローマで勢力を伸ばしつつあったキリスト教徒たちになすりつけ、残酷な迫害を開始しました。多くのキリスト教徒が捕らえられ、ネロの競技場で見せしめとして処刑されました。タキトゥスは、彼らが猛犬に噛み殺されたり、十字架にかけられたり、あるいは体にタールを塗られて夜の庭園を照らす「生きた松明」にされたりしたと、その凄惨な様子を記録しています。
聖ペテロの殉教と埋葬
古くからのキリスト教の伝承によれば、使徒ペテロもまた、このネロの迫害の犠牲者の一人でした。ガリラヤの漁師であったシモンは、キリストから「ペテロ(岩)」という名を与えられ、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」という言葉とともに、弟子たちの筆頭とされました。キリストの死後、ペテロは布教の旅を続け、最終的にローマにたどり着き、その地でキリスト教共同体を指導したと信じられています。
伝承では、ペテロはネロの競技場で、自らの希望により、主と同じ死に方をするのは畏れ多いとして、逆さ十字架にかけられて殉教したとされています。彼の遺体は、弟子たちによってひそかに引き取られ、競技場に隣接して広がっていたヴァチカンの丘のネクロポリスの一角に埋葬されました。そこは、裕福な者から貧しい者まで、様々な階層の人々が眠る、ごく普通の共同墓地でした。彼の墓は、簡素な土葬であり、その場所を示すために、目印として簡素な祠(アエディクラ)が建てられたと伝えられています。
このペテロの墓の存在は、ローマのキリスト教徒たちの間で世代から世代へと語り継がれ、迫害の時代にあっても、ひそかに巡礼が行われる、極めて神聖な場所となりました。この一人の使徒の簡素な墓が、後に世界最大の教会が建てられることになる土地の、まさに核となったのです。
聖ペテロの墓の考古学的発見
この伝承の真実性については、長らく確固たる物証がありませんでした。しかし、20世紀に行われた考古学的な調査によって、その状況は劇的に変わります。1939年、教皇ピウス11世の墓所を準備していた際、サン=ピエトロ大聖堂の地下から、偶然にも保存状態の良い、広大なローマ時代のネクロポリスが発見されたのです。
教皇ピウス12世の指示のもと、10年以上にわたる極秘の発掘調査が行われました。その結果、大聖堂の主祭壇の真下に、1世紀から4世紀にかけての異教徒とキリスト教徒の墓が密集した、驚くべき墓地遺跡が姿を現しました。そして、そのネクロポリスの中心部、まさに伝承が示す場所で、調査チームは「トロパイオン(勝利の記念碑)」と呼ばれる、2世紀半ばに建てられた簡素な記念碑(アエディクラ)を発見しました。この記念碑は、赤い漆喰の壁と、二つの壁龕を持つ構造で、周囲の墓とは明らかに区別され、特別な敬意が払われていたことがわかりました。
さらに、この記念碑の真下の土中から、1世紀頃のものとみられる、非常に簡素な墓が見つかりました。そして、後の調査で、この記念碑の壁龕の一つから、布に包まれた人骨が発見されました。科学的な鑑定の結果、これらの骨は、1世紀頃に生きていた、60代から70代の頑健な男性のものであることが判明しました。これが使徒ペテロ本人の骨であると断定することは、科学的には不可能です。しかし、この場所が、少なくとも2世紀という非常に早い段階から、キリスト教徒によってペテロの墓として崇敬され、特別な記念碑が建てられていたことは、考古学的に証明されたのです。1968年、教皇パウルス6世は、これらの調査結果に基づき、発見された遺骨が、きわめて高い確率で使徒ペテロのものであると信じられる、と公式に発表しました。
この発見は、サン=ピエトロ大聖堂が、単なる伝承の上だけでなく、歴史的・考古学的な根拠を持つ、聖ペテロの墓の上に直接建てられているという事実を、力強く裏付けるものとなりました。大聖堂の壮麗な建築と芸術のすべては、この一人の使徒の簡素な墓を守り、それを顕彰するために存在しているのです。
コンスタンティヌス帝のバシリカ
使徒ペテロの墓の上に、キリスト教世界で最も重要な教会が誕生する直接のきっかけは、一人のローマ皇帝の回心でした。4世紀初頭、皇帝コンスタンティヌス1世は、キリスト教に対する迫害の時代を終わらせ、それを公認し、さらには帝国の保護下に置くという、歴史的な転換を行いました。彼の庇護のもと、ローマの各地に壮大な教会(バシリカ)が建設され始めます。その中でも、最も重要で壮大なプロジェクトが、ヴァチカンの丘の聖ペテロの墓所の上に、彼を記念する大聖堂を建設することでした。この旧サン=ピエトロ大聖堂は、その後1200年近くにわたり、西ヨーロッパのキリスト教徒の信仰の中心として、比類なき権威を誇ることになります。
建設の決断と困難な工事
313年、コンスタンティヌス帝は「ミラノ勅令」を発布し、帝国内における信教の自由を保障し、キリスト教徒への迫害を完全に終わらせました。彼は、自身の権力の源泉をキリスト教の神に見出し、帝国の安定のために教会組織を積極的に支援しました。その一環として、彼はローマの司教(後の教皇)と協力し、キリスト教の重要な聖地に、帝国の威信を示す壮大な教会を建設するプログラムを開始します。ラテラノの聖ヨハネ大聖堂などと共に、その最優先プロジェクトの一つとされたのが、聖ペテロの墓所でした。
この場所に大聖堂を建設することは、技術的に極めて困難な挑戦でした。聖ペテロの墓は、ヴァチカンの丘の急な南斜面に位置しており、その周囲には密集したネクロポリスが広がっていました。巨大な教会を建設するための平坦な土地を確保するためには、大規模な土木工事が必要でした。コンスタンティヌス帝の技術者たちは、丘の斜面を大規模に削り取り、一方でネクロポリスの大部分を土で埋め立てて、巨大な人工の基壇を造成しました。この際、聖ペテロの墓そのものは、細心の注意を払って保護され、新しい教会の中心、主祭壇の真下に位置するように設計されました。多くの墓が埋め立てられたという事実は、この場所がいかに重要視されていたかを物語っています。
建設は320年代に開始され、数十年を要して、349年頃に教皇ユリウス1世によって聖別されたと考えられていますが、最終的な完成はさらに後になりました。こうして完成した教会は、古代ローマの公共建築であったバシリカの形式を踏襲した、壮大なものでした。
旧大聖堂の建築様式と構造
旧サン=ピエトロ大聖堂は、巨大な五廊式のバシリカでした。その規模は、長さ約120メートル、幅約64メートルにも及び、一度に数千人の信者を収容することができました。
教会の正面には、アトリウムと呼ばれる、列柱廊で囲まれた広大な前庭がありました。このアトリウムの中心には、カントゥルスと呼ばれる泉盤が置かれ、巡礼者たちはここで身を清めてから聖堂内に入りました。この形式は、後の修道院の回廊の原型となります。
アトリウムを抜けると、聖堂の本体に至ります。内部は、4列の巨大な大理石の円柱によって、中央の広い身廊と、その両側に二つずつの側廊、合わせて五つの廊下に分けられていました。中央の身廊は、両側の側廊よりも天井が高く、その壁の上部には高窓(クリアストーリー)が設けられ、堂内に光を導き入れていました。天井は、豪華な装飾が施された木造の小屋組みがむき出しになっており、その壮大さは訪れる者を圧倒しました。床は色大理石で飾られ、壁面は聖書の物語を描いた壮大なフレスコ画やモザイクで埋め尽くされていました。
身廊の最も奥、東端には、翼廊(トランセプト)と呼ばれる、身廊と直角に交差する広い空間が設けられていました。この翼廊は、聖ペテロの墓への巡礼者の流れを整理し、儀式のための空間を提供する役割を果たしていました。そして、その翼廊の中央、聖ペテロの墓の真上に、主祭壇が置かれていました。祭壇の後方には、半円形の後陣(アプス)が突き出し、その壁はキリストと聖ペテロ、聖パウロを描いた壮大なモザイクで飾られていました。後陣の中央には、教皇が座る司教座が置かれていました。
聖ペテロの墓は、主祭壇の下に位置し、その上には、ねじれた螺旋状の柱に支えられた天蓋(キボリウム)が設置されていました。このねじれ柱は、ソロモン王の神殿から運ばれたという伝説があり、後のベルニーニによるブロンズのバルダッキーノのデザインにインスピレーションを与えることになります。
中世における役割と権威
コンスタンティヌス帝によって創建された旧サン=ピエトロ大聖堂は、その後の中世ヨーロッパの歴史において、中心的な役割を果たしました。それは、単なるローマの一教会ではなく、西ヨーロッパ全体のキリスト教徒にとって、最高の巡礼地でした。エルサレムやサンティアゴ=デ=コンポステーラと並び、聖ペテロの墓を訪れることは、多くの信者にとって生涯の夢であり、その信仰の証でした。
また、この大聖堂は、教皇権の権威の象徴でもありました。800年のクリスマス、この場所で教皇レオ3世がフランク王国のカール大帝に帝冠を授けたことは、西ヨーロッパにおける教皇と皇帝の関係を象徴する、画期的な出来事でした。これ以降、多くの神聖ローマ皇帝が、ここで戴冠式を行いました。
何世紀にもわたり、歴代の教皇たちは、この大聖堂を貴重な芸術作品で飾り立てました。ジョットは、アトリウムの壁面に『ナヴィチェッラ(小舟)』と呼ばれる巨大なモザイクを制作し、多くの芸術家たちが、内部の礼拝堂や祭壇のために作品を奉納しました。
しかし、1200年近い歳月を経て、この壮大なバシリカは、構造的な問題を抱えるようになります。南側の壁は大きく傾き、建物全体が崩壊の危機に瀕していました。15世紀半ば、教皇ニコラウス5世は、建築家ベルナルド=ロッセリーノに、後陣の改築と聖堂の修復を命じ、部分的な建て替え計画を開始しました。しかし、彼の死によって計画は中断します。そして半世紀後、教皇ユリウス2世が、もはや修復は不可能であると判断し、全面的な建て替えという、より大胆で根本的な決断を下すことになるのです。旧サン=ピエトロ大聖堂は、ルネサンスの巨匠たちによって解体される運命にありましたが、その記憶と権威は、新しい大聖堂の設計の中に、形を変えて受け継がれていくことになります。
新サン=ピエトロ大聖堂の建設=ブラマンテの計画と始まり
16世紀初頭、ルネサンスの文化が頂点を迎え、芸術の中心がフィレンツェからローマへと移る中で、カトリック教会のトップに立ったのが、野心と剛毅さで知られる教皇ユリウス2世でした。彼は、教皇庁の世俗的な権力を回復し、ローマを古代帝国の栄光に匹敵する、壮麗なキリスト教世界の首都として再建するという、壮大なビジョンを抱いていました。このビジョンの中心にあったのが、1200年の歴史を持つ旧サン=ピエトロ大聖堂を完全に取り壊し、その跡地に、世界のいかなる建築物をも凌駕する、全く新しい大聖堂を建設するという、前代未聞の計画でした。この壮大な夢を実現するための建築家として彼が選んだのが、盛期ルネサンス建築の創始者、ドナート=ブラマンテでした。
ユリウス2世の決断とブラマンテの任命
ユリウス2世が1503年に教皇に即位した当時、旧サン=ピエトロ大聖堂は、深刻な構造的問題を抱えていました。南側の壁は3メートル以上も傾き、建物全体がいつ崩壊してもおかしくない状態でした。半世紀前に教皇ニコラウス5世が始めた修復・改築計画は中途半端に終わっており、根本的な解決策が求められていました。
ユリウス2世は、単なる修復ではなく、全く新しい教会を建設するという、はるかに大胆な道を選びます。この決断の背景には、彼の個人的な野心と、ルネサンスの精神がありました。彼は、自身の霊廟を、ミケランジェロに設計させた壮大なものとし、それを新しい大聖堂の中心に置くことを望んでいました。また、古代ギリシャ=ローマの文化を理想とするルネサンスの価値観の中で、古いバシリカは時代遅れの様式と見なされていました。彼は、新しい時代にふさわしい、古典的な壮麗さとキリスト教の精神性を融合させた、全く新しい記念碑を打ち立てようとしたのです。
この壮大な構想を実現する建築家として、ブラマンテはまさに適任でした。彼は、ミラノでレオナルド=ダ=ヴィンチと交流し、集中式聖堂の理念を探求した後、ローマで古代建築を徹底的に研究し、「テンピエット」のような作品で、盛期ルネサンス様式を確立していました。彼の建築は、荘厳さ、明快な幾何学的秩序、そしてモニュメンタルなスケールを特徴としており、ユリウス2世の壮大な野心を形にするのに、最もふさわしいものでした。1505年頃、ブラマンテは、新大聖堂の設計を正式に命じられます。
壮大なギリシャ十字プラン
ブラマンテが新しい大聖堂のために構想したプランは、それまでの教会の常識を覆す、革命的なものでした。彼は、巡礼者の行列に適した、伝統的な長い身廊を持つラテン十字形プランを捨て、四方のアームの長さが等しい、完全な「ギリシャ十字形」の集中式プランを提案しました。
このプランの中心には、ローマのパンテオンのドーム(直径約43メートル)に匹敵する、巨大な半球形のドームがそびえ立つことになっていました。この巨大なドームは、四つの巨大なピア(支柱)によって支えられ、その下に使徒ペテロの墓所と主祭壇が位置します。ギリシャ十字の四つのアームの端にも、それぞれ小さなドームが置かれ、さらに四隅には塔が計画されていました。全体のプランは、正方形の中に内接するギリシャ十字形であり、円と正方形という、ルネサンスの思想において神の創造した宇宙の調和を象徴する、完璧な幾何学的形態に基づいています。
ブラマンテは、この計画を「パンテオンのドームを、コンスタンティヌスのバシリカ(一般にはマクセンティウスのバシリカと解釈される)の上に乗せる」と表現したと伝えられています。これは、古代ローマの最も偉大な二つの建築物、すなわちパンテオンの壮大なドーム空間と、マクセンティウスのバシリカの巨大なヴォールト構造を、一つの建物の中に融合させようとする、彼の壮大な野心を示しています。この計画は、ルネサンスの建築家たちが長年夢見てきた、理想的な集中式聖堂の理念を、究極のスケールで実現しようとする試みでした。
このプランは、その壮大さと幾何学的な完璧さでユリウス2世を魅了しましたが、一方で実用的な観点からの批判もありました。集中式プランは、大規模な儀式や巡礼者の行列には不向きであるという懸念が、聖職者たちの中から提起されました。このラテン十字かギリシャ十字かという問題は、その後1世紀以上にわたって、大聖堂の設計をめぐる中心的な論争点であり続けることになります。
建設の開始と「破壊者」ブラマンテ
1506年4月18日、ユリウス2世は、ブラマンテの設計による新しい大聖堂の、最初の礎石を自ら置きました。この礎石は、現在聖ヴェロニカの像が立つ、巨大なピアの基礎部分に埋められました。この日をもって、西洋建築史上、最も長く、最も費用のかかった建設プロジェクトが、正式に開始されたのです。
ブラマンテは、新しい大聖堂の建設を進めるために、旧大聖堂の西半分を、容赦なく解体し始めました。彼は、古い建物の貴重な大理石の円柱や、中世のモザイク、墓碑などを、建設資材として再利用するために、次々と破壊していきました。このため、彼は同時代の人々から「破壊者(イル=ルイナンテ)」というあだ名で呼ばれ、多くの非難を浴びました。しかし、彼の精力的な仕事によって、建設は急速に進展しました。
1514年にブラマンテが亡くなるまでに、中央のドームを支えることになる四つの巨大なピアが、その上のアーチと共に建設されました。これらのピアは、それ自体が巨大な建築物であり、そのスケールは、完成する教会の壮大さを予感させるものでした。また、彼は、旧聖堂の東半分を、建設期間中の礼拝のために一時的に保存するという、現実的な措置も講じています。
ブラマンテは、自身の計画の完成を見ることなくこの世を去りました。しかし、彼が打ち込んだ巨大なピアと、彼が提示した壮大なギリシャ十字のヴィジョンは、その後の大聖堂の運命を決定づける、揺るぎない出発点となりました。彼が始めた物語は、ラファエロ、サンガッロ、そしてミケランジェロといった、次世代の巨匠たちへと引き継がれていくのです。
建設の中断と計画の変遷=ラファエロからサンガッロへ
1514年にブラマンテが亡くなると、サン=ピエトロ大聖堂の建設プロジェクトは、新たな指導者を必要としました。ブラマンテが残した壮大なギリシャ十字のヴィジョンは、その後の建築家たちにとって、尊重すべき出発点であると同時に、乗り越えるべき課題でもありました。ブラマンテの死から、1546年にミケランジェロが主任建築家に就任するまでの約30年間は、計画が二転三転し、建設が遅々として進まない、混乱と模索の時代でした。この時期、ラファエロ、バルダッサーレ=ペルッツィ、アントニオ=ダ=サンガッロ(子)といった、盛期ルネサンスを代表する芸術家たちが、次々とこの巨大プロジェクトの舵取りを試みました。
ラファエロのラテン十字プラン
ブラマンテの死後、教皇レオ10世(メディチ家出身)は、ブラマンテ自身の推薦に基づき、当時すでに画家として絶頂期にあった若き天才、ラファエロ=サンティを、新しい主任建築家に任命しました。ラファエロは、老練な建築家フラ=ジョコンドと共に、この大任に当たりました。
ラファエロは、ブラマンテの集中式ギリシャ十字プランに対して、より伝統的で実用的なアプローチを取りました。彼は、聖職者たちの意見を取り入れ、ブラマンテのギリシャ十字の東側に、三つのベイ(柱間の区画)からなる長い身廊を付け加えることで、プランを伝統的な「ラテン十字形」へと変更しました。これにより、大規模な儀式や行列のための空間が確保され、より多くの信者を収容できるようになります。
ラファエロのプランは、ブラマンテのプランが持つ、純粋で幾何学的な力強さを、やや犠牲にするものでした。身廊が長くなったことで、中央ドームの圧倒的な存在感は、ファサード側からは見えにくくなります。また、彼の設計した内部空間は、ブラマンテの設計に比べて、より多くの柱や壁で細かく分割されており、空間の統一感という点では後退していました。しかし、このラテン十字への変更は、教会の機能性を重視する立場からの、現実的な回答でした。ラファエロの主任建築家としての期間は、資金難もあって建設はあまり進みませんでしたが、彼が提示したラテン十字プランというアイデアは、後の計画にも影響を与え続けることになります。
ペルッツィの模索とローマ劫掠
1520年にラファエロが37歳の若さで急死すると、主任建築家の職は、アントニオ=ダ=サンガッロ(子)に引き継がれ、シエナ出身の優れた建築家・画家であるバルダッサーレ=ペルッツィが、その補佐役となりました。ペルッツィは、ラファエロのラテン十字プランと、ブラマンテのギリシャ十字プランとの間で、妥協点を探るかのように、いくつかの折衷案を検討しました。彼の残した素描には、ギリシャ十字を基本としつつも、短い前室を設けるなど、様々なバリエーションが見られます。
しかし、この時期の建設プロジェクトに、壊滅的な打撃を与える出来事が起こります。1527年、神聖ローマ皇帝カール5世の軍隊がローマに侵攻し、大規模な略奪と破壊を行いました(ローマ劫掠)。この事件により、ローマは壊滅的な被害を受け、教皇庁は財政的に破綻し、サン=ピエトロ大聖堂の建設は、完全に中断してしまいました。ペルッツィは故郷のシエナに逃れ、建設現場は長年にわたって放置されることになります。
サンガッロの巨大な木製モデル
ローマがある程度の落ち着きを取り戻した後、1530年代後半に、教皇パウルス3世のもとで、建設はゆっくりと再開されます。この時、プロジェクトの全権を握っていたのが、アントニオ=ダ=サンガッロ(子)でした。サンガッロは、フィレンツェの著名な建築家一族の出身で、実務経験豊富な建築家でした。
彼は、それまでの計画をすべて統合し、修正を加えた、非常に複雑で壮大な新しいプランを考案しました。彼のプランは、ラファエロのラテン十字プランを基本としながらも、ブラマンテのギリシャ十字の要素を組み合わせ、さらに正面には巨大な前庭と、二つの巨大な鐘楼を付け加えるという、折衷的なものでした。内部空間は、小さな礼拝堂や通路が複雑に入り組んだ、やや統一感に欠ける構成となっていました。ドームの設計も、ブラマンテの半球形とは異なり、より高く、ゴシック的な要素を取り入れた、階層的なデザインでした。
サンガッロは、自身のこの複雑な計画を、教皇や建設委員会に説明し、後世に伝えるために、1539年から数年をかけて、巨大で精巧な木製の模型を制作させました。この模型は、長さ7メートル以上、高さ4.5メートルにも及ぶ壮大なもので、今日でもサン=ピエトロ大聖堂に保管されています。この模型は、サンガッロの設計の長所と短所を、雄弁に物語っています。その壮大さと細部の豊かさは印象的ですが、同時に、全体の構成が雑然としており、ブラマンテのプランが持っていたような、明快で力強い統一感に欠けていることも明らかでした。特に、彼の設計したファサードは、あまりにも多くの要素が詰め込まれ、ごてごてとしており、内部のドームを完全に覆い隠してしまうものでした。
サンガッロは、この計画に基づいて建設を進めましたが、彼の死後、この計画は、次に登場する巨匠によって、根本的に批判され、覆されることになります。ブラマンテの死後、30年以上にわたる混乱と模索の時代は、一人の天才の登場によって、ついに終わりを告げるのです。その天才の名は、ミケランジェロ=ブオナローティでした。
ミケランジェロの時代
1546年、アントニオ=ダ=サンガッロ(子)が亡くなると、71歳になっていたミケランジェロ=ブオナローティが、教皇パウルス3世の強い要請により、サン=ピエトロ大聖堂の新しい主任建築家に任命されました。すでに彫刻家、画家として最高の栄誉を手にしていたミケランジェロは、当初この大任を引き受けることに消極的でしたが、最終的には「神の栄光と聖ペテロのため」に、無報酬でこの仕事を引き受けました。彼の就任は、30年以上にわたる計画の混乱と停滞に終止符を打ち、大聖堂の建設を、決定的な方向へと導く転換点となりました。ミケランジェロは、ブラマンテの独創的なヴィジョンに立ち返りつつ、それを自身の彫刻的な感性で再解釈し、西洋建築史上最も象徴的なドームを創造したのです。
ブラマンテへの回帰とサンガッロ計画の否定
主任建築家に就任したミケランジェロが最初に行ったことは、前任者であるサンガッロの計画を、徹底的に批判し、破棄することでした。彼は、サンガッロの巨大な木製モデルを「あまりにも多くの隠れ場所があり、暗く、貨幣偽造やその他の悪事の温床になる」と酷評しました。彼は、サンガッロの計画が、あまりにも多くの要素を詰め込みすぎた、統一感のない雑然としたものであることを見抜いていました。
ミケランジェロは、サンガッロが付け加えた多くの部分を大胆に削ぎ落とし、建築の基本的なプランを、ブラマンテが最初に構想した「ギリシャ十字形」へと力強く引き戻しました。彼は、ブラマンテのプランが持つ、明快さ、力強さ、そして幾何学的な統一感を高く評価し、「サン=ピエトロの最初の計画を立てたブラマンテは、明快で純粋な、光に満ちた建築家であった。…彼の計画から逸脱した者は、真の道から逸脱したのだ」と述べています。
しかし、ミケランジェロは、単にブラマンテの計画をコピーしたのではありません。彼は、ブラマンテのプランを、自身の彫刻家としての感性を通して、より力強く、よりダイナミックなものへと変容させました。ブラマンテの設計が、個々のパーツの調和を重視した、静的で知的なものであったのに対し、ミケランジェロの設計は、建物全体を、筋肉が緊張し、エネルギーが内側からみなぎる、一つの巨大な有機的な塊として捉えています。
彼は、外壁の設計を根本的に変更しました。ブラマンテの比較的平坦な壁面の代わりに、ミケランジェロは、巨大なコリント式の付け柱(ピラスター)をリズミカルに配置し、それによって生まれる深い陰影によって、壁面に力強い立体感と可塑性を与えました。壁は、もはや単なる面の連続ではなく、光と影が戯れる、彫刻的な塊となったのです。この力強い外壁の意匠は、中央のドームへと至る、壮大な視覚的・構造的な準備段階として機能します。
壮大なドームの設計と建設
ミケランジェロの最も偉大な貢献は、言うまでもなく、中央の巨大なドームの設計と建設です。彼は、ブラマンテの半球形のドーム案を、より高く、よりダイナミックで、天に向かって上昇するような力強さを持つ、全く新しいデザインへと昇華させました。
彼の設計に大きなインスピレーションを与えたのは、フィレンツェのサンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂のために、ブルネレスキが1世紀以上前に建設した、あの有名な二重殻構造のドームでした。ミケランジェロは、ブルネレスキと同様に、内側の半球形のドームと、外側のわずかに尖った輪郭を持つドームの、二つの殻からなる構造を採用しました。この二重殻構造は、ドームの重量を軽減し、構造的な安定性を高めると同時に、内部空間のプロポーションと、外部からの見た目の壮大さの両方を、最適化することを可能にしました。
ドームは、16本の力強いリブ(肋材)によって支えられ、その間には頂上に向かって狭くなる明かり窓(ランタン)が設けられています。このリブは、下方の巨大な付け柱から続く垂直方向の力を、視覚的に頂上のランタンへと導き、建物全体に力強い上昇感を与えています。ドームが乗る基部、すなわち円筒形のドラム(鼓胴)部分も、ミケランジェロによって再設計されました。彼は、ドラムの周囲に、対になったコリント式の円柱を配置し、その間に大きな窓を設けました。これらの円柱は、ドームの巨大な重量を支えるための控え壁(バットレス)として機能すると同時に、ドーム全体にリズミカルな力強さを与えています。
ミケランジェロは、この壮大なドームの設計を完成させ、その建設を精力的に監督しました。彼は、建設の進行を早めるために、巨大な木製の足場や、資材を吊り上げるための独創的な機械を考案したと言われています。1564年に彼が88歳で亡くなった時、ドームの建設は、ドラム部分が完成し、ドーム本体の建設が始まるところまで進んでいました。彼は、ドームの最終的な姿を正確に伝えるために、詳細な図面と、大きな木製モデルを残しました。
ドームの完成
ミケランジェロの死後、建設は一時的に停滞しましたが、1585年に即位した精力的な教皇シクストゥス5世は、この大聖堂の完成を最優先課題としました。彼は、建築家ジャコモ=デッラ=ポルタと、その補佐役である技術者のドメニコ=フォンターナに、ドームの建設を完了するよう命じました。
デッラ=ポルタとフォンターナは、基本的にはミケランジェロの設計とモデルに忠実に従いましたが、いくつかの重要な変更を加えています。最も大きな変更点は、ドームの外側の輪郭を、ミケランジェロのモデルよりも、わずかに高く、より尖った形にしたことです。この変更により、ドームの垂直性が強調され、よりダイナミックで天に昇るような印象が強まりました。この変更が、構造的な理由によるものか、あるいは美的な判断によるものかは、今日でも議論が続いています。
シクストゥス5世の強力なリーダーシップのもと、デッラ=ポルタとフォンターナは、驚異的なスピードで建設を進めました。800人以上の労働者が、昼夜交代で働き、わずか22ヶ月という驚くべき短期間で、1590年にドームはついに完成しました。ミケランジェロがヴィジョンを描いてから約40年、ブラマンテが最初の礎石を置いてから84年の歳月が流れていました。この壮大なドームの完成は、サン=ピエトロ大聖堂の建設における、最も重要なマイルストーンでした。ミケランジェロの天才的なヴィジョンは、後継者たちの手によって、ローマの空に、不滅の姿として刻み込まれたのです。
完成への道=マデルノのファサードとベルニーニの芸術
ミケランジェロの壮大なドームが完成した後も、サン=ピエトロ大聖堂の建設はまだ終わりではありませんでした。残された最大の課題は、教会の正面部分、すなわち身廊とファサード(正面の外観)をどのように完成させるかという問題でした。17世紀に入ると、芸術の様式は盛期ルネサンスの古典的な調和から、より劇的で感情的な表現を特徴とするバロックへと移行していました。この新しい時代の精神を体現し、大聖堂の建設を最終的な完成へと導いたのが、建築家カルロ=マデルノと、バロック芸術の巨匠ジャン=ロレンツォ=ベルニーニでした。
マデルノによる身廊の延長とファサードの建設
17世紀初頭、対抗宗教改革(カトリック改革)の精神が教会内で高まる中、ミケランジェロが採用したギリシャ十字プランに対する実用的な批判が、再び強まりました。ギリシャ十字プランは、象徴的には美しいものの、大規模な儀式を行い、多くの信者を収容するには、空間が不足していると考えられたのです。
1605年に即位した教皇パウルス5世は、この問題に対処するため、ミケランジェロのギリシャ十字プランを放棄し、教会の東側に長い身廊を付け加えて、プランを伝統的なラテン十字形へと変更するという、最終的な決断を下しました。この重要な任務を任されたのが、建築家カルロ=マデルノでした。
マデルノは、ミケランジェロが設計した中央部分の様式を尊重しつつ、その東側に三つのベイからなる身廊を延長しました。彼は、ミケランジェロが外壁に用いた、巨大なコリント式の付け柱のモチーフを、新しい身廊の部分にも継続して用いることで、建物全体に視覚的な統一感を与えようと努めました。
そして、マデルノの最も重要な仕事が、大聖堂の顔となる、巨大なファサードの設計と建設でした。彼は、幅115メートル、高さ45メートルにも及ぶ、壮大なスケールのファサードを設計しました。このファサードは、中央部分がわずかに前方に突き出し、巨大なオーダー(円柱様式)が全体を支配する、力強くモニュメンタルな構成となっています。中央上部には、教皇が復活祭などの祝日に、ローマと全世界に向けて祝福を与えるためのバルコニー(祝福のロッジア)が設けられています。
しかし、このマデルノのファサードには、一つの大きな問題がありました。身廊が延長され、その先に巨大なファサードが建てられたことにより、ミケランジェロが設計した壮大なドームが、広場側から見ると、その下半分がファサードに隠れてしまい、その全体の姿を仰ぎ見ることができなくなってしまったのです。ドームのドラム部分が完全に隠れ、ドーム本体だけがファサードの上に顔を出す形となり、ミケランジェロが意図した、ドラムからドームへと至る力強い上昇感が、大きく損なわれる結果となりました。これは、大聖堂の設計における、最も残念な点の一つとして、しばしば指摘されます。
また、ファサードの両端には、当初、巨大な鐘楼が建てられる計画でしたが、基礎の地盤が弱かったために、建設は断念されました。このため、ファサードは、意図されたよりも水平方向に広がって見えることになり、そのプロポーションにも影響を与えています。
とはいえ、マデルノの仕事によって、サン=ピエトロ大聖堂の建築的な本体は、1614年頃にほぼ完成しました。そして1626年11月18日、旧大聖堂が聖別されてからちょうど1300年後に、教皇ウルバヌス8世によって、新しい大聖堂は荘厳に聖別されたのです。ブラマンテによる最初の礎石から、120年の歳月が流れていました。
ベルニーニによる内部装飾と広場の完成
大聖堂の建築本体は完成しましたが、その広大な内部空間は、まだ装飾が不十分で、どこか空虚なままでした。この巨大な空間に、バロック芸術の情熱的で劇的な魂を吹き込み、サン=ピエトロ大聖堂を内外共に完成させたのが、17世紀最大の芸術家、ジャン=ロレンツォ=ベルニーニでした。彼は、彫刻家、建築家、画家として、半世紀以上にわたり、歴代の教皇のもとで、大聖堂の芸術的な仕上げの総監督を務めました。
ベルニーニの最初の、そして最も象徴的な仕事が、ミケランジェロのドームの真下、聖ペテロの墓の真上に立つ、巨大なブロンズの天蓋「バルダッキーノ」(1624年=1633年)です。高さ約29メートルにも及ぶこの巨大な彫刻的作品は、旧大聖堂にあったとされる、ソロモン神殿由来のねじれ柱の伝説に着想を得て、4本の巨大な螺旋状の柱で構成されています。柱の上には、天使やプット(幼児像)が配され、頂点には十字架を戴く宝珠が輝いています。このバルダッキーノは、大聖堂の広大すぎる空間の中に、人間的なスケールと、儀式の中心となる明確な焦点を与えています。そのダイナミックな形態と、金と黒のコントラストは、バロック芸術の劇的な精神を完璧に体現しています。
さらにベルニーニは、ドームを支える四つの巨大なピアの壁龕に、聖遺物(聖ヴェロニカのヴェール、聖ロンギヌスの槍など)を安置し、その下方に、聖ヴェロニカや聖ロンギヌスといった聖人たちの、劇的な巨大彫刻を制作しました。これらの彫刻は、バルダッキーノと一体となって、大聖堂の中心部を、壮大な聖なる劇場空間へと変貌させています。
彼のもう一つの重要な内部装飾が、後陣の最も奥に設置された「聖ペテロの司教座(カテドラ=ペトリ)」(1657年=1666年)です。これは、聖ペテロが実際に使用したと伝えられる木製の椅子を収めるための、巨大なブロンズ製の聖遺物容器です。この司教座は、四人の偉大な教会博士(アウグスティヌス、アンブロシウスなど)の像によって、あたかも宙に浮いているかのように支えられています。その上方では、金色の光輪の中に聖霊の鳩が描かれたステンドグラスから、まばゆい光が降り注ぎ、雲間から天使たちが舞い降りる、という劇的な光景が繰り広げられています。この作品は、彫刻、建築、絵画、そして光の効果が一体となった、ベルニーニの「総合芸術」の頂点を示すものです。
そして、ベルニーニの最後の、そして最も壮大な仕事が、大聖堂の正面に広がる、あの有名な「サン=ピエトロ広場」(1656年着工)の設計でした。彼は、マデルノのファサードの問題点を解決し、世界中から訪れる巡礼者たちを迎え入れるための、壮大な空間を創造する必要がありました。
彼は、二つの部分からなる広場を設計しました。ファサードに近い台形の広場(ピアッツァ=レクタ)と、それに続く巨大な楕円形の広場(ピアッツァ=オブリクア)です。この楕円形の広場は、4列に並んだ、合計284本もの巨大なトスカーナ式円柱からなる、壮大な柱廊(コロネード)によって囲まれています。ベルニーニは、この柱廊を「母なる教会が、信者たちを抱きしめるための両腕」と表現しました。この柱廊は、広場に明確な境界を与えつつ、その向こうに広がるローマの街並みとの連続性も保っています。
また、この楕円形の設計は、巧みな視覚効果を生み出しています。広場の中にある二つの焦点(オベリスクの両脇にある円盤)のどちらかに立つと、4列に並んだ柱が、完全に重なり合って1列に見え、柱廊の向こうが透けて見えるという、驚くべき体験ができます。さらに、この広大な楕円形の空間は、マデルノの広すぎるファサードの幅を視覚的に狭め、そのプロポーションを改善する効果も持っています。
ベルニーニのこの広場の完成によって、サン=ピエトロ大聖堂の建設プロジェクトは、ついにその壮大な幕を閉じました。ブラマンテが礎石を置いてから約170年。ルネサンスの理想主義に始まり、ミケランジェロの英雄的なヴィジョンを経て、バロックの劇的な情熱で完成されたこの大聖堂は、まさに西洋文明の精神史そのものを、石と芸術によって物語る、比類なき記念碑となったのです。