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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / ルネサンス

近世とは わかりやすい世界史用語2482

著者名: ピアソラ
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近世とは

歴史の大きな流れを理解しようとするとき、私たちはしばしば時代を区分します。古代、中世、近代といった言葉は、過去を整理し、それぞれの時代の特徴を捉えるための便利な道具です。しかし、歴史は川の流れのように絶え間なく続いており、ある日突然、一つの時代が終わり、新しい時代が始まるわけではありません。そこには必ず、古い秩序が崩れ、新しい価値観が芽生える、長く複雑な移行の期間が存在します。ヨーロッパ史において、中世という神と教会が中心だった時代と、理性が人間を主役の座に押し上げた近代との間に横たわる、まさにそのような移行期こそが「近世」と呼ばれる時代です。
この時代は、おおよそ15世紀末から18世紀末、つまりコロンブスのアメリカ大陸到達やルネサンスの開花から、フランス革命や産業革命が世界を根底から覆すまでの約300年間を指します。この時代は、一言で言い表すのが非常に難しい、矛盾と活気に満ちた時代でした。中世的な封建社会の構造が色濃く残る一方で、近代的な中央集権国家や資本主義経済の萌芽が見られます。人々の信仰心は依然として篤いものでしたが、同時に、人間そのものへの関心が高まり、科学的な探究心が世界を新たな光で照らし始めました。大航海時代がヨーロッパの世界観を物理的に拡大し、宗教改革がキリスト教世界の精神的な統一を打ち砕き、活版印刷が知識の爆発的な普及を可能にしました。
この時代は、まさに「破壊と創造」の時代でした。古い権威が揺らぎ、社会が流動化する中で、ヨーロッパは激しい動乱を経験します。魔女狩りの嵐が吹き荒れ、血で血を洗う宗教戦争が大陸を荒廃させました。しかし、その混沌の中から、絶対王政という新たな政治体制が生まれ、科学革命が近代的な知の体系を築き上げ、啓蒙思想が個人の自由と理性の尊厳を説きました。近世ヨーロッパは、中世の残滓を抱えながらも、近代へと至る不可逆的な変化を遂げていった、ダイナミックで多面的な世界だったのです。この時代の複雑な様相を解き明かすことは、私たちが生きる現代世界がどのように形作られてきたのかを理解する上で、欠かすことのできない鍵となるでしょう。



時代の幕開け:中世世界の崩壊と新たな潮流

近世という新しい時代の扉を開いたのは、単なる出来事ではありませんでした。それは、14世紀から15世紀にかけてヨーロッパを襲った、政治、社会、文化における地殻変動ともいえる一連の変化の積み重ねの結果でした。中世ヨーロッパを支えていた基盤そのものが、様々な側面から揺さぶられていったのです。
ルネサンス:人間の再発見

近世の精神的な幕開けを告げたのは、イタリアの都市国家で始まったルネサンスでした。この言葉は「再生」を意味し、千年にわたる中世の「暗黒時代」を経て、ギリシャ=ローマの古典古代の文化や学問を復興させようとする運動でした。しかし、それは単なる過去の模倣ではありませんでした。ルネサンスの本質は、神中心の中世的な世界観から離れ、「人間」そのものに再び光を当てることにありました。
フィレンツェやヴェネツィアといったイタリアの都市は、地中海貿易によって莫大な富を蓄積し、封建領主や教会の権威から比較的自由な市民社会を形成していました。メディチ家のような富裕な商人や銀行家は、芸術家や学者のパトロンとなり、彼らの創造活動を支えました。このような環境の中で、人々は現世を肯定し、人間の理性、才能、そして美しさを賛美する新しい価値観、すなわちヒューマニズム(人文主義)を育んでいきました。
ペトラルカは古代の文献を渉猟し、人間の内面的な感情を瑞々しい筆致で描き出しました。建築家ブルネレスキは、数学的な遠近法を再発見し、フィレンツェのドゥオーモに巨大な円蓋を架けるという、技術的な偉業を成し遂げました。そして、レオナルド=ダ=ヴィンチやミケランジェロといった万能の天才たちは、解剖学的な正確さをもって人体をリアルに描き出し、人間の肉体と精神の偉大さを見事に表現しました。彼らの作品は、もはや神の栄光を讃えるためだけの道具ではなく、人間自身の創造力と知性の輝かしい証となったのです。
この人間中心の考え方は、政治思想にも影響を与えました。マキャヴェッリは『君主論』の中で、宗教や道徳から切り離された、冷徹で現実的な国家統治の術を論じ、近代的な政治学の扉を開きました。ルネサンスは、まずイタリアで花開き、やがてアルプスを越えてドイツ、フランス、イギリス、ネーデルラントなどヨーロッパ各地へと広がっていきました。それぞれの地域で、エラスムスやトマス=モアといった思想家たちが、キリスト教の教えと古典の知恵を融合させようと試み、社会や教会への批判的な精神を育んでいきました。この精神は、後に宗教改革の思想的な土壌となります。
大航海時代:世界の拡大

ルネサンスがヨーロッパの精神的な地平を広げたとすれば、大航海時代は物理的な地平を爆発的に拡大させました。15世紀半ば、オスマン帝国が東地中海を制圧し、伝統的な東方貿易のルートが脅かされると、ヨーロッパの商人たちは、アジアの香辛料や富を求めて、新たな海上ルートの開拓へと乗り出します。
この動きを先導したのは、大西洋に面したポルトガルとスペインでした。ポルトガルのエンリケ航海王子は、アフリカ西岸の探検を組織的に推進し、航海術や地図作成技術の発展に大きく貢献しました。そして1498年、ヴァスコ=ダ=ガマはついにアフリカ南端の喜望峰を回り、インドへの直接航路を開拓することに成功します。
一方、スペインの支援を受けたジェノヴァ人クリストファー=コロンブスは、西回りでアジアを目指し、1492年にアメリカ大陸に到達しました。彼自身はそこをインドだと信じていましたが、この「発見」は、ヨーロッパ人の世界観を根底から覆すものでした。聖書にも古代の賢者たちの書物にも記されていなかった、全く新しい大陸と、そこに住む人々の存在が明らかになったのです。
この後、アメリゴ=ヴェスプッチの探検によって「新世界」の存在が確認され、マゼランの艦隊が史上初の世界周航を成し遂げたことで、地球が球体であることが実証されました。ヨーロッパ、アジア、アフリカ、そしてアメリカという四つの大陸が、海上ルートによって初めて直接結びつけられ、真の「グローバル=ヒストリー」が始まった瞬間でした。
この地理上の発見は、ヨーロッパに計り知れない影響をもたらしました。アメリカ大陸からは、ジャガイモ、トウモロコシ、トマトといった新しい作物がもたらされ、ヨーロッパの食生活を豊かにし、人口増加を支えました。一方で、ポトシ銀山などから採掘された莫大な量の銀がヨーロッパに流入し、激しいインフレーション(価格革命)を引き起こし、従来の経済構造を揺るがしました。また、ヨーロッパ人はアメリカ大陸に鉄砲や馬を持ち込むと同時に、天然痘や麻疹といった病原菌も持ち込み、免疫を持たない先住民の人口を激減させました。アステカ帝国やインカ帝国といった高度な文明が、少数のスペイン人征服者(コンキスタドール)によって滅ぼされ、広大な植民地帝国が築かれていきました。この過程で、アフリカから多くの人々が奴隷として新大陸へ強制的に連行され、プランテーションでの過酷な労働に従事させられるという、三角貿易の悲劇的な歴史も始まります。
大航海時代は、ヨーロッパに空前の富と繁栄をもたらすと同時に、植民地支配と搾取という、近代世界の負の遺産を生み出す出発点でもあったのです。
活版印刷:知識の革命

もし、ルネサンスの新しい思想や、大航海時代がもたらした新しい知識が、一部の知識人や特権階級だけのものであり続けたなら、その影響は限定的だったかもしれません。これらの知見が、かつてない速度と規模でヨーロッパ社会に浸透することを可能にしたのが、15世紀半ばにドイツのヨハネス=グーテンベルクによって発明された活版印刷技術でした。
それまで、書物はすべて手で書き写されており、非常に高価で希少なものでした。一冊の本を制作するには、膨大な時間と労力が必要であり、知識は修道院や大学、王侯貴族の書斎に独占されていました。しかし、活字を組み合わせて版を作り、インクを塗って紙に圧着させる活版印刷は、同じ書物を安価に、そして大量に複製することを可能にしました。
この技術革新の影響は、計り知れないものがありました。まず、聖書が様々な言語に翻訳され、大量に印刷されるようになりました。これにより、それまでラテン語を解する聖職者しか直接触れることのできなかった神の言葉が、一般の信徒にも開かれることになります。人々は、教会の公式な解釈を介さずに、自ら聖書を読み、その意味を考えるようになります。これは、個人の内面的な信仰を重視する宗教改革の思想が、燎原の火のように広がるための決定的な前提条件となりました。
また、ルネサンスのヒューマニストたちの著作、古代ギリシャ=ローマの古典、さらには新大陸に関する旅行記や地図なども次々と出版され、知識人たちの間で活発な知的交流が促されました。大学の数が増え、識字率も徐々に上昇し、知識の担い手は聖職者から、法律家、役人、商人といった俗人のインテリ層へと広がっていきました。活版印刷は、まさに「知識の民主化」を引き起こし、批判的な精神を育み、ヨーロッパ全体の知的レベルを底上げする、巨大なエンジンとなったのです。
[h1]引き裂かれるキリスト教世界:宗教改革の衝撃[/h11]
近世ヨーロッパを最も激しく揺さぶった出来事は、間違いなく宗教改革でした。それは、単なる神学論争にとどまらず、政治、社会、文化のあらゆる側面に深刻な亀裂を生み出し、ヨーロッパを1世紀以上にわたる血なまぐさい戦争の時代へと突き落としました。
ルターとプロテスタンティズムの誕生

16世紀初頭のキリスト教世界は、深刻な腐敗と堕落に覆われていました。多くの聖職者は世俗的な権力と富を追求し、聖職売買や不行跡が横行していました。特に民衆の強い反発を招いたのが、贖宥状(免罪符)の販売でした。これは、サン=ピエトロ大聖堂の改築費用を捻出するために、ローマ教皇庁が公認したもので、「購入すれば、罪の償いが軽減される」と喧伝されました。
この慣行に敢然と異を唱えたのが、ドイツのヴィッテンベルク大学の神学教授、マルティン=ルターでした。彼は、魂の救済は、贖宥状の購入のような外面的な善行によって得られるものではなく、ただひたすらに神を信じる「信仰のみ」によって与えられると主張しました。また、聖書の言葉こそが信仰の唯一の源泉であり、教皇や教会の権威は絶対的なものではないと説きました(「聖書のみ」)。1917年、ルターはこれらの主張をまとめた「95か条の論題」をヴィッテンベルク城教会の扉に掲示したと伝えられています。
この行動は、当初は大学内での神学的な討論を意図したものでしたが、活版印刷という新しいメディアによって、彼の論題や著作は瞬く間にドイツ全土、そしてヨーロッパ中に広まり、教会の腐敗に不満を抱いていた人々の心を捉えました。教皇庁はルターに自説の撤回を求めましたが、彼はこれを拒否し、破門されます。しかし、ルターの主張は、宗教的な動機だけでなく、政治的・経済的な思惑とも結びついていきました。
当時のドイツ(神聖ローマ帝国)は、多数の領邦国家に分裂しており、多くの諸侯は、皇帝やローマ教皇の介入から独立し、自領内の教会財産を掌握したいと考えていました。彼らにとって、ルターの教えは、教皇の権威から離脱するための格好の口実となりました。また、農民たちは、ルターの「キリスト者の自由」という言葉を、封建的な支配からの解放と解釈し、大規模な反乱(ドイツ農民戦争)を起こしました。ルター自身は農民反乱を支持しませんでしたが、彼の改革運動が、社会の根底にあった不満のマグマを噴出させるきっかけとなったことは間違いありません。
ルターに始まる福音主義の運動は、やがて「抗議する者(プロテスタント)」と呼ばれるようになり、カトリック教会から分離した新しいキリスト教の一大潮流を形成していきます。
カルヴァンと宗教改革の国際化

ルター派の改革が主にドイツと北欧に広まったのに対し、宗教改革をさらに急進的かつ国際的な運動へと発展させたのが、フランス出身のジャン=カルヴァンでした。彼はスイスのジュネーヴを拠点に、厳格な神政政治を敷き、宗教改革の国際的なセンターを築き上げました。
カルヴァンの教えの中心にあるのが、「予定説」という厳しい教義です。これは、魂が救われるか否かは、人間が生まれる前に神によってあらかじめ定められており、人間の意志や行いによっては変更できない、とする考え方です。この教えは、一見すると人々の努力を無意味にするように思えますが、実際には逆の効果をもたらしました。信者たちは、自分が神に選ばれた「証」として、世俗的な職業に勤勉に励み、禁欲的で合理的な生活を送ることを求めました。社会学者のマックス=ヴェーバーは、後にこのカルヴィニズムの倫理が、利潤の追求を正当化し、資本の蓄積を促すことで、「資本主義の精神」を生み出す上で重要な役割を果たしたと論じました。
カルヴァン派の教えは、その論理的な体系と強固な教会組織によって、フランス(ユグノー)、ネーデルラント(ゴイセン)、スコットランド(プレスビテリアン)、そしてイングランド(ピューリタン)など、ヨーロッパ各地の商工業者や知識人層に広く受け入れられ、カトリックの支配に対する最も強力な対抗勢力となりました。
イングランド国教会の成立と対抗宗教改革

イングランドの宗教改革は、大陸とは少し異なる政治的な動機から始まりました。国王ヘンリー8世が、王妃キャサリンとの離婚問題を巡ってローマ教皇と対立し、1534年に「国王至上法(首長令)」を発布して、自らがイングランド教会の首長であると宣言したのです。これにより、イングランド教会はカトリック教会から分離し、独自の国教会(アングリカン=チャーチ)となりました。当初、その教義はカトリックに近いものでしたが、その後のエドワード6世やエリザベス1世の治世下で、次第にプロテスタント的な要素を取り入れていくことになります。
プロテスタンティズムの急速な拡大に対し、カトリック教会も手をこまねいていたわけではありません。16世紀半ばから、カトリック教会は内部の腐敗を粛正し、失われた信徒と権威を回復するための一連の改革運動に着手します。これを「対抗宗教改革(またはカトリック改革)」と呼びます。
その中心となったのが、1545年から開催されたトリエント公会議です。この会議では、教皇の至上権や聖職者の独身制といった伝統的な教義が再確認される一方で、聖職者の教育の徹底や規律の強化が図られました。また、イグナティウス=デ=ロヨラによって創設されたイエズス会は、教皇への絶対的な忠誠を誓い、高い知性と強固な組織力をもって、ヨーロッパにおけるプロテスタントの拡大を阻止し、さらにはアジアや南米への海外布教で大きな成果を上げました。宗教裁判所(異端審問)が強化され、禁書目録が作成されるなど、思想統制も厳しくなりました。この対抗宗教改革の情熱は、バロック芸術という、劇的で感情に訴えかける壮麗な美術様式を生み出し、カトリックの威信を視覚的に示す役割も果たしました。
[h22]宗教戦争の時代[/h22]
宗教改革がもたらした最悪の帰結は、ヨーロッパ全土を巻き込む、長期にわたる凄惨な宗教戦争でした。信仰の違いは、もはや単なる個人の内面の問題ではなく、国家の存亡や領土の支配権と分かちがたく結びついた、政治的な対立の火種となったのです。
フランスでは、カトリックとプロテスタント(ユグノー)の間で、16世紀後半の約30年間にわたる内戦(ユグノー戦争)が繰り広げられました。特に1572年の「サン=バルテルミの虐殺」では、数千人ものユグノーがパリで虐殺され、対立は泥沼化しました。最終的に、ユグノー出身のアンリ4世がカトリックに改宗して即位し、1598年に「ナントの勅令」を発布して個人の信仰の自由を認めることで、ようやく内乱は終結します。
ネーデルラントでは、カルヴァン派の信徒が、カトリック国スペインの過酷な支配に対して独立戦争(八十年戦争)を起こしました。この戦いは、宗教的な対立であると同時に、外国の圧政に対する民族的な解放闘争の性格も帯びていました。長い闘争の末、北部の7州は事実上の独立を勝ち取り、プロテスタント国であるオランダ連邦共和国として、17世紀には経済的な黄金時代を迎えることになります。
そして、この宗教戦争の時代のクライマックスであり、最大の悲劇となったのが、1618年から1648年まで続いた三十年戦争です。当初は神聖ローマ帝国内の宗教対立として始まったこの戦争は、デンマーク、スウェーデン、フランスといった周辺国が次々と介入し、宗教的な動機と、ハプスブルク家の覇権に対抗するという政治的な動機が複雑に絡み合った、ヨーロッパ全体を巻き込む国際戦争へと発展しました。主戦場となったドイツは徹底的に荒廃し、人口の3分の1から半分が失われたとも言われています。
この長く悲惨な戦争を終結させた1648年のヴェストファーレン条約は、ヨーロッパ史における画期的な条約となりました。この条約によって、カルヴァン派の信仰が正式に認められ、各領邦の君主が自領の宗教を決定する権利(領邦教会制)が確立されました。より重要なのは、この条約が、宗教的な権威(教皇)ではなく、それぞれの領域内で排他的な権力を持つ「主権国家」を国際社会の基本単位とする、新しい国際秩序の基礎を築いたことです。近代的な主権国家体制は、皮肉にも、宗教が引き起こした未曾有の破壊の中から生まれたのです。
絶対王政の確立と主権国家体制

宗教戦争の混乱と破壊の中から、ヨーロッパは新しい政治の形を模索し始めます。封建貴族や教会の権力が相対的に弱まり、社会の安定と秩序を回復できる強力な中央権力が求められる中で登場したのが、絶対王政(絶対君主制)でした。
「王権神授説」と官僚制・常備軍

絶対王政とは、国王が国内において絶対的、すなわち他のいかなる勢力(貴族、教会、都市など)にも制約されない最高の権力を持つとされた政治体制です。この絶対的な権力を理論的に支えたのが、「王権神授説」でした。これは、国王の権力は神から直接授けられたものであり、国王は神に対してのみ責任を負う、とする思想です。フランスの神学者ボシュエらによって体系化されたこの理論は、国王への服従を神聖な義務とし、国王に対するいかなる抵抗も神への反逆と見なしました。
しかし、国王の権力は、単なる理念だけで成り立っていたわけではありません。それを実体的なものにするための、二つの重要な道具がありました。それが、官僚制と常備軍です。
絶対君主は、封建貴族に代わって、国王に直接忠誠を誓う専門的な知識を持った役人(官僚)を登用し、中央集権的な行政機構を築き上げました。彼らは、全国的な徴税、司法、そして地方行政を担い、国王の意思を国内の隅々まで浸透させる役割を果たしました。官僚の多くは、貴族階級ではなく、大学で法律を学んだ平民出身者であり、彼らの登用は、伝統的な貴族の力を削ぐ効果もありました。
また、国王は、封建的な騎士の軍役奉仕に頼るのではなく、税金で雇った、国王直属の職業的な軍隊(常備軍)を維持するようになります。火器、特に大砲の発展は、中世以来の騎士の軍事的な優位性を失わせ、堅固な城壁を打ち破ることを可能にしました。大規模な歩兵部隊と砲兵隊を維持するには莫大な費用がかかりましたが、それは全国的な徴税システムを持つ国王にしかできないことでした。常備軍は、国内の反乱を鎮圧し、対外戦争を遂行するための強力な手段となり、国王の権力の最終的な保証となったのです。
重商主義と経済的ナショナリズム

官僚制と常備軍を維持するためには、莫大な資金が必要でした。そのため、絶対君主たちは、国家の経済力を高めることに強い関心を持つようになります。この時代に各国で採用された経済政策が、重商主義です。
重商主義の基本的な考え方は、国富の総量は固定的であり、貿易はゼロサムゲームである、というものでした。したがって、国家を富ませるためには、輸出を最大限に促進し、輸入をできるだけ抑制して、貿易差額によって金銀(貨幣)を国内に蓄積することが重要だと考えられました。
この目的を達成するために、国家は経済活動に積極的に介入しました。輸入を抑制するために高い関税をかけ、国内の産業を保護・育成するために、特権的な独占権を与えたマニュファクチュア(工場制手工業)を設立したり、補助金を交付したりしました。また、海外の植民地は、本国に必要な原材料を供給し、本国の製品を売りつけるための市場として、極めて重要な役割を担いました。イギリスの航海法のように、自国の船以外による貿易を制限する法律も制定されました。
重商主義は、経済的な領域におけるナショナリズムの現れであり、国家間の経済競争を激化させました。17世紀から18世紀にかけて、イギリス、フランス、オランダなどの間で繰り広げられた度重なる戦争は、領土や王位継承を巡る争いであると同時に、貿易の覇権と広大な植民地帝国を巡る、重商主義的な競争の側面を色濃く持っていました。
絶対王政の典型:フランスと、その多様な形態

絶対王政の最も典型的な姿は、17世紀後半のフランス、ルイ14世の治世に見ることができます。「太陽王」と呼ばれた彼は、「朕は国家なり」という言葉に象徴されるように、権力を一身に集中させました。彼は、壮麗なヴェルサイユ宮殿を建設し、そこに全国の有力な貴族たちを住まわせることで、彼らを宮廷儀礼の中に閉じ込め、地方における影響力を削ぎ落としました。財務総監コルベールのもとで強力な重商主義政策を推進し、軍備を増強して、ヨーロッパの覇権を巡る侵略戦争を繰り返しました。
しかし、ヨーロッパのすべての国がフランスのような絶対王政を確立したわけではありません。その形態は、各国の歴史的な条件によって大きく異なっていました。
イギリスでは、国王が絶対的な権力を求めようとするたびに、議会がそれに抵抗し、17世紀に二度の革命(ピューリタン革命と名誉革命)を経験しました。その結果、国王の権力は法と議会によって制限される「立憲君主制」が確立され、大陸の絶対王政とは一線を画す道を歩むことになります。
東ヨーロッパでは、プロイセンやオーストリア、ロシアなどで、18世紀に「啓蒙専制君主」と呼ばれる君主たちが登場します。プロイセンのフリードリヒ2世やオーストリアのマリア=テレジア、ロシアのエカチェリーナ2世といった君主たちは、啓蒙思想の合理主義的な考え方を取り入れ、「君主は国家第一の僕」であると自称し、上からの近代化改革(司法制度の改革、農奴解放の試み、教育の振興など)を推進しました。しかし、その目的は、あくまで国家の富国強兵にあり、君主の権力を強化するためのものであったという点で、本質的には絶対王政の一形態でした。
一方、オランダやヴェネツィア、スイスのように、君主を持たない共和制を維持した国々もありました。特にオランダは、17世紀に世界貿易と金融の中心地として繁栄を極め、絶対王政とは異なる、市民階級の力が強い国家モデルの可能性を示しました。
科学革命と啓蒙思想:理性の時代の到来

近世ヨーロッパが経験したもう一つの静かでありながら決定的な革命、それが科学革命です。それは、自然界を神の神秘的な御業としてではなく、人間の理性によって解明できる、法則に基づいた合理的なシステムとして捉えようとする、知的な大転換でした。
天文学から物理学へ:新しい宇宙観の誕生

科学革命の口火を切ったのは、天文学の分野でした。古代ギリシャのプトレマイオス以来、ヨーロッパでは、地球が宇宙の中心に静止し、太陽や惑星がその周りを回っているとする「天動説」が、キリスト教の教義と結びついて、疑うことのできない真理とされてきました。
この常識に挑戦したのが、ポーランドの天文学者ニコラウス=コペルニクスです。彼は1543年に出版された『天球の回転について』の中で、計算を簡潔にするための仮説として、地球が太陽の周りを公転しているとする「地動説」を提唱しました。これは、人間が住む地球を宇宙の中心という特権的な地位から引きずり下ろす、衝撃的な理論でした。
その後、ティコ=ブラーエの精密な天体観測のデータを受け継いだヨハネス=ケプラーが、惑星が太陽の周りを楕円軌道で運動していることを発見し、ガリレオ=ガリレイが自作の望遠鏡で木星の衛星や月のクレーターを観測して、地動説を裏付ける経験的な証拠を次々と提示しました。ガリレオは、その主張のために宗教裁判にかけられましたが、彼の発見は、もはや権威や聖書の一節ではなく、観察と実験こそが真理を探究するための正しい方法であることを示しました。
そして、この科学革命を完成させたのが、イギリスのアイザック=ニュートンです。彼は1687年の主著『プリンキピア(自然哲学の数学的諸原理)』において、地上の物体が落下する法則と、天体が運行する法則が、実は同じ一つの「万有引力の法則」によって説明できることを数学的に証明しました。宇宙全体が、普遍的で合理的な数式によって記述できる、巨大な機械のようなものであるというニュートンの世界観は、その後の西洋の思想に決定的な影響を与えました。神は、もはや日々の出来事に介入する人格的な存在ではなく、この精巧な宇宙機械を創造し、最初の運動を与えた「偉大な時計職人」のような存在として捉えられるようになったのです。
哲学と科学的方法の確立

このような科学的な発見と並行して、正しい知識を獲得するための方法論を探究する、新しい哲学も生まれました。
イギリスのフランシス=ベーコンは、古代の権威や先入観にとらわれず、観察や実験といった経験的な事実を一つ一つ積み重ねていくことで、一般的な法則を導き出すべきだと主張しました。この「帰納法」は、近代的な経験論の基礎を築きました。
一方、フランスのルネ=デカルトは、感覚は我々を欺く可能性があるとして、疑いようのない確実な出発点を求めました。そして、「我思う、ゆえに我あり」という有名な命題にたどり着き、この理性的な思索から出発して、論理的な推論によって真理を体系的に導き出す「演繹法」を提唱しました。彼の合理論は、大陸の哲学に大きな影響を与えました。
ベーコンの経験論とデカルトの合理論は、アプローチは異なりますが、ともに伝統や権威を鵜呑みにせず、人間自身の理性と経験によって真理を探究しようとする、近代的な科学精神の確立に貢献しました。
啓蒙思想:理性の光を社会へ

18世紀になると、科学革命によって確立された「理性」への信頼は、自然界だけでなく、人間社会そのものへと向けられるようになります。非合理的な伝統や迷信、権威主義的な政治体制や社会制度を理性の光で照らし出し、人間を無知と抑圧から解放しようとする思想運動、それが啓蒙思想です。
イギリスの名誉革命を理論的に擁護したジョン=ロックは、人間は生まれながらにして生命、自由、財産といった、誰にも奪うことのできない「自然権」を持っていると主張しました。政府は、この自然権を守るために、人々の同意に基づいて設立されたものであり、もし政府がその役割を果たさず、人々の権利を侵害するならば、人々はそれに抵抗し、新しい政府を樹立する権利(抵抗権、革命権)を持つと説きました。彼の思想は、後のアメリカ独立革命やフランス革命に直接的な影響を与えます。
フランスは、18世紀の啓蒙思想の中心地となりました。モンテスキューは『法の精神』の中で、国家の権力を立法、行政、司法の三つに分離し、相互に抑制し均衡させることで、個人の自由を守るべきだと説きました(三権分立)。ヴォルテールは、辛辣な筆致でカトリック教会の不寛容や権威主義を徹底的に批判し、信仰の自由と思想の自由を擁護しました。
そして、ジャン=ジャック=ルソーは、より急進的な思想を展開しました。彼は『社会契約論』の冒頭で「人間は自由なものとして生まれた。しかし、いたるところで鉄鎖につながれている」と述べ、文明社会が人間を堕落させたと批判しました。そして、人々が自らの自由な意思(一般意志)に基づいて共同体を形成し、その共同体の決定に自らが服従することによってのみ、真の自由と平等が実現されるとする、人民主権の理論を提唱しました。
ディドロやダランベールが中心となって編纂した『百科全書』は、啓蒙思想の集大成ともいえるプロジェクトでした。この書物は、当時の一流の思想家や科学者たちの知識を集め、アルファベット順に整理したもので、科学技術から政治、哲学に至るまで、あらゆる分野の知識を、迷信や権威を排した合理的な視点から解説しようと試みました。それは、知識を解放し、理性の光を社会の隅々まで届けようとする、啓蒙時代の精神を象徴する記念碑的な事業でした。
これらの啓蒙思想は、サロンやコーヒーハウス、読書サークルなどを通じて、貴族やブルジョワジーといった知識人層に広まり、絶対王政の正当性を根底から揺るがしていきました。理性の名の下に、現存するあらゆる制度が批判の対象となり、より合理的で、公正で、人間的な社会を求める声が高まっていきました。そして、この声はついに、18世紀末の革命の時代に、現実の政治を覆す巨大な力となって爆発することになるのです。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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