新規登録 ログイン

18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / ルネサンス

『ユートピア』とは わかりやすい世界史用語2514

著者名: ピアソラ
Text_level_2
マイリストに追加
『ユートピア』とは

1516年、フランドルのルーヴェンで一冊の小さなラテン語の本が出版されました。その名は『社会の最善のあり方について、そしてユートピアという新しい島についての、楽しく有益な黄金の小冊子』。今日、単に『ユートピア』として知られるこの作品は、イングランドの法律家であり人文主義者であったトマス=モアによって書かれました。出版から五世紀以上を経た今なお、この本は西洋思想における最も重要で、そして最も謎に満ちた作品の一つとして、読者を魅了し、議論を呼び起こし続けています。
『ユートピア』は、どこにも存在しない理想郷の姿を描き出すことで、モアが生きた16世紀初頭のヨーロッパ社会、特にイングランドが抱えていた深刻な病理を鋭くえぐり出す社会批評の書です。それは、政治哲学の古典であり、風刺文学の傑作であり、そして後のユートピア文学というジャンルそのものを定義づけることになった記念碑的な作品でもあります。私有財産、貧困、戦争、宗教、正義、幸福といった、人間社会が直面する根源的な問いを投げかけるこの本は、その多義的な性格ゆえに、時代や読者の立場によって全く異なる解釈を許容してきました。ある者にとっては共産主義の先駆けであり、ある者にとっては全体主義の悪夢であり、またある者にとってはキリスト教的理想の寓話です。



作品の構造と物語の枠組

『ユートピア』の複雑さを理解するためには、まずその独特な文学的構造と、物語が展開するための巧妙な枠組みを把握することが不可欠です。この作品は、単純な理想郷の描写ではなく、複数の登場人物による対話と報告が入れ子構造になった、計算され尽くした文学作品として構築されています。
二部構成と対話形式

『ユートピア』は、大きく分けて二つの部分、すなわち第一部と第二部から構成されています。この二つの部分は、執筆された順番も異なれば、その内容と雰囲気も対照的です。モアはまず、1515年に外交使節としてフランドルに滞在していた際に、作品の中心部分である第二部、すなわちユートピア島の具体的な描写を執筆しました。そしてロンドンに帰国した後、導入部となる第一部を書き加え、全体を完成させました。
作品全体は、プラトンの著作を彷彿とさせる対話篇の形式をとっています。物語は、著者であるトマス=モア自身を名乗る人物の一人称の語りによって進められます。彼は、1515年にイングランド王ヘンリー八世の使節としてフランドルに派遣された際の出来事として、この物語を読者に提示します。この設定は、作品に現実感と信憑性を与えるための巧妙な仕掛けです。
物語の主な舞台は、当時のヨーロッパにおける国際商業の中心地であったアントワープです。モアは、公務の合間に、友人でアントワープの役人であったピーター=ジャイルズと再会します。ジャイルズは、モアに一人の興味深い人物を紹介します。それが、この物語の鍵を握るラファエル=ヒュトロダエウスという名の、日焼けした顔に長い髭をたくわえた、謎めいたポルトガル人航海者です。
ヒュトロダエウスという名前自体が、この物語を読み解く上で重要なヒントとなります。これはモアが作り出した造語で、ギリシャ語の「huthlos」(戯言、ナンセンス)と「daiein」(分配する、精通している)を組み合わせたものと考えられます。つまり、彼の名前は「戯言を語ることに長けた者」あるいは「ナンセンスの専門家」といった意味合いを持ち、彼が語る内容の信憑性について、読者に初めから疑問を投げかける役割を果たしているのです。
第一部=ヨーロッパ社会への鋭い批判

第一部は、モアの家の庭で行われる、モア、ジャイルズ、そしてヒュトロダエウスの三者による白熱した対話で構成されています。この対話の中心的なテーマは、「哲学者は王に仕えるべきか否か」という、人文主義者たちにとっての積年の課題です。
モアは、ヒュトロダエウスの該博な知識と、世界各地で見聞を広めてきた経験に感銘を受け、彼のような人物こそ、その知恵を国家のために役立てるべきだと主張します。彼は、哲学者が王の顧問となれば、より公正で賢明な統治が実現できるはずだと、プラトンの哲人王思想を引いて説得を試みます。
しかし、ヒュトロダエウスはこの提案を真っ向から否定します。彼は、ヨーロッパの宮廷は、追従と虚栄、そして権力者たちの私利私欲に満ちた場所であり、真実を語る哲学者の助言など誰も聞く耳を持たないと断じます。彼は、もし自分が王の顧問になったとしても、他の顧問たちの愚かな意見に同調するか、さもなければ異端者として追放されるのが関の山だろうと、冷ややかに語ります。
この議論の過程で、ヒュトロダエウスは、当時のヨーロッパ社会、特にモアの母国であるイングランドが抱える様々な社会悪を、容赦なく告発していきます。彼の批判の舌鋒は、多岐にわたる問題に向けられます。
彼の批判の最も有名な箇所は、囲い込み運動(エンクロージャー)に対するものです。彼は、イングランドでは「羊が人間を食らう」という奇怪な現象が起きていると語ります。地主や貴族たちが、より多くの利益を生む羊毛生産のために、これまで農民が耕してきた共有地や農地を垣根で囲い込み、彼らを土地から追い出している。住む場所と仕事を失った農民たちは、家族を抱えて路頭に迷い、やむなく窃盗などの犯罪に手を染める。そして、国は彼らを犯罪者として厳しく罰し、絞首刑に処している。ヒュトロダエウスは、国が自ら盗人を生み出しておきながら、彼らを罰するという本末転倒な政策を痛烈に批判します。
さらに彼は、不必要に多くの貴族やその取り巻きたちが、何も生産せずに他人の労働に寄生して暮らしていること、戦争のために維持されている巨大な常備軍が、平時においては社会の負担となり、治安を悪化させていること、そして贅沢や浪費を煽る社会の風潮が、人々の道徳心を蝕んでいることなどを次々と指摘します。
ヒュトロダエウスは、これらの社会悪の根源には、ただ一つの元凶が存在すると結論づけます。それは「私有財産」です。彼によれば、富が少数の人間の手に私有され、あらゆる物事の価値が貨幣によって測られる限り、社会に真の正義と繁栄が訪れることは決してありません。富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなるという不正義は、私有財産制度に固有の宿命であると彼は断言します。そして、この問題を解決した唯一の国として、彼が旅の途中で発見したユートピア島の名を挙げるのです。
この第一部は、第二部で語られるユートピア社会の理想を際立たせるための、効果的な序章として機能しています。現実のヨーロッパ社会の暗部を徹底的に描き出すことで、読者は、それとは全く異なる原理で運営されるユートピアという社会への強い関心をかき立てられることになります。
第二部=ユートピア島の詳細な報告

昼食を挟んで、物語は第二部へと移ります。ここでは、対話形式は影を潜め、ヒュトロダエウスがユートピア島の地理、歴史、社会制度、そして人々の生活様式について、体系的かつ詳細に報告するという形式がとられます。彼の語りは、まるで客観的な民族誌の報告のように、冷静で整然とした調子で進められます。
彼はまず、ユートピア島の地理と歴史について説明します。かつては大陸と地続きであったその土地を、伝説的な建国者であるユートパス王が海峡を切り開いて島に変え、未開の住民たちに文明をもたらしたと語られます。島の形状は三日月に似ており、54の都市が計画的に配置されています。全ての都市は同じ設計思想に基づいて建設され、その景観も法律も同一です。
ヒュトロダエウスの報告は、農業、都市の構造、政治制度、労働、社会生活、旅行、学問、哲学、そして戦争や宗教といった、社会のあらゆる側面に及びます。彼は、私有財産が存在しないこの島で、人々がいかにして調和の取れた、豊かで幸福な生活を送っているかを、具体的な事例を挙げながら生き生きと描写していきます。
物語の最後で、ヒュトロダエウスは彼の長い報告を終えます。語り手であるモアは、ユートピアの制度のいくつかは馬鹿げているように思えるし、特に全ての社会の基盤である私有財産と貨幣の廃止には同意できないと述べつつも、ユートピアにはヨーロッパの国々が見習うべき点が数多くあることを認めます。そして彼は、いつかヒュトロダエウスと、この問題についてさらに詳しく議論する機会を持ちたいと願いながら、この「黄金の小冊子」を締めくくります。
このように、『ユートピア』は、現実(第一部のヨーロッパ)と理想(第二部のユートピア)を対比させ、その両者を「哲学者は王に仕えるべきか」という実践的な問いをめぐる対話の枠組みの中に収めるという、非常に洗練された構造を持っています。この複雑な構造こそが、この作品に多層的な解釈を可能にさせ、単なる理想郷物語ではない、深い奥行きを与えているのです。
ユートピアの社会制度と思想

ラファエル=ヒュトロダエウスが語るユートピア島は、16世紀ヨーロッパの混沌とは対照的な、徹底した合理性と秩序によって貫かれた社会です。その制度の根幹には、私有財産の否定と、共同体全体の利益を個人の利益に優先させるという思想があります。ここでは、その主要な制度と思想を分野別に詳しく見ていきます。
経済=労働=財産の共有

ユートピア社会の最も根本的な特徴であり、他の全ての制度の前提となっているのが、私有財産の完全な廃止です。島にある土地、家屋、そして生産された全ての物品は、国家の共有財産です。人々は、貨幣を一切使用せず、金銭的な報酬のために働くことはありません。
全ての市民は、必要な物資を、各地区に設置された共同の市場(倉庫)から、何の対価も支払うことなく自由に受け取ることができます。そこにはあらゆる種類の商品が豊富に蓄えられており、各家庭の家長が必要なものを申告すれば、すぐに供給されます。ヒュトロダエウスは、なぜこのようなことが可能なのかと訝る人々に対して、その理由を説明します。ユートピアでは、全ての人が働いているため、生産物の量がそもそも潤沢であること。そして、人々は必要以上のものを求めるという貪欲さを持たないため、供給が需要を上回ることがないのです。私有財産が存在しない社会では、将来への不安から富を蓄え込む必要がなく、また他人より多くのものを持つことで虚栄心を満たす必要もないからです。
この経済システムを支えているのが、全国民に課せられた労働の義務です。貴族、聖職者、あるいは物乞いといった、何も生産しない遊民階級はユートピアには存在しません。健康な男女は全員、何らかの労働に従事します。ただし、その労働時間は一日わずか六時間(午前三時間、午後三時間)に制限されています。これは、ヨーロッパの労働者が、一部の遊民を養うために、一日中働きづめであるのとは対照的です。ユートピアでは、労働は生活に必要な物資を生産するための手段であり、人生の目的ではありません。
労働の内容は、大きく分けて二つあります。一つは農業で、これは全ての市民が例外なく経験しなければならないものです。人々は、都市と農村の間を二年交代で移動し、一定期間、農作業に従事します。これにより、食料の安定供給が確保されると同時に、誰もが自然に親しみ、肉体を鍛える機会を得ることができます。もう一つは、各自が選択する専門的な手工業です。羊毛加工、亜麻布織り、石工、大工、金属加工など、様々な職種があり、人々は通常、親の職業を継ぐことが多いですが、本人が希望すれば他の職業に移ることも可能です。
労働以外の時間は、個人の自由な裁量に委ねられますが、単なる怠惰や、賭博のような不道徳な娯楽にふけることは許されません。多くの人々は、この余暇を、知的な探求のために用います。早朝から公開講座が開かれ、多くの市民が自発的に参加して、様々な学問を学びます。ユートピア人は、知的な活動にこそ、人間にとっての真の喜びがあると考えているのです。
社会生活=家族=都市計画

ユートピアの社会構造は、徹底した均一性と合理性によって特徴づけられます。島には54の都市があり、その全てが同じ言語、慣習、法律を共有しています。首都であるアマウロトゥムを例にとると、都市は正方形の形をしており、厚い城壁で囲まれています。街路は広く、整然と区画整理されており、三階建ての家々が整然と立ち並んでいます。家には鍵がかけられておらず、誰でも自由に出入りすることができます。そして、十年ごとにくじ引きで家を交換するという習慣があり、人々が特定の家屋に対して所有意識を持つことを防いでいます。
社会の基本単位は「家族」ですが、その構成は血縁よりも、むしろ古代ローマの家族(ファミリア)に近い、家父長制的な共同体です。各家族は、10人から16人の成人で構成されるように調整され、子供が多すぎる家族から、少ない家族へと養子に出されることもあります。この家族制度は、社会の安定を維持するための管理単位として機能しています。
食事は、各地区に設けられた共同の食堂で、全員が一緒に摂ることが原則とされています。もちろん、各家庭で食事をすることも禁じられてはいませんが、共同食堂の食事が質・量ともに優れており、準備の手間もかからないため、ほとんどの人が共同で食事をします。この共同食事は、単に食事を摂る場であるだけでなく、コミュニティの連帯感を育み、長老が若者を教育する場としても機能しています。
服装もまた、質素で均一です。人々は、男女、既婚・未婚の区別を示す以外は、皆同じ形の、自然な色の羊毛や亜麻で作られた衣服を身につけています。流行を追ったり、高価な衣服で飾り立てたりすることは、愚かな虚栄心の発露として軽蔑されます。
旅行は、原則として自由ではありません。ある市民が他の都市を訪れたい場合は、所属する共同体の長から許可証を得なければなりません。許可なく自分の地区の外をうろついている者は、逃亡者として捕らえられ、厳しく罰せられます。これは、社会の秩序を維持し、人々が労働の義務から逃れることを防ぐための措置です。
政治=法律=統治

ユートピアの政治体制は、一種の共和制、あるいは代議制に基づいています。最も基礎的な選挙単位は、30世帯の集まりです。この集まりは、毎年一人の代表者を選出します。この代表者は、かつては「シュフォグラントゥス」と呼ばれていましたが、現在は「フィラルク」と呼ばれています。
次に、十人のフィラルクとその管轄下の300世帯の上に、一人の上位の代表者が置かれます。これはかつて「トラニボルス」と呼ばれ、現在は「プロトフィラルク」と呼ばれています。島の全てのフィラルク、総勢200人が秘密投票によって、四人の候補者の中から終身任期の元首(プリンケプス)を選出します。ただし、元首も専制君主になる兆候を見せた場合は、解任される可能性があります。
国家の重要な事柄は、元首とプロトフィラルクたちで構成される評議会で決定されます。しかし、特に重要な問題については、各都市のフィラルクたちが市民の意見を聞き、それを評議会に報告した上で、最終的な決定が下されます。評議会の外で公の問題について密議することは、死罪に値する重罪とされています。これは、元首と一部の者が共謀して、民衆を抑圧する専制政治に陥ることを防ぐための仕組みです。
ユートピアの法律は、非常に数が少なく、単純明快です。これは、法律が多すぎて複雑になると、一般市民には理解できなくなり、法律家という専門家階級がそれを悪用して利益を得ることになると考えられているためです。ユートピアでは、誰もが法律を理解し、自分の権利を自分で主張できるべきだとされています。そのため、巧妙な解釈で人々を惑わす弁護士という職業は、島から完全に追放されています。
哲学=幸福論=倫理

ユートピア人は、学問を愛し、特に倫理学の探求に情熱を注ぎます。彼らの哲学の中心的な問いは、「人間の幸福とは何か」という点にあります。彼らは、人間の幸福は「快楽」にあると結論づけます。ただし、彼らが言う快楽とは、単なる肉体的な、瞬間的な快楽ではありません。
彼らは、快楽を「真の快楽」と「偽の快楽」に区別します。偽の快楽とは、高価な衣服を身につけること、不必要な称号で呼ばれること、賭博に興じること、あるいは狩猟のように、無益な殺戮から得られる喜びなどです。これらは、理性に反する誤った観念から生じるものであり、真の幸福をもたらすものではないと彼らは考えます。
一方、真の快楽は、身体の快楽と精神の快楽に分けられます。身体の快楽とは、健康な状態そのものから生じる静かな喜びや、食事や休息によって身体の欲求が満たされることから生じる活動的な喜びです。しかし、ユートピア人がより高く評価するのは、精神の快楽です。それは、知的な探求から得られる喜びや、徳のある行いを実践し、正しい良心を持つことから生まれる喜びです。彼らにとって、最高の幸福とは、精神的な平静と、身体的な健康が両立した状態なのです。
この快楽主義的な倫理は、宗教的な信仰によって支えられています。ユートピア人は、魂は不滅であり、神は来世において、徳のある人生を送った者には報いを与え、悪しき行いをした者には罰を与えると信じています。この信仰があるからこそ、人々は目先の快楽に惑わされず、理性に従って徳のある行動を選択することができるのです。彼らの哲学は、古代ギリシャのエピクロス主義とストア主義、そしてキリスト教の教えが融合したような、独特の性格を持っています。
戦争と宗教

ユートピア人は、戦争を、人間よりも獣にふさわしい、野蛮で忌まわしい行為だと考えており、栄光を求めて戦争を始めることを決してしません。しかし、彼らは平和主義者というわけではなく、いくつかの正当な理由がある場合には、戦争を行うこともあります。その理由とは、自国の領土を防衛するため、侵略された同盟国を助けるため、あるいは、圧政に苦しむ人々を解放するためです。
戦争を行う際には、彼らは極めて現実的で、冷徹とも言えるほどの合理性を発揮します。彼らが最も重視するのは、自国民の命の損失を最小限に抑えることです。そのため、彼らはできる限り自国民を戦闘に参加させず、代わりに莫大な金銀を使って、ザポレテ人として知られる野蛮で好戦的な傭兵部隊を雇います。
さらに彼らは、敵国に密偵を送り込み、敵の指導者や将軍の暗殺を試みたり、高額の懸賞金をかけて、彼らを殺害または捕縛した者に報いることを約束したりします。また、敵国の有力者を買収して、内部から反乱を起こさせることも厭いません。これらの手段は、ヨーロッパの騎士道精神から見れば卑劣極まりないものですが、ユートピア人にとっては、一人の悪人を殺すことで、多くの罪のない人々の命が救われるのであれば、それは賢明で慈悲深い行為なのです。
宗教に関しては、ユートピアは驚くほどの寛容さを特徴としています。島には様々な宗派が存在し、太陽を崇拝する者、月を崇拝する者、あるいは偉大な英雄を神として崇める者などがいます。しかし、大多数の人々は、宇宙を創造し、支配する、不可知で超越的な唯一の神の存在を信じています。この神を、彼らは「ミトラ」と呼んでいます。
建国者ユートパス王は、宗教が社会的な対立の原因となることを見抜き、各人が自らの信じる宗教を自由に信仰することを法で定めました。ただし、二つのことだけは禁じられています。一つは、無神論、すなわち神の存在や摂理を否定すること。もう一つは、人間の魂は肉体と共に滅びると主張することです。これらの思想は、社会の道徳的基盤を破壊し、人々を恐怖や法による以外の抑制から解放してしまうため、危険だと考えられています。これらの思想を持つ者は、市民としての権利を剥奪されますが、意見を表明しない限り、それ以上の罰を受けることはありません。
また、自分の宗教が唯一絶対であると信じ、他の宗教を暴力的な言葉で攻撃することも禁じられています。改宗は、穏やかで理性的な説得によってのみ行われるべきだとされています。ヒュトロダエウス一行がキリスト教について語った際、多くのユートピア人が、その教えが自分たちの信条と多くの点で一致し、特に財産の共有を実践した初期教会の姿に感銘を受けて、自発的に改宗したと語られます。
このように、ユートピアの社会は、私有財産の廃止という根本的な原則の上に築かれた、徹底して合理的で、均質で、そして高度に管理されたシステムです。それは、16世紀ヨーロッパの不正義と無秩序に対する、一つの壮大なアンチテーゼとして提示されているのです。
解釈の多様性=ユートピアの謎

トマス=モアの『ユートピア』が、なぜこれほどまでに長く、多くの人々を惹きつけ、そして混乱させてきたのか。その最大の理由は、この作品が持つ根本的な多義性、すなわち、著者の真意が何であったのかが、極めて捉え難いという点にあります。ユートピア島は、モアが本気で実現を望んだ理想社会の青写真だったのでしょうか。それとも、単なる知的な遊びや、現実社会を風刺するための文学的な装置に過ぎなかったのでしょうか。あるいは、そこにはさらに深い、隠されたメッセージが込められていたのでしょうか。ここでは、代表的な解釈の可能性を探っていきます。
理想社会の青写真としてのユートピア

最も直接的で、歴史的にも影響力の大きかった解釈は、『ユートピア』を、モアが構想した理想的な共産主義社会のモデルと見なすものです。この見方に立てば、第一部で展開されるヨーロッパ社会への痛烈な批判は、モア自身の真摯な社会改革への情熱の表れであり、第二部で描かれるユートピアは、その問題を解決するための具体的な処方箋ということになります。
特に、私有財産をあらゆる社会悪の根源と断じ、財産の共有こそが正義と幸福への唯一の道であると主張するヒュトロダエウスの言葉は、非常に力強く、説得力を持って響きます。囲い込み運動によって土地を追われた農民たちの悲惨な状況を憂い、富める者と貧しい者の間の絶望的な格差に心を痛めていた人文主義者モアが、財産の共有というラディカルな解決策に、真剣な魅力を感じていたとしても不思議ではありません。
この解釈は、19世紀以降の社会主義・共産主義思想家たちに大きな影響を与えました。カール=カウツキーのようなマルクス主義者たちは、モアを近代社会主義の先駆者と位置づけ、『ユートピア』を、資本主義の初期段階における搾取に対する、天才的な批判の書として高く評価しました。彼らにとって、ユートピアは、階級対立のない、合理的に計画された未来社会の、最初の輝かしいヴィジョンだったのです。
しかし、この解釈にはいくつかの困難な点が伴います。まず、著者であるモア自身が、物語の最後で、ユートピアの制度、特に私有財産の廃止には同意できないと明言していることです。また、モア自身の生涯を振り返っても、彼は成功した法律家であり、大法官として広大な土地と富を管理する立場にありました。彼が本気で私有財産の廃止を望んでいたと考えるのは、彼の実際の人生と矛盾するように見えます。
風刺と知的な遊びとしてのユートピア

前述の解釈とは正反対に、『ユートピア』は深刻な政治的プログラムなどではなく、むしろルキアノス風の風刺文学の伝統に連なる、 知的なゲームであったと見る解釈も有力です。この見方によれば、モアの主たる目的は、理想郷の青写真を示すことではなく、ユートピアというあり得ない社会の姿を鏡として、現実社会の愚かさや不条理を浮き彫りにすることにありました。
この解釈の根拠は、作品の随所に散りばめられた言葉遊びや皮肉なユーモアに求められます。そもそも「ユートピア」という名前自体が「どこにもない場所」を意味する言葉遊びです。首都「アマウロトゥム」は「おぼろげな都市」、その川「アニュドルス」は「水のない川」を意味します。そして、物語の語り手である「ヒュトロダエウス」は「戯言の専門家」です。これらの名前は、読者に対して、この物語を文字通りに受け取ってはいけないという警告を発しているかのようです。
また、ユートピアの制度の中には、明らかに非現実的で、滑稽でさえあるものが含まれています。例えば、金や銀で便器や奴隷の足かせを作るという習慣は、ヨーロッパ社会の金銭崇拝を痛烈に風刺するものではありますが、現実的な提案とは到底思えません。十年ごとに家を交換するという制度も同様です。
さらに、ユートピア社会が持つ息苦しいほどの画一性、個人の自由の欠如、厳格な管理体制といった側面を強調し、モアはユートピアを理想郷としてではなく、むしろ理性を突き詰めた結果として現れる、非人間的なディストピア(暗黒郷)の危険性を警告していたのだ、と主張する研究者もいます。この観点からは、ユートピアは賞賛すべきモデルではなく、避けるべき罠として描かれていることになります。人々は物質的には豊かかもしれませんが、それは個人の自発性や多様性を犠牲にした上での豊かさであり、真に人間的な幸福とは言えない、というわけです。
キリスト教的人文主義の寓話としてのユートピア

第三の解釈として、モアの深いキリスト教信仰と人文主義者としての素養に着目し、『ユートピア』を宗教的・倫理的な寓話として読み解く視点があります。この解釈によれば、ユートピアは、異教徒(キリスト教を知らない人々)が、理性と自然法だけを頼りにして到達しうる、最高の社会の姿を描いたものです。
ユートピア人は、勤勉、節制、共同体への奉仕といった徳を重んじ、虚栄や怠惰、貪欲といった悪徳を軽蔑します。彼らの社会は、プラトンの『国家』や、初期キリスト教会の使徒たちの共同生活、そしてモアが青年期に憧れた修道院の生活など、様々な理想的な共同体のイメージが重ね合わされています。彼らは、キリストの啓示を知らずとも、理性によって、キリスト教の教えに非常に近い倫理的な結論に到達しているのです。
この観点から見ると、モアのメッセージは二重の意味を持ちます。一つは、当時のキリスト教徒に対する痛烈な批判です。神の啓示を与えられながら、争いや貪欲、不正義に満ちた生活を送っているヨーロッパのキリスト教徒たちは、キリストを知らないはずのユートピア人よりも、はるかに劣った状態にあるのではないか。ユートピア人の徳の高い生活は、堕落したキリスト教社会を映し出す鏡として機能します。
もう一つのメッセージは、理性の限界を示すことです。ユートピアは、理性の力だけで到達できる最高の社会かもしれませんが、それは完璧ではありません。彼らの社会には、奴隷制度が存在し、戦争においては非情な手段も用います。彼らの幸福論は、来世での報いを前提としており、信仰なしには成り立ちません。モアは、理性は人間を高いレベルにまで引き上げることができるが、最終的な救済と真の幸福は、キリスト教の信仰と神の恩寵によってのみもたらされる、ということを示唆しているのかもしれません。ヒュトロダエウスがキリスト教を伝えた際に、多くのユートピア人が喜んでそれを受け入れたというエピソードは、彼らの理性が、信仰を受け入れるための準備段階として機能したことを示していると解釈できます。
結局のところ、これらの解釈は互いに排他的なものではなく、むしろ『ユートピア』という作品の豊かさを構成する、異なる側面を照らし出していると言えるでしょう。モアは、深刻な社会改革への提案、 知的な文学的ゲーム、そして深い宗教的寓意を、一つの作品の中に意図的に織り込んだのかもしれません。
Tunagari_title
・『ユートピア』とは わかりやすい世界史用語2514

Related_title
もっと見る 

Keyword_title

Reference_title
『世界史B 用語集』 山川出版社

この科目でよく読まれている関連書籍

このテキストを評価してください。

※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。

 

テキストの詳細
 閲覧数 267 pt 
 役に立った数 0 pt 
 う〜ん数 0 pt 
 マイリスト数 0 pt 

知りたいことを検索!

まとめ
このテキストのまとめは存在しません。