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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / ルネサンス

メディチ家とは わかりやすい世界史用語2487

著者名: ピアソラ
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メディチ家とは

メディチ家は、イタリアのルネサンス期にフィレンツェで絶大な権力と富を築き上げた一族です。その歴史は、一介の金融業者から始まり、やがてフィレンツェ共和国の事実上の支配者となり、さらには教皇やフランス王妃を輩出するまでに至りました。彼らの影響力は、政治、経済、宗教、そして芸術のあらゆる分野に及び、その庇護のもとでルネサンス文化は爛熟の時を迎えました。メディチ家の物語は、野心、権力闘争、陰謀、そして芸術への深い愛情が織りなす壮大な叙事詩であり、ヨーロッパ史における最も魅力的な一章を形成しています。
黎明期:金融業による台頭

メディチ家の起源は、12世紀頃のフィレンツェ近郊のムジェッロ地方に遡るとされています。当初は農業を営む一族であったと考えられていますが、13世紀にはフィレンツェ市内に移り住み、商業や金融業に手を染めるようになりました。当時のフィレンツェは、毛織物工業と国際金融の中心地として急速に発展しており、多くの人々が富を求めて集まる活気あふれる都市でした。メディチ家もまた、この時代の波に乗り、徐々にその頭角を現していきます。
ジョヴァンニ=ディ=ビッチ:メディチ銀行の礎

メディチ家がフィレンツェの歴史において確固たる地位を築くための礎を築いたのは、ジョヴァンニ=ディ=ビッチ=デ=メディチ(1360-1429)です。彼は、一族の運命を決定づけることになるメディチ銀行を創設し、その驚異的な成功によって莫大な富を蓄積しました。ジョヴァンニは、単なる金貸しではなく、鋭い洞察力と慎重さを兼ね備えた優れた銀行家でした。彼は、リスクの高い投機には手を出さず、堅実な経営方針を貫きました。
彼の経営手腕の中でも特筆すべきは、国際的な為替取引と多角的な事業展開です。当時のヨーロッパでは、異なる通貨が流通しており、国際貿易を行う商人たちにとって為替取引は不可欠でした。メディチ銀行は、ヨーロッパ各地に支店網を張り巡らせ、この為替取引を巧みに行うことで莫大な利益を上げました。さらに、ジョヴァンニは、教皇庁との関係を深めることに成功します。彼は、対立教皇ヨハネス23世の財政顧問となり、教皇庁の公金を取り扱う権利を得ました。これは、メディチ銀行にとって画期的な出来事でした。教皇庁は、ヨーロッパ全土から集まる十分の一税や贖宥状の収益など、莫大な資金を管理しており、その金融業務を独占的に請け負うことは、銀行に計り知れない利益と信用をもたらしました。
ジョヴァンニは、政治の表舞台に立つことを好まず、あくまで一市民としての立場を貫きました。しかし、その経済力はフィレンツェの政治に無視できない影響力を持つようになります。彼は、民衆の支持を得るために、富裕層に有利な税制に反対し、より公平なカタルコ税の導入を支持するなど、巧みな政治的立ち回りを見せました。また、彼は芸術のパトロンとしても活動を始め、ブルネレスキによるサン=ロレンツォ聖堂の再建事業に出資するなど、後のメディチ家による壮大な芸術庇護活動の先駆けとなりました。ジョヴァンニ=ディ=ビッチの築いた富と信用、そして慎重かつ巧みな政治戦略は、彼の息子であるコジモ=イル=ヴェッキオに引き継がれ、メディチ家がフィレンツェの支配者へと駆け上がるための強固な基盤となったのです。
黄金時代:フィレンツェの支配者として

ジョヴァンニ=ディ=ビッチが築いた礎の上に、メディチ家はその権力を飛躍的に増大させ、フィレンツェの黄金時代を現出させました。コジモ=イル=ヴェッキオからロレンツォ=イル=マニフィコに至る時代は、メディチ家の影響力が頂点に達し、フィレンツェがルネサンス文化の中心地として輝いた時代です。
コジモ=イル=ヴェッキオ:「祖国の父」

コジモ=ディ=ジョヴァンニ=デ=メディチ(1389-1464)、通称コジモ=イル=ヴェッキオ(長老コジモ)は、父ジョヴァンニの事業と政治的遺産を受け継ぎ、メディチ家をフィレンツェの事実上の支配者の地位に押し上げた人物です。彼は、父と同様に表向きは一市民として振る舞い、公的な役職に就くことを避けましたが、その莫大な富と巧みな人脈操作によって、フィレンツェの政治を裏から操りました。
コジモの政治手法は、非常に巧妙かつ周到なものでした。彼は、メディチ銀行の顧客や支援者たちをフィレンツェ政府の要職に就かせることで、間接的に市政をコントロールしました。彼の支持者たちは、選挙制度を操作し、メディチ家に都合の良い人物が選出されるように仕向けました。このような非公式な支配体制は、共和制の体裁を保ちつつ、実質的な君主制を実現するものであり、後のメディチ家の支配の原型となりました。
しかし、コジモの権力拡大は、アルバッツィ家をはじめとするフィレンツェの旧来の有力貴族たちの反発を招きました。1433年、アルバッツィ家の策謀により、コジモは国家反逆罪の容疑で逮捕され、フィレンツェから追放されます。しかし、この追放はコジモにとって致命的な打撃とはなりませんでした。彼は、追放先のヴェネツィアでもメディチ銀行の強大な経済力を背景に影響力を保ち続け、一方でフィレンツェではメディチ家を支持する民衆や商人たちの不満が高まりました。結局、わずか1年後の1434年、コジモは民衆の熱狂的な歓迎を受けてフィレンツェに帰還し、政敵であったアルバッツィ家を追放して、名実ともにフィレンツェの最高権力者となりました。
コジモは、単なる権力者ではありませんでした。彼は、深い教養と芸術への理解を持つ、ルネサンス期を代表する文化人でもありました。彼は、プラトン哲学に深い関心を寄せ、マルシリオ=フィチーノにプラトン=アカデミーを設立させ、古代ギリシャ哲学の研究を奨励しました。このアカデミーは、ルネサンス期の人文主義思想の発展に大きく貢献しました。
また、コジモは史上最も偉大な芸術パトロンの一人として知られています。彼は、建築家のブルネレスキやミケロッツォ、彫刻家のドナテッロ、画家のフラ=アンジェリコなど、当代一流の芸術家たちを庇護し、数多くの傑作を生み出しました。彼が建設を命じたメディチ=リッカルディ宮殿やサン=マルコ修道院は、ルネサンス建築の傑作として知られています。特に、ブルネレスキによるフィレンツェ大聖堂の巨大なクーポラ(円蓋)の建設は、コジモの支援なくしては成し遂げられなかった壮大な事業であり、ルネサンスの技術と芸術の象徴となりました。コジモの芸術庇護は、単なる趣味や道楽ではなく、メディチ家の権威と名声を高め、フィレンツェ市民の支持を得るための高度な政治的戦略でもありました。彼は、芸術を通じてフィレンツェの街を美しく飾り、市民に誇りを与えることで、自らの支配を正当化したのです。その偉大な功績から、彼は死後、「祖国の父」(Pater Patriae)の称号を贈られました。
ピエロ=イル=ゴットーゾ:「痛風病み」の苦難

コジモの死後、メディチ家の家督は息子のピエロ=ディ=コジモ=デ=メディチ(1416-1469)が継ぎました。ピエロは「イル=ゴットーゾ」(痛風病み)というあだ名が示す通り、生涯を通じて深刻な痛風に苦しめられ、政治の表舞台で活躍する機会は限られていました。彼の治世はわずか5年間と短く、父コジモのようなカリスマ性や政治的手腕には恵まれませんでした。
ピエロの治世は、メディチ家の支配に対する反発が再び表面化した困難な時代でした。父コジモが築いた非公式な支配体制は、彼の個人的な権威と人脈に大きく依存していたため、ピエロが家督を継ぐと、その体制は揺らぎ始めました。特に、ピエロが父の代からの融資を厳しく取り立てようとしたことは、多くの商人や貴族たちの反感を買い、反メディチ派の結集を促しました。
1466年、ルカ=ピッティやディエティサルヴィ=ネローニといった有力者たちが、ピエロを打倒するためのクーデターを計画します。しかし、ピエロは病身をおして迅速に行動し、息子のロレンツォの助けも得て、この陰謀を未然に防ぐことに成功しました。彼は、政敵に対して比較的寛大な処置をとりましたが、この事件はメディチ家の支配が盤石ではないことを示すものでした。
政治的には困難な状況にありましたが、ピエロもまた、父と同様に優れた芸術の目利きであり、熱心なパトロンでした。彼は、ドナテッロやアンドレア=デル=ヴェロッキオ、サンドロ=ボッティチェリといった芸術家たちを支援し、特に精緻で豪華な写本やタペストリーの収集に情熱を注ぎました。ベノッツォ=ゴッツォリがメディチ=リッカルディ宮殿の礼拝堂に描いた「東方三博士の旅」は、ピエロの依頼によるものであり、その行列の中にはメディチ家の人々の肖像が描かれています。この壁画は、メディチ家の栄光と権威を華やかに描き出した傑作として知られています。ピエロの治世は短く、困難なものでしたが、彼はメディチ家の芸術庇護の伝統を守り、次代のロレンツォ=イル=マニフィコへと引き継ぐ重要な役割を果たしました。
ロレンツォ=イル=マニフィコ:「偉大なるロレンツォ」

ピエロの息子であるロレンツォ=デ=メディチ(1449-1492)は、「イル=マニフィコ」(偉大なる、豪華なる)という称号で知られ、メディチ家の中でも最も有名で、ルネサンス期を象徴する人物です。彼は、祖父コジモのような慎重な銀行家でも、父ピエロのような病弱な当主でもなく、カリスマ的な魅力と外交手腕、そして芸術への情熱を兼ね備えた、まさにルネサンス君主と呼ぶにふさわしい人物でした。
ロレンツォは、わずか20歳でメディチ家の家督を継ぎ、フィレンツェの指導者となりました。彼は、祖父や父と同様に、公式な役職には就かず、一市民として振る舞いましたが、その影響力は絶大であり、フィレンツェの政治、外交、文化のすべてをその手に掌握していました。彼の治世は、フィレンツェがルネサンス文化の頂点を極めた時代であり、彼の宮廷には、ボッティチェリ、レオナルド=ダ=ヴィンチ、ミケランジェロといった天才たちが集い、その才能を競い合いました。
しかし、ロレンツォの治世は決して平穏なものではありませんでした。彼の権力と影響力の増大は、フィレンツェ内外の敵対勢力からの強い反発を招きました。その最も劇的な事件が、1478年に起こった「パッツィ家の陰謀」です。これは、メディチ家と対立していたフィレンツェの有力銀行家であるパッツィ家が、教皇シクストゥス4世の支援を受けて、ロレンツォとその弟ジュリアーノの暗殺を企てた事件です。復活祭のミサの最中にフィレンツェ大聖堂で実行されたこの襲撃で、弟ジュリアーノは命を落としましたが、ロレンツォは奇跡的に難を逃れました。この事件は、フィレンツェ市民のメディチ家への同情と支持を一層強固なものにし、ロレンツォはパッツィ家とその共謀者たちを徹底的に粛清して、自らの権力基盤を盤石なものとしました。
この陰謀の後、教皇シクストゥス4世はフィレンツェに宣戦を布告し、ナポリ王国との同盟軍を送り込みました。フィレンツェは絶体絶命の危機に陥りましたが、ロレンツォは驚くべき外交手腕を発揮します。彼は、単身で敵国であるナポリに乗り込み、ナポリ王フェルディナンド1世と直接交渉し、巧みな説得によって和平条約を締結させることに成功しました。この大胆な行動は、ロレンツォの名声をイタリア全土に轟かせ、「イタリアの天秤」と称されるほどの外交的指導者としての地位を確立しました。彼は、イタリアの諸国家間の勢力均衡を維持することに努め、その存在がイタリア半島の平和を保つ重しとなっていました。
ロレンツォの最大の功績は、やはりその比類なき芸術庇護にあります。彼は、単に資金を提供するパトロンではなく、芸術家たちの才能を見出し、彼らと親しく交流し、その創作活動にインスピレーションを与える指導者でした。彼は、若きミケランジェロの才能をいち早く見抜き、自らの邸宅に住まわせて、古代彫刻のコレクションを学ばせました。また、サンドロ=ボッティチェリに「春(プリマヴェーラ)」や「ヴィーナスの誕生」といった神話画の傑作を制作させたのもロレンツォです。彼の宮廷は、詩人、哲学者、音楽家たちが集う文化サロンであり、ルネサンスの人間中心主義的な思想が花開く舞台となりました。
しかし、ロレンツォは芸術と外交に情熱を注ぐあまり、家業であるメディチ銀行の経営を疎かにしました。彼の代になると、銀行の経営は悪化し、いくつかの支店が閉鎖に追い込まれました。また、彼の華やかな宮廷生活や大規模な芸術庇護は、莫大な費用を必要とし、フィレンツェの財政を圧迫しました。ロレンツォ=イル=マニフィコの治世は、メディチ家の栄光の頂点であると同時に、その後の衰退の兆しが見え始めた時代でもあったのです。1492年の彼の死は、フィレンツェの黄金時代の終わりを告げるものであり、彼が維持していたイタリアの勢力均衡は崩壊し、イタリア戦争の時代へと突入していくことになります。
混乱と復活:追放から教皇庁へ

ロレンツォ=イル=マニフィコの死は、メディチ家とフィレンツェにとって大きな転換点となりました。彼が巧みに維持していた権力とイタリア半島の平和は、もろくも崩れ去り、メディチ家は追放という苦難の時代を迎えます。しかし、一族は不屈の精神でこの危機を乗り越え、教皇庁という新たな権力の舞台で復活を遂げることになります。
ピエロ=イル=ファトゥオとサヴォナローラの時代

ロレンツォの跡を継いだのは、長男のピエロ=ディ=ロレンツォ=デ=メディチ(1472-1503)でした。しかし、彼は父のような政治的手腕やカリスマ性には恵まれず、その傲慢で軽率な性格から「イル=ファトゥオ」(愚か者)あるいは「不運な者」と呼ばれました。彼の治世は、メディチ家の支配に対する不満が爆発するきっかけとなりました。
決定的な出来事は、1494年にフランス王シャルル8世がナポリ王国の王位継承権を主張してイタリアに侵攻したことです。フランス軍がフィレンツェ領に迫ると、ピエロは十分な抵抗もせず、独断でフランス王に屈辱的な降伏をし、ピサなどの重要都市を割譲してしまいました。この弱腰な対応は、フィレンツェ市民の怒りを買い、メディチ家打倒の気運が一気に高まりました。ピエロとその一族は、市民の暴動を恐れてフィレンツェから逃亡し、メディチ家は60年ぶりにその支配の座から追われることになりました。
メディチ家が追放された後のフィレンツェで、新たな指導者として登場したのが、ドミニコ会修道士のジロラモ=サヴォナローラです。サヴォナローラは、終末論的な預言と、教会や社会の腐敗に対する激しい批判で、多くの市民の心を捉えました。彼は、メディチ家の豪華な宮廷文化や、ルネサンスの人間中心主義的な思想を異教的で堕落したものとして非難し、厳格な道徳に基づく神政政治の実現を訴えました。彼の指導のもと、フィレンツェでは「虚飾の焼却」と呼ばれる出来事が起こり、多くの美術品、書物、奢侈品が広場で燃やされました。
しかし、サヴォナローラの過激な改革と、教皇アレクサンデル6世との対立は、次第に市民の支持を失わせました。彼の預言が実現せず、経済的な混乱が続くと、人々は彼の支配に疑問を抱き始めます。最終的に、1498年、サヴォナローラは教皇から破門され、異端者として逮捕され、シニョリーア広場で火刑に処せられました。サヴォナローラの短い支配は、フィレンツェに深い傷跡を残しましたが、同時に、メディチ家の支配がいかにフィレンツェの安定と繁栄に寄与していたかを人々に再認識させる結果ともなりました。
教皇レオ10世とクレメンス7世:ローマでの栄光

フィレンツェから追放されたメディチ家は、雌伏の時を過ごしていましたが、その運命を劇的に好転させる出来事が起こります。ロレンツォ=イル=マニフィコの次男であるジョヴァンニ=デ=メディチが、1513年に教皇に選出され、レオ10世(在位1513-1521)となったのです。これは、メディチ家にとって最大の勝利であり、一族の権力がフィレンツェという一都市の枠を超え、ヨーロッパ全土に及ぶことを意味しました。
レオ10世は、父ロレンツォと同様に、洗練された教養と芸術への深い愛情を持つ人物でした。彼の治世下で、ローマはルネサンス文化の中心地としてフィレンツェに取って代わりました。彼は、ラファエロやミケランジェロといった巨匠たちを庇護し、ヴァチカンの壮大な装飾事業やサン=ピエトロ大聖堂の改築を推進しました。彼の宮廷は、豪華な祝祭や饗宴で知られ、ローマはかつてないほどの華やかさに包まれました。
政治的には、レオ10世はメディチ家の利益を最優先に考え、フィレンツェにおける一族の支配を復活させることに成功します。1512年、教皇軍の支援を受けたメディチ家はフィレンツェに帰還し、共和制は事実上崩壊しました。また、彼は甥のロレンツォ(ロレンツォ=イル=マニフィコの孫)をウルビーノ公に叙任するなど、一族の勢力拡大に努めました。
しかし、レオ10世の豪華な生活と大規模な建設事業は、教皇庁の財政を深刻に圧迫しました。この財政難を補うために、彼はドイツでの贖宥状(免罪符)の販売を大々的に許可します。これが、マルティン=ルターによる「95か条の論題」の発表を引き起こし、宗教改革というヨーロッパ史を揺るがす大事件の直接的な引き金となりました。レオ10世は、当初この動きを軽視していましたが、事態は彼の予想を超えて深刻化し、キリスト教世界の分裂という、彼の意図とは全く異なる結果を生み出してしまいました。
レオ10世の死後、しばらくの断絶を経て、1523年に再びメディチ家から教皇が誕生します。ロレンツォ=イル=マニフィコの弟ジュリアーノの庶子であったジュリオ=デ=メディチが、クレメンス7世(在位1523-1534)として即位したのです。しかし、彼の治世は、レオ10世の時代とは対照的に、苦難と災厄に満ちたものでした。
クレメンス7世は、フランス王フランソワ1世と神聖ローマ皇帝カール5世という二大強国の間で揺れ動くイタリアの複雑な政治状況の中で、優柔不断な外交政策に終始しました。彼は、当初皇帝カール5世と結んでいましたが、後にフランス側に寝返ります。この裏切りに激怒したカール5世は、1527年に報復として軍隊をローマに派遣しました。この軍隊には、給料の支払いが滞っていたドイツ人傭兵(ランツクネヒト)が多く含まれており、彼らは統制を失ってローマ市内で略奪、暴行、破壊の限りを尽くしました。これが「ローマ劫掠」として知られる悲劇です。この事件により、ルネサンス文化の中心地であったローマは徹底的に破壊され、多くの芸術家や文化人がローマを去りました。クレメンス7世自身も、サンタンジェロ城に幽閉されるという屈辱を味わいました。
ローマ劫掠の混乱に乗じて、フィレンツェでは再び共和制が復活し、メディチ家は三度目の追放を経験します。しかし、クレメンス7世は皇帝カール5世と和解し、その支援を取り付けることに成功します。皇帝軍の包囲攻撃の末、1530年にフィレンツェは降伏し、メディチ家の支配が恒久的に確立されることになりました。クレメンス7世は、自らの一族であるアレッサンドロ=デ=メディチを初代フィレンツェ公に任命し、フィレンツェ共和制の歴史に終止符を打ちました。また、彼はイギリス王ヘンリー8世の離婚問題を巡って対立し、結果としてイギリス国教会がローマ=カトリック教会から分離するという、もう一つの教会分裂を引き起こしました。クレメンス7世の治世は、メディチ家が教皇という最高の権威を手に入れながらも、その権威が大きく揺らぎ、ヨーロッパが新たな時代へと突入していく過渡期を象徴しています。
大公国時代:絶対君主としての支配

教皇クレメンス7世と神聖ローマ皇帝カール5世の和解により、フィレンツェにおけるメディチ家の支配は、もはや非公式なものではなく、世襲の君主制として確立されました。これにより、フィレンツェ共和国の歴史は終わりを告げ、トスカーナ大公国の時代が始まります。この時代、メディチ家は絶対君主としてトスカーナ地方を統治し、その権力は揺るぎないものとなりました。
コジモ1世:トスカーナ大公国の創設者

メディチ家による公国の基礎を築き、絶対君主としての支配体制を確立したのが、コジモ1世=デ=メディチ(1519-1574)です。彼は、メディチ本家(コジモ=イル=ヴェッキオの直系)ではなく、分家の出身でした。1537年、初代フィレンツェ公アレッサンドロが暗殺されると、後継者不在の混乱の中で、わずか17歳のコジモが権力の座に就きました。当初、フィレンツェの有力者たちは、若く経験の浅い彼を傀儡として操ろうとしましたが、コジモは彼らの予想を裏切り、冷徹かつ有能な君主としての資質を発揮します。
コジモ1世は、まず権力基盤を固めるために、メディチ家に敵対する勢力を容赦なく弾圧しました。彼は、フランスの支援を受けた亡命フィレンツェ人たちの軍隊をモンテムルロの戦いで打ち破り、反対派を完全に沈黙させました。そして、彼はフィレンツェの伝統的な共和制の機関を次々と骨抜きにし、権力を自らの手に集中させていきました。彼は、有能な官僚機構を整備し、効率的な行政システムを構築しました。また、常備軍を創設し、海軍を強化してリヴォルノ港を整備するなど、軍事力と経済力の両面で国家の基盤を強化しました。
彼の最大の功績の一つは、長年の宿敵であったシエナ共和国を征服し、トスカーナ地方の大部分を統一したことです。この功績により、1569年、彼は教皇ピウス5世から「トスカーナ大公」の称号を授与され、ここにトスカーナ大公国が正式に誕生しました。
コジモ1世は、政治=軍事面だけでなく、文化政策においても大きな足跡を残しました。彼は、メディチ家の伝統に倣い、芸術を政治的プロパガンダの道具として巧みに利用しました。彼は、建築家のジョルジョ=ヴァザーリを重用し、フィレンツェの都市改造を大規模に進めました。現在、ウフィツィ美術館として知られる建物は、元々はコジモ1世が行政機関(ウフィツィ)を収容するために建設させたものであり、彼の権力と効率的な統治を象徴する建築物です。また、彼はヴァザーリに、ピッティ宮殿(コジモ1世の新たな居城)とヴェッキオ宮殿(旧政庁)を結ぶ「ヴァザーリの回廊」を建設させました。この回廊は、君主が民衆の目に触れることなく安全に移動するための通路であり、君主と民衆の間の距離が広がった絶対君主制の時代を象徴しています。
さらに、コジモ1世は、1563年にヴァザーリの助言を受けて、ヨーロッパ初のアカデミーである「アカデミア=デッレ=アルティ=デル=ディゼーニョ」(素描芸術のアカデミー)を設立しました。これは、芸術家たちの地位を単なる職人から、知的な創造者へと高めることを目的とした画期的な試みでした。コジモ1世は、冷徹な独裁者であると同時に、国家の繁栄と文化の振興に尽力した偉大な君主であり、彼によって築かれたトスカーナ大公国は、その後約200年間にわたってメディチ家の支配下に置かれることになります。
フランチェスコ1世とフェルディナンド1世:繁栄と安定

コジモ1世の死後、大公の位は長男のフランチェスコ1世(在位1574-1587)に引き継がれました。フランチェスコは、父のような政治的手腕には恵まれず、内向的で憂鬱な性格の持ち主でした。彼は政治よりも、錬金術や自然科学の研究に没頭することを好み、宮廷に豪華な研究所(ストゥディオーロ)を設けて、様々な実験に明け暮れました。彼は、磁器の製造に強い関心を示し、ヨーロッパで初めて本格的な磁器(メディチ磁器)の製造に成功したことでも知られています。
彼の治世は、政治的には比較的平穏でしたが、彼の私生活はスキャンダルに彩られていました。彼は、ヴェネツィア出身のビアンカ=カッペッロと情熱的な恋愛関係にあり、正妻の死後、彼女と再婚しました。この結婚は、多くの人々の反感を買い、宮廷内に不和をもたらしました。1587年、フランチェスコとビアンカは、ポッジョ=ア=カイアーノの別荘で相次いで急死しました。その死因は、長らくマラリアとされてきましたが、近年の研究ではヒ素による毒殺の可能性が指摘されており、謎に包まれています。
フランチェスコ1世が嫡出の男子を残さずに死去したため、大公の位は弟のフェルディナンド1世(在位1587-1609)が継承しました。フェルディナンドは、もともと聖職者であり、枢機卿の地位にありましたが、兄の死を受けて還俗し、大公となりました。彼は、兄とは対照的に、陽気で現実的な性格の持ち主であり、優れた統治者としての才能を発揮しました。
フェルディナンド1世は、まず国内の安定と経済の再建に取り組みました。彼は、公正な司法制度を確立し、農業を奨励してトスカーナ地方の沼沢地を干拓するなど、民衆の生活向上に努めました。彼の治世下で、トスカーナの経済は再び活気を取り戻しました。特に、リヴォルノ港を自由港として発展させたことは、彼の最大の功績の一つです。彼は、宗教的寛容政策をとり、迫害されていたユダヤ人や異端者たちをリヴォルノに受け入れました。これにより、リヴォルノは多様な人々が集まる国際的な商業都市として繁栄し、トスカーナ大公国の経済を支える重要な拠点となりました。
外交面では、フェルディナンド1世は、スペイン=ハプスブルク家の影響力から脱却し、フランスとの関係を強化する政策をとりました。彼は、フランス王アンリ4世に莫大な資金援助を行い、その見返りとして、姪のマリー=ド=メディシスをアンリ4世の王妃として嫁がせました。これにより、メディチ家は再びフランス王家との強力な縁戚関係を築くことに成功しました。
フェルディナンド1世もまた、メディチ家の伝統に倣い、芸術の偉大なパトロンでした。彼は、フィレンツェの都市美化に力を注ぎ、ピッティ宮殿のボーボリ庭園を拡張し、ベルヴェデーレ要塞を建設しました。また、彼はオペラの誕生にも深く関わっており、姪マリーとアンリ4世の結婚を祝うために、ヤコポ=ペーリ作曲の現存する最古のオペラ作品『エウリディーチェ』を上演させました。フェルディナンド1世の賢明な統治により、トスカーナ大公国は安定と繁栄の時代を迎え、メディチ家の支配は盤石なものとなりました。
衰退と終焉:一族の黄昏

フェルディナンド1世の治世を頂点として、メディチ家の栄光は次第に翳りを見せ始めます。17世紀から18世紀にかけて、トスカーナ大公国は経済的な停滞と政治的な影響力の低下に直面し、かつてルネサンスを牽引した一族は、静かにその歴史の幕を下ろしていくことになります。
17世紀の君主たち:緩やかな衰退

フェルディナンド1世の跡を継いだコジモ2世(在位1609-1621)は、父と同様に穏健な統治を行いましたが、病弱であったため、政治の実権は母や大臣たちに握られがちでした。しかし、彼の治世における最も特筆すべき功績は、天文学者ガリレオ=ガリレイを庇護したことです。コジモ2世は、パドヴァ大学で教鞭をとっていたガリレオをフィレンツェに招き、首席数学者=哲学者という破格の待遇を与えました。ガリレオは、コジモ2世の支援のもとで天体観測を続け、木星の4つの衛星を発見し、これを「メディチ星」と名付けて君主に献上しました。しかし、ガリレオの地動説は、後にローマ=カトリック教会の教義と対立し、彼は異端審問にかけられることになります。メディチ家は、かつてのように教皇庁に対して強い影響力を行使することができず、ガリレオを十分に守りきることができませんでした。この出来事は、メディチ家の政治的影響力の低下を象徴するものでした。
コジモ2世の死後、息子のフェルディナンド2世(在位1621-1670)が幼くして即位したため、治世の初期は母と祖母による摂政政治が行われました。この時期、トスカーナは三十年戦争の余波や深刻なペストの流行に見舞われ、経済は大きな打撃を受けました。フェルディナンド2世は、成人して親政を始めると、財政再建に努めましたが、かつての繁栄を取り戻すことはできませんでした。彼は、科学に強い関心を持ち、ガリレオの弟子たちを支援して、実験科学のアカデミーである「アカデミア=デル=チメント」を設立しました。このアカデミーは、近代科学の発展に貢献しましたが、わずか10年で解散してしまいました。
フェルディナンド2世の息子であるコジモ3世(在位1670-1723)の治世は、50年以上に及びましたが、この時代にトスカーナ大公国の衰退は決定的となりました。コジモ3世は、極めて敬虔なカトリック教徒でしたが、その宗教的熱心さは、しばしば不寛容な政策となって現れました。彼は、ユダヤ人に対する厳しい規制を課し、厳格な道徳法を施行するなど、かつてのリヴォルノの寛容政策とは逆行する政策をとりました。これにより、トスカーナの経済活動は停滞し、特に活気のあったリヴォルノ港の国際商業は深刻な打撃を受けました。
彼の治世は、経済的な衰退だけでなく、外交的な孤立も深めました。ヨーロッパの主要な戦争に関与することを避けたため、トスカーナは国際政治の舞台から忘れ去られた存在となり、かつて「イタリアの天秤」と称されたメディチ家の威光は完全に失われました。コジモ3世の最大の悩みは、後継者問題でした。彼の長男フェルディナンドは、父に先立って死去し、次男のジャン=ガストーネは同性愛者であり、妻との間に子供をもうけることを拒否しました。これにより、メディチ家の直系男子が断絶することは確実な状況となりました。コジモ3世は、娘のアンナ=マリーア=ルイーザに大公位を継承させようと奔走しましたが、ヨーロッパ列強の利害が絡み合い、彼の計画は認められませんでした。
ジャン=ガストーネとアンナ=マリーア=ルイーザ:一族の終焉

1723年、コジモ3世の死後、彼の次男であるジャン=ガストーネ(在位1723-1737)が最後から二番目のメディチ家の大公として即位しました。ジャン=ガストーネは、知的で教養がありましたが、長年の父との確執や不幸な結婚生活から、政治への関心を失っていました。彼は、治世のほとんどをピッティ宮殿の自室に引きこもり、側近たちとの退廃的な快楽に耽って過ごしました。
しかし、その一方で、ジャン=ガストーネは父コジモ3世の不寛容な政策を撤回し、ユダヤ人への規制を緩和し、公共の祝祭を復活させるなど、いくらかの自由主義的な改革を行いました。彼の治世は、政治的には無気力でしたが、フィレンツェの市民にとっては、息苦しいコジモ3世の時代からの解放を意味しました。
ジャン=ガストーネには子供がいなかったため、彼の死はメディチ家によるトスカーナ支配の終わりを意味していました。ヨーロッパ列強は、彼の後継者を巡って外交交渉を重ね、最終的にポーランド継承戦争の講和条約の一環として、トスカーナ大公国はロレーヌ公フランツ=シュテファン(後の神聖ローマ皇帝フランツ1世、マリー=アントワネットの父)に与えられることが決定しました。1737年、ジャン=ガストーネが死去し、メディチ家の約300年にわたるフィレンツェ支配は、静かにその幕を閉じました。
メディチ家の最後の直系子孫となったのは、ジャン=ガストーネの姉であるアンナ=マリーア=ルイーザ=デ=メディチ(1667-1743)でした。彼女は、一族の終焉という歴史の転換点において、極めて重要な役割を果たしました。夫であったプファルツ選帝侯に先立たれた後、フィレンツェに戻っていた彼女は、メディチ家が何世紀にもわたって収集してきた膨大な美術品や文化財の相続人となりました。
彼女は、これらの比類なきコレクションが、新たな支配者によって国外に持ち出されたり、散逸したりすることを深く憂慮しました。そして1737年、彼女はトスカーナ大公国の新たな支配者であるロレーヌ家との間で、歴史的に重要な協定を結びます。これが「家族協約」(Patto di Famiglia)として知られるものです。この協約の中で、アンナ=マリーア=ルイーザは、メディチ家の全財産をトスカーナ大公国に寄贈する条件として、「それらがフィレンツェから持ち出されることなく、一般に公開され、万人の利益のために利用されること」を義務付けました。
この先見の明に満ちた協約のおかげで、ウフィツィ美術館、ピッティ美術館、バルジェッロ美術館などが所蔵する、ボッティチェリ、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロといった巨匠たちの傑作群は、フィレンツェの地に留まり、今日、私たちが目にすることができるのです。アンナ=マリーア=ルイーザは、一族の政治的権力は失われたものの、その文化的遺産を永遠にフィレンツェと人類のために保存するという、最後の、そして最も偉大な貢献を果たしました。1743年に彼女が亡くなったことで、コジモ=イル=ヴェッキオから続くメディチ本家の血筋は完全に途絶え、ルネサンスの栄光と密接に結びついた一族の物語は、その終わりを迎えました。
メディチ家の遺産:ルネサンスのパトロン

メディチ家の歴史は、単なる一族の興亡史に留まりません。彼らが後世に残した最も大きな遺産は、その比類なき芸術と文化への庇護活動、すなわち「パトロネージュ」にあります。メディチ家は、芸術家や学者たちの才能を見出し、経済的に支援し、創造的な環境を提供することで、ルネサンスという文化運動を牽引し、その開花と発展に決定的な役割を果たしました。
芸術パトロネージュの変遷と目的

メディチ家によるパトロネージュは、時代と共にその性格を変化させていきました。初期のジョヴァンニ=ディ=ビッチやコジモ=イル=ヴェッキオの時代には、パトロネージュは主に宗教的な動機と、一族の社会的地位を向上させるための手段として行われました。教会や礼拝堂の建設=装飾に資金を提供することは、敬虔なキリスト教徒としての義務を果たすと同時に、高利貸しという罪深い職業に対する贖罪の意味合いも持っていました。また、ブルネレスキによるサン=ロレンツォ聖堂の再建や、ドナテッロによる彫刻の依頼は、メディチ家の富と権威をフィレンツェ市民に視覚的に示す、効果的なプロパガンダでした。
ロレンツォ=イル=マニフィコの時代になると、パトロネージュはより個人的で、洗練されたものになります。ロレンツォ自身が優れた詩人であり、深い教養の持ち主であったため、彼の宮廷は芸術家や人文学者たちが集う文化サロンとなりました。彼は、ボッティチェリに「春」や「ヴィーナスの誕生」といった、キリスト教の主題から離れた神話画を依頼しました。これは、古代ギリシャ=ローマの文化を復興させようとするルネサンスの人間中心主義的な精神を反映したものであり、パトロネージュが単なる宗教的=政治的動機だけでなく、知的な探求心や美的な喜びのために行われるようになったことを示しています。また、若きミケランジェロを自邸に迎え入れ、家族同然に育てた逸話は、ロレンツォが単なる後援者ではなく、芸術家の才能を育む教育者でもあったことを物語っています。
コジモ1世が大公となり、絶対君主制が確立されると、パトロネージュは再び国家的なプロパガンダの性格を強めます。ヴァザーリによるウフィツィ宮殿の建設や、フィレンツェの都市改造は、メディチ家の絶対的な権力と、トスカーナ大公国の栄光を内外に誇示するための壮大な国家事業でした。この時代、芸術は君主の威光を高めるための奉仕者としての役割を明確に担うようになります。
メディチ家が支援した天才たち

メディチ家の名を不滅のものとしているのは、彼らが支援した芸術家たちの名前そのものです。ルネサンスを代表するほとんどすべての巨匠が、何らかの形でメディチ家と関わりを持っていました。
建築分野では、フィリッポ=ブルネレスキがフィレンツェ大聖堂のクーポラという、当時不可能とさえ思われた技術的難題を、コジモ=イル=ヴェッキオの支援を受けて完成させました。このクーポラは、ルネサンス建築の幕開けを告げる象徴的な建造物です。
彫刻分野では、ドナテッロがコジモ=イル=ヴェッキオのために、古代以来初となる等身大の裸婦像である「ダヴィデ像」を制作しました。また、ミケランジェロ=ブオナローティは、ロレンツォ=イル=マニフィコの庇護のもとでその才能を開花させ、後にメディチ家出身の教皇たちのために、システィーナ礼拝堂の天井画や祭壇画、「最後の審判」、サン=ロレンツォ聖堂のメディチ家礼拝堂の彫刻群など、西洋美術史における最高傑作の数々を生み出しました。
絵画分野では、サンドロ=ボッティチェリがロレンツォ=イル=マニフィコとその周辺のサークルのために、優美で謎めいた神話画を描きました。レオナルド=ダ=ヴィンチもまた、若き日にメディチ家のサークルと関わりを持ち、その影響を受けました。ラファエロ=サンティは、メディチ家出身の教皇レオ10世の庇護のもと、ヴァチカン宮殿の「ラファエロの間」に壮大なフレスコ画群を描き、盛期ルネサンスの古典的様式を完成させました。
メディチ家の影響は、美術だけでなく、学問や科学の分野にも及びました。コジモ=イル=ヴェッキオが設立したプラトン=アカデミーは、古代ギリシャ哲学の研究を復活させ、ルネサンスの思想に大きな影響を与えました。また、コジモ2世がガリレオ=ガリレイを支援したことは、近代科学の発展におけるパトロネージュの重要性を示しています。
メディチ家は、その富と権力を用いて、単に芸術品を収集しただけではありませんでした。彼らは、芸術家や学者たちに活躍の場を与え、彼らの創造性を刺激し、時には競わせることで、文化全体の水準を飛躍的に高めました。彼らがいなければ、ルネサンスはこれほど豊かで多様な花を咲かせることはなかったでしょう。アンナ=マリーア=ルイーザの「家族協約」によってフィレンツェに保存された彼らのコレクションは、メディチ家が単なる権力者ではなく、人類の文化遺産の偉大な守護者であったことを、今日まで雄弁に物語っています。
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・メディチ家とは わかりやすい世界史用語2487

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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