皇輿全覧図とは
皇輿全覧図、または康熙帝の帝国地図として知られるこの地図帳は、18世紀初頭の清朝時代に作成された、中国全土を網羅する包括的な地図です。 この事業は、当時の皇帝であった康熙帝の命により、イエズス会の宣教師たちが持つ西洋の科学的測量技術と、中国の伝統的な地図作成の知識を融合させて行われました。 1708年から約10年間にわたるこの大規模な測量事業は、当時の世界において最も先進的で正確な地図を生み出し、中国およびヨーロッパの地理学と地図製作の歴史に大きな影響を与えました。
17世紀後半、清朝の康熙帝は、広大な帝国を統治する上で、正確な地図の必要性を強く認識していました。 それまでの中国の地図は、地方ごとに作成された地誌に基づいており、統一された基準や測量方法が欠けていたため、帝国全体の正確な地理情報を把握することが困難でした。 康熙帝は、イエズス会の宣教師たちがもたらした天文学や数学、そして測量技術の知識に深い関心を寄せていました。 彼は、これらの西洋の科学技術が、帝国の統治と防衛に極めて重要であると考えたのです。
この地図作成事業の直接的なきっかけとなったのは、イエズス会宣教師たちが北京周辺の地図を作成し、その驚くべき正確さで康熙帝を感銘させたことでした。 1708年、康熙帝は正式に帝国全土の地図作成を命じ、この壮大な事業が開始されることになります。 プロジェクトは、フランス人のジャン=バティスト・レジスやピエール・ジャルトゥーといったイエズス会士が中心となり、多くの中国人学者や役人も協力して進められました。
測量チームは、ヨーロッパで開発された三角測量の手法を中国で初めて大規模に導入しました。 彼らは帝国全土を旅し、天体観測によって緯度を、そして経度は北京を基準点として測定しました。 この測量では、641もの地点で緯度と経度が計測され、膨大なデータが集められました。 測量範囲は、万里の長城から始まり、満州、モンゴル、チベット、そして台湾に至るまで、清朝の支配領域とその周辺地域を広くカバーしていました。
この事業は、単に地理的な情報を集めるだけでなく、西洋と中国の知識が融合する画期的な試みでもありました。イエズス会士たちは測量技術を提供する一方で、中国人協力者たちは地域の地理情報や既存の地図、行政区分に関する知識を提供しました。 この協力体制により、西洋の科学的正確さと、中国の持つ詳細な地域情報が統合されたのです。
約10年にも及ぶ測量と編集作業を経て、1718年に最初の版である木版刷りの地図帳が完成し、康熙帝に献上されました。 翌1719年には、より精巧な銅版刷りの版が作成され、さらに1721年には満州語と中国語を併記した改訂版の木版刷りも作られました。 この地図帳は、縮尺約140万分の1で描かれ、帝国全土を網羅する一枚の総図と、各省や地域ごとの32枚の詳細図で構成されていました。 地図には、緯線と経線が引かれ、台形投影法が用いられるなど、当時のヨーロッパの最新地図学の成果が反映されていました。
皇輿全覧図は、その規模と科学的な正確さにおいて、当時の世界地図製作の頂点に立つものでした。 中国国内では、この地図は国家の最高機密として厳重に管理され、ごく一部の政府高官しか閲覧を許されませんでした。 しかし、イエズス会士たちによってヨーロッパにもたらされた地図の写しは、大きな反響を呼びました。 フランスの地図製作者ジャン=バティスト・ブルギニョン・ダンヴィルによって編集され、1735年に『中国新地図帳』として出版されると、ヨーロッパにおける中国の地理的イメージを根本から覆し、その後1世紀以上にわたって中国に関する最も権威ある地図として利用されることになりました。
この地図作成事業は、康熙帝の先見の明と、異文化の知識を積極的に取り入れようとする姿勢の賜物でした。 皇輿全覧図の完成は、清朝の統治基盤を強化しただけでなく、東西の科学技術交流における輝かしい成果として、世界史にその名を刻んでいます。
イエズス会士の役割と西洋科学技術の導入
皇輿全覧図の作成において、イエズス会宣教師たちが果たした役割は極めて重要でした。彼らは、17世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパの最新の科学技術、特に天文学、数学、そして地図作成術を中国にもたらし、この国家的な大事業を技術面で主導しました。 彼らの貢献なくして、皇輿全覧図の驚異的な正確性と網羅性を達成することは不可能だったでしょう。
明朝末期から清朝初期にかけて、マテオ・リッチをはじめとするイエズス会士たちは、その学識をもって中国の宮廷で重用されていました。 彼らはキリスト教の布教を最終的な目的としながらも、西洋の科学知識を提供することで皇帝や知識人階級の信頼を得ようと努めました。 特に康熙帝は、幼少期からイエズス会士フェルディナント・フェルビーストに数学や地理学を学ぶなど、西洋科学に対して深い理解と関心を持っていました。 康熙帝は、中国古来の地図が不正確で、統一性に欠けることを認識しており、帝国の広大な領土を正確に把握し、効果的に統治するためには、科学的な測量に基づく地図が不可欠だと考えていたのです。
この皇帝のニーズに応える形で、イエズス会士たちは地図作成プロジェクトの中心的な役割を担うことになりました。 1708年に事業が開始されると、フランス出身のジャン=バティスト・レジス、ピエール・ジャルトゥー、ブーヴェらが測量のリーダーとして任命されました。 彼らはフランス科学アカデミーで訓練を受け、最新の測量機器と天文学的知識を携えていました。
彼らが導入した最も重要な技術は、三角測量法でした。 これは、基線となる二点間の距離を正確に測定し、そこから他の地点を三角形の頂点として角度を測ることで、次々と各地点の位置を正確に決定していく手法です。これにより、広大な範囲を系統的かつ高い精度で測量することが可能になりました。測量チームは、中国全土に三角網を張り巡らせ、各地の地理的特徴を記録していきました。
また、緯度と経度の測定も、地図の科学的正確性を担保する上で不可欠でした。緯度は、天体観測によって比較的容易に決定できましたが、経度の測定はより困難な課題でした。彼らは、北京を本初子午線(経度の基準点)と定め、各地で月食や木星の衛星食などの天文現象を同時に観測することで、北京との経度差を算出しました。 この骨の折れる作業によって、帝国全土の600以上の地点で正確な座標が決定されたのです。
測量には、当時の最新機器が用いられました。フランスから持ち込まれた天体観測儀、象限儀、振り子時計などが、正確な測定を支えました。 イエズス会士たちは、これらの機器の使用方法を中国人協力者たちに教え、共同で測量作業を進めました。 測量チームは、山岳地帯や砂漠、辺境地域など、過酷な環境にも分け入り、数年にわたって現地調査を続けました。 ジャン=バティスト・レジスは、万里の長城から満州、中国の七つの省、さらには台湾まで、広範囲にわたる測量を監督しました。
イエズス会士の役割は、単なる技術指導に留まりませんでした。彼らはプロジェクト全体の計画、データの整理、そして最終的な地図の編集作業においても中心的な役割を果たしました。 レジスやジャルトゥーらは、測量で得られた膨大なデータを統合し、台形投影法を用いて地図上に展開しました。 この投影法は、高緯度地域の歪みを抑えつつ、広大な東西範囲を比較的正確に表現できるため、中国のような大陸国家の地図に適していました。
しかし、この事業はイエズス会士だけで成し遂げられたものではありません。康熙帝の強力な支援のもと、多くの中国人学者、役人、そして測量技術者たちが協力しました。 何国棟や明安図といった中国の科学者たちは、イエズス会士と緊密に連携し、測量やデータ解析に貢献しました。 また、チベットやモンゴル地域の測量では、現地の知識を持つラマ僧も参加しています。 このように、皇輿全覧図は、西洋の科学と中国の知が融合した、国際的な共同プロジェクトの産物だったのです。
イエズス会士たちは、この地図作成事業を通じて、康熙帝の信頼をさらに深め、布教活動の足がかりを築こうとしました。 実際に、測量の旅の途中で新たな布教拠点を設立することもあったといいます。 皇輿全覧図の完成は、彼らの科学者としての能力を中国に示すとともに、ヨーロッパ世界に対しては、彼らが中国の奥深くまで入り込み、帝国の中枢で活躍していることを証明するものでした。
測量技術と地図の構成
皇輿全覧図が18世紀初頭において世界最高水準の地図と評価される理由は、その作成に用いられた先進的な測量技術と、科学的原則に基づいた地図の構成にあります。 このプロジェクトは、伝統的な中国の地図作成法から脱却し、ヨーロッパで発展した定量的で体系的な地理測量法を大規模に導入した点で画期的でした。
三角測量法と天体観測
地図作成の根幹をなした技術は、三角測量法です。 これは、まず基準となる二点間の距離(基線)を精密に測定し、その両端から目標とする第三の地点を望み、それぞれの角度を測ることで、三角形の幾何学的性質を利用して第三の地点の位置を正確に割り出す手法です。 このようにして決定された新たな地点を基点として、さらに次の地点を測定していくことで、広大な地域を網羅する正確な測量網(三角網)を構築することができます。 イエズス会の測量チームは、この手法を用いて中国全土に測量点を設定し、それらの相対的な位置関係を極めて高い精度で決定していきました。
位置を絶対的な座標、すなわち緯度と経度で示すためには、天体観測が不可欠でした。 緯度の測定は、北極星の高度や太陽の南中高度を観測することで比較的容易に行うことができました。イエズス会士たちは、精密な象限儀などの観測機器を用いて、各地の緯度を正確に測定しました。
一方、経度の測定は当時、世界中の地図製作者にとって大きな課題でした。経度は地球の自転に基づくため、二地点間の経度差は、それぞれの場所での地方時の差に等しくなります。正確な経度を測定するには、精密な時計を携行して基準点との時刻差を測るか、あるいは広範囲で同時に観測できる天文現象を利用する必要がありました。 皇輿全覧図の測量では、後者の方法が採用されました。具体的には、月食や木星のガリレオ衛星の食(衛星が木星の影に入る現象)が利用されました。これらの現象は、地球上のどこから見てもほぼ同時に起こるため、各地の観測者が現象の発生時刻をそれぞれの地方時で記録し、それらを比較することで、基準点との経度差を正確に求めることができたのです。
このプロジェクトでは、北京が経度の基準となる本初子午線として定められました。 測量チームは、帝国全土に散らばり、あらかじめ予測された天文現象を待って観測を行い、その結果を北京に集約しました。この骨の折れる作業により、最終的に641地点もの場所で、科学的根拠に基づいた緯度と経度の値が得られたのです。
地図の投影法と構成
測量によって得られた球面上の地球の座標データを、平面である地図の上に展開するためには、地図投影法が必要となります。皇輿全覧図では、主に台形投影法(トラペゾイダル投影法)が採用されました。 これは、経線を平行な直線として、緯線をそれに直交する平行な直線群として描く擬円筒図法の一種です。特に、ニコラ・サンソンの投影法が参考にされたと考えられています。 この投影法は、地図の中央部分の歪みが少なく、また経線が平行であるため、複数の地図シートを繋ぎ合わせやすいという利点がありました。
完成した地図帳は、帝国全土を一枚に収めた総覧図と、各省や主要な地域(満州、モンゴル、チベット、朝鮮など)を詳細に描いた32枚の分割図から構成されていました。 総覧図は帝国全体の地理的配置を概観するために、分割図は各地域の詳細な情報を得るために用いられました。地図の縮尺は、約1:1,400,000または1:2,000,000程度と推定されており、当時としては非常に詳細なものでした。
地図には、山脈、河川、湖、海岸線といった自然地理の要素が詳細に描かれているだけでなく、省や府、県といった行政区画の境界、都市、町、村、さらには万里の長城や運河、軍事施設といった人文地理的な情報も豊富に盛り込まれていました。 地名は、中国本土では漢字で、満州やモンゴルなどの辺境地域では満州文字で記されるなど、地域の特性に応じて使い分けがなされていました。
版の種類と特徴
皇輿全覧図には、いくつかの異なる版が存在します。
最初に完成したのは1718年の木版刷り版で、これは皇帝への献上を目的としていました。
翌1719年には、イタリア人宣教師マテオ・リパの指導のもと、より精緻な表現が可能な銅版画による版が制作されました。 この銅版は、ヨーロッパの印刷技術が導入されたもので、地図の普及に貢献しました。
さらに1721年には、満州語と漢字を併記した木版刷りの改訂版が作られました。 これは、清朝が満州族の王朝であったことを反映しており、帝国の多民族的な性格を示しています。
これらの地図は、その製作過程において西洋の科学的合理性と、中国の伝統的な地図に見られる詳細な情報記述が見事に融合しています。 例えば、地図の表現スタイル自体は、山や川を絵画的に描く中国の伝統的な手法も取り入れつつ、その配置は厳密な測量データに基づいています。 この科学と芸術の融合が、皇輿全覧図を単なる地理情報ツール以上の、文化的な価値を持つ作品にしているのです。
地図が描いた清朝の領域と世界観
皇輿全覧図は、単に地理的な正確性を追求した科学的成果物であるだけでなく、それを作成した清朝、特に康熙帝の政治的意図や世界観を色濃く反映した文化的な産物でもあります。 地図に描かれた範囲、境界線の表現、地名の表記法などを分析することで、18世紀初頭の清朝が自らの帝国をどのように認識し、世界における自らの位置づけをどう考えていたかが見えてきます。
帝国の版図の視覚化
皇輿全覧図がカバーする地理的範囲は、清朝の広大な支配領域と、その影響力が及ぶ周辺地域にまで広がっていました。 中核となるのは、いわゆる「中国本土」と呼ばれる15の省ですが、それに加えて、満州(清朝発祥の地)、モンゴル、チベット、そして台湾も詳細に描かれています。 さらに、朝鮮半島も属国として地図の範囲内に含まれていました。 この広大な領域を、統一された測量基準と投影法のもとで一枚の地図体系として描き出したこと自体が、清朝の支配権を視覚的に宣言する強力な政治的行為でした。
康熙帝にとって、この地図作成事業は、征服によって拡大した帝国の版図を確定し、中央集権的な統治を隅々まで浸透させるための重要な手段でした。 それまでの断片的で不正確な地方の地図を、科学的で統一された帝国の公式地図に置き換えることで、北京の宮廷が帝国全土の地理情報を独占的に掌握し、統制することを可能にしたのです。 地図は、税の徴収、資源管理、軍隊の配備、インフラ整備といった、あらゆる統治活動の基礎情報となりました。
境界線の曖昧さと内部の強調
興味深いことに、皇輿全覧図における国境線の描かれ方は一様ではありません。 例えば、南西部の雲南省と現在のミャンマーやベトナムとの境界は点線で比較的明確に示されています。 これは、これらの地域が伝統的な中華帝国の版図の外縁であり、異民族との境界を意識していたことを示唆しています。
その一方で、ロシアとの間でネルチンスク条約(1689年)によって法的に確定していたはずの北方の国境線は、地図上にはっきりと描かれていません。 同様に、朝鮮との境界も明確には示されていません。 このことは、清朝がヨーロッパ的な主権国家の概念とは異なる、中華思想に基づいた同心円的な世界観を持っていたことを示唆しています。つまり、明確な線で区切られた領土というよりは、皇帝の徳が及ぶ範囲がすなわち帝国であり、その影響力は中心から周辺に向かって徐々に薄れていくという考え方です。
むしろ地図上で強調されているのは、帝国内部の境界線です。 例えば、満州族とモンゴル族、そして漢民族の居住地域を分けるために築かれた柳条辺(りゅうじょうへん)や、明代に北方の騎馬民族を防ぐために建設された万里の長城が、実際以上に誇張されて描かれています。 これは、清朝が多様な民族をそれぞれ異なる制度で統治する「多元的統治体制」を重視していたことの表れです。 満州族、モンゴル族、漢族、チベット族、そして西域のムスリムなどを、それぞれの文化的・地理的領域の中で管理するという帝国の方針が、地図の表現にも反映されているのです。
地名表記に見る多言語帝国
地名の表記法も、清朝の多民族的な性格を物語っています。中国本土の地名は漢字で記されていますが、満州、モンゴル、チベットといった辺境地域や、清朝の支配領域外の場所については、満州文字が用いられています。 これは、清朝の公用語の一つが満州語であったことを示すと同時に、これらの地域が漢民族の世界とは異なる、皇帝直轄の特別な領域として位置づけられていたことを示しています。特に、満州は清朝の「故郷」として神聖視されており、その地理情報を満州語で記録することは、民族のアイデンティティを保持する上で重要な意味を持っていました。
ヨーロッパへの影響と中国での秘匿
皇輿全覧図は、ヨーロッパに渡ると、それまでの西洋人の中国観を劇的に変えました。 マルコ・ポーロの時代から続く、伝説や不確かな情報に基づいた中国のイメージは、この科学的で詳細な地図によって一掃され、現実の中国の姿が初めて正確に伝えられました。 ダンヴィルによって出版された地図は、啓蒙時代のヨーロッパ知識人たちに大きな影響を与え、中国への関心を一層高めることになりました。
しかし、その一方で、中国国内では皇輿全覧図は宮廷の奥深くに秘蔵され、一般に公開されることはありませんでした。 その後の中国の地図作成も、必ずしも皇輿全覧図の科学的な手法を受け継いだわけではなく、伝統的な手法が依然として主流でした。 これは、地図が持つ戦略的な重要性から、その情報を独占しようとする清朝政府の意図があったと考えられます。 科学的知識が、開かれた探求の対象としてではなく、皇帝の権威と統治を支えるための独占的なツールとして扱われたのです。この事実は、同じ科学的成果物が、異なる政治文化の中でいかに異なる運命を辿るかを示す興味深い事例と言えます。
ヨーロッパへの伝播とその影響
皇輿全覧図は、清朝の宮廷内で国家機密として厳重に管理されましたが、その作成に深く関わったイエズス会宣教師たちによって、地図の写しやデータがヨーロッパへともたらされました。 この地図のヨーロッパへの伝播は、西洋における中国およびアジア全体の地理的認識を根底から覆し、18世紀の地図製作、地理学、さらには思想界にまで計り知れない影響を及ぼしました。
ダンヴィルの『中国新地図帳』
ヨーロッパにおける皇輿全覧図の影響を語る上で最も重要な人物が、フランスの王室地理学者であったジャン=バティスト・ブルギニョン・ダンヴィルです。 イエズス会士を通じてフランスにもたらされた地図の原稿や測量データは、パリのイエズス会本部に集められました。 ダンヴィルはこれらの膨大な情報を整理、編集し、ヨーロッパの読者にとって理解しやすい形式に再構成する作業に取り組みました。
彼は、元の地図の科学的な正確性を尊重しつつ、地名をフランス語のアルファベットに転写し、ヨーロッパの地図製作の慣例に合わせた体裁に整えました。そして1735年、この成果は『中国、シナ・タタールおよびチベットの新地図帳』としてパリで出版されました。 この地図帳は、ジャン=バティスト・デュ・アルドが編纂した中国に関する百科全書的な大著『中国全誌』にも収録され、ヨーロッパ全土に広く流布しました。
ダンヴィルの地図帳は、それまでのヨーロッパで流布していた、想像や断片的な情報に基づいた中国地図とは一線を画すものでした。 緯度経度に基づいた正確な海岸線、主要な河川の流路、都市の配置など、その詳細さと科学的信頼性は驚きをもって迎えられました。 これにより、ヨーロッパ人は初めて、広大な中国大陸の正確な地理的姿を目の当たりにすることができたのです。この地図帳は、その後1世紀以上にわたり、ヨーロッパにおける中国地図の決定版と見なされ、多くの地図製作者たちのための基本的な参考資料となりました。
ヨーロッパにおける地理的認識の変化
皇輿全覧図の伝播は、単に中国の地図を更新しただけではありませんでした。それは、ヨーロッパ人のアジア全体に対する地理観を大きく変えました。地図はチベットやモンゴル、満州、朝鮮半島までを詳細に描いていたため、これらの地域と中国との関係性や、アジア内陸部の広大さが初めて正確に理解されるようになりました。
また、この地図は、地球の大きさや形状に関する当時の科学的な議論にも貢献しました。イエズス会士たちが行った緯度1度あたりの子午線弧長の測量データは、地球が完全な球体ではなく、赤道方向にわずかに膨らんだ回転楕円体であるという、アイザック・ニュートンの理論を裏付ける証拠の一つとして、ヨーロッパの科学界で注目されました。
さらに、この地図の存在自体が、ヨーロッパの知識人たちに大きな知的衝撃を与えました。ヨーロッパから遠く離れた中国の皇帝が、自国の宣教師たちの助けを借りて、これほどまでに壮大で科学的な地図作成事業を成し遂げたという事実は、中国という国が単なる異国情緒あふれる東洋の国ではなく、高度な統治システムと科学への理解を持つ文明国であるという認識を強めました。 ヴォルテールやライプニッツといった啓蒙思想家たちは、康熙帝を理想的な「哲人君主」として称賛し、中国の政治や文化に高い関心を寄せましたが、皇輿全覧図の成功は、そうした中国評価を裏付けるものとなったのです。
多様な版の流通
ダンヴィルのフランス語版地図帳は、すぐに他のヨーロッパ言語にも翻訳されました。英語(1738年)、ドイツ語(1749年)、ロシア語(1774年)など、様々な版が出版され、皇輿全覧図から得られた地理情報は、国境を越えてヨーロッパの共通知識となっていきました。
また、地図の作成に用いられた銅版画の技術は、イタリア人宣教師マテオ・リパによって中国にもたらされたものでしたが、彼がヨーロッパに持ち帰った銅版画の地図や、熱河の離宮を描いた風景画なども、ヨーロッパにおける中国イメージの形成に影響を与えました。 特に、中国の庭園を描いた版画は、イギリスの風景式庭園の流行に影響を与えたと言われています。
このように、皇輿全覧図は、イエズス会士という国際的なネットワークを介して、中国の宮廷からヨーロッパの学術界、そして一般の知識人層へと広まっていきました。それは、地理情報の伝達という実用的な意味を超えて、異なる文明間の知的交流がいかに豊かで実り多いものでありうるかを示す、歴史的な記念碑となったのです。
皇輿全覧図の歴史的意義と遺産
皇輿全覧図は、18世紀初頭に作成された単なる一枚の地図帳にとどまらず、世界史、特に地図作成史、科学技術交流史、そして東西文化交流史において、多岐にわたる深い意義を持つ画期的な成果です。 その遺産は、後世の地図作成や地理的認識に大きな影響を与え続けています。
地図作成史における金字塔
皇輿全覧図の最も直接的な意義は、その規模と科学的正確性において、当時の世界の地図作成技術の頂点を極めた点にあります。 広大な中国大陸とその周辺地域を、三角測量と天体観測という科学的手法に基づいて、統一された基準で体系的に測量した最初の試みでした。 これほど広範な領域を対象とした実地測量プロジェクトは、それ以前の世界には例がありませんでした。
この事業は、地図作成が単なる地名の記録や絵画的な風景描写から、定量的なデータに基づく科学へと移行する世界的な潮流の中で、一つの到達点を示しました。 緯度経度の座標網を用い、特定の投影法に基づいて描かれたこの地図は、近代的な地図の要件を備えており、その後の地図作成の規範となりました。 ヨーロッパでは、ダンヴィルによる改訂版が19世紀半ばまで中国に関する最も権威ある地図として利用され続け、西洋の中国認識を長期間にわたって規定しました。
東西科学技術交流の象徴
皇輿全覧図は、異なる文明間の知識と技術が融合して生まれた、共同作業の輝かしい成果です。 イエズス会宣教師がもたらしたヨーロッパの天文学、数学、測量技術と、中国が長年培ってきた詳細な地理情報や地誌編纂の伝統が見事に結びつきました。 このプロジェクトは、康熙帝という、異文化の知識に対して開かれた姿勢を持つ君主の強力な庇護のもとで実現しました。
この事業の成功は、科学技術が普遍的な言語として文化の壁を越えうることを示しています。イエズス会士と中国の学者・役人たちは、共通の科学的目標に向かって協力し、互いの知識と技術を尊重し合いました。 皇輿全覧図は、17世紀から18世紀にかけての活発な東西文化交流の一つの頂点であり、グローバルな知識生産の先駆けとも言える事例です。
政治的・行政的ツールとしての役割
清朝にとって、皇輿全覧図は帝国の統治を強化するための極めて強力なツールでした。 正確な地図は、中央政府が広大な領土の隅々までを把握し、効率的な行政、徴税、軍事行動、資源管理を行うための不可欠な基盤を提供しました。 帝国の版図を視覚的に確定し、その支配権を内外に示すという政治的な意味合いも非常に大きいものでした。
一方で、この地図が中国国内では宮廷に秘蔵され、その科学的な手法が広く普及しなかったという事実は、知識と権力の関係を考える上で示唆に富んでいます。 科学的知識が、開かれた探求の対象ではなく、国家が独占し統治に利用する「秘術」として扱われる側面があったことを物語っています。