広州《清》とは
清王朝(1644年-1912年)の時代、広州は中国と西洋を結ぶ、活気に満ちた唯一の合法的な貿易拠点として、世界の歴史において他に類を見ない重要な役割を担っていました。当時、西洋では「カントン」として知られたこの都市は、厳格な管理体制の下で巨大な商業的利益を生み出す一方で、文化的な交流と衝突の最前線でもありました。
広東システムの確立:単一港湾貿易の時代へ
清王朝が対外貿易の窓口を広州一港に限定した政策は、「広東システム」として知られています。この体制は、1757年に乾隆帝の勅令によって公式に確立されましたが、その起源は17世紀後半にまで遡ります。 当時、清朝は国内の安定を維持し、外部からの影響を管理下に置くことを重視していました。相次ぐ内乱を鎮圧し、広大な帝国を統治するためには、中央集権的な支配体制を強化する必要があったのです。
広東システム成立の背景
1684年、康熙帝は海禁(海外渡航・貿易の禁止)政策を緩和し、広州、厦門、寧波、松江の4つの港を対外貿易のために開放しました。 これにより、ヨーロッパの商人たちが中国沿岸に姿を現すようになります。当初、商人たちはどの港でも比較的自由に貿易を行うことができましたが、広州は東南アジアへの近さという地理的優位性から、次第に多くの外国船を引きつけるようになりました。
しかし、貿易の拡大は清朝にとって新たな懸念材料も生み出しました。地方官僚による不正行為や、外国人との直接的な接触による社会秩序の乱れを恐れたのです。特に、イギリス東インド会社などの強力な組織力を持つ外国商社が、中国の法規制を無視して沿岸部で活動を活発化させたことは、清朝の警戒心を強める一因となりました。 1750年代には、イギリス商人ジェームズ・フリントが、広州以外の港での貿易を求めて天津にまで赴き、現地の役人に直接請願するという「フリント事件」が発生しました。 この出来事は、清朝の支配体制に対する直接的な挑戦と受け止められ、貿易管理を一層強化する必要性を痛感させる決定的な契機となったのです。
こうした背景から、乾隆帝は1757年、広州をヨーロッパ商人との貿易が許される唯一の港と定め、他のすべての港を閉鎖する勅令を発布しました。 これが広東システムの正式な始まりです。このシステムは、単に貿易港を限定するだけでなく、外国人の活動を厳しく制限し、すべての貿易を清朝政府が公認した特定の商人ギルドを通じて行うことを義務付ける、包括的な管理体制でした。 この政策の目的は、外国との接触を最小限に抑え、政治的・商業的な脅威から国内を防衛することにありました。
広東システムの構造と特徴
広東システムは、主に以下の三つの要素から成り立っていました。
第一に、すべての対外貿易は広州港に限定されること。 これにより、清朝政府は貿易活動を一元的に監視し、関税を効率的に徴収することが可能になりました。
第二に、外国人商人は「十三行」と呼ばれる特定の区域内でのみ居住と商業活動を許可されたこと。 珠江のほとりに位置するこの区域は、塀で囲まれ、中国人民衆との自由な交流は固く禁じられていました。 商人たちは貿易シーズン(通常は10月から翌年1月頃)の間だけここに滞在することが許され、シーズンが終わるとマカオへ退去しなければなりませんでした。 また、外国人女性や銃器の持ち込み、中国語の学習なども禁止されるなど、その生活は厳しい制約下に置かれていました。
第三に、すべての貿易は「公行」と呼ばれる特許商人団体を通じて行われなければならなかったこと。 西洋では「コホン」として知られるこの団体は、政府から貿易独占権を与えられた十数人の中国人商人で構成されていました。 彼らは、外国船が入港する際の身元保証人となり、貨物の価格交渉、関税の納付、そして外国人商人の行動全般に対する責任を負いました。 つまり、清朝政府と外国人商人の間に立つ唯一の公式な仲介者であり、貿易システム全体の中核をなす存在だったのです。
このシステムは、表面的には清朝の絶対的な支配を示すものでしたが、実際には相互依存の関係の上に成り立っていました。清朝は公行商人を通じて莫大な関税収入を得ており、その一部は皇帝の私的な財源にもなっていました。 一方、公行商人は貿易独占権によって巨万の富を築き、外国人商人もまた、中国の茶や絹、磁器といった魅力的な商品を独占的に仕入れることで大きな利益を上げていました。 このように、広東システムは、清朝政府、公行商人、そして外国人商人という三者の利害が複雑に絡み合いながら、約85年間にわたって機能し続けたのです。
十三行
広東システム下で外国人商人の活動拠点となった「十三行」は、単なる倉庫や事務所ではなく、居住空間、社交場、そして貿易取引所が一体となった複合施設でした。 この珠江沿いの限られた一角は、西洋と東洋の文化が交錯する独特の空間であり、歴史家ジャック・ダウンズが「黄金のゲットー」と表現したように、隔離されていながらも莫大な富を生み出す場所でした。
十三行の建築と空間構成
十三行の区域は、珠江の岸から約91メートル後退した場所に、間口が狭く奥行きが深い、2階建てまたは3階建ての建物がずらりと並んでいました。 それぞれの建物は「行」と呼ばれ、イギリス、フランス、オランダ、アメリカ、デンマーク、スウェーデンなど、国ごとに割り当てられていました。 建物のファサード(正面)は、新古典主義様式など西洋的なデザインが採用されていましたが、内部構造や建築技術は広州の伝統的な商家建築そのものでした。 これは、建物自体は公行商人が所有し、それを外国人商人に貸し出すという形態をとっていたためです。
建物の1階部分は主に倉庫や事務所として使われ、2階以上が居住スペースとなっていました。 居住空間には、食堂、図書室、ビリヤード室などが設けられ、商人たちはここで共同生活を送っていました。しかし、生活環境は快適とは言えませんでした。井戸はなく、飲料水や洗濯水は中国人使用人が外部から運び込み、汚物処理も彼らの仕事でした。
十三行の前には広場があり、そこは柵で囲まれ、許可なく中国人が立ち入ることはできませんでした。 しかし、この狭い空間は、商人たちの唯一の運動や息抜きの場所であり、また、各国の国旗が掲げられる象徴的な場所でもありました。 このように、十三行は物理的に隔離された空間でありながら、その内部では西洋的な生活様式が維持され、建築様式においても中国と西洋の要素が混在する、まさに文化のハイブリッド空間だったのです。
十三行での生活
十三行での生活は、厳格な規則と制約に縛られていました。 最も大きな制約は、女性の立ち入りが禁止されていたことです。 商人たちは家族をマカオに残し、貿易シーズン中は単身で赴任しなければなりませんでした。 また、中国語を学ぶことや、許可なく城壁内に立ち入ること、珠江でボートに乗ることなども禁じられていました。
こうした閉鎖的な環境は、一方で商人たちの間に強い連帯感を生み出しました。彼らは国籍を超えて交流し、共同で食事をとり、パーティーやスポーツを楽しんでいました。しかし、その生活は常に監視下にあり、自由な行動は許されませんでした。彼らの活動はすべて、身元保証人である公行商人を通じて行われ、清朝の役人と直接接触することは固く禁じられていました。
この厳格な管理体制は、外国人商人に大きな不満とストレスを与えましたが、同時に、中国貿易がもたらす莫大な利益が、彼らをこの「黄金のゲットー」に留まらせる強力な動機となっていました。 彼らは、茶、絹、磁器といった中国の特産品をヨーロッパやアメリカに輸出することで巨富を築き、その富は本国の経済にも大きな影響を与えました。 一方で、この隔離された環境は、西洋と中国の相互理解を妨げ、文化的な誤解や偏見を助長する一因ともなりました。 互いの文化や社会について深く知る機会が乏しいまま、商取引という限定的な関係性だけが続いたことが、後の対立の火種を育んでいったのです。
公行商人:貿易を支配した特権階級
広東システムの中核を担ったのが、「公行」と呼ばれる中国人特許商人ギルドでした。 彼らは清朝政府から対外貿易の独占権を与えられ、広州に来航するすべての外国船との取引を一手に行いました。 公行商人は、単なる商人ではなく、政府の代理人として関税を徴収し、外国人商人を監督する責任を負う、まさに特権階級でした。
公行の役割と責任
公行の主な役割は、清朝政府と外国人商人の間の仲介者として機能することでした。 具体的には、以下のような多岐にわたる責任を担っていました。
貿易の独占: 公行商人は、茶や絹といった主要な輸出品を外国人商人に販売できる唯一の存在でした。 同様に、外国人商人が持ち込む綿製品や時計などの輸入品も、公行を通じてのみ販売することができました。 この独占権により、彼らは価格決定において絶大な力を持っていました。
身元保証: 外国船が広州に入港する際、必ず一人の公行商人がその船の「保商」(保証人)となる必要がありました。 保商は、その船の乗組員全員の行動に責任を負い、彼らが中国の法律を遵守することを保証しました。
関税の徴収と納付: 外国船にかかる関税や各種の税金を徴収し、それを広東税関(粤海関)に納付するのも公行商人の重要な役割でした。 彼らは、政府に対して納税を保証する立場にあり、貿易が円滑に進むための潤滑油の役割を果たしていました。
外国人管理: 十三行に居住する外国人商人の日常生活の監督も公行の責任範囲でした。 彼らは、外国人商人が規則を破らないように監視し、政府からの通達を伝える役割も担っていました。
このように、公行商人は貿易の実務から外国人の監督まで、広東システム全体を動かす上で不可欠な存在でした。彼らは政府の厳しい管理下に置かれ、役人からの不当な要求や搾取に苦しむこともありましたが、その一方で貿易独占がもたらす利益は莫大なものでした。
豪商たちの栄華と没落
公行商人の中には、伍秉鑑(西洋では「浩官」として知られる)のように、当時の世界有数の富豪となる者も現れました。 彼は巧みな商才と外国人商人との良好な関係を築くことで巨万の富を築き、その資産は国家財政にも匹敵すると言われるほどでした。
しかし、公行商人の地位は常に安泰ではありませんでした。彼らは貿易の変動リスクを一身に背負っており、外国船の来航が減ったり、輸出品の価格が暴落したりすると、深刻な経営難に陥りました。 また、役人への賄賂や上納金といった公式・非公式の支出も大きな負担でした。 実際、多くの公行商人が破産に追い込まれ、その地位を失っています。
さらに、公行の独占体制は、外国人商人、特に自由貿易を信奉するイギリス商人からの強い反発を招きました。 彼らは、公行による価格操作や取引の制限を不公正だと考え、より自由な市場アクセスを求めるようになりました。 この不満は、後述するアヘン貿易の拡大と密接に結びつき、最終的に広東システムの崩壊へとつながる大きな要因となったのです。
公行商人は、清朝の管理貿易政策の体現者であると同時に、グローバルな商業ネットワークの重要な結節点でもありました。彼らは、異なる文化と経済システムを持つ二つの世界をつなぐ架け橋でしたが、その立場は常に危うさと矛盾をはらんでいたのです。
広州の都市構造と社会
広東システムの時代、広州は貿易港として前例のない繁栄を遂げると同時に、その都市構造と社会も独特の変化を遂げました。城壁に囲まれた旧市街と、貿易の中心地である城西の郊外地区(西関)とでは、異なる社会階層が住み分け、対照的な景観が形成されていました。
二重構造の都市:城内と西関
清代の広州は、大きく分けて二つのエリアから構成されていました。一つは、城壁に囲まれた伝統的な都市部であり、もう一つは城壁の外、特に西側に広がる商業地区「西関」です。
城内には、満州人の高級官僚や軍人が居住する区画が設けられ、政府機関が集中していました。 ここは政治と行政の中心であり、伝統的な封建秩序が維持された空間でした。漢人の官僚や貴族も城内に住んでいましたが、満州人の方がより高い社会的地位と居住選択の優先権を持っていました。 城壁は物理的な境界であると同時に、外国人や一般商人から支配者層を隔てる社会的な壁としても機能していました。外国人は城壁内への立ち入りを固く禁じられていました。
一方、城壁の西側に広がる西関地区は、珠江の水運に恵まれ、対外貿易の拠点として急速に発展しました。 十三行や公行商人の商館(行)はこの地区に集中し、国内外から多くの商人が集まりました。 この地区には、貿易で富を築いた商人や、貿易関連の産業に従事する労働者たちが住み、活気にあふれていました。 西関は、裕福な商人が住む商業地区、織物工場などが集まる工業地区、そして外国人商人が暮らす十三行という、機能ごとに分かれた地区で構成されていました。 このように、清代の広州は、東側に官僚が住む政治の中心地、西側に商人が住む経済の中心地という「二重中心」の社会空間構造を持っていたのです。
多様な人々と文化の交差点
唯一の貿易港であった広州には、中国国内の各省からだけでなく、世界中から人々が集まりました。福建省出身の商人は、東南アジアとの貿易で培った経験を活かし、広州の貿易界で大きな力を持っていました。 彼らは故郷のネットワークを頼りに商業活動を展開し、広州の経済に大きく貢献しました。
また、十三行にはイギリス、アメリカ、フランス、オランダ、スウェーデンなど様々な国籍の商人たちが暮らしていました。 彼らは自国の文化や生活様式を持ち込み、十三行という限られた空間の中で、国際色豊かなコミュニティを形成しました。彼らの存在は、広州の職人たちにも影響を与えました。広州の画家たちは、西洋画の技法を取り入れた輸出用の絵画を制作し、家具職人は西洋風のデザインを取り入れた家具を作りました。 このようにして、広州は西洋と中国の文化が融合するユニークな場所となったのです。
しかし、こうした文化交流は、あくまでも商業活動という枠組みの中での限定的なものでした。 清朝の厳格な管理政策により、外国人と一般の中国人との深い交流は妨げられ、相互理解が進むことはありませんでした。 広州の地元住民の中には、外国人に対して強い警戒心や敵意を抱く者も少なくありませんでした。 特に、アヘン貿易が深刻化するにつれて、その対立は先鋭化していきます。広州は、異なる文化が出会い、新たな創造が生まれる場であると同時に、誤解と対立が絶えず生まれる緊張をはらんだフロンティアでもあったのです。
アヘン貿易の影:広東システムの亀裂
18世紀後半から19世紀初頭にかけて、広東システムは一見安定しているように見えましたが、その水面下ではシステムを根底から揺るがす大きな問題が進行していました。それが、イギリスを中心とする西洋商人が持ち込んだアヘンの密輸です。 当初は貿易不均衡を是正するための一手段であったアヘン貿易は、やがて中国社会に深刻な破壊をもたらし、清朝と西洋列強との間に決定的な対立を引き起こすことになります。
貿易不均衡とアヘンの流入
18世紀、イギリスは中国から大量の茶を輸入していましたが、一方で中国市場で売れるイギリス製品はほとんどありませんでした。 中国は自給自足的な経済体制が確立しており、外国製品への需要が極めて低かったのです。 その結果、イギリスは茶の代金を大量の銀で支払わなければならず、深刻な貿易赤字に陥っていました。 この銀の流出は、イギリスの国家経済を揺るがしかねない問題でした。
この状況を打開するためにイギリス東インド会社が目をつけたのが、植民地のインドで生産されるアヘンでした。 アヘンは少量で高価であり、中毒性があるため、一度市場を開拓すれば安定した需要が見込めます。清朝はアヘンの輸入を法律で禁止していましたが、イギリス商人は中国人密輸業者や腐敗した地方官僚と結託し、組織的な密輸ネットワークを築き上げました。
アヘン密輸は、広州沖の伶仃島などを拠点に行われました。 外国船はアヘンを積んで伶仃島に停泊し、そこから「快蟹」と呼ばれる小型の高速船がアヘンを広州近郊の倉庫まで運び込むという手口でした。 公行商人の中にも、表向きは合法的な貿易を行いながら、裏ではこの違法な取引に関与する者がいたと言われています。
アヘン蔓延の社会的影響と清朝の対応
アヘン密輸の規模は19世紀に入ると爆発的に増大し、中国社会に壊滅的な影響を及ぼしました。 アヘン中毒は官僚、兵士、商人から一般民衆に至るまであらゆる階層に広がり、国家の労働力を奪い、社会の活力を著しく低下させました。 さらに深刻だったのは、経済への影響です。かつては銀の流入国であった中国が、アヘンの代金として大量の銀を支払うようになり、今度は中国側からの銀の大量流出という事態に陥ったのです。 これにより銀の価値が高騰し、銀で納税しなければならない農民の負担が増大するなど、経済全体に深刻な混乱を引き起こしました。
事態を憂慮した道光帝は、アヘン問題の解決を決意します。激しい議論の末、1838年、彼は強硬派の官僚である林則徐を欽差大臣に任命し、アヘン貿易の全面的な禁止を命じました。 1839年、広州に着任した林則徐は、断固たる態度でアヘン密輸の取り締まりに乗り出します。彼は外国人商人に対し、所有するアヘンをすべて没収し、今後アヘンを持ち込まないという誓約書を提出するよう要求しました。 イギリス商人がこれを拒否すると、林則徐は十三行を封鎖し、兵糧攻めにするという強硬手段に出ます。最終的にイギリス商人は屈服し、約2万箱に上るアヘンが没収され、虎門の海岸で公開処分されました。
この林則徐によるアヘンの没収・廃棄は、イギリス政府と商人たちを激怒させました。彼らはこれを私有財産に対する不当な侵害であり、国家の威信を傷つけられたと捉えました。 イギリス国内では、自由貿易の原則を守り、中国に「教訓」を与えるべきだという主戦論が高まります。そして1840年6月、イギリスは艦隊を中国に派遣し、アヘン戦争(第一次阿片戦争)の火蓋が切られたのです。 広東システムが長年かけて築き上げてきた脆弱な均衡は、アヘンという劇薬によって、ついに崩壊の時を迎えました。
二度のアヘン戦争と広東システムの終焉
林則徐によるアヘン没収をきっかけに勃発したアヘン戦争は、広州、そして中国全体の運命を大きく変える転換点となりました。 イギリスの圧倒的な軍事力の前に清朝は敗北を重ね、不平等条約の締結を余儀なくされます。これにより、約85年間にわたって中国の対外貿易を規定してきた広東システムは、その歴史に幕を閉じることになりました。
第一次アヘン戦争と南京条約
1839年に始まった第一次アヘン戦争(1839-1842年)は、当初、広州周辺の珠江デルタが主な戦場となりました。 イギリス艦隊は、清朝の沿岸要塞を次々と攻略し、1841年3月には広州城を占領しました。 しかし、イギリスの真の狙いは、広州一港に限定された貿易体制を打破し、中国市場を全面的に開放させることにありました。そのため、艦隊は北上し、厦門、寧波、そして長江の河口を押さえ、南京にまで迫りました。
戦況の不利を悟った清朝は、イギリスとの交渉に応じざるを得ませんでした。そして1842年、両国は南京条約に調印します。 この条約は、中国にとって最初の不平等条約であり、その内容は清朝の主権を著しく侵害するものでした。
南京条約の主な内容は以下の通りです。
5港の開港: 広州に加え、厦門、福州、寧波、上海の5港を対外貿易のために開港すること。
香港の割譲: 香港島をイギリスに永久割譲すること。
賠償金の支払い: 没収されたアヘンの代金、戦費など多額の賠償金をイギリスに支払うこと。
公行制度の廃止: 貿易を独占してきた公行制度を廃止し、イギリス商人がどの中国人商人とでも自由に取引できることを認めること。
この南京条約によって、広州が唯一の貿易港であった時代は終わりを告げました。 公行制度の廃止は、広東システムの根幹を破壊するものであり、これをもって広東システムは事実上崩壊したのです。
アロー戦争と広州の占領
南京条約後も、イギリスをはじめとする西洋列強の要求はとどまることを知りませんでした。彼らは、アヘン貿易の合法化や、中国全土への自由なアクセス、北京への外交使節の駐在などを求め、条約の改定を迫りました。 一方、広州では、条約で外国人の市内立ち入りが認められたにもかかわらず、地元民衆の強い抵抗により、それが実現しないという状況が続いていました。
こうした緊張の中、1856年、広州でイギリス船籍を主張するアロー号に中国官憲が乗り込み、中国人船員を海賊容疑で逮捕するという事件が起こります(アロー号事件)。 イギリスはこれをイギリス国旗への侮辱であると主張し、フランスと連合して再び清朝に宣戦布告しました。これが第二次アヘン戦争、またはアロー戦争(1856-1860年)です。
1857年12月、英仏連合軍は広州を砲撃し、街を占領しました。 広東・広西総督であった葉名琛は捕虜となり、インドのカルカッタへ連行され、そこで客死しました。英仏は広州に共同管理委員会を設置し、1861年まで軍事占領を続けました。この占領は、広州の市民に大きな屈辱と苦難を与えました。
第二次アヘン戦争は、1860年の北京条約によって終結します。この条約により、さらに多くの港が開港され、アヘン貿易は合法化され、外国公使の北京駐在も認められました。 これにより、清朝は主権をさらに失い、半植民地化の道を歩むことになります。
二度にわたる戦争と占領を経て、かつて世界の富が集積した広州の栄光は色あせました。十三行の商館は1856年の戦火で完全に焼失し、再建されることはありませんでした。 貿易の中心は、地理的に優位な上海へと次第に移っていきます。 広東システムという閉ざされた窓がこじ開けられた結果、広州はもはや唯一無二の存在ではなくなり、中国沿岸に点在する条約港の一つとなったのです。清王朝の管理貿易の時代は完全に終わりを告げ、中国は否応なく、西洋主導のグローバルな国際秩序の中に組み込まれていきました。