ラオスとは
西暦1千年紀に入ると、現在のラオスにあたる地域は、インド文化の影響を強く受けた周辺の王国、すなわち扶南、チャンパ、真臘の勢力圏に組み込まれていきました。これらの王国は、インドとの海上交易を通じて、宗教、政治体制、芸術など、様々な文化的要素を取り入れました。
扶南は、メコンデルタを中心に栄えた海洋国家であり、その影響はラオス南部にまで及んだと考えられています。チャンパは、現在のベトナム中南部に位置し、ラオス東部と国境を接していました。
中でもラオスに最も大きな影響を与えたのが、クメール系の真臘王国です。5世紀頃には、ラオス南部は真臘の一部であり、チャンパーサック県にあるワット・プーの遺跡群がその中心地の一つであった可能性が指摘されています。ワット・プーは、後にアンコール時代のクメール帝国下でさらに拡張されるヒンドゥー教寺院の複合体であり、その起源は5世紀まで遡ります。8世紀までに、真臘はラオスに位置する「陸真臘」と、カンボジアのサンボール・プレイ・クック近郊にマヘンドラヴァルマンによって建国された「水真臘」に分裂しました。陸真臘は中国には「文単」として知られ、717年には唐の宮廷に使節団を派遣しています。その後、この地域はアンコールを中心とするクメール帝国の支配下に置かれ、その影響はタイやカンボジアにまで及びました。
また、6世紀頃には、モン族がチャオプラヤー川流域に王国を形成し、8世紀までには北上してチャンタブリー(現在のヴィエンチャン)のような都市国家を築きました。これらの都市国家は政治的に強く結びついていたわけではありませんが、スリランカから上座部仏教を取り入れるなど、文化的な共通性を持っていました。
タイ系民族の南下
ラオスの歴史における決定的な転換点の一つが、タイ系民族の南方への移住です。ラオ族を含むタイ系言語グループは、もともと中国南部の雲南省や広西チワン族自治区あたりに居住していたと考えられています。漢民族の勢力が南方に拡大するにつれて、タイ系民族は徐々に南下を始め、現在のラオス、タイ、ベトナム北部に移動しました。この移住は7世紀に始まり、1253年から1256年にかけてのモンゴルによる雲南征服によって加速されました。
南下したタイ系民族は、メコン川流域の肥沃な土地に定住しました。当時、この地域にはモン族のドヴァーラヴァティー文化や、その後のクメール文化が根付いており、北部の主要な都市国家はムアンスワ(後のシエンドン・シエントン、現在のルアンパバーン)として知られていました。移住してきたタイ系民族は、先住のオーストロアジア系民族を吸収、あるいは山岳地帯へと追いやる形で勢力を拡大し、メコン川沿いに多数の小規模な政治的単位である「ムアン」を形成していきました。これらのムアンは、当初はクメール帝国や、タイ北部に興ったスコータイ王国などの周辺大国に従属していました。
11世紀から12世紀にかけて、ラオ族やタイ族が中国南部から東南アジアに到着すると、彼らはこの地域を支配下に置きました。この大規模な移住により、それまで優勢だったクメールの影響力は徐々に後退し、ヒンドゥー教に代わって仏教が広まっていきました。
ラーンサーン王国前夜の情勢
13世紀後半になると、東南アジア大陸部の政治情勢は大きく変動します。モンゴル帝国の侵攻により、ビルマのパガン朝が滅亡し、クメール帝国の勢力も衰退しました。この力の空白に乗じて、タイ系民族が建国したスコータイ王国が台頭し、メコン川中流域にまで影響力を及ぼしました。しかし、14世紀半ばには、そのスコータイ王国も分裂し始め、一方でアユタヤ王国が勃興し、クメール王国は崩壊するなど、地域は戦乱の時代に突入しました。このような混乱の中、メコン川流域のラオ系ムアンを統一し、強力な王国を築き上げる機運が高まっていきました。この歴史的要請に応え、ラオスの歴史上最も重要な国家であるランサーン王国を建国したのが、ファー・グム王です。
ラーンサーン王国の興亡(1353年~1707年)
ラオスの国家としての歴史は、1353年にファー・グム王が建国したランサーン王国から始まります。「百万頭の象の王国」を意味するランサーンは、3世紀半にわたり東南アジア最大級の王国の一つとして栄え、ラオスの歴史的・文化的アイデンティティの基盤を築きました。
ファー・グムは、ムアンスワ(後のルアンパバーン)の王の孫でしたが、父と共に国を追われ、クメール帝国のアンコールで育ちました。彼はそこでクメール王の信頼を得て、その娘と結婚し、1万人の兵士を率いて故郷へと帰還します。彼は帰還の道中で多くの都市や村を征服し、スコータイ帝国の支配下にあったラオスの一部を奪還しました。そして1353年、彼はムアンスワで王として戴冠し、自らの王国を「ランサーン・ホーム・カーオ(百万頭の象と白い日傘の国)」と名付けました。白い日傘は王権を、象は軍事力を象徴していました。
ファー・グムはその後も征服活動を続け、王国の版図を拡大しました。北は中国との国境地帯であるシップソーンパンナー(現在の西双版納)から、南はコン島のメコン川急流地帯にあるサンボールまで、東はアンナン山脈に沿ったベトナム国境から、西はコーラート台地の西側断崖まで、その領土は広がっていました。彼はアユタヤ王国にも挑戦し、コーラート台地に対するランサーンの支配を認めさせました。こうして、ファー・グムは一代で東南アジア有数の大王国を築き上げたのです。
また、彼のクメール人の王妃は、王国に上座部仏教を伝えたとされています。上座部仏教は、その後ラオスで最も広く信仰される宗教となりました。ファー・グムはまた、神聖な仏像であるプラバーン仏をクメールからルアンパバーンにもたらしたことでも知られています。
15世紀から16世紀の発展と試練
ファー・グムの治世の後、ランサーン王国はいくつかの試練に直面します。1479年には、大越(ベトナム)からの侵攻を受け、首都ルアンパバーンが深刻な被害を受けました。しかし、王国はこの危機を乗り越え、16世紀には再び勢力を回復します。
16世紀半ば、ポーティサラート王の時代に、ランサーンは隣国のラーンナー王国と同盟を結び、ビルマ(ミャンマー)やアユタヤ(タイ)に対抗しました。1547年には、ポーティサラート王とその息子セーターティラートがそれぞれランサーンとラーンナーの王となり、両王国は一時的に統合されました。1550年代にランサーンの王位を継いだセーターティラートは、ランサーン史上最も偉大な王の一人とされています。
ビルマのタウングー朝による脅威が増大する中、セーターティラート王は1563年に首都をルアンパバーンからヴィエンチャンに移しました。これは、ビルマからの攻撃を避けるための戦略的な判断でした。ヴィエンチャンはその後、ランサーン王国の政治・経済・文化の中心地として発展します。セーターティラート王は、ヴィエンチャンの象徴であるタート・ルアン大仏塔を建立したことでも知られています。しかし、ビルマとの戦いは続き、セーターティラート王は1571年に戦場で消息を絶ちました。その後、ランサーンはビルマの属国となる時期を経験しますが、1591年にセーターティラート王の息子が独立を回復しました。
スーリニャ・ウォンサー王の黄金時代
17世紀、ランサーン王国はスーリニャ・ウォンサー王(在位1637年~1694年)の治世下で、政治的・経済的な最盛期を迎えます。57年間に及ぶ彼の治世は、平和と繁栄の時代として記憶されています。この時代、王国は安定し、芸術や文化が花開きました。
この黄金時代には、初めてヨーロッパ人がヴィエンチャンを訪れた記録が残っています。1640年代、オランダ東インド会社の使者ヘリット・ファン・ウイトホフと、イタリアのイエズス会宣教師ジョヴァンニ・マリア・レリアが相次いでヴィエンチャンを訪れ、当時の王国の様子を記録しています。彼らの記録は、当時のランサーン王国の社会や文化を知る上で貴重な資料となっています。
スーリニャ・ウォンサー王の治世は、ランサーン王国が統一国家として機能した最後の輝かしい時代でした。彼の統治下で、王国は法制度を整備し、交易を促進し、周辺諸国との安定した関係を築きました。
王国の分裂
1694年にスーリニャ・ウォンサー王が死去すると、王国は深刻な後継者争いに陥りました。王には明確な後継者がおらず、王位を巡る争いが激化しました。この内紛と、周辺諸国からの圧力により、統一ランサーン王国はついに分裂の時を迎えます。
1707年、王国は北部のルアンパバーン王国、中部のヴィエンチャン王国、そして南部のチャンパーサック王国の3つに分裂しました。スーリニャ・ウォンサーの孫であるキンキッサラートがルアンパバーンで王位を宣言し、ヴィエンチャンを治めていたセタティラート2世と対立したことが直接のきっかけでした。さらに1713年には、ヴィエンチャンに対する反乱の結果、チャンパーサック王国が独立しました。
こうして、350年近くにわたって東南アジアに君臨した偉大なランサーン王国は歴史の舞台から姿を消し、ラオスは分裂と弱体化の時代へと突入していくことになります。この分裂は、後のシャム(タイ)による支配、そしてフランスによる植民地化への道を開くことになりました。
三王国の鼎立と相互対立
1707年にランサーン王国が分裂した後、ラオスはルアンパバーン、ヴィエンチャン、チャンパーサックの三つの王国が並び立つ時代に入りました。これらの王国は、かつての統一王国の領土と権威を継承しようと互いに対立し、また、東のベトナム、西のシャム(1782年以降はチャックリー朝のシャム)、そして北のビルマという、より強力な隣国からの干渉を受けることになります。
ヴィエンチャン王国は、旧ランサーン王国の首都を継承し、当初は最も有力な王国と見なされていました。しかし、ルアンパバーン王国はヴィエンチャンの宗主権を認めず、独自の道を歩み始めました。チャンパーサック王国もまた、メコン川下流域の交易路を掌握し、独立した勢力として存在感を示しました。これらの王国は、しばしば互いに争い、時には外部勢力と結びついて他のラオス系王国を攻撃することもありました。例えば、1773年にはルアンパバーン王国軍がヴィエンチャンを攻撃しています。
周辺大国の影響と属国化
18世紀後半、東南アジア大陸部の勢力図は再び大きく変動します。ビルマのコンバウン朝が勢力を拡大し、アユタヤ王国を滅亡させると、その影響はラオス諸国にも及びました。ヴィエンチャン王オン・ブンは、ビルマに助けを求め、その属国となりました(1765年)。この動きは、ビルマを駆逐して新たにトンブリー朝を興したシャムのタークシン王を刺激しました。
タークシン王は、ラオス諸国におけるビルマの影響力を排除し、シャムの宗主権を確立することを目指しました。1778年末、シャム軍はコーラート台地とカンボジア経由でメコン川を遡上する二方向から進軍し、ルアンパバーン王国の援軍も得て、1779年初頭にヴィエンチャンを占領しました。この時、ヴィエンチャンにあった神聖なエメラルド仏とプラバーン仏がシャムによって奪われ、バンコクへと持ち去られました。この敗北により、ヴィエンチャン王国とチャンパーサック王国はシャムの属国となり、独立を保っていたルアンパバーン王国もやがてシャムの宗主権下に入りました。これ以降、1893年にフランスの保護国となるまで、ラオスはシャムの支配下に置かれることになります。
アヌウォン王の反乱とヴィエンチャンの破壊
シャムの支配下で、ラオス諸王国はある程度の自治を維持していましたが、重い朝貢と賦役を課せられていました。このような状況に対し、ヴィエンチャン王国の最後の王であるアヌウォン(在位1805年~1828年)は、ラオスの独立を回復するための反乱を起こします。
アヌウォンは、シャムの王位継承を巡る混乱に乗じ、またイギリスがシャムを攻撃するという誤った情報を信じて、1826年12月に挙兵しました。彼は1万の軍を率いてコーラート台地の諸都市に進軍し、一時はナコーンラーチャシーマーを占領するなど、当初は成功を収めました。しかし、シャムはすぐに大規模な反撃を組織し、アヌウォンの軍を破りました。
1827年、シャム軍はヴィエンチャンを徹底的に破壊しました。都市は焼き払われ、財宝は略奪され、住民は強制的に移住させられました。この破壊は壊滅的で、かつて繁栄を誇ったヴィエンチャンは廃墟と化しました。アヌウォン王は捕らえられ、鉄の籠に入れられてバンコクで見せしめにされ、その生涯を終えました。この反乱の失敗とヴィエンチャンの破壊は、ラオスの歴史における大きな悲劇であり、ラオス人のナショナリズムの形成に深い影響を与えました。
19世紀後半の混乱とフランスの進出
アヌウォン王の反乱後、旧ヴィエンチャン王国の領土はシャムに併合され、メコン川東岸の人口は5分の1にまで減少したと言われています。1830年代から1890年代にかけて、この地域は反乱、盗賊、奴隷狩り、そして中国雲南からの武装集団「ホー族」の侵入(ホー戦争)によって荒廃しました。
この力の真空状態は、すでにカンボジアとベトナム南部(コーチシナ)を支配下に置いていたフランスに、北方への進出の機会を与えました。フランスは、メコン川を中国へ至る水路として利用することに強い関心を持っていました。フランスの探検家や外交官、特にオーギュスト・パヴィーは、シャムの支配下にあるラオス地域の調査を進め、フランスの影響力を拡大しようと画策しました。
シャムは、メコン川流域におけるフランスの野心に警戒感を抱いていましたが、フランスはメコン川流域でのいくつかの武力衝突事件の後、1893年に軍艦をバンコク沖に派遣して圧力をかけました(パークナム事件)。イギリスの助言もあり、シャムはメコン川東岸からの撤退を余儀なくされ、その地域におけるフランスの保護権を公式に認めました。これにより、ラオスの歴史はシャムの支配からフランスの植民地支配へと、新たな時代を迎えることになります。
フランス植民地時代(1893年~1953年)
1893年のパークナム事件とそれに続く条約により、シャムはメコン川東岸の領土に対する宗主権を放棄し、この地域はフランスの保護下に置かれることになりました。フランスは、この領土を「ラオス」と名付け、フランス領インドシナに編入しました。当初、フランスの支配は、シャムの属国であったルアンパバーン王国を保護国として存続させる形を取りました。しかし、その他の地域はフランスの直接統治下に置かれました。その後、1899年にプアン公国(シエンクワーン地方)、1904年にチャンパーサック王国が併合され、現在のラオスの国境線がほぼ確定しました。
フランスはヴィエンチャンに行政の中心を置き、保護領全体を統治しました。ルアンパバーン王国は名目上は国王による自治が認められていましたが、実権はフランス人の高等弁務官が握っていました。高等弁務官は、インドシナ総督の監督下にあり、各県のフランス人理事官を通じて地方行政を管理しました。フランスの植民地行政は、フランス人、ベトナム人、そしてラオス人の官吏によって運営されていました。
植民地統治下の社会と経済
フランスにとって、ラオスはベトナムやカンボジアほど経済的に重要な地域ではありませんでした。海港がなく、天然資源も限られていたため、フランスは大規模な経済開発をほとんど行いませんでした。主な経済活動は、アヘン、コーヒー、錫の生産と、一部のプランテーション農業に限られていました。統治のための費用は、住民に課せられた重税によって賄われ、これはしばしば民衆の反乱を引き起こしました。
一方で、フランスの統治はラオスにいくつかの近代的な変化をもたらしました。ペサラート王子のような近代的な教育を受けたエリート層が台頭し、行政制度の改革や教育の普及に尽力しました。彼は、官吏の階級制度や年金制度の確立、地方長で構成される諮問議会の組織、法律行政学校の設立など、多くの改革を行いました。また、仏教僧団の管理制度を再編成し、パーリ語で教育を行う僧侶のための学校を設立しました。しかし、これらの近代化の恩恵は、ごく一部のエリート層に限られていました。
フランスの植民地政策は、ベトナム人をラオスの行政や商業の分野で積極的に登用したため、ラオス人の間には反ベトナム感情と、フランス支配からの独立を求めるナショナリズムが高まっていきました。
第二次世界大戦と独立運動の胎動
第二次世界大戦は、ラオスにおけるフランスの支配を大きく揺るがしました。1940年にフランス本国がドイツに占領されると、その影響はインドシナにも及びました。1941年、日本軍の圧力の下、フランスのヴィシー政権は、1904年にフランスが獲得した領土をタイ(1939年にシャムから改称)に返還しました。その後、日本軍はラオスを含むインドシナ全域に進駐しましたが、当初はフランスの植民地行政機構を温存しました。
しかし、1945年3月、戦況の悪化を背景に、日本軍はフランスの植民地支配の終焉を宣言し(明号作戦)、シーサワーン・ウォン王にラオスの独立を宣言させました。これにより、ラオスは日本の傀儡国家として一時的に独立します。
日本の敗戦後、1945年8月にラオスの独立が再び宣言されると、ペサラート王子を中心とする民族主義者たちは、フランスの再支配に抵抗するため、「ラーオ・イサラ(自由ラオス)」運動を結成しました。ラーオ・イサラ政府は一時的にヴィエンチャンを掌握しましたが、1946年4月までに、再進駐してきたフランス軍によって鎮圧され、指導者たちはタイへ亡命しました。
限定的な自治から完全独立へ
フランスはラオスの再支配を確立しましたが、高まる独立の気運を無視することはできませんでした。1947年、新憲法が公布され、ラオスは立憲君主国となりました。そして1949年7月、フランス・ラオス条約が調印され、ラオスはフランス連合内での限定的な自治権を認められました。これにより、亡命していたラーオ・イサラの指導者の多くは帰国し、新政府に参加しました。
しかし、この協定は軍事権など重要な権限を依然としてフランスが保持するものであり、完全な独立を求める急進派はこれに反対しました。スパーヌウォン王子やカイソーン・ポムウィハーンといった人々は、ベトナムの独立運動組織であるベトミンと連携し、武力による解放闘争を開始しました。このグループが、後に「パテート・ラーオ(ラオスの国)」として知られる共産主義勢力の中核となります。
第一次インドシナ戦争(1946年~1954年)が激化する中、パテート・ラーオはベトミンの支援を受けてラオス北東部で勢力を拡大しました。1953年、フランスはディエンビエンフーの戦いを前に、ラオスに対する軍事権を除く残りの権限をラオス王国政府に移譲するフランス・ラオス友好連携条約に調印し、ラオスはフランス連合の一員として独立を達成しました。そして、1954年のジュネーヴ会議によって第一次インドシナ戦争が終結し、フランス領インドシナが解体されると、ラオスは完全な独立国家として国際的に承認されました。しかし、この独立は、ラオスを新たな、そしてより深刻な内戦へと導く序章に過ぎませんでした。