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18_80 ヨーロッパ世界の形成と変動 / 東ヨーロッパ世界の成立

キエフ公国とは わかりやすい世界史用語1700

著者名: ピアソラ
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キエフ公国の歴史

キエフ公国(またはキエフ・ルーシ)は、9世紀後半から13世紀半ばにかけて東ヨーロッパに存在した、東スラブ人初の国家であり、後には諸公国の連合体となった国家です。その領土は最盛期には北の白海から南の黒海、西はヴィスワ川源流から東はタマン半島にまで及び、東スラブ系の諸部族を統一しました。この国家は、現代のベラルーシ、ロシア、ウクライナの文化的祖先と見なされており、これら三国がその歴史的継承を主張しています。



起源と建国 (9世紀)


建国前夜の東ヨーロッパ

9世紀にキエフ公国が出現する以前、黒海の北方に広がる広大な地域には、主に東スラブ系の部族が居住していました。

ヴァリャーグ(ヴァイキング)の到来と「ルーシ」の起源

キエフ公国の建国と「ルーシ」という名称の起源については、歴史家の間で見解が分かれています。伝統的な説は、12世紀にキエフで編纂された『原初年代記』(過ぎし年月の物語)に記されています。それによると、この地域の諸部族は内紛に苦しんでおり、秩序を回復するためにスカンジナビアからヴァリャーグ(ヴァイキング)の一派である「ルーシ」を招き、統治を依頼したとされています。
この招きに応じたのが、リューリクという名の首長とその兄弟たちでした。彼らは862年頃にノヴゴロドを拠点とし、リューリク朝を創始したと伝えられています。このリューリク朝は、後にイヴァン4世(雷帝)の治世を経て、1598年にフョードル1世が亡くなるまで続くことになります。
一方で、「反ノルマン主義」の歴史家たちは、スラブ地域におけるノース人の影響はごく僅かであったと主張していますが、物的証拠や文献資料は、ヴァリャーグ・ルーシがこの地域の発展に重要な役割を果たしたことを示唆しています。彼らは当初、毛皮、蜂蜜、蝋、木材、そして奴隷といった豊富な天然資源を求め、東方のビザンツ帝国やアッバース朝との交易のためにこの地へやって来ました。

オレグによるキエフ遷都と国家の成立

リューリクの死後、その親族であるオレグ(在位:879年頃 - 912年)が幼いイーゴリの摂政として後を継ぎました。『原初年代記』によれば、882年、オレグは軍を率いてドニエプル川を南下し、スモレンスクとリューベチを占領した後、キエフに至りました。そこで彼は、当時キエフを支配していたアスコルドとジールを追放して殺害し、キエフを自らの都と定め、「ルーシの諸都市の母」と宣言しました。これが一般的にキエフ公国の成立と見なされています。
オレグはキエフを拠点として周辺地域への支配を固め、東スラブ諸部族に貢物を課しました。新たなキエフ国家は、輸出用の豊富な毛皮、蜜蝋、蜂蜜、奴隷の供給源であったこと、そして東ヨーロッパの3つの主要な交易路を支配していたことにより繁栄しました。北方のノヴゴロドは、バルト海とヴォルガ交易路を結ぶ商業の中心地として機能し、ヴォルガ・ブルガールやハザールの地を経て、遠くはカスピ海を越えてバグダッドに至る市場へのアクセスを提供しました。そして、キエフを通過する「ヴァリャーグからギリシャへの道」として知られるドニエプル川の水路は、ビザンツ帝国との交易の生命線となりました。
オレグはビザンツ帝国への遠征も行い、最終的には911年に有利な通商条約を締結し、キエフ公国の経済的繁栄の基礎を築きました。

国家の拡大とキリスト教の受容 (10世紀)


初期の君主たち:イーゴリ、オリガ、スヴャトスラフ

オレグの後を継いだイーゴリ(在位:912年頃 - 945年)は、リューリク朝の創始者と見なされていますが、その治世はオレグほど安定していませんでした。945年にビザンツ帝国と結んだ条約は、911年のものよりも不利な条件でした。ビザンツ皇帝コンスタンティノス7世ポルフュロゲネトスの著作には、当時のキエフ公国の交易慣行が記されています。それによると、キエフの公たちは冬の間に近隣の部族を巡回して、毛皮、金銭、奴隷などの貢物を集めました。春になると、それらの品物を小舟に積み、遊牧民の襲撃を避けるために船団を組んでドニエプル川を下り、最終目的地であるコンスタンティノープルへと向かいました。イーゴリは、貢物の取り立てを巡る争いからデレヴリャーネ族によって殺害されました。
イーゴリの死後、その妻であるオリガ(摂政:945年 - 962年)が幼い息子スヴャトスラフの摂政として統治しました。オリガはキエフ公国を統治した唯一の女性君主として知られています。彼女は夫を殺害したデレヴリャーネ族への苛烈な復讐で有名ですが、同時に統治者として優れた手腕を発揮しました。彼女は統治家で初めてビザンツ式キリスト教に改宗し、ビザンツ帝国との関係改善に努めました。
オリガの息子、スヴャトスラフ1世(在位:962年 - 972年)は、スカンジナビアの伝統に固執した最後のキエフ公でした。彼は生涯のほとんどを遠征に費やし、国家の領土を大幅に拡大しました。彼の最も重要な功績の一つは、東方の強大な勢力であったハザール・カガン国を征服したことです。しかし、彼はバルカン半島への野心的な遠征の帰途、ペチェネグ族の待ち伏せにあい、戦死しました。

ウラジーミル大公とキリスト教の国教化

スヴャトスラフの死後、彼の息子たちの間で権力闘争が勃発しました。この争いを制したのが、ウラジーミル1世(在位:980年 - 1015年)、後に「大公」と称される人物です。当初、ノヴゴロドの公であったウラジーミルは、異母兄ヤロポルクによってもう一人の兄オレグが殺害されると、一旦スカンジナビアへ逃亡しました。しかし、ヴァリャーグの傭兵を率いて帰還し、ヤロポルクを倒してキエフの支配権を確立しました。
ウラジーミルの治世は、キエフ公国の歴史における極めて重要な転換点となりました。彼は、依然としてキエフ公国の支配下になかった東スラブ系の部族を統合し、領土を拡大しました。また、部族の自治を終わらせるために、国土を分割し、息子たちを地方の公として派遣する新たな行政システムを導入しました。これにより、地方の公はキエフ大公に従属する形となりました。
彼の最大の功績は、988年にビザンツ帝国の正教会を国教として採用したことです。年代記によれば、ウラジーミルはイスラム教、ユダヤ教、カトリックなど様々な宗教を検討したとされています。イスラム教は飲酒を禁じているため、民衆に受け入れられないだろうと考えたと伝えられています。最終的に彼が正教会を選んだのは、コンスタンティノープルに派遣した使節団が、その壮麗な儀式、特にハギア・ソフィア大聖堂での典礼に感銘を受け、「我々は天にいるのか地にいるのか分からなくなった」と報告したことが一因とされています。
この改宗は、単なる宗教的な選択にとどまらず、高度な政治的判断でした。ウラジーミルはビザンツ皇帝バシレイオス2世の妹アンナと結婚し、ビザンツ帝国や他のヨーロッパのキリスト教国との政治的、経済的、文化的関係を強化しました。ウラジーミルは自ら洗礼を受けた後、勅令によってキエフの全住民、さらにはその先の領民にもキリスト教を広めました。このキリスト教化は、多様な部族から構成されていたキエフ公国に、宗教という共通の絆をもたらし、国家としての統一性を高める上で決定的な役割を果たしました。

黄金時代 (11世紀前半)


ヤロスラフ賢公の治世

ウラジーミルの死後、再び息子たちの間で血なまぐさい後継者争いが起こりました。この内紛を最終的に制し、1019年にキエフ大公となったのがヤロスラフ1世(在位:1019年 - 1054年)、「賢公」として知られる人物です。彼の治世は、キエフ公国の「黄金時代」の頂点と見なされています。
ヤロスラフは、ノヴゴロド市民とヴァリャーグ傭兵の支援を得て、兄スヴャトポルク(「呪われし者」と呼ばれる)を破り、権力を掌握しました。彼は1036年までにキエフ公国全土の単独支配を確立しました。
ヤロスラフの統治下で、キエフは東ヨーロッパにおける主要な政治・文化の中心地へと発展しました。彼は首都キエフを壮麗な都市にすべく、ビザンツ様式の聖ソフィア大聖堂を建立しました。これはコンスタンティノープルのハギア・ソフィアに対抗する意図があったとされ、キエフが「新たなコンスタンティノープル」であることを象徴するものでした。同様の大聖堂はノヴゴロドにも建設されました。また、有名な「黄金の門」を含む要塞を築き、都市を美化しました。

法典の編纂と文化の振興

ヤロスラフの最も重要な功績の一つが、キエフ公国初の成文法典である『ルースカヤ・プラウダ』(ルーシの法)を公布したことです。この法典は、ビザンツのユスティニアヌス法典を参考にしつつ、現地の法慣習や公の布告を成文化したものでした。
文化面では、ヤロスラフは学問と教育を熱心に後援しました。彼は多くの書物を収集し、ギリシャ語の宗教文献をスラブ語に翻訳させました。聖ソフィア大聖堂には壮大な図書館が併設され、国内初の修道院や学校も設立されたと伝えられています。これにより、キリスト教の受容以降広まり始めた文字文化が、さらに発展しました。

外交政策と国際的地位

ヤロスラフは巧みな外交政策を展開し、キエフ公国の国際的地位を大いに高めました。彼は婚姻政策を積極的に用い、自身の姉妹と3人の娘をそれぞれポーランド、フランス、ハンガリー、ノルウェーの王に嫁がせました。また、息子たちもヨーロッパ各国の王女と結婚させ、周辺諸国との平和関係と交易関係を確立しました。
軍事面でも、ヤロスラフは国境の防衛と領土拡大に成功しました。彼は南方の遊牧民ペチェネグ族の脅威から国を守るために、一連の砦を建設し、決定的な勝利を収めました。
ヤロスラフの治世下で、キエフ公国は経済的にも繁栄しました。ヴァリャーグからギリシャへの道は依然として重要な交易路であり、キエフは毛皮、蜜蝋、蜂蜜などの北方の産物と、ビザンツ帝国からの銀、金、奢侈品が集まる国際的な商業都市として栄えました。11世紀のキエフの人口は数万人に達し、ヨーロッパ有数の大都市でした。
ヤロスラフ賢公の死(1054年)は、キエフ公国の黄金時代の終わりと、その後の衰退の始まりを告げる出来事となりました。

衰退と分裂 (11世紀後半 - 13世紀前半)


後継者争いと公国の分裂

ヤロスラフ賢公は、自身の死後に息子たちの間で権力闘争が起こるのを防ぐため、相続に関する新たな制度を導入しようと試みました。彼は帝国を5人の息子に分割し、キエフ大公位を継ぐ長男イジャスラフに他の兄弟が従うよう諭しました。この制度は、キエフ公国の領土全体がリューリク家のものであるという考えに基づきつつ、年長者相続を優先するものでした。
しかし、この試みは長続きせず、ヤロスラフの死後、兄弟間での内紛が勃発しました。1054年から1125年にかけての時代は、比較的統一された権威が保たれた時期と見なされることもありますが、実際には公国の統一性は徐々に失われていきました。キエフ大公の権威は名目上のものとなり、各地方の公は自らの領地で独立した支配を行うようになりました。12世紀末までには、キエフ公国は実質的に約12の独立した公国に分裂していました。
統一国家を維持した最後の統治者は、ウラジーミル・モノマフの息子であるムスチスラフ大公でした。彼の死後(1132年)、キエフ公国は急速な衰退期に入りました。後継者たちは、クマン人(ポロヴェツ人)といった外敵の脅威に対処するよりも、互いの領土を巡る争いに明け暮れました。

経済的要因と交易路の変化

キエフ公国の衰退には、経済的な要因も大きく関わっていました。キエフの富と繁栄の礎であった「ヴァリャーグからギリシャへの道」は、いくつかの理由でその重要性を失っていきました。
第一に、主要な貿易相手であったビザンツ帝国の衰退です。1071年のマンジケルトの戦いでの敗北以降、ビザンツ帝国は弱体化し、キエフ公国との貿易も縮小しました。
第二に、十字軍の遠征がヨーロッパの交易路に変化をもたらしました。特に1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノープル陥落は、ドニエプル川の交易路を決定的に辺境化させました。西ヨーロッパは、アジアや近東への新たな交易路を開拓し、キエフ公国の領土を通過する必要性が薄れました。
これにより、経済の中心は徐々に北東部のウラジーミル・スーズダリ公国や、バルト海とヴォルガ川の交易路を支配して繁栄していたノヴゴロド共和国へと移っていきました。ノヴゴロドは独自の寡頭制を敷き、民会(ヴェーチェ)が重要な決定を下し、公を軍事指導者として選挙で選ぶなど、キエフからの独立性を強めていきました。1136年、ノヴゴロドはキエフに対して反乱を起こし、独立した都市共和国となりました。

キエフの地位低下

政治的・経済的な中心地としての地位を失う中で、キエフ自体の権威も失墜しました。1169年、ウラジーミル・スーズダリ公アンドレイ・ボゴリュブスキーが率いる諸公連合軍がキエフを略奪するという衝撃的な事件が起こりました。これは、かつて「ルーシの諸都市の母」と崇められたキエフが、もはや特別な存在ではなく、他の公国と同等の、あるいはそれ以下の存在と見なされるようになったことを示す象徴的な出来事でした。

モンゴルの侵攻とキエフ公国の終焉 (13世紀)


モンゴル帝国の襲来

13世紀初頭、中央アジアの草原地帯でチンギス・カンによって統一されたモンゴル帝国は、急速に勢力を拡大し、西へと進軍を開始しました。すでに内紛によって弱体化し、分裂していたキエフ公国の諸公国は、この未曽有の軍事力に対して結束して対抗することができませんでした。
モンゴル軍の最初の偵察部隊は、1223年にキエフ公国の領土に現れました。この時、いくつかの公国とクマン人の連合軍がカルカ河畔でモンゴル軍と衝突しましたが、壊滅的な敗北を喫しました(カルカ河畔の戦い)。この敗北はモンゴルの脅威を示す警告となるべきでしたが、諸公はその後も内紛を続け、統一した防衛体制を築くことはありませんでした。

バトゥによる全面侵攻

1237年、チンギス・カンの孫であるバトゥが率いる大規模なモンゴル軍が、キエフ公国への全面侵攻を開始しました。彼らは高度に組織された騎馬弓兵部隊であり、当時のヨーロッパでは比類のない軍事力を誇っていました。
モンゴル軍はまず北東部のリャザン公国を攻撃し、首都リャザンを破壊しました。その後、コロムナ、モスクワを焼き払い、1238年にはウラジーミル・スーズダリ公国の首都ウラジーミルを包囲・陥落させました。シチ川の戦いでウラジーミル大公ユーリー2世が戦死し、組織的な抵抗は終わりを告げました。
その後、モンゴル軍は南下し、チェルニゴフやペレヤスラヴリといった主要都市を次々と破壊しました。

キエフの陥落と公国の滅亡

そして1240年、モンゴル軍はついにキエフを包囲しました。長い包囲戦の末、同年12月6日にキエフは陥落し、徹底的に破壊されました。当時の教皇使節であったプラノ・カルピニは、1246年にキエフを通過した際に、「我々はその地を旅している間、地面に散乱する無数の頭蓋骨や人骨に出くわした」と記しており、その破壊の凄まじさを伝えています。
キエフの陥落は、事実上、キエフ公国の終焉を意味する出来事と見なされています。この侵攻により、多くの都市が破壊され、文化や経済は壊滅的な打撃を受けました。生き残った諸公国は、モンゴル帝国の一部であるジョチ・ウルス(金帳汗国)の属国となり、貢納を義務付けられました。
モンゴルの支配(「タタールの軛」)は約2世紀にわたって続き、この期間、ルーシの地は西ヨーロッパやビザンツ帝国から孤立しました。政治組織や商業経済は崩壊しましたが、モンゴルが宗教には寛容であったため、正教会だけが統一感を維持し、言語や文化、伝統を後世に伝える役割を果たしました。

キエフ公国の社会、経済、文化


社会構造

キエフ公国の社会は階層的でした。頂点に君臨したのはキエフ大公で、最高の権力と権威を持っていました。大公は、ボヤール(貴族)と呼ばれる有力者たちの会議に支えられていました。ボヤールの下には、地方の役人や軍の指揮官を務める下級貴族がいました。
人口の大部分を占めていたのは、土地を耕し、地元の領主に貢物を納める農民でした。彼らの中には、土地に縛り付けられ、領主の許可なく移動できない農奴も含まれていました。都市部には、商人や職人などが居住していました。

経済と交易

キエフ公国の経済は、農業と交易を二本の柱としていました。農業技術は、北部の焼畑農業から、より効率的な鋤を使った耕作へと進化しました。穀物のほか、家畜の飼育も行われていました。
しかし、経済の原動力となったのは、やはり交易でした。キエフ公国は、バルト海と黒海を結ぶ戦略的な位置にあり、ヨーロッパとアジアを結ぶ重要な交易路を支配していました。主な輸出品は、毛皮、蜜蝋、蜂蜜、そして奴隷でした。これらはビザンツ帝国やイスラム世界で高く評価され、銀貨や絹、香辛料、武器などと交換されました。
ビザンツ皇帝コンスタンティノス7世が記したように、貢物の徴収は交易の原始的な形態であり、これが広大な領土を結びつける役割を果たしていました。キエフ、ノヴゴロド、スモレンスクなどの都市は、国際的な商業センターとして繁栄しました。

文化と宗教

キエフ公国の文化は、スラブの土着文化と、ビザンツ帝国から受容したキリスト教文化が融合したものでした。キリスト教の受容以前は、スラブ固有の多神教が信仰されていました。
988年のキリスト教国教化は、文化に絶大な影響を与えました。ビザンツ帝国は当時最も進んだ文化を持つ国の一つであり、キエフ公国はその影響圏に入りました。文字文化が広まり、『原初年代記』のような年代記や、聖人伝、説教などが書かれるようになりました。
建築や美術においても、ビザンツ様式が取り入れられました。キエフの聖ソフィア大聖堂に見られる壮大なモザイクやフレスコ画は、その代表例です。ビザンツの職人や芸術家がルーシの地へ赴き、現地の職人と協力して教会などを建設しました。このようにして、キエフ公国はビザンツの文化を吸収しつつ、独自の文化を育んでいきました。

遺産と歴史的意義

キエフ公国は、13世紀のモンゴル侵攻によって滅亡しましたが、その遺産は後世に大きな影響を与えました。
第一に、キエフ公国は東スラブ世界における最初の統一国家であり、現代のベラルーシ、ロシア、ウクライナという3つの国家の共通の文化的・歴史的祖先と見なされています。これら三国は、それぞれがキエフ公国の正当な後継者であると主張しており、その歴史解釈は現代の政治的な対立にも影響を及ぼしています。
第二に、キエフ公国がビザンツ帝国から正教会を受容したことは、この地域の宗教的・文化的なアイデンティティを決定づけました。正教会は、モンゴル支配下やその後の時代においても、東スラブの人々の精神的な支柱であり続けました。
第三に、キエフ公国の時代に形成された交易路や都市は、その後のこの地域の経済発展の基礎となりました。
モンゴルの侵攻によってキエフが壊滅した後、政治の中心は北東のウラジーミル・スーズダリ公国、そして後にはモスクワへと移っていきました。15世紀末には、モスクワ大公国がモンゴルの支配から脱し、キエフ公国の後継者として「全ルーシ」の統一を掲げるようになります。
このように、キエフ公国は中世ヨーロッパにおいて重要な役割を果たしただけでなく、その崩壊後も東ヨーロッパ世界の歴史的展開に決定的な影響を与え続けた国家でした。
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・キエフ公国とは わかりやすい世界史用語1700

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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