イェルサレム王国
イェルサレム王国は、十字軍国家として知られる中世の十字軍によって設立された国家の中で最も重要な存在でした。この王国は1099年から1291年までの約200年間にわたって存続し、中東地域における西欧キリスト教勢力の重要な拠点として機能しました。
建国の背景と第一次十字軍
イェルサレム王国の成立は、1095年にクレルモン公会議で教皇ウルバヌス2世が行った第一次十字軍の呼びかけに端を発します。教皇は、セルジューク朝トルコ人とアラブ人の侵攻に対してビザンツ帝国を支援し、十字軍を宣言しました。
セルジューク朝は以前統一されたセルジューク帝国を支配していましたが、マリク・シャー1世が1092年に死去した後、帝国はいくつかの小国家に分裂していました。シリアでは、マリク・シャーの弟テュトゥシュ1世が1095年に死去した後、その息子たちのファハル・アル・ムルク・ラドワンとドゥカクがそれぞれアレッポとダマスカスを継承し、シリアを敵対する首長たちの間で分割していました。この分裂状態により、十字軍がエルサレムに至る道中で直面する軍事的抵抗を克服することが可能となりました。
エジプトとパレスチナの大部分はファーティマ朝カリフ国によって支配されていましたが、セルジューク朝との戦争により地域のキリスト教徒と西欧巡礼者に大きな混乱をもたらしていました。ファーティマ朝は1073年にエルサレムをセルジューク朝に失い、十字軍の到着直前の1098年にアルトゥク朝から奪還していました。
1099年6月、十字軍はエルサレムに到着しました。周辺の町々(ラムラ、リッダ、ベツレヘムなど)を最初に占領し、7月15日にエルサレム自体を攻略しました。7月22日には聖墳墓教会で評議会が開かれ、新設されたイェルサレム王国の王を決定することとなりました。
トゥールーズ伯レーモン4世とゴドフロワ・ド・ブイヨンが十字軍とエルサレム攻囲戦の指導者として認められていました。レーモンはより裕福で力のある人物でしたが、王位に就くことを最初拒否しました。これは敬虔さを示そうとしていたか、他の貴族たちが彼の選出を主張することを期待していたと考えられています。より人気のあったゴドフロワは躊躇することなく指導者の地位を受け入れました。
12世紀後期に執筆したティルスのウィリアムによれば、ゴドフロワはキリストが「茨の冠」をかぶった場所で「金の冠」をかぶることを拒否したとされています。
王国の拡張とボードゥアン1世の治世
ゴドフロワは1100年に病気で死去し、その弟ボードゥアン・ド・ブーローニュが王位を継承しました。ボードゥアンは自らを「エルサレムのラテン人の王」として宣言し、真の意味でイェルサレム王国の創設者となりました。彼は1118年まで在位し、王国を大幅に拡張しました。
ボードゥアン1世の治世中に、王国はさらに拡大しました。1101年の小十字軍により援軍が王国にもたらされ、ヨーロッパ系住民の数が増加しました。ボードゥアンは1115年のヨルダン川対岸への遠征後、フランク人と現地のキリスト教徒でエルサレムの人口を補充しました。
イタリアの都市国家や他の冒険者、特にノルウェー王シーグルド1世の支援により、ボードゥアンは港湾都市アッコン(1104年)、ベイルート(1110年)、シドン(1111年)を攻略し、北方の他の十字軍国家(エデッサ、アンティオキア、トリポリ)に対する宗主権を行使しました。彼は南西部のラムラでのファーティマ朝との数々の戦闘や、1113年の北東部アル・サンナブラでのダマスカスとモスルとの戦いなど、イスラム教徒の侵攻に対して首尾よく防御しました。
ボードゥアンは1118年にエジプトへの遠征中に後継者なくして死去し、王国は彼の兄弟ブーローニュのユスタシュ3世に提供されましたが、彼は関心を示さず、代わりに王冠はボードゥアンの親戚であるル・ブールのボードゥアンに渡されました。
第二代国王ボードゥアン2世とメリザンド女王
ボードゥアン2世は有能な統治者であり、ファーティマ朝とセルジューク朝の侵攻に対して成功裏に防御しました。1119年の血の野の戦いでアンティオキアが大幅に弱体化し、ボードゥアン自身も1123年から1124年にかけてアレッポの首長によって捕虜にされましたが、1125年のアザズの戦いで十字軍国家を勝利に導きました。
彼の治世では、最初の軍事修道会である聖ヨハネ騎士団とテンプル騎士団が設立され、1120年のナブルス公会議で王国最初の成文法が編纂され、1124年にはヴェネツィア共和国との最初の商業条約「パクトゥム・ワルムンディ」が締結されました。ヴェネツィアからの海軍と軍事支援の増加により、その年にティルスが攻略されました。
ボードゥアン2世はアルメニア貴族のメリテネのモルフィアと結婚し、4人の娘をもうけました。長女メリザンドは父の後継者となり、1131年の父の死後、夫アンジューのフルク5世と共に王位に就きました。
十字軍国家の政治構造と社会
イェルサレム王国は封建君主制として統治されていました。王は形式上は高等法院の長であり軍の最高司令官でしたが、大貴族たちとの絶え間ない交渉が必要でした。これらの男爵は大土地所有者であり、十字軍中に自らの戦士団を率いて旧セルジューク朝領地を占領した人々でした。理論的には、男爵は王に軍事奉仕(騎士の割当て)を提供すべきでしたが、王が彼らの独立を尊重する誓いを破ったと考えた場合には実際にはこれを拒否することができました。
王国の人口は民族的、宗教的、言語的に多様でした。十字軍は自らとその子孫をカトリック系の少数エリートとして確立しました。彼らはヨーロッパの故郷から多くの慣習と制度を輸入し、王国の存続期間を通じて西欧との密接な家族的・政治的関係を維持しました。
王国の住民の大多数は現地のキリスト教徒、特にギリシャ正教とシリア正教、そしてスンニ派とシーア派のイスラム教徒でした。現地のキリスト教徒とイスラム教徒は周辺化された下層階級であり、ギリシャ語とアラビア語を話す傾向がありましたが、主にフランスから来た十字軍は古フランス語を話していました。また、少数のユダヤ人とサマリア人もいました。
軍事修道会の役割
イェルサレム王国の防衛において、軍事修道会は極めて重要な役割を果たしました。最も有名なのはテンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団(ホスピタル騎士団)でした。これらの修道会は修道士でありながら戦士でもある専門的な騎士修道士で構成され、レヴァントで最も訓練された戦闘員でした。
テンプル騎士団は1119年頃に設立され、当初はエルサレムへの巡礼者を保護することを目的としていました。一方、聖ヨハネ騎士団はより古い起源を持ち、元々は病院として機能していましたが、後に軍事的役割も担うようになりました。これらの修道会は特に重要な要塞や城砦を守備する任務を与えられ、自分たち以外には忠誠を誓わなかったため、時として王の計画に反して行動することもありました。
経済と貿易
イェルサレム王国の沿岸平野は特に肥沃で大きな富の源泉でした。現在も使用されているローマ時代の水道橋や灌漑水路、そしてフランク人が建設した新しい施設により生産性が向上しました。サトウキビは大きな収入源で、実際に12-13世紀にヨーロッパで消費された砂糖の大部分は十字軍国家から来ていました。
その他の作物には小麦、トウモロコシ、粟、大麦、果物、オリーブオイル、ワイン、綿が含まれました。絹とリネンの織物が輸出され、東から西へ通過する貿易(スパイス、染料、木材、象牙、金属、製造品)は税金の徴収により利益をもたらしました。アッコンは東地中海で最も重要な貿易港となり、ビザンツ、北アフリカ、アラビアからの商人を歓迎しました。
サラディンの台頭とヒッティーンの戦い
12世紀後半になると、イェルサレム王国は新たな脅威に直面しました。エジプトとシリアのスルタンであるサラディン(在位1174-1193年)の台頭です。彼は1187年7月4日のヒッティーンの戦いでイェルサレム王国率いるラテン軍を大敗させました。
ヒッティーンの戦いは、十字軍史上最も決定的な敗北の一つとなりました。この戦いで十字軍軍は壊滅し、戦闘能力を完全に失いました。ギー・ド・リュジニャン王を含む大多数の貴族が捕虜となり、数千人のイスラム教奴隷が解放されました。9月中旬までに、サラディンはアッコン、ナブルス、ヤッファ、トロン、シドン、ベイルート、アスカロンを占領しました。
イェルサレムの陥落と第二王国
ヒッティーンの戦いでの破滅的敗北の後、イェルサレムは無防備状態となりました。1187年10月2日、ムハンマドの「夜の旅」の記念日に、サラディンはエルサレムに勝利の入城を果たしました。この災厄により教皇グレゴリウス8世は第三次十字軍(1189-1192年)を発動しました。
第三次十字軍はある程度の成功を収め、1191年にアッコンを奪還しましたが、エルサレムを攻略し維持するのに十分な資源がなく、聖都はイスラム教徒の手に残されました。こうしてアッコンがイェルサレム王国とラテン東方全体の新たな首都となりました。この時期の国家は「第二イェルサレム王国」または「アッコン王国」として知られています。
フリードリヒ2世と外交による一時的回復
第四次十字軍(1202-1204年)が代わりにコンスタンティノープルを攻撃し、第五次十字軍(1217-1221年)がナイル川で災厄に見舞われた後、キリスト教徒が再びエルサレムを統治することは永遠にないように思われました。しかし、予想に反して、彼らは1229年から1243年まで実際に都市を回復しました。今度は戦争ではなく外交によってでした。
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(在位1220-1250年)が率いた第六次十字軍(1228-1229年)は、エジプトとシリアのアイユーブ朝スルタン、アル・カミル(在位1218-1238年)と交渉し、1229年に聖都の引き渡しを実現しました。アル・カミルはダマスカスに関する内政問題と北イラクでの脅威に直面していたため、経済的・軍事的価値の低いエルサレムを譲歩することで破壊的な戦争を避けました。
最終的な衰退と滅亡
エルサレムの回復にもかかわらず、アッコンがイェルサレム王国の首都であり続けました。これは聖都が再び失われることになるため、賢明な決定でした。今度はアイユーブ朝の同盟者である遊牧民のホラズム人(ホワレズム人)によって1244年8月23日に攻略されました。
1244年10月17日にガザのラ・フォルビ(ハルビヤ)の戦いで大規模なラテン軍とダマスカス・ホムスのイスラム同盟軍が敗北した時、アイユーブ朝の中東支配は大幅に強化されました。この戦いで1,000人以上の騎士が戦死し、十字軍国家が真に回復することのない災厄となりました。
13世紀後半には新たな脅威がモンゴル帝国の形で現れました。モンゴル軍は西方へ容赦なく進軍し、アスカロンとエルサレムを襲撃しました。一方、エジプトに拠点を置くマムルーク朝(1250-1517年)がアイユーブ朝に取って代わりました。
マムルーク朝の傑出した将軍バイバルス(在位1260-1277年)は、モンゴル軍をユーフラテス川まで押し戻し、ラテン東方の大部分を占領して、アッコンとアンティオキア周辺の2つの拠点のみが残されました。強大なアンティオキアは1268年に陥落し、アッコンは1291年に陥落しました。こうしてイェルサレム王国とラテン東方は、キプロスでの亡命政府としてのみ存在し、聖地は最終的にキリスト教徒の手から失われました。
文化的・宗教的側面
イェルサレム王国の宗教的側面は複雑でした。ラテン教会の階層が地元の東方正教会とシリア正教会の権威の上に確立されましたが、これらの既存の階層も維持されました(カトリック教会は彼らを分裂主義者として不当と見なし、その逆もまた同様でした)。ラテン総大司教の下には4つの大司教区と多数の司教区がありました。
王国では非キリスト教宗教に対する一定の寛容が発達しましたが、いくつかの制限とカトリック・キリスト教徒よりも劣った法的地位がありました。ユダヤ人とイスラム教徒はエルサレムを訪問することはできましたが、そこに居住することはできませんでした。しかし、同時代のヨーロッパで見られたような反ユダヤ人のポグロムがラテン東方で発生することはありませんでした。
建築と都市開発
首都エルサレムは王国創設時に約2万人の人口を有し、12世紀後期までに約3万人に増加しました。首都の最も重要で長持ちした建築プロジェクトは、新しい聖墳墓教会でした。1149年7月に完成したこの教会は、イエス・キリストの磔刑と埋葬の場所と考えられる場所にあった小さな建物に取って代わりました。
フランク人は地元の気候により適した服装、料理、衛生習慣を採用し、地元の芸術家や建築家を後援することで、ある程度の文化的統合を経験しました。キリスト教徒とイスラム教徒の間の断続的な戦争にもかかわらず、政治や人種に関係なく貿易が繁栄したため、王国の都市の大部分は国際的な性格を保持していました。
歴史的意義と遺産
イェルサレム王国は中世の東西交流において重要な役割を果たしました。約200年間の存続期間中、西欧からの限定的だが継続的な移住の流れを受け入れ、東地中海地域における重要な文化的・経済的架け橋として機能しました。砂糖生産と東西貿易の中継地としての役割により、ヨーロッパ経済の発展にも貢献しました。
軍事的には、騎士修道会の発展と十字軍の軍事技術の革新において先駆的な役割を果たしました。政治的には、西欧封建制度の中東への移植という興味深い実験を表していました。宗教的には、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の三つの一神教が複雑に交錯する地域での宗教的共存の一つのモデルを提供しました。
イェルサレム王国の経験は、十字軍運動全体の縮図でもありました。宗教的熱意と政治的野心、軍事的成功と最終的な失敗、文化的交流と宗教的対立など、中世の複雑な側面を体現していました。その遺産は、中東地域の歴史のみならず、ヨーロッパの中世史、そして東西文明の交流史において重要な位置を占め続けています。
王国の最終的な衰退と滅亡は、十字軍時代の終わりを象徴するものでしたが、その間に培われた文化的・技術的交流の成果は、その後の歴史に長期にわたって影響を与え続けました。イェルサレム王国は、異なる文明が出会い、競合し、時として協力した中世地中海世界の特徴的な例として、歴史学においてその重要性が認識されています。