セルジューク朝とは
セルジューク帝国は、11世紀に中東の政治、文化、宗教に深い影響を与えた重要なトルコ・ペルシャ系のスンニ派イスラム帝国です。セルジュークはオグズ・トルク族のキニク部族から出発し、中央アジアから地中海東部に至る広大な帝国を築き、その支配地域に永続的な影響を与えました。
起源と権力の拡大
セルジュークは、中央アジアのアラル海北部のステップ地帯から来た遊牧民のトルコ族で、10世紀に西方へ移住し、最終的にホラーサーン地方(イラン北東部)に定住しました。セルジューク部族は985年頃にイスラム教に改宗し、これが彼らの文化的・宗教的アイデンティティの大きな転換点となりました。この改宗は、彼らがイスラム世界に統合され、将来的な政治的な活動に道を開くこととなりました。
11世紀初頭、セルジュークはトゥグリル・ベクとチャグリ・ベグ兄弟の指導のもと、ホラーサーンで勢力を拡大し始めました。彼らは最初、ガズナヴィード帝国の傭兵として仕官していましたが、すぐにその雇用主に反旗を翻しました。1030年にはナサの戦いでガズナヴィードを破り、ホラーサーンの一部を支配下におきました。1040年のダンダーナカンの戦いではガズナヴィードに決定的な勝利を収め、セルジュークの支配を確立しました。トゥグリル・ベクはこの勝利の後、スルタンを名乗り、正式にセルジューク帝国を創立しました。
拡張と統一
セルジュークはホラーサーンを基盤に、さらなる西方へと進出しました。1055年にはトゥグリル・ベクがバグダードに入城し、ブワイフ朝の支配を終わらせ、アッバース朝カリフの権威を復活させました。カリフは名目上の権威を保ちましたが、実際の政治的権力はセルジュークが握り、トゥグリル・ベクはカリフの「守護者」として認められました。この出来事は、セルジューク時代のイラクにおける始まりを告げるものでした。
その後、セルジュークはアナトリアへの進出を続けました。1071年にはアルプ・アルスランの指導のもと、ビザンツ帝国に対してマンジケルトの戦いで決定的な勝利を収めました。この勝利により、アナトリアでのトルコ人の定住が始まり、地域のトルコ化が進展しました。セルジュークは中央アナトリアにルーム・セルジューク朝を樹立し、ここはトルコ文化と政治の中心地となりました。
文化的・宗教的影響
セルジューク帝国は、中東の文化的・宗教的な変容において重要な役割を果たしました。彼らはスンニ派イスラムの教義を広め、その実践を自らの支配地域に促進しました。また、セルジュークはさまざまなトルコ系部族を地域に移住させ、アナトリアや中東全域での人口・文化の変化を促しました。
文化面では、セルジュークは芸術と建築の大きな後援者でした。彼らは多くのモスク、マドラサ(教育機関)、キャラヴァンサライ(宿泊施設)を建設しましたが、その多くは今なお存在し、セルジューク建築の素晴らしい例となっています。特にイスファハンの大モスクは、セルジューク建築の代表的な作品であり、その精緻なタイル装飾と壮大なデザインが見どころです。また、セルジュークはペルシャ語の文学と文化の発展にも寄与し、その行政や文化における主要な言語としてペルシャ語を推進しました。
衰退と遺産
セルジューク帝国の衰退は、内部の争い、経済的困難、外部からの脅威など、いくつかの要因によって引き起こされました。帝国は最終的にいくつかの小規模な国に分裂し、これらは「セルジューク朝の後継王朝」として知られています。例えば、アナトリアのルーム・セルジューク朝やイランのケルマン・セルジューク朝などが存在し、それぞれが引き続き地域に影響を与えましたが、元々の帝国のような結束力や力を持っていませんでした。
セルジューク帝国は衰退したものの、その遺産は中東において今なお色濃く残っています。彼らはオスマン帝国の成立の基盤を築き、その後の地域統一へとつながりました。セルジュークのスンニ派イスラムの推進や、特に建築と文学における文化的貢献は、イスラム世界に大きな影響を与えました。また、アナトリアへのトルコ人の移住を促進したことは、現在のトルコ語を話す人口の形成に繋がり、この地域の文化的および人口的変容をもたらしました。