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18_80 イスラーム世界の形成と拡大 / インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化

アイバクとは わかりやすい世界史用語1482

著者名: ピアソラ
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アイバクとは

アイバクは、ゴール朝のマムルーク出身の将軍で、後にデリー・スルターン朝の初代スルタンとなった人物です。

アイバクは1150年頃、中央アジアのテュルク系遊牧民の家庭に生まれました。幼少期に奴隷として売られ、ホラーサーン(現在のイラン北東部)のニーシャープールで軍事教育を受けました。その後、ゴール朝のシハーブッディーン・ムハンマド(ムハンマド・ゴーリー)に購入され、宮廷でマムルークとして仕官しました。



彼は軍事的才能を発揮し、厩舎係から将軍に昇進しました。主にインド方面の征服を担当し、1193年にはデリーを攻略しました。シハーブッディーンがホラーサーンに移ると、アイバクはデリーの支配を任され、北インドの征服をほぼ完了させました。

1202年には中央インドのカーリンジャルを攻略し、さらにベンガルまで進軍して占領しました。この際、インド仏教の重要な拠点であったヴィクラマシーラ僧院を破壊し、ゴール朝のインド支配に大きく貢献しました。1206年、アイバクはシハーブッディーンから「ペシャワールの門からインドの最も奥地まで」のゴール領の総督に任命されました。

同年3月、シハーブッディーンが暗殺され、ゴール朝が統一を失うと、アイバクは6月に自らスルタンを名乗り、事実上デリーに独立しました。これにより、インドを本拠地とし、インドのみを支配する初のイスラム王朝である奴隷王朝を設立しました。

アイバクはゴール朝の分裂に伴う混乱の中で、アフガニスタンとデリーの中間に位置するパンジャーブ地方を併合することに成功しました。また、彼はイルトゥトゥミシュに娘を嫁がせ、シンド地方の総督ナースィル・ウッディーン・カバーチャに姉妹を嫁がせ、自身はケルマーンの総督タージ・ウッディーン・ヤルドーズの娘を妻として迎え、権力基盤を固めました。

デリー総督時代から、アイバクは元々ヒンドゥー教徒の町であったデリーをイスラム都市として整備することに力を注ぎました。デリーを征服した1193年から6年をかけて、大規模なモスク「クッワトゥルイスラーム」を建設しました。このモスクは現在のニューデリーよりも南に位置する町の郊外にあります。

1200年には石造の巨大なミナレット(尖塔)の建設に着手しました。この塔は彼の尊称を取ってクトゥブ・ミーナールと呼ばれ、後にアイバクの後継者たちによって、クトゥブ・モスクを中心にイスラム文教地区が整備されました。この地域はアイバクの名からクトゥブ地区と呼ばれ、現在は世界遺産に登録されています。

1210年、アイバクは落馬事故で急死しました。アイバクの死後、その子アーラーム・シャーが即位しましたが、アイバクの娘婿であるマムルークの将軍イルトゥトゥミシュとの後継者争いが起こり、翌年に敗死しました。これによりアイバク家は2代で終焉し、その後50年にわたって奴隷王朝はイルトゥトゥミシュ家の世襲支配が続きました。

アイバクの治世は短かったものの、彼の業績はデリー=スルタン朝の基礎を築き、その後のインドのイスラム支配の礎となりました。彼が建設したクトゥブ=ミーナールやクッワトゥルイスラーム=モスクは、今日でもデリーの重要な歴史的遺産として残っています。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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