法顕とは
法顕は、中国東晋時代の僧侶であり、仏教の経典を求めてインドに旅したことで知られています。彼の旅は、仏教の戒律や経典を中国に持ち帰るためのものであり、その記録は『仏国記』として知られています。この記録は、当時の中央アジアやインドの状況を詳細に伝える貴重な史料となっています。
法顕は337年頃に現在の山西省臨汾市襄汾県で生まれました。幼少期に出家し、20歳で具足戒を受けました。彼は仏教の学問に励み、中国仏教界における戒律の不備を嘆き、経典と戒律の両方を完備するためにインドへの旅を決意しました。
399年、法顕は慧景、慧応、慧嵬、道整などの僧侶と共に長安を出発し、シルクロードを経由してインドへ向かいました。彼らは敦煌からタクラマカン砂漠を越え、ホータン王国を経由してインドに到達しました。この旅は非常に過酷であり、法顕は「沙河には悪霊、熱風多く、皆死に絶え一人も生命を全うするものはない」と記しています。
インドに到達した法顕は、王舎城などの仏跡を巡り、『摩訶僧祇律』や『雑阿毘曇心論』などの経典を得ました。さらにスリランカにも渡り、『五分律』や『長阿含経』などを求めました。彼は413年に海路で青州へ帰国しましたが、帰国できたのは法顕のみでした。
法顕が持ち帰った経典は、中国仏教界に大きな影響を与えました。特に『大般涅槃経』は、涅槃宗の成立に寄与しました。また、彼の記した『仏国記』は、当時の中央アジアやインドの文化、宗教、社会状況を伝える貴重な記録として評価されています。この中で法顕は、グプタ朝第3代王チャンドラグプタ2世を、「超日王」と記しています。
法顕は422年に荊州江陵の辛寺で没しました。享年86歳でした。彼の旅とその成果は、仏教の伝播と発展において重要な役割を果たしました。
このように、法顕の生涯と業績は、仏教史において非常に重要な位置を占めています。彼の旅は、単なる宗教的探求だけでなく、文化交流の一環としても大きな意義を持っています。