版籍奉還・廃藩置県
戊辰戦争後、新政府は旧幕府領や幕府側の諸藩の領地を没収・削減して府と県を置きましたが、それ以外は依然として藩の支配が続いており、中には軍事力を維持し、支配力を高める藩もありました。そのため、新政府は天皇を中心とする中央集権体制の成立を急務とし、さまざまな改革を断行しました。まず、最初に諸藩主の領地(版)・領民(籍)を天皇に返上する
版籍奉還を行いました。これは大久保利通・木戸孝允が中心となり、1869年(明治2年)1月、薩摩・長州・土佐・肥前の藩主が率先して版籍奉還を申し出、その後各地の諸藩主もこれにならうようになりました。同年6月には、奉還を申し出ない藩主にたいし奉還を命じ、旧来の藩主を知藩事に改め、石高にかわりその10分の1を家禄として支給し、藩政にあたらせました。こうして、藩主は形式的に新政府における行政官吏となりました。
版籍奉還により形式的な中央集権化が進みましたが、実質的な効果はあまりありませんでした。そこで政府は、薩摩・長州・土佐の3藩から1万の兵を東京に集め、政府直属の
御親兵として中央の軍事力を強化しました。ついで、長州の木戸孝允・薩摩の西郷隆盛・土佐の
板垣退助(1837~1919)・肥前の
大隈重信(1838~1922)ら各藩に実力者を参議に据え政府の強化を図りました。そして、大久保・西郷・木戸らが密かに計画を進め、1871年(明治4年)7月14日、政府は
廃藩置県の詔を発し、藩を廃止して新しく県を設置しました。同時に、これまでの知藩事を罷免し東京に住まわせることにし、新しく政府の官吏として県知事(のちいったん県令に改称)を任命しました。岡山や島根など一部の県では旧領民の一揆が起こりましたが、最終的に始め300以上あった府県は、同年11月に整理統合のすえ3府72県となり、明治政府は全国を直接統治するようになりました。
旧来の藩を解体するこの一連の出来事が大きな抵抗を受けずに実現した理由として、第1に多くの藩が戊辰戦争により窮乏化しており、第2に各藩の側にも欧米列強と対抗するために中央集権化が必要だという理解が深まっていたことが挙げられます。
官制改革
版籍奉還後、中央官制の改革が進められ神祇・太政2官の祭政一致の形式が取られるようになりましたが、廃藩置県後に更に大改革が行われました。太政官は
正院・左院・右院の三院制となり、神祇官は廃止されました。正院には政府の最高機関として
太政大臣・左大臣・右大臣・参議が置かれ、左院は立法諮問機関、右院は各省の長官(卿)・次官(大輔)で構成する連絡機関となりました。この官制改革により、薩長土肥の下級武士、中でも薩長出身の官僚が明治政府の要職を占めるようになり、公家出身者は三条実美・岩倉具視以外は勢力を失いました。こうして、「有司専制」の
藩閥政府が形成され、明治政府の様々な政策を実行していくことになりました。
徴兵制度
明治政府は、軍事力強化のため徴兵制度を開始し、近代的軍隊の成立を目指しました。徴兵制度は版籍奉還直後から、
大村益次郎により立案され、彼の暗殺後は
山県有朋(1838~1922)により具体化されていきました。廃藩置県後解散させられた藩兵に代わり、政府は全国の兵権を兵部省に集め、4鎮台を置き、1872年(明治5年)3月には御親兵を近衛兵に改称しました。同年11月には徴兵の詔を出し、1873年(明治6年)1月に徴兵令を公布し、士族・平民の身分に関係なく、満20歳の男子を徴兵するようになりました。その後、鎮台も6つに増やし、西洋式の装備と訓練を受けた新しい軍隊が成立しました。この徴兵令は、始めさまざまな免役規定があり、兵役免除を得る者も多かったため、政府はその後1879年(明治12年)・1883年(明治16年)・1889年(明治22年)の三回にわたり改正を行い、免役規定を縮小し、国民皆兵の義務を強化していきました。
徴兵令の公布は、一部地域で士族から武士の特権を奪うとして、平民からは新たな負担として暴動が起こることもありました。そこで政府は1873年(明治6年)治安維持を司る
内務省を設置し、翌年東京に
警視庁を設置し、治安維持と警察制度の整備も進めました。