徳川吉宗の登場
17世紀に生産活動が活発になり、
江戸・大坂・京都の三都と、城下町・港湾都市などの商人は富裕化し、困窮する武士だけでなく大名にも貸付を行う
大名貸まで出るようになり、彼らの中には藩財政に取り組む者も現れました。貨幣経済は農村にも広がり、商品作物の生産や
家内工業が広がり、富が蓄積していきました。
1716年(享保元年)に
徳川家継が8歳で死去し、家康の宗家(本家)の血筋が途絶えました。そのため、新たに御三家の紀伊藩主
徳川吉宗(1684~1751)が8代将軍となりました。彼は「諸事権現様御掟の通り」と徳川家康の時代への復興を目指し、
享保の改革を行いました。
徳川綱吉以来続いた、
柳沢吉保・間部詮房・新井白石らによる側近政治のため幕政から遠ざけられていた譜代門閥大名らは、徳川吉宗の新たな幕政に期待していました。徳川吉宗は、譜代大名からなる老中・若年寄を重視し、新たに側近の
御側御用取次を設け、老中と側近を重用しました。また、人材登用のために
足高の制を設け、旗本の
大岡忠相や東海道川崎宿の名主
田中丘隅を登用し、
荻生徂徠や
室鳩巣ら儒学者を侍講に用いました。
享保の改革
幕政改革は、まず幕府財政の再建を第一の目標とされ、その前提として
勘定奉行所の整備・強化を行い、地方で農民・農村支配に優れた者を積極的に勘定方役人や代官に取り立てました。また、人口調査や耕地面積の調査なども厳格に行いました。
この時期、幕府財政は傾いていました。将軍吉宗は、厳しい
倹約令を出し支出を減らし、加えて1722年(享保7年)に諸大名に対し1万石につき100石を献上させる
上げ米を実施しました。また根本解決のために、
新田開発や
年貢増徴、
商品作物の生産を奨励しました。新田開発には、商人資本を活用し、紀州から土木技術者を呼び寄せ、大河流域の耕地安定を図りました。また、年貢増徴として、それまでの
検見法を改め
定免法を取り入れました。また、商品作物の奨励により、勘定奉行の
神尾春央らが畑地からの年貢増収をはかりました。
この結果、幕府領の年貢は増加し、平年作の平均が
140万石から1727年(亨保12年)に
160万石、1744年(延享元年)に
180万石に達しました。商品作物としては、
菜種・甘藷・さとうきび・櫨・朝鮮人参などの栽培が奨励され、
青木昆陽を登用して甘藷の栽培を研究させました。また、幕府は新しい産業を興すため実学を奨励し、漢訳洋書の輸入制限を緩和しました。
司法制度の整備と法典の編纂も行われ、1742年(寛保2年)に裁判の判例を集めた「
公事方御定書」を制定し、1744年(延享元年)には、幕府成立以来の法令の集大成として「
御触書寛保集成」を編纂しました。また、1719年(享保4年)には
相対済し令を制定し、商取引や金銭関係の訴訟を受理せず当事者同士で解決させようとしましたが、この法令は多くの反発を招き、1729年(享保14年)に廃止されました。
物価問題も山積みで、この時期米の値段が下がっても、その他の諸物価が下がらない「
米価安の諸色高」という状況が続いていました。これに対し幕府は、1724年(享保9年)に物価引き下げ令を出し、その後22品目の取扱い商人に組合・株仲間を作らせ、1730年(享保15年)には大坂堂島の米相場を公認しました。しかし、これらの政策では物価問題が解決しなかったので、幕府は1736年(元文元年)に正徳金銀の金銀含有率を半分にした
元文金銀を鋳造し、物価の安定を図りました。
農業政策では、1721年(享保6年)に
流地禁止令を出し、農村民の分解を止めようとしましたが、逆にこれを徳政令とみなした農民が質地運動を起こしたため、1723年(享保8年)にこの法令は撤回されました。
都市政策では、火災が続いた江戸で延焼を防ぐ火除け地・土蔵造り・町火消しが作られました。また、1721年(享保6年)に目安箱がおかれ、庶民や浪人の意見が集められました。こうした意見の中から、貧民救済施設の小石川療養所が作られました。
文教政策では、湯島聖堂の林家の塾の講義を庶民も受けられるようにし、民衆教化を進めました。