中国分割と日露戦争で押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
中国分割の危機
・日清戦争で日本に敗北した清に対し、列強はこぞって
中国分割に乗り出した。日清戦争の賠償金支払いのため、清は列強に対し
借款をはじめた。この借款の返済保証のため、
関税や
鉄道敷設権・鉱山採掘権などを担保としたため、これらが中国分割の手段とされた。
・この時代、ロシアは世界最長の
シベリア鉄道を、
フランス資本を導入し建設した。また、三国干渉の代償としてロシアは中国の鉄道敷設権を獲得し、
東清鉄道を建設し、シベリア鉄道と結んだ。
・列強は、中国の一部を租借し、事実上の領土とした。以下が各国の代表的な租借地・支配地である。
ドイツ | 膠州湾(青島市) |
ロシア | 遼東半島南部(旅順・大連) |
イギリス | 威海衛、九龍半島(新海) |
フランス | 広州湾 |
日本 | 福建省 |
・こうした中、出遅れたアメリカは、マッキンリー大統領時代の国務長官
ジョン=ヘイが
門戸開放宣言を出し、
門戸開放・機会均等・領土保全の三原則を出したが、その目的はアメリカの中国市場への割り込みであった。
変法運動
・列強による中国分割に対し、清も改革の必要性を痛感し、政治家
康有為らが中心となって
変法運動(変法自強)が行われた。変法運動は日本の
明治維新を模範とし、議会政治を基礎とする
立憲君主制の成立をめざした。
・清朝代11代
光緒帝は、康有為や
梁啓超らを登用し変法運動を進めようとしたが、おばの
西太后らが
戊戌の政変を起こし変法運動を弾圧したため、政治改革は成功しなかった。
義和団事件
・清末、白蓮教系の宗教結社
義和団が
山東省で結成され、ドイツの山東半島進出とキリスト教の広がりに反発し拡大した。反キリスト教運動である
仇教運動の流れとともに、義和団は「
扶清滅洋」というスローガンのもと、武装蜂起した。
・1900年、帝国主義列強に反対し、義和団を中心とした勢力が
義和団事件を起こした。この義和団事件では、日本やドイツの外交官が殺害され、その後清朝も同調して列強に宣戦布告した。この事件に対し、
日本・ロシア・イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア・イタリアの8カ国が共同出兵し、義和団と清朝を破った。
・1901年、義和団事件の最終的な講和として
北京議定書が清と11カ国(出兵8カ国と
ベルギー・オランダ・スペイン)の間で結ばれた。北京議定書の内容は、(1)4億5000万両の賠償金(2)北京公使館所在区域への外国軍駐兵(3)事件責任者の処罰と関係地方の科挙を5カ年停止(4)日本・ドイツへの謝罪使の派遣(5)通商・航海条約修正(6)排外団体への加入や排外運動禁止(7)武器弾薬の製造・輸入の2年間停止などである。
日露戦争
・義和団事件後、鎮圧の主力軍を出したロシアは、
満州を占領し中国東北地方にとどまった。こうした状況の中、ロシアの影響拡大を警戒したイギリスは、
1902年に光栄ある孤立を捨て、日本と
日英同盟を結んだ。
・その後、朝鮮と中国東北地方をめぐり、
日露戦争(1904〜1905)が勃発した。日本には
イギリス・アメリカが、ロシアには
フランス・ドイツが支援した。戦争は日本の
旅順攻撃ではじまり、
奉天会戦や
日本海海戦などで日本が勝利した。しかし、この戦争で国力を消耗した日本は、これ以上の戦争継続が困難な状況となっていた。
1905年1月にロシアの首都
サンクトペテルブルクで平和請願デモに対し軍が発砲した
血の日曜日事件が発生し、第1次ロシア革命が勃発し、ロシア政府は講和へと傾いた。
・1905年9月、アメリカ合衆国大統領
セオドア=ローズヴェルトの仲介により、ポーツマス条約が結ばれ、日露戦争は終結した。この条約により日本は、(1)韓国の保護権(2)遼東半島の租借権(3)南満州鉄道の利権(4)北緯50度以南の樺太(サハリン)譲渡(5)沿海州の漁業権などを獲得したが、賠償金は得られなかった。
・これ以降、
桂・タフト協定で日本の韓国に対する、アメリカのフィリピンに対する優越権を相互に尊重することが決められた。また、
日仏協約で、フランスのインドシナ、日本の韓国・関東州の相互の地位を承認し、
日露協約で中国で得た権利の相互尊重、ロシアの外モンゴル、日本の朝鮮の利権を承認した。