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18_80 ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成 / ウィーン体制

ウィーン体制② ~自由主義・ナショナリズムの高まりとメッテルニヒによる弾圧~

著者名: エンリケ航海王子
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ウィーン体制への抵抗運動

自由主義やナショナリズムは、ウィーン体制を維持しようとする支配層にとって非常に厄介な思想でした。特にウィーン体制の中心人物メッテルニヒは、多民族国家オーストリアの宰相だったため、こうした思想に基づく運動を徹底的に弾圧していきます。

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(メッテルニヒ)

各地でおこった抵抗運動を見てみましょう。

ブルシェンシャフト(ドイツ)

ドイツでおこった運動です。ブルシェンシャフトとは、ドイツ学生同盟ともいい、1815年ドイツの統一と憲法制定を求めて、イエナ大学で結成された学生組合でした。

ブルシェンシャフトは、1817年にヴァルトブルク城付近で行われた宗教改革300年祭を記念して大集会を開き、自由主義とナショナリズム運動が勢いを増しました。

1517年にマルティン・ルターが95箇条の論題を掲示して、宗教改革がはじまりました。


この様子を快く思わなかったメッテルニヒと各国君主は、1819年ドイツ連邦議会でカールスバート決議を取り決め、言論統制や大学監視を行い、これらの学生運動を解散させます。

カルボナリの蜂起(イタリア)

カルボナリ(炭焼党)とは、炭焼職人の組合に見せかけた秘密組織で、19世紀に南イタリアで結成されました。

この秘密結社は、急進的な自由主義者で構成されており、イタリアの独立と統一、立憲自由主義運動を行うようになります。

1820年にナポリ、1821年にピエモンテで武力蜂起しますが、メッテルニヒのオーストリア軍によって弾圧され、その後壊滅しました。

立憲革命(スペイン)

1820年、スペインでは、ウィーン体制によって復活したブルボン朝の支配に対し、軍の指導者リェーゴ大佐が憲法の復活を目指して革命を起こしました。

この革命は一時的に成功し、1812年に制定された憲法(カディス憲法)が復活しましたが、その後革命の波及を恐れた神聖同盟はヴェロナ会議でフランス軍の派遣を決定し、この革命も鎮圧されてしまいます。

デカブリストの乱(ロシア)

ロシアでも秘密結社による反乱が起こります。この反乱は、自由主義貴族による武装蜂起が1825年12月におこったことから、ロシア語の12月という意味のデカーブリからデカブリストの乱とよばれます。

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(デカブリストの乱)

彼らはナポレオン戦争に参加していて、西ヨーロッパの進んだ状況を目の当たりにし、ロシアの後進性を痛感したのです。

そのため、フランスなどからもたらされた自由主義思想をもとに、憲法制定や農奴制、ツァーリズムの廃止などを求めて反乱をおこしました。

結果的に、デカブリストの乱もロシア皇帝ニコライ1世によって鎮圧され、1810年代から1820年台にかけてヨーロッパ各地でおこったウィーン体制への抵抗運動は、メッテルニヒや各国君主によって潰されてしまいました。
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