兄弟であるはずの源頼朝と源義経は、なぜ戦う必要があったか
壇ノ浦の戦いで平氏を追いやった義経が、なぜその後討伐されなければならなかったのか。当時の情勢から説明してみたいと思います。
義経が頼朝の怒りをかった理由は、主に2つあると考えられています。
■理由1:壇ノ浦の戦いでの身勝手な振る舞い
壇ノ浦の戦いの時に義経は、軍師であった梶原景時の意見を聞かずに事を進めてしまったことや、安徳天皇を自殺に追い込み、朝廷との交渉材料になりうる三種の神器を紛失してしまったこと、そして配下の武士たちを頼朝の許可を得ずに勝手に処罰し、他の武士たちの反感をかったこと等が「吾妻鏡」に書かれています。
頼朝は、自分を頂点とする武家社会を作ろうとしていたために、このように勝手な振る舞いをする義経を疎ましく感じるようになります。これに拍車をかけたのが2番目の理由です。
■理由2:壇ノ浦の戦い後に後白河法皇から官位を授けられたこと
頼朝は
自分の許可無く朝廷から官位を受けた武士は、関東に戻ることを禁止していました。
というのも、頼朝は当時まだ鎌倉幕府を開府していなかったので、部下に官位を与えることはできませんでした。頼朝の許可無く朝廷から官位を授かるということは、すなわち頼朝自身の地位を揺るがすことに他なりません。(
頼朝は官位をくれないが朝廷は官位をくれる、それならば朝廷についた方が特ではないかと考える武士が出てくるかもしれません)
この理由から、頼朝の許可無く官位を受けることを禁止していたのです。
ところが義経はこれを破って官位を受けてしまいます。
後白河法皇が頼朝の台頭を恐れ、その対抗馬として義経を重用したとも言われています。これによって義経が朝廷の信頼を高め、周りの武士達の人気者となってしまうことは、朝廷から距離をおいて武家による政治社会を作ろうとしていた頼朝にとって大変な脅威でもありました。
戦をすることに長けていた義経ですが、政治には疎かったと言われています。頼朝にとって、平氏との戦が終わり戦をする必要がなくなった以上、義経を重用する必要もなくなり討伐したと考えられています。