イスラム成立以前(ジャーヒリーヤ)のアラビア半島
内陸部の大部分が砂漠に覆われたアラビア半島は、古代より
セム語系の
アラブ人という民族が住む地域でした。
セム語族は、アッカド語、バビロニア語、ヘブライ語、フェニキア語、アッシリア語、アラビア語などを用いた民族系統のことです。
彼らは、砂漠の民
ベドウィンとして、交易によって栄えた西部の
ヒジャーズという地域のオアシス都市を中心にラクダや羊の放牧や、ナツメヤシなどの栽培を生業としていました。
遊牧民族なので、アラブ人の団結力はなく、
それぞれの部族がバラバラの状況が続いていました。
アラビア半島西南部の湾岸地帯をイエメンというのですが、この地方だけは降水量が多く、農業が発達し、海に面していたので、交易も活発に行われていました。
ここには、『旧約聖書』に出てくる
シバの女王が統治していたとされる
サバー王国(紀元前950~紀元前115)、その滅亡後
ヒムヤル王国(紀元前115~紀元後525)などが栄えました。
このイスラム教成立以前の時代を、
ジャーヒリーヤ(無知の時代)といいます。
アラビア半島を取り巻く状況の変化
さて、6世紀後半になると遊牧生活を続けていたアラブ人たちの生活に、大きな変化があらわれてきます。
この頃、
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と
ササン朝ペルシアが長い間戦争していた結果、
シルクロード(絹の道)が両国の国境で分断されてしまったのです。
そのため、
シルクロードがアラビア半島を迂回する形となり、中国やインドなど東方の商品は、紅海沿岸のヒジャーズを通って西方に運ばれるようになっていきます。
こうして、アラブ人の中に
中継貿易を独占して、莫大な富を得る
商人が現れ、大商人
クライシュ族などが力を持つようになります。メッカやメディナといった都市は商工業で栄え、アラブ社会に
貧富の格差が生まれて来ました。
ムハンマド(マホメット)の登場とイスラム教の成立
ムハンマド(マホメット)は、570年頃名門クライシュ族の
ハーシム家に生まれ、幼くして孤児になった後叔父に育てられました。
マホメットはラテン語由来のヨーロッパでの呼び名で、ムハンマドはアラビア語での呼び名です。
彼は、25歳の時、40歳の女商人
ハディージャと結婚し、その後隊商貿易に従事する傍ら、様々な地域を見てまわります。
この頃メッカの
カーバ神殿には、多神教の神々が祀られていましたが、610年頃、ムハンマドは唯一神アッラー(アッラーフ)の啓示を天使ジブリール(ガブリエル)から受け、自ら
預言者として自覚し、偶像崇拝をする多神教に代わり、厳格な一神教の
イスラム教を創始します。
(天使から啓示を受けるムハンマド)
当時のアラビア半島にはユダヤ教徒やキリスト教徒も住んでおり、彼らを通じてイスラム教の一神教の概念は影響を受けました。預言者というのは、唯一神から神の言葉を授けられた者のことです。イスラム教では預言者としてユダヤ教のアブラハムやモーセ、キリスト教のイエスも認められていますが、その中で、「最終にして最高の預言者」がムハンマドであるとされています。
イスラム教の特徴
ムハンマドは、自身も名門出身で商人でしたが、大商人の利益追求と貧富の格差の拡大、社会の荒廃を各地で見て、これを正そうとしたのです。
イスラムというのはアラビア語で「神への絶対的服従」という意味です。イスラムを信じるものは、「神に身を捧げた者」という意味の
ムスリムと呼ばれ、
偶像崇拝を禁止し、アッラーの前ではすべてのイスラム教徒は平等であるとされました。
また、後に
コーランという聖典がまとめられ、信者には
六信五行(6つの信仰箇条と、5つの信仰行為)という義務が課せられました。
コーランは教義の分散を恐れ最初アラビア語以外の翻訳が禁止されます。
■六信
アッラー | 唯一の絶対神 |
教典 | 『コーラン』 |
預言者 | モーセ・アブラハム・イエス・ムハンマド(最後で最大の預言者) |
天使 | アッラーと地上を取り持つ存在 |
最後の審判 | 生前の行いにより、審判の日天国と地獄に分かれる |
天命 | 天命により神の意志が人間の行為に現れる |
■五行
信仰告白(シャハーダ) | 「アッラーフ(神)の他に神はなし。ムハンマドはアッラーフの使徒である」と唱える |
礼拝(サラート) | カーバ神殿に向かって一日5回の礼拝 |
喜捨(ザカート) | 貧者に対する救貧税 |
断食(サウム) | ヒジュラ暦第9月ラマダーンの時期に、日の出から日没まで飲食禁止 |
巡礼(ハッジ) | メッカへの巡礼 |
迫害とヒジュラ(聖遷)
ムハンマドはメッカを中心に布教を始め、人々の平等を説くイスラムの教えは、長い間貧富の格差に苦しんでいた貧しいアラブ人に広がっていきます。
ところが、メッカの有力者や大商人、多神教を信仰していた人々は、イスラム教の拡大が自分たちの地位や利益を脅かすのではと考えるようになりました。
ムハンマドやイスラムの信徒は、こうした人々によって迫害されていきます。
特にムハンマドの出身でもあるクライシュ族からの迫害は激しく、622年、ムハンマドは迫害を逃れるためメッカを脱出し、北に300km離れたヒジャーズ中部の
ヤスリブという街に移住しました。
(メッカとメディナの位置)
このムハンマドがメッカから逃れた事件を
ヒジュラ(聖遷)と言い、ヤスリブは「預言者の町」という意味の
メディナに改名されます。622年は、イスラム暦の元年とされ、ここでムハンマドはイスラム教徒の共同体である
ウンマをつくり、布教を進めます。
メッカとの戦い
メディナに拠点を移したムハンマドは、軍隊を組織し、624年クライシュ族を中心とするメッカと
パドルの戦いで勝利し、その後630年メッカを征服します。
メッカを征服したムハンマドは、多神教の聖地だったカーバ神殿の偶像を破壊し、イスラム教の神殿にし、メッカはイスラム教の聖地になりました。
(カーバ神殿)
そして632年、ムハンマドはアラビア半島を統一し、同年メディナで亡くなりますが、バラバラだったアラブ民族はイスラムの教えのもと団結し、その後拡大していきます。