はじめに
キリスト教の成立とともに、ローマ教皇は歴史にさまざまな影響を与えました。このテキストでは、主要なローマ教皇と、どの時代にどんな業績を残したかをまとめてみます。
(初代ローマ教皇ペテロ)
ペテロ(1世紀頃)
・ペテロは、キリストの12使徒の一人で、ローマ皇帝
ネロのキリスト教迫害の時期に殉教したと伝えられています。
・ペテロの墓はローマにあり、後にそこに聖ペテロを意味する
サン・ピエトロ大聖堂が建立されます。
・当時のキリスト教には、
ローマ・コンスタンティノープル・アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリアに総大司教座があり、それぞれが
首位権(首位教会としての権利)を争っていました。
・ペテロ亡き後、325年の
ニケーア公会議で三位一体説を主張する
アタナシウス派が
カトリック(普遍的)であると認められると、ローマ=カトリック教会の権力が拡大していき、5世紀以降ローマ司教がペテロの後継者として教皇となりました。
ローマ=カトリックの最高首長が教皇で、その俗称を法王と言います。
レオ1世(在位440~461)
・フン族の王
アッティラのローマ侵攻を説得し、ローマの破壊を阻止した教皇です。
・451年の
カルケドン公会議で、キリスト教の一派の
単性論を異端にします。
・コンスタンティノープル教会(ギリシア正教会)と首位権をめぐって争いました。
グレゴリウス1世(在位590~604)
・中世のカトリック教会の権力基盤を確立した教皇です。
・東方教会(ギリシア正教会)に対抗して、
アングロ=サクソンの布教に努めました。
レオ3世(在位795~816)
・800年に、フランク王国の
カールに戴冠を行った教皇です。
・東ローマのビザンツ皇帝の権力から脱却し、ローマ教会の権力確立に努めました。
・カール大帝の戴冠と同時に、
西ローマ帝国の再興を宣言し、ゲルマン文化・ローマ文化・キリスト教文化の融合が図られ、その後の西ヨーロッパ文化の基礎になりました。
グレゴリウス7世(在位1073~1085)
・時代とともに少しづつ教会腐敗・世俗化が進んできたカトリック教会の改革に努めた教皇です。
・教会刷新運動の中心だったベネディクト派の
クリュニー修道院出身です。
・聖職売買や聖職者の結婚を禁止しました。
・大司教などの高位聖職者を任命する権利を神聖ローマ皇帝と争います(
叙任権闘争)。
・叙任権闘争で対立した神聖ローマ皇帝
ハインリヒ4世を破門し(
カノッサの屈辱)、1077年に謝罪させ、聖職叙任権を教皇が保持するようになりました。
ウルバヌス2世(在位1088~1099)
・クリュニー修道院出身の教皇で、同じく教会改革を進めます。
・当時イスラム勢力の侵攻を受けていた東ローマ帝国の要請を受け、
クレルモン宗教会議を招集し、十字軍の提唱者になりました。
インノケンティウス3世(在位1198~1216)
・ローマ教皇の権力を最高潮にした教皇です。
・フランス王
フィリップ2世、イギリスの
失地王ジョンを破門します。
・「教皇権は太陽であり、皇帝権は月である」という有名な言葉を遺しています。
・
第4回十字軍の提唱者で、この十字軍はコンスタンティノープルを占領した後
ラテン帝国を樹立し、一時的にビザンツ帝国を滅亡させます。
ボニファティウス8世(在位1294~1303)
・教皇権が衰退しつつあった時代の教皇です。
・中央集権化を進めるフランス王
フィリップ4世と聖職者への課税問題で対立し、アナーニに幽閉された後憤死します(
アナーニ事件)。
・この後フランス王により教皇庁がフランスの
アヴィニョンに移転させられ、以後7代にわたった
教皇のバビロン捕囚がはじまります。
ユリウス2世(在位1503~1513)
・ローマ=ルネサンスを奨励した教皇です。
・サン・ピエトロ大聖堂の改築を
ブラマンテに命じます。
・
ミケランジェロに、システィナ礼拝堂の『天地創造』を強要して描かせました。
レオ10世(在位1513~1521)
・フィレンツェの大富豪
メディチ家の出身です。
・サン・ピエトロ大聖堂の建築費を賄うために
贖宥状を販売します。
・
ルターが九十五ヶ条の論題でこれに反論し、宗教改革のきっかけを作りました。
パウルス3世(在位1534~1549)
・
反宗教改革を主導した教皇です。
・イギリスの
ヘンリ8世の離婚に反対し、破門しました。結果として、イギリスにはカトリック教会とは異なる
イギリス国教会が誕生します。
・トリエント公会議を開催し、教皇の至上権とカトリック教義を再確認します。
・1534年にイグナティウス・ロヨラが設立した
イエズス会を1540年に認可しました。