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17_80 近世の社会・文化と国際関係 / 江戸時代

桜田門外の変とは?井伊直弼の暗殺と、その後に幕府が選んだ道をわかりやすく解説【1分でわかる日本史】

著者名: かわちゃん
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桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、幕府の最高職である大老・井伊直弼(いいなおすけ)が、江戸城の桜田門の外で暗殺された事件です。安政7年3月3日(1860年)、水戸藩を脱藩した(藩を抜け出した)17人と薩摩藩士1人が、雪の朝に井伊直弼の行列を襲いました。権威が揺らいだ幕府は、このあと朝廷と結ぶ公武合体の道を選びます。この記事では、事件の経過と幕府が選んだ道を、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる桜田門外の変」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。

・井伊直弼は、なぜ討たれたのか

・事件のあと、幕府は政治をどう変えたのか

・公武合体の目玉、和宮降嫁はどう決まったのか


1分でわかる桜田門外の変


桜田門外の変とは、一言でいえば、大老・井伊直弼が江戸城のすぐ外で討たれたことで揺らいだ幕府が、朝廷と結ぶ公武合体へ向かうきっかけになった事件です。

反感を買った井伊直弼が、雪の朝に討たれた

井伊直弼は、勅許(天皇の許可)のない日米修好通商条約の調印と、反対派を処罰した安政の大獄で反感を買っていました。安政7年3月3日、江戸城の桜田門の外で、水戸藩を脱藩した17人と薩摩藩士1人に襲われ、命を落とします。

幕府は、井伊直弼の強硬な路線を改めた

最高職の大老を城のすぐ外で失い、幕府の権威は大きく揺らぎました。老中(幕府の政治を担う役職)の安藤信正は、久世広周とともに幕政を主導し、井伊直弼の強硬な路線を改めました。安政の大獄で処分された一橋慶喜の謹慎も解かれます。

朝廷と結ぶ公武合体と、和宮降嫁

幕府が選んだのは、朝廷と結んで権威を回復する公武合体でした。その目玉が、孝明天皇の妹・和宮を将軍・徳川家茂の夫人に迎える和宮降嫁で、婚儀は文久2年2月(1862年)に行われます。


降嫁に反発した水戸浪士らは、文久2年1月(1862年)に安藤信正を江戸城の坂下門外で襲って負傷させました(坂下門外の変)。安藤は、まもなく老中を退きます。

おまけトリビア

和宮には、幼いころから婚約者がいました。有栖川宮熾仁親王です。孝明天皇も、最初は降嫁に反対していました。


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、桜田門外の変をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。

■桜田門外の変の背景

幕府は安政5年(1858年)、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、井伊直弼は反対派を大量に処罰しました。安政の大獄です。この弾圧を厳しくした一因が、戊午の密勅(ぼごのみっちょく)でした。同年8月に孝明天皇が幕府を通さず水戸藩へ勅書を下したのに対し、幕府は伝達を禁じ、勅書を朝廷へ返すよう水戸藩に求めます。返納に反対する側から出た脱藩者が、桜田門外の変を起こしました。

■事件当日の経過

3月3日は、ひな祭りの祝いのために大名が江戸城へ登城する日でした。当日は季節外れの雪で、井伊直弼の行列は60人ほど。供の者は雨合羽をまとい、刀には袋をかけていて、すぐには抜けませんでした。銃声を合図に18人が襲いかかり、大老は江戸城の門を目前にして命を落とします。

項目内容
日付安政7年3月3日(1860年)
場所江戸城桜田門外
襲撃側水戸藩の脱藩者17人+薩摩藩士1人=18人
被害大老・井伊直弼が死亡


■幕府の権威はどう揺らいだのか

大老は幕府の最高職です。その最高職が、将軍のいる江戸城のすぐ外で討たれたことで、幕府の権威は大きく揺らぎました。事件は江戸の町で大きな話題になります。

■安藤信正が改めた路線

事件のあと、幕政を主導したのが老中の安藤信正です。安藤は、事件の前の安政7年1月(1860年)にすでに老中になっていました。事件のあと老中に再任された久世広周とともに、政治を動かしました。安藤は、井伊直弼の強硬な弾圧路線を改め、朝廷や尊王攘夷派との対立を和らげる道を選びます。安政の大獄で謹慎を命じられた一橋慶喜の謹慎も、事件のあとの万延元年9月(1860年)に解かれました。

■公武合体と和宮降嫁

公武合体は、朝廷(公)と幕府(武)が結んで、揺らいだ幕府の権威を回復しようとする政治運動です。ちなみに、目玉の和宮降嫁は、安藤の思いつきではありません。条約調印で悪化した朝廷との関係を修復するため、井伊直弼の政権のころから、幕府側がすでに和宮の降嫁を画策していました。幕府が朝廷に正式に申し入れたのは、事件のあとの万延元年4月(1860年)です。

孝明天皇は、和宮に有栖川宮熾仁親王との婚約があることなどを理由に反対しました。しかし再三の要請を受け、幕府が将来の攘夷(外国を打ち払うこと)を約束したことで、万延元年(1860年)のうちに降嫁を決めます。和宮が京都を出たのは文久元年10月(1861年)で、婚儀は文久2年2月(1862年)でした。

ところが、皇女を迎える政略は、尊王攘夷を唱える人びとの強い反発を招きます。「和宮を人質にするものだ」と受け取られたためです。婚儀の直前の文久2年1月(1862年)、安藤信正は水戸浪士らに襲われて負傷し、4月に老中を退きました。

■大老の死は、およそ2か月伏せられた

井伊直弼の死は、すぐには公表されませんでした。当時の記録には、次のように書かれています。

幕府、彦根藩ニ命ジテ藩主井伊直弼ノ横死ヲ祕セシム


幕府が彦根藩に命じて、藩主の横死(思いがけない死)を秘密にさせた、という意味です。表向きは負傷して療養中の扱いで、事件の翌日には将軍が薬用の朝鮮人参を贈りました。1週間後には井伊直弼の子を跡継ぎとする届出が出され、喪が発せられた(死が正式に公表された)のは事件のおよそ2か月後です。藩主が跡継ぎを決めないまま亡くなると藩は取り潰し(家が断絶し、領地を取り上げられること)になるとされ、井伊家はそれを避けたと伝えられます。

■史実と学説

年の書き方は分かれます。同じ事件を、安政7年と書く資料と、万延元年と書く資料があります。和宮降嫁も、降嫁が決まった年(1860年)、京都を出た年(1861年)、婚儀の年(1862年)のどれを指すかで、資料によって年が異なります。

試験に出るポイント

桜田門外の変は、1860年、江戸城桜田門外で大老の井伊直弼が水戸藩の脱藩者らに暗殺された事件です。そのあと老中の安藤信正らが公武合体を進め、孝明天皇の妹・和宮が将軍の徳川家茂に降嫁しました(婚儀は1862年)。降嫁に反発した水戸浪士に、安藤は坂下門外で襲われています。

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日本史用語集 山川出版

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