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17_80 中世の社会・文化と東アジア / 鎌倉時代

源実朝の暗殺から承久の乱まで|将軍が絶えた鎌倉幕府はなぜ強くなった?流れをわかりやすく解説【1分でわかる日本史】

著者名: かわちゃん
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建保7年(1219年)1月27日に、鎌倉幕府の3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)が、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で甥の公暁(くぎょう)に殺されました。これにより鎌倉幕府において源氏の将軍は絶えましたが、幕府自体は存続し続けました。そして2年後の承久の乱で朝廷に勝ち、かえって力を強めていきます。この記事では、将軍の座が空いた時期から、承久の乱のあとに幕府の力が西国まで及ぶまでを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる源実朝の暗殺から承久の乱まで」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。

・実朝の暗殺で、なぜ源氏の将軍が途絶えたのか

・幕府はなぜ、2歳の子を鎌倉に迎えたのか

・承久の乱のあと、幕府はどんな仕組みで西国に力を広げたのか


1分でわかる源実朝の暗殺から承久の乱まで


一言でいえば、源氏の将軍がいなくなった幕府が、承久の乱に勝って、かえって強くなった流れです。

1219年 実朝が殺され、源氏の将軍が絶える

1219年、鎌倉の鶴岡八幡宮で、3代目の将軍・源実朝が甥の公暁に命を奪われました。公暁も、有力御家人の三浦義村が差し向けた者に、その日のうちに討たれます。実朝には子がいなかったため、源氏の将軍は3代で絶えました。

1219年 2歳の三寅を鎌倉に迎える

跡継ぎを失った幕府は、朝廷を動かしていた後鳥羽上皇(ごとばじょうこう、天皇の位を譲ったあとの元の天皇)の子を、次の将軍として迎えようとしました。しかし上皇は、皇子を鎌倉へ送ることを認めません。代わりに迎えたのが、摂関家(天皇を助ける摂政・関白を出してきた家柄)に生まれた2歳の三寅(みとら)です。三寅は頼朝の妹のひ孫で、源氏の将軍と遠い血のつながりがある子でした。まだ幼い三寅に代わって、将軍の役目は北条政子が果たしました。

1221年 承久の乱に勝ち、西国に力を広げる

後鳥羽上皇は1221年、執権(将軍を助ける役職)の北条義時を討つよう命じて、兵を挙げました。これに対して幕府軍はひと月ほどで京都を押さえ、敗れた上皇を隠岐(おき)へ流します。乱のあと、幕府は朝廷を見張る六波羅探題を京都に設けました。また、上皇の側についた者から所領(持っていた土地)を約3,000か所取り上げ、そこに新たな地頭を置いています。地頭は、土地の管理や税の取り立てにあたる役人です。


承久の乱が起きたとき、幕府にはまだ正式な将軍がいませんでした。三寅が将軍になるのは、乱から5年後の1226年です。それでも幕府は上皇に勝ち、この勝利によって朝廷に対して優位に立ちました。

おまけトリビア

三寅という名前は、寅年の寅の月、寅の刻に生まれたことから付けられました。三寅はのちに元服(成人の儀式)して藤原頼経(ふじわらのよりつね)と名乗り、4代将軍になります。


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、この流れをもう一歩深く知りたい方向けに解説します。

実朝暗殺の背景


建保7年(1219年)1月27日の夜、源実朝は鶴岡八幡宮に参っていました。朝廷の高い位である右大臣(うだいじん)になった、お礼の儀式のためです。大雪の中、儀式を終えて退出するところを、実朝は公暁に襲われます。

公暁は2代将軍・源頼家の子で、実朝から見れば甥にあたります。実朝を殺した公暁も、同じ日のうちに討たれています。

公暁がなぜ実朝を殺したのかは、はっきりしていません。はっきりしているのは、子のいない実朝の死で、源氏の将軍が途絶えたことです。

人物と流れ


幕府はまず、後鳥羽上皇に、皇子を将軍として迎えたいと申し入れました。上皇は申し入れに応じず、返事を先へ延ばします。

それでも上皇は、摂関家(せっかんけ)の子を迎えることは認めました。こうして承久元年(1219年)、2歳の三寅が鎌倉へやって来ます。三寅は頼朝の同母妹(母が同じ妹)のひ孫で、頼朝とは遠い血のつながりがありました。幕府は皇子の代わりに、頼朝の血を引く摂関家の子を迎えたのです。

上皇が皇子を送らなかった背景には、北条氏が動かす幕府を抑え、朝廷の力を取り戻したいという考えがありました。そのうえ後鳥羽上皇は、寵愛する女性の荘園(しょうえん)に置かれた地頭(じとう)を、やめさせるよう幕府に求めます。荘園は、貴族や寺社などが持つ土地です。幕府がこの求めを断ったことで、両者の対立は深まりました。

将軍の座が空いたままの承久3年(1221年)5月、後鳥羽上皇は兵を挙げました。この戦いを承久の乱といいます。討つよう命じた相手は、執権(しっけん)の北条義時です。鎌倉では、頼朝の恩を説く政子の言葉が伝えられ、御家人(ごけにん)たちは幕府の側にまとまります。御家人とは、幕府に忠誠を誓い、土地を保証された武士のことです。幕府の大軍は上皇方の軍を破り、挙兵からひと月ほどで京都を押さえます。

敗れた後鳥羽上皇は、隠岐(おき)へ流されました。父の計画に加わった子の順徳上皇(じゅんとくじょうこう)は、佐渡へ流されます。長男の土御門上皇(つちみかどじょうこう)は乱に加わりませんでしたが、自ら望んで土佐へ移りました。

乱のあと、幕府はどう強くなったか


幕府軍を率いて京都に入った北条泰時(ほうじょうやすとき)と北条時房(ほうじょうときふさ)は、戦いのあともとどまりました。二人の役目は、朝廷を見張り、西国(いまの西日本)の御家人をまとめることです。これが六波羅探題の始まりです。

幕府は上皇方についた貴族や武士から、所領を約3000か所取り上げました。そこへ東国(いまの東日本)の御家人を、新しい地頭として任じます。こうして任じられた地頭を、新補地頭(しんぽじとう)といいます。取り上げた所領の多くは西国にあったため、幕府の力は西国にも及ぶようになりました。

地頭の取り分がそれまで決まっていなかった土地には、幕府が新補率法(しんぽりっぽう)という決まりを設けました。町(ちょう)と反(たん)は田畑の広さの単位、升は米の量の単位です。田畑11町ごとに1町を、地頭の取り分として認める田としました。この田を給田(きゅうでん)といいます。また、地頭が自分の取り分として、田1反ごとに5升の米を取り立てることも認めました。この米を加徴米(かちょうまい)といいます。

天皇の位の行方も、幕府が決めました。幼い仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)は位を退かされ、代わりに後堀河天皇(ごほりかわてんのう)が即位します。後堀河天皇の父は、後鳥羽上皇の兄にあたる後高倉院(ごたかくらいん)です。この後高倉院が、天皇に代わって政治を動かす院政を行いました。

こうして幕府は、朝廷に対して優位に立ちました。ただし、朝廷がなくなったわけではありません。

トリビアの真相


三寅は建保6年(1218年)1月16日の生まれです。寅年・寅の月・寅の刻がそろったことが、名前の由来です。

試験に出るポイント

1219年の実朝暗殺で源氏の将軍が絶え、幕府が摂関家から三寅(藤原頼経)を迎えた流れが問われます。承久の乱(1221年)のあとに六波羅探題が設けられたことと、取り上げた所領に新補地頭が任じられたことも頻出です。

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日本史用語集 山川出版

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