鎌倉幕府の滅亡(かまくらばくふのめつぼう)とは、1333年、北条氏を中心とする鎌倉の武家政権が倒された出来事です。攻めたのは
足利高氏(のちの足利尊氏)と
新田義貞、どちらも元は幕府に仕える御家人でした。この記事では、幕府が身内から崩れていった理由と、六波羅探題の陥落から東勝寺での最期までの流れを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。
この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる鎌倉幕府の滅亡」だけで、要点がつかめます。
さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。
・なぜ御家人が幕府を見限ったのか
・攻めるのが難しいとされた鎌倉が、なぜ落ちたのか
・「高氏」と「尊氏」、どちらが正しいのか
1分でわかる鎌倉幕府の滅亡
鎌倉幕府の滅亡とは、一言でいえば、外敵ではなく身内の御家人に鎌倉幕府が倒された出来事です。
きっかけは恩賞の不足
鎌倉幕府と御家人は、「御家人が戦いで働けば、幕府は土地で報いる」という約束で結ばれていました。これを御恩と奉公といいます。ところが、これを元寇が一変させました。モンゴル襲来(元寇)は攻めてきた敵を追い返す戦いで、他国の土地を奪ったわけではありません。幕府は、戦った御家人に配る土地を用意できませんでした。
暮らしが苦しくなった御家人を救うため、幕府は1297年に永仁の徳政令を出し、手放した土地を取り戻させます。それでも、御家人の暮らしを立て直すには至りませんでした。
倒幕を呼びかけたのは後醍醐天皇
天皇の倒幕計画は幕府に見破られ、天皇自身は隠岐へ流されました。それでも各地で反幕府の兵が挙がり、動きは止まりませんでした。
幕府側の二人が背いた
有力な御家人だった足利高氏が京都の六波羅探題を攻め落とし、同じ5月には新田義貞が上野国で挙兵。義貞は5月18日から鎌倉を攻め、22日、当時の執権、北条高時らは東勝寺で自害しました。
幕府を滅ぼしたのは、外から来た敵ではありません。御恩と奉公で結ばれていたはずの御家人たちです。元寇のあと、幕府はその御恩を返せなくなっていました。土台が緩んだところへ、倒幕の動きが重なったのです。
おまけトリビア
幕府を倒した後醍醐天皇は、北条高時をとむらう寺を鎌倉に建てるよう命じています。命じられた相手は、幕府を攻めた側の足利尊氏(幕府を攻めたときの名は高氏)でした。
ここから深掘り
ここまでが1分の要約です。ここからは、鎌倉幕府の滅亡をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。
■鎌倉幕府の滅亡の背景
御恩と奉公の仕組みは、防衛の戦いだったモンゴル襲来(元寇)で行き詰まりました。
御家人の側は、分割相続で所領が細かくなり、貨幣経済にもうまく乗れず、土地を売ったり質に入れたりして手放していきます。1297年の永仁の徳政令は経済を混乱させ、不満は収まりませんでした。
朝廷の側にも火種がありました。皇統が
持明院統と
大覚寺統に分かれて対立し、両統が交代で皇位につく
両統迭立を幕府が提案したことで、幕府は朝廷内の争いに巻き込まれていきます。倒幕を進めた後醍醐天皇は、この大覚寺統から即位した天皇でした。
同じころ、幕府の中枢は北条氏の当主とその側近が握るようになっていました。14代執権の北条高時のころには、政務を担ったのは内管領の長崎高資とその父です。得宗に仕える御内人の権勢が強まる一方で、一般の御家人は幕政から遠ざけられました。さらに、幕府の支配に従わない新興の武士である
悪党の活動も各地で広がります。幕府は、味方であるはずの層と、外側の新しい勢力の両方に手を焼いていました。
■人物と流れ
| 年月 | 出来事 |
| 1324年 | 後醍醐天皇の倒幕計画が発覚(正中の変)。日野資朝が佐渡へ流される |
| 1331年 | 再び倒幕を企てるが密告で発覚。翌年、天皇は隠岐へ流される |
| 元弘3年(1333年)4月 | 幕府から京都へ差し向けられた足利高氏が、後醍醐天皇側へつく |
| 元弘3年(1333年)5月 | 高氏が六波羅探題を攻め落とす |
| 元弘3年(1333年)5月8日 | 新田義貞が上野国で挙兵。関東の武士が加わり大軍となる |
| 元弘3年(1333年)5月18日 | 義貞が三方から鎌倉へ攻撃を開始(鎌倉の戦い) |
| 元弘3年(1333年)5月22日 | 北条高時ら一族が東勝寺で自害。鎌倉幕府が滅亡 |
鎌倉は、三方を山に囲まれ一方が海に面した地形で、切通しと呼ばれる、山を切り開いた狭い道を守れば防げる土地でした。実際、巨福呂坂・極楽寺坂・化粧坂のいずれも数日は持ちこたえています。5月21日、義貞の軍が鎌倉の西の稲村ヶ崎を突破すると、守りは一気に崩れました。同じ日までに幕府方の有力な武将が相次いで討ち死にし、翌22日、北条高時らは菩提寺の東勝寺に入って自害します。名目上の将軍だった守邦親王も、同じ日に将軍職を退いて出家しました。
■史実と学説
この戦いの経過を伝える中心的な史料は『太平記』ですが、その記述をそのまま史実として読むことはできません。新田軍を60万7000余騎とする兵数は明らかな誇張とされ、実数は分かっていません。
稲村ヶ崎の突破も同じです。義貞が海に太刀を投じて祈ると潮が引き、そこを渡った、という有名な場面は『太平記』だけが記すもので、『梅松論』など他の史料には極楽寺坂での突破と読めるものもあります。潮位の計算から、突破の日付を5月21日とする『太平記』の記述自体を誤りとする指摘もあります。
幕府側の事情を伝える逸話にも、同じ注意が要ります。鎌倉の戦いの初日に討ち死にした執権の赤橋守時は、妹が足利高氏の妻だったため、北条高時に内通を疑われることをよしとせず出撃した、と『太平記』は伝えます。寝返った高氏との縁が、鎌倉に残った縁者の立場を危うくしたことになります。ただし、これも軍記物語の語る心情であって、確かめようのある事実ではありません。
北条高時の人物像も見直されています。政治を顧みず遊びにふける暴君、という像は『太平記』の描き方で、他の記録や北条氏に伝わる史料から、大幅な誇張であることが明らかにされています。幕府が滅んだ理由を高時個人の資質だけに求めるのは、無理があります。
この鎌倉での戦いは、歴史用語としての呼び名が一定していません。「新田義貞の鎌倉攻め」「鎌倉攻め」などとも呼ばれます。北条高時らが自害した場面は、東勝寺合戦と呼び分けられることもあります。
■トリビアの真相
幕府が滅んだあと、後醍醐天皇は北条高時の菩提を弔うため、鎌倉の高時の屋敷跡に寺を建てるよう命じました。現在の宝戒寺です。命じられたのは、六波羅探題を落とした足利尊氏でした。幕府を倒した側が、倒された側の当主を弔う。しかも攻めた本人に寺を建てさせる。事実だけを並べても、少し不思議な話です。
最後に足利尊氏の名前の話をしておきます。教科書で有名な「尊氏」は、幕府を攻めた時点ではまだ名乗っていません。1333年に六波羅探題を落としたのは「足利高氏」です。幕府を倒した一番の手柄を認められ、後醍醐天皇の名「尊治(たかはる)」から一字を与えられて、「尊氏」と改めました。試験では「足利尊氏が六波羅探題を攻め落とした」と書かれることが多いので、同じ人物だと覚えておけば十分です。
試験に出るポイント
「1333年・足利尊氏が六波羅探題/新田義貞が鎌倉」の組み合わせが最頻出です。滅亡の理由を書かせる問題では、元寇の恩賞不足から永仁の徳政令の失敗、御家人の不満という流れを説明できるようにしておきましょう。