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17_80 近世の社会・文化と国際関係 / 江戸時代

方広寺鐘銘事件とは?「国家安康」「君臣豊楽」と開戦までの道のりをわかりやすく解説【1分でわかる日本史】

著者名: かわちゃん
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方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)とは、1614年、豊臣秀頼が再建した方広寺の鐘に刻まれた銘文をめぐって徳川方と豊臣方が対立し、大坂の陣の引き金のひとつとなった事件です。この記事では、問題にされた「国家安康」「君臣豊楽」の二句、銘文を書いた僧の弁明、そして交渉が行き詰まって開戦に至るまでを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる方広寺鐘銘事件」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。

・鐘に刻まれた八文字は、なぜ問題になったのか

・銘文を書いた僧は、どう弁明したのか

・その鐘は、いまどうなっているのか


1分でわかる方広寺鐘銘事件


方広寺鐘銘事件とは、一言でいえば、鐘に刻まれた文字をめぐる対立が、徳川と豊臣の対立を確固たるものにさせた事件です。

秀頼が再建した寺と、新しい鐘

1614年、豊臣秀頼は、父・秀吉が京都に建てた方広寺の大仏と大仏殿を再建しました。あわせてつくられた大きな鐘の銘文を書いたのは、南禅寺の僧・文英清韓です。

問題にされた二つの句

銘文の中に、国家安康君臣豊楽の二句がありました。徳川方はこれを、家康の名を二つに切り、豊臣家の繁栄を願うものだと言いがかりをつけます。家康は大仏殿の供養の延期を命じ、五山の僧と林羅山に銘文を調べさせました。

交渉の行き詰まりと開戦

豊臣家の使者となった片桐且元は、秀頼の江戸参勤、淀殿を人質に出すこと、大坂城の明け渡しという三つの案を持ち帰ります。豊臣方はこれを拒み、且元は大坂を去りました。慶長19年(1614年)11月、大坂冬の陣が始まります。


鐘の文字が、そのまま戦の原因になったわけではありません。それでも、この一件をきっかけに交渉の道が細り、二つの家は開戦へ進みました。

おまけトリビア

これほどの騒ぎになった鐘ですが、壊されはしませんでした。いまも方広寺に残り、国の重要文化財に指定されています。


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、方広寺鐘銘事件をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。

方広寺鐘銘事件の背景


方広寺は、豊臣秀吉が京都に大仏を安置して建てた寺です。ところがこの大仏は、地震で倒れてしまいます。秀吉の死後、子の秀頼がその再建を進め、大仏と大仏殿は1614年に完成しました。

再建がどういういきさつで始まったのかは、記録によって書きぶりが分かれます。はっきりしているのは、費用を負担したのが豊臣家であり、工事は完成にこぎつけた、ということです。

このころ、豊臣家は微妙な立場にありました。1600年の関ヶ原の戦いのあと、徳川家康は1603年に征夷大将軍となって江戸に幕府を開きます。それでも秀頼は大坂城にとどまり続けました。幕府と豊臣家という二つの権威が並び立つ状態が、十年あまり続いていたのです。

人物と流れ


時期出来事
1600年関ヶ原の戦い。豊臣秀頼は大坂城にとどまる
1614年方広寺の大仏と大仏殿が完成し、梵鐘がつくられる
慶長19年(1614年)7月徳川家康が大仏殿の供養の延期を命じる
1614年五山の僧と林羅山が銘文を調べる
慶長19年(1614年)10月片桐且元が大坂を退去する
慶長19年(1614年)11月大坂冬の陣が始まる


鐘の銘文を書いたのは、南禅寺の僧・文英清韓でした。長い銘文の中に、次の二句があります。

国家安康 君臣豊楽


徳川方はこの八文字を問題にします。「国家安康」は徳川家康の名を「家」と「康」に分断したもの、「君臣豊楽」は豊臣を君主として子孫の繁栄を楽しむという意味だ、という読み方です。慶長19年(1614年)7月、家康は大仏殿の供養の延期を命じました。

家康は、五山の僧たちと朱子学者の林羅山に銘文を調べさせます。林羅山は、家康の名を二つに切るのは無礼で、呪いの意図があると訴えました。一方、五山の僧たちは、名前の扱いは手落ちだとしながらも、呪いとまでは認めていません。銘文を書いた清韓自身は、家康の名を「隠し題」として織り込んだのであり、その名を尊重するためだったと弁明しています。

この事態を受けて、豊臣家は宿老の片桐且元を駿府へ送りました。且元が大坂に持ち帰ったのは、

①秀頼が江戸へ参勤すること
②淀殿を人質として江戸へ置くこと
③秀頼が大坂城を明け渡して他国へ移ること

という三つの案です。秀頼と淀殿はいずれも拒みました。それどころか、且元は徳川方との内通を疑われます。身の危険を感じた且元は屋敷に立てこもり、慶長19年(1614年)10月、大坂を退去しました。

徳川方との交渉役が去ったことで、話し合いの道は消えます。慶長19年(1614年)11月、大坂冬の陣が始まりました。

史実と学説


この事件をどう評価するかは、いまも一つに定まっていません。

長く語られてきたのは、家康が豊臣家を追い込むために銘文を問題にした、という見方です。「言いがかり」「難くせ」といった強い言葉で語られることも珍しくありません。

一方で、豊臣方の側にも手落ちがあったとする見方も示されています。当時、貴人を実名で呼ぶことは避けられており、家康であれば官職で呼ぶのが常識でした。その名を、しかも分断した形で、了解も得ずに鐘へ刻んだ。清韓に悪意がなかったとしても、疑いをかけられても仕方のない振る舞いだった、という指摘です。

銘文を調べた同時代の僧たちの答えも、一つにまとまっていません。家康の名を割ったことについては「好ましくない」「前代未聞」と批判しながら、呪いの意図までは認めない、というものが多くを占めました。呪いだと断じたのは林羅山です。この食い違いがあるため、どちらか一方に決めることはできません。


はっきりしているのは、事件そのものが起きた順序です。鐘の銘文が問題にされ、供養が延期され、交渉役の片桐且元が大坂を去り、そして開戦した。この流れは、どの記録でも共通しています。

トリビアの真相


家を滅ぼす引き金になったのなら、その鐘は壊されてもおかしくありません。ところが、この鐘は残りました。いまも方広寺にあり、国の重要文化財に指定されています。

近づいて見ると、問題の二句もそのまま読めます。呪いだと断じられた文字が、四百年ののちも消されずに掛かっている。この一件が、鐘そのものへの憎しみではなく、二つの家の関係をめぐる話だったことが、そこから見えてきます。

試験に出るポイント

「1614年・方広寺・鐘銘・国家安康・君臣豊楽・大坂冬の陣のきっかけ」の組み合わせが頻出です。「国家安康=家康の名を分断」「君臣豊楽=豊臣家の繁栄」という徳川方の読み方をセットで押さえましょう。銘文を書いた文英清韓、解読を命じられた林羅山、交渉役の片桐且元という3人の役割の違いも問われます。

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日本史用語集 山川出版

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