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17_80 近世の社会・文化と国際関係 / 戦国時代・安土桃山時代

バテレン追放令とは?宣教師を追放しても南蛮貿易が続いた理由をわかりやすく解説【1分でわかる日本史】

著者名: かわちゃん
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バテレン追放令(ばてれんついほうれい)とは、1587年(天正15年)に豊臣秀吉が出した、キリスト教の宣教師に国外退去を命じた法令です。ところが秀吉は、宣教師を追い出しながら、貿易船の来航はそのまま認めていました。この記事では、バテレン追放令の中身と、南蛮貿易が続いた理由、そして実際にはほとんど守られなかった経緯を、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかるバテレン追放令」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つの疑問を考察していきます。

・布教だけ止めて商売を残す、そんなことは可能だったのか

・この令は何を禁じ、何を禁じなかったのか

・二十日という期限は、なぜ守られなかったのか


1分でわかるバテレン追放令


バテレン追放令とは、一言でいえば、キリスト教の布教だけを止めて、南蛮貿易は残そうとした法令です。

1587年、九州平定の直後に出された

豊臣秀吉は1587年(天正15年)、九州平定を終えた筑前の箱崎で、この令を出しました。日本は神国であるとしてキリスト教を邪法と位置づけ、宣教師には二十日以内の国外退去を命じています。キリスト教が神社や仏閣を打ちこわしていることも、とがめました。

貿易船の来航は禁じていない

同じ令のなかで、秀吉は貿易船(黒船)を「商売のこと」として別に扱い、来航を認め続けました。布教は止める、しかし南蛮貿易の利益は手放さない。この線引きこそが、バテレン追放令のいちばんの特徴です。

実際にはほとんど守られなかった

宣教師たちは日本を離れませんでした。いったん平戸に集まったあと、各地に散って潜伏します。秀吉の側も厳しくは取り締まらず、この令は事実上の空文になったと説明されます。


貿易船を追い返せば、南蛮貿易ごと失う。秀吉が引いた線は、はじめから守らせにくい線でした。キリスト教の禁止が本格化するのは、もう少しあとの時代のことです。

おまけトリビア

この令が禁じたのは、宣教師が日本にとどまることと、大名が勝手に入信することでした。日本人ひとりひとりが信仰を持つこと自体は、この段階ではまだ禁じられていないんです。


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、バテレン追放令をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。

■バテレン追放令の背景


16世紀の日本で、キリスト教の布教と南蛮貿易は、ほとんど一体で進みました。大名にとって布教を許すことは、貿易船を自分の港に呼ぶことでもあります。九州には入信する大名が現れ、信者は領民の層まで広がっていきました。

その広がりは、統一を進める側から見れば別の顔をしていました。長崎はイエズス会の手に渡り、教会が土地の支配にまで関わる状態が九州の一角に生まれていたのです。九州平定でその現地を目にした直後に令が出された、という順番は押さえておきたいところです。

■令の中身と流れ


時期出来事
1587年(天正15年)秀吉が九州平定を終える
同年6月19日付筑前の箱崎でバテレン追放令を発令
令の直後宣教師は平戸に集まり、その後各地へ潜伏
以後令は空文化し、禁教の本格化は江戸時代へ


令そのものは短い箇条書きの文書で、柱は三つです。
第一に、日本は神国であってキリスト教の布教はふさわしくないこと。

第二に、信者を増やして神社仏閣を打ちこわさせるのはけしからぬこと。

第三に、宣教師は二十日以内に日本を去ること。そのうえで、貿易船については商売の船だから別だとして、来航を妨げないと定めました。


この「商いと布教を切り分ける」考え方が、令全体を貫いています。

■史実と学説


秀吉がなぜこの令を出したのかについては、決め手が出ていません。挙げられてきた要因は、キリシタンによる神社仏閣の破壊、ポルトガル商人が日本人を売買していたこと、長崎がイエズス会の手に渡っていたこと、そして信仰による集団化が一向一揆のような勢力に育ちかねないという警戒などです。長崎とその周辺の貿易の利益を、秀吉自身が握ろうとしたのだという見方もあります。

このうち長崎については、事実関係が具体的に伝わっています。キリシタン大名の大村純忠(おおむらすみただ)が長崎をイエズス会に寄進しており、この地は教会領となっていました。秀吉は追放令とあわせて長崎・茂木(もぎ)・浦上(うらかみ)の没収を命じ、長崎はのちに秀吉の直轄領となります。ただし直轄領として固まった時期は、追放令と同時とする説明と、いったん元の領主に返されたうえで翌年に確定したとする説明があり、資料によって分かれます。

動機については、上のようにいくつもの説が並立しています。どれか一つに決まったわけではなく、複数が重なっていたと考える説明が一般的です。「本当の狙いはこれだった」と言い切れる段階にはありません。


実効性のほうは、評価がおおむね一致しています。宣教師は国外へ出ず、平戸に集まったあと各地に散って潜伏を続けました。貿易への影響を考えれば厳しく実行するわけにもいかず、この令は空文化した、というのが共通した説明です。キリスト教の禁止が全国の基本法として固まるのは、江戸時代に入ってからのことです。

■トリビアの真相


見落とされやすいのが、この令が「誰に」向けられていたかです。国外へ出ろと命じられたのは宣教師であり、大名には勝手な入信や領民をまとめて信者にすることが禁じられました。一方、庶民が個人として信仰を持つこと自体は、この段階では禁じられていません。狙いは信仰そのものの根絶ではなく、布教を担う人と、信仰が政治勢力に育つ道筋のほうを断つことにあった、と読めます。だからこそ「布教は止めるが貿易は続ける」という、一見ちぐはぐな組み合わせが成り立ちました。

試験に出るポイント

「1587年・豊臣秀吉・九州平定の直後・宣教師の国外追放」の4点セットが頻出。あわせて「南蛮貿易は禁止していないため徹底されず、効果が薄かった」という結論まで問われます。太閤検地や刀狩令など秀吉の他の政策と並べて出るので、内容を取り違えないこと。

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日本史用語集 山川出版

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