ログイン

17_80 近世の社会・文化と国際関係 / 戦国時代・安土桃山時代

桃山文化とは?天守と障壁画をわかりやすく解説【1分でわかる日本史】

著者名: かわちゃん
Text_level_1
マイリストに追加
桃山文化(ももやまぶんか)とは、織田信長と豊臣秀吉が天下統一を進めた安土桃山時代に栄えた文化で、豪華で雄大な城の建築と、金をふんだんに使った絵画を特色とします。この記事では、天守と障壁画がセットで生まれた理由、茶の湯や南蛮文化との関係を、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。

この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる桃山文化」だけで、要点がつかめます。

さらに深掘りでは、次の3つのポイントを考察していきます。

・なぜ天守と障壁画は同時に生まれたのか

・金ピカの時代に、なぜ簡素な茶室が流行したのか

・「桃山文化」はいつからいつまでか



1分でわかる桃山文化


桃山文化とは、一言でいえば、天下人の力を「金」と「巨大さ」で見せた文化です。

天守と障壁画はセットで生まれた

信長が安土城に築いた高くそびえる天主は、城のかたちを変えました。大名の力をひと目で示す装置です。そして巨大な建物ができれば、その内側を飾る巨大な絵が要ります。それが、ふすまや壁を金と濃い色で埋めた障壁画(しょうへきが)でした。この時代の障壁画を代表する絵師が、狩野永徳(かのうえいとく)です。

正反対の茶の湯が同居した

同じ時代に、まったく逆の美意識も育ちます。千利休(せんのりきゅう)が大成した茶の湯は、狭く簡素な茶室を良しとしました。豪華と簡素。この両方が並び立ったのが、桃山文化の面白さです。

南蛮文化が流れ込んだ

海の向こうからは、ヨーロッパの品や知識が届きます。その珍しさは南蛮屏風(なんばんびょうぶ)という新しい画題まで生みました。


桃山文化には、仏教の色が薄いという特徴もあります。人間そのものや現世の暮らしに目を向けた文化で、新しく力を得た大名や、貿易で富を築いた豪商の気風がそのまま表れています。

おまけトリビア

「桃山」は、秀吉が生きていたころには無かった地名です。伏見城が取り壊されたあと、その跡地に桃の木が植えられて花の名所になり、あたり一帯が「桃山」と呼ばれるようになりました。時代の名前は、城が消えたあとの風景からついたものなんです。


ここから深掘り


ここまでが1分の要約です。ここからは、桃山文化をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。

■桃山文化の背景


戦国の争乱が収まっていく中で、力を持ったのは新興の大名と、貿易や商業で富を築いた豪商でした。彼らは古い権威に頼る必要がありません。だから文化も、寺や宮廷の伝統をなぞるのではなく、いま自分が持っている力を見せる方向へ振れました。仏教の色が薄まり、人間中心の性格が強くなったと説明されるのはこのためです。

■天守と障壁画


城は山の上から平地へ下りてきます。広い堀をめぐらせ、高い石垣を積み、その上に多層の天守を載せる。これが桃山の城です。信長が築いた安土城が、この形の出発点とされます。大坂城、伏見城と続き、現存する天守では姫路城がよく知られています。

内部を飾ったのが障壁画です。金の地に濃い色を重ねる描き方で、部屋そのものが光を放つように仕立てられました。狩野派の狩野永徳は、この時代の障壁画を代表する絵師です。一方で、水墨を得意とした長谷川等伯(はせがわとうはく)のように、豪華一辺倒ではない画風も同じ時代に並んでいました。

■豪華と簡素、そして南蛮


茶の湯は、この時代のもうひとつの柱です。千利休が大成した茶の湯は、装飾を削り、狭い茶室で客と向き合う形を追い求めました。金と巨大さを競う城の文化と、同じ時代に、同じ人々の手で成り立っていたことになります。見せる相手が違えば、必要な美意識も変わります。天守や障壁画は大勢に力を伝えるためのもの、茶室は限られた客と向き合うためのものでした。

秀吉の茶の湯には、その両面がそのまま出ています。天正15年(1587年)10月1日、秀吉は京都の北野天満宮で北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)という大きな茶会を開きました。茶の湯を好む者なら身分も貧富も問わない、釜が一つと茶碗が一つあればよい、茶が無ければ、こがしを持ってくればよい。そう触れを出して人を集め、境内から松原にかけて簡素な茶席がずらりと並びます。秀吉自身と千利休、津田宗及(つだそうぎゅう)、今井宗久(いまいそうきゅう)の4人が亭主を務めました。ところが10日間の予定だったこの茶会は、1日で打ち切られます。打ち切りの理由は、肥後で一揆が起きたためと伝わりますが、政治向きの事情を見る説もあり、決め手はありません。

その北野大茶湯で拝殿の中央に据えられていたのが、秀吉の黄金の茶室(おうごんのちゃしつ)です。3畳の組み立て式で、壁も柱も天井も金張り、畳の表は猩々緋(しょうじょうひ)の赤、障子には赤い薄絹が張られていました。持ち運べるので、御所に運び込んで天皇に見せ、肥前名護屋城(なごやじょう)まで運んで外国の使節をもてなす、という使い方をしています。現物は残っておらず、各地で見られるのは記録から起こした復元です。

そこへポルトガル人らの来航が重なり、ヨーロッパの品物・技術・信仰が入ってきました。芸能では出雲阿国(いずものおくに)のかぶき踊りが評判を取り、三味線を伴奏とする浄瑠璃も広がります。焼き物では、織部焼のような新しい茶陶も生まれました。

■史実と学説


「桃山文化」がいつからいつまでを指すかは、実は一様ではありません。秀吉が政権を握った時期(1582〜1603年ごろ)の文化とする説明が基本ですが、美術史の分野では信長の安土時代や17世紀初頭までを含めて扱うことが多いとされます。教科書で「安土桃山時代の文化」とまとめて習うのは、この幅を吸収した書き方です。

桃山文化の範囲は資料により幅があります。政治史の区分に沿えば桃山時代(1582〜1603年ごろ)、美術史では16世紀後半から17世紀初頭までを含めるのが一般的とされます。


■トリビアの真相


「桃山」は、この文化が花開いていたころには使われていない地名でした。秀吉が晩年の拠点とした伏見城は、豊臣氏が滅びたあとに取り壊されます。その跡地に桃の木が植えられ、花見でにぎわう名所になったことから、あたり一帯が「桃山」と呼ばれるようになりました。城が消えたあとの風景から生まれた地名です。それを後の世の人が秀吉の時代を指す言葉に転用し、「桃山時代」「桃山文化」という呼び名ができました。桃が植えられた時期や名前が広まった時期の説明には幅がありますが、江戸時代に入ってからという点はどれも変わりません。当時の人が「桃山文化」と名乗っていたわけではない、ということです。

試験に出るポイント

「豪華・雄大/仏教色が薄く人間中心/新興大名と豪商の気風」の3点セットが頻出。建築は安土城・大坂城・伏見城・姫路城、絵画は狩野永徳と長谷川等伯、茶の湯は千利休、芸能は出雲阿国のかぶき踊りを組で覚えると取りこぼしません。秀吉が開いた北野大茶湯(1587年)と黄金の茶室も、茶の湯とセットで問われます。

Related_title
もっと見る 

Keyword_title

Reference_title
日本史用語集 山川出版

この科目でよく読まれている関連書籍

このテキストを評価してください。

※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。

 

テキストの詳細
 閲覧数 216 pt 
 役に立った数 0 pt 
 う〜ん数 0 pt 
 マイリスト数 0 pt 

知りたいことを検索!

まとめ
このテキストのまとめは存在しません。


最近読んだテキスト