エジプト文明:エジプトの統一国家
ナイル川とエジプトの風土 「エジプトはナイルのたまもの」という古代ギリシアの歴史家ヘロドトスが残したこの言葉は、エジプト文明の本質を見事に言い表しています 。北アフリカ東端に位置するエジプトは、世界最長の河川であるナイル川の流域に栄えました 。 ナイル川は、上流のエチオピア高原の雨期の影響で、毎年7月から10月にかけて定期的に氾濫を起こしました 。この氾濫は、上流から肥沃な土壌(ナイル=シルト)を運んでくるため、当時の人々にとって天災ではなく、豊かな実りを約束する恩恵でした 。人々は氾濫が引いた後の湿った土地に種をまき、豊かな収穫を得ることができました 。 地形的には、北部河口付近の扇状地であるデルタ地帯を「下エジプト」、南部のナイル川沿いの渓谷地域を「上エジプト」と呼びます 。エジプトは東西を砂漠、北を地中海、南をナイル川の急流に守られた閉鎖的な地形であったため、メソポタミアに比べて外敵の侵入を受けにくく、長期間にわたり安定した文明を維持することができました 。
統一国家の成立とファラオ
ナイル川流域では、灌漑や治水のために住民の共同労働が必要とされ、それを統率する強力な指導者が求められました 。その結果、各地に「ノモス」と呼ばれる小国家(村落の連合体)が形成されました 。 紀元前3000年頃、伝説上の王メネスによって上下エジプトが統一され、ファラオ(王)による統一国家が成立しました 。ファラオとは「大きな家」を意味し、太陽神ラーの子として神聖視され、絶対的な権力を持ちました 。王はナイル川の水位を管理し、自然の秩序を維持する現人神として崇拝されました 。 古代エジプトの歴史は、30の王朝に区分されますが、特に繁栄した時代は古王国、中王国、新王国の三つに大別されます 。
三つの王国時代
古王国時代(前27世紀頃~前22世紀頃)
都はナイル川下流のメンフィスに置かれました 。ファラオの権力が絶大で、その権威を象徴する巨大なピラミッドが多く建設されました 。特にギザにあるクフ王、カフラー王、メンカウラー王の三大ピラミッドは有名です 。ピラミッドは王の墓であると同時に、農閑期の農民に仕事を与える国家事業としての側面もあったと考えられています 。
中王国時代(前21世紀頃~前18世紀頃)
古王国の崩壊後、混乱期(第1中間期)を経て、テーベの王家がエジプトを再統一しました 。都はテーベに置かれました 。この時代には官僚制度が整備され、中央集権化が進みました 。また、アメン神が守護神として崇拝されるようになりました 。 末期には、シリア方面から遊牧民ヒクソスが侵入し、ナイルデルタ地帯を支配しました(第2中間期) 。ヒクソスは馬と戦車をエジプトにもたらし、軍事技術に革新を与えました 。
新王国時代(前16世紀頃~前11世紀頃)
テーベの王家がヒクソスを追放して成立しました 。この時代はエジプトが対外的に最も拡大した時期で、ヒクソスから学んだ馬と戦車を用いてシリアやヌビア(エジプト南部)へ積極的に遠征しました 。 トトメス3世の時代には領土が最大となり、「エジプトのナポレオン」とも称されます 。 しかし、遠征の成功により、国家神アメンの神官団が強大な権力を持つようになり、王権と対立するようになりました 。これに対し、第18王朝のアメンヘテプ4世(イクナートン)は宗教改革を行いました 。彼は従来の神々の崇拝を禁じ、唯一神アトン(太陽の円盤)のみを信仰するように命じました 。都をテーベからテル=エル=アマルナに移し、自らもイクナートン(アトンに有益な者)と改名しました 。この時代の美術は、従来の形式にとらわれない写実的な様式が特徴で、アマルナ美術と呼ばれます 。 しかし、この改革はあまりに急進的であったため、彼の死後、次のツタンカーメン王によって否定され、アモン信仰が復活し、都もメンフィスに戻されました 。 その後、ラメセス2世は国威を回復し、アブシンベル神殿などの巨大建築を残しました 。また、ヒッタイトとのカデシュの戦いの後、平和条約を結びました 。しかし、新王国の末期には「海の民」の侵入などにより国力が衰退していきました 。