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18_80 ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成 / イギリス革命

イギリス=オランダ(英蘭)戦争とは わかりやすい世界史用語2707

著者名: ピアソラ
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イギリス=オランダ(英蘭)戦争とは

17世紀から18世紀にかけて断続的に繰り広げられたイギリス(イングランド)とオランダ(ネーデルラント連邦共和国)との一連の戦争、すなわち英蘭戦争は、ヨーロッパの歴史、ひいては世界の歴史における覇権の移行を象徴する、極めて重要な出来事です。これらの戦争は、単なる二国間の領土紛争ではなく、世界の海洋と貿易の支配権を巡る、熾烈な商業的・経済的競争の軍事的な現れでした。宗教的には同じプロテスタント国家でありながら、両国は、それぞれの国家利益と経済的野心が衝突する中で、四度にわたる大規模な海戦を交えることになります。
17世紀半ば、オランダは「黄金時代」の絶頂にあり、その巨大な商船隊、高度な金融システム、そして広大な貿易ネットワークによって、世界の商業の中心として君臨していました。彼らは「世界の運送屋」として、バルト海から地中海、そしてアジアや新大陸に至るまで、あらゆる商品を運び、中継貿易によって莫大な富を築き上げていました。
一方、イングランドは、内戦の混乱から立ち直り、オリバー=クロムウェル率いる共和国、そしてその後の王政復古を経て、強力な中央集権国家として台頭しつつありました。国家の富は貿易黒字によってもたらされるとする重商主義の思想に突き動かされ、イングランドは、オランダが支配する国際貿易の秩序に挑戦し、自国の商業的利益を拡大しようと野心を燃やしていました。この野心が、1651年の航海法という形で具体化され、オランダの中継貿易をイングランドの市場から締め出すという直接的な挑戦状を叩きつけます。これが、第一次英蘭戦争の直接的な引き金となりました。
第一次英蘭戦争(1652–1654)は、純粋な経済的動機から始まった、史上初の本格的な商業戦争でした。両国の強力な海軍が、イギリス海峡や北海で激しい海戦を繰り広げ、その後の海戦術に大きな影響を与えることになります。
続く第二次英蘭戦争(1665–1667)では、戦場はヨーロッパ近海だけでなく、北米、カリブ海、西アフリカ、東南アジアといった世界中の植民地へと拡大しました。この戦争は、イングランドによるニューアムステルダム(後のニューヨーク)の奪取や、オランダ海軍によるメドウェイ川襲撃という、互いの首都に迫る大胆な作戦によって記憶されています。
第三次英蘭戦争(1672–1674)は、これまでの戦争とは異なり、イングランドがフランスのルイ14世と秘密同盟を結び、オランダを陸と海から挟撃するという、より大きなヨーロッパの国際政治の文脈の中で戦われました。オランダは国家存亡の危機に瀕しますが、ミヒール=デ=ロイテル提督の卓越した海軍戦術と、巧みな外交によってこの危機を乗り越えます。
そして、第四次英蘭戦争(1780–1784)は、アメリカ独立戦争という新たな世界情勢の中で勃発しました。かつての海洋大国オランダの力は衰え、イギリスは世界の海に君臨する大英帝国へと変貌を遂げていました。この戦争は、オランダの黄金時代の終焉を決定づけ、イギリスの海洋覇権を不動のものとしました。
これらの戦争を通じて、世界の経済と政治の中心は、アムステルダムからロンドンへと徐々に移行していきました。英蘭戦争は、近代的な海軍の発展、国際法の形成、そしてグローバルな植民地帝国の興亡を理解する上で、避けては通れない、血と硝煙に彩られた歴史の転換点なのです。



第一次英蘭戦争(1652–1654)

第一次英蘭戦争は、ヨーロッパの歴史において、その動機と性格がほぼ完全に経済的なものであったという点で、画期的な紛争でした。領土や王朝の継承を巡る従来の戦争とは異なり、この戦争は、貿易ルートの支配、海運の利益、そして重商主義的な国家の富を巡る、二つのプロテスタント共和国の間の直接対決でした。その根源には、17世紀半ばのオランダの商業的覇権と、それに挑戦しようとするイングランド共和国の野心がありました。
背景=航海法と外交の失敗

17世紀半ば、オランダ共和国は、その経済的な繁栄の頂点にありました。彼らの巨大な商船隊は、ヨーロッパの海運の大部分を支配し、「世界の運送屋」として中継貿易で莫大な利益を上げていました。一方、イングランドは内戦の傷跡から立ち直り、オリバー=クロムウェルを中心とする新しい共和国政府の下で、国力の増強と商業的利益の拡大を目指していました。
イングランドの重商主義者たちの目には、オランダの繁栄は、イングランドの富を犠牲にして成り立っているように映りました。イングランドの植民地の産品がオランダ船で運ばれ、イングランドが必要とする物資がオランダの仲介を経て輸入されることで、利益が不当にオランダに流出していると考えられたのです。
この状況を打破するため、イングランド議会は1651年10月、「航海法」を制定しました。この法律は、アジア、アフリカ、アメリカからの商品をイングランドとその植民地に輸入する際にはイングランド船の使用を義務付け、ヨーロッパからの商品の輸入もイングランド船かその商品の原産国の船に限定するというものでした。これは、中継貿易を生命線とするオランダの船を、イングランドの貿易から合法的に排除することを狙った、直接的な経済攻撃でした。
オランダは、この法律が自国の経済に与える打撃を深刻に受け止め、外交交渉による撤回を試みましたが、イングランドの態度は強硬でした。交渉は決裂し、両国関係は急速に悪化します。海上では、航海法を執行しようとするイングランド海軍と、自国の商船を守ろうとするオランダ海軍との間で、緊張が高まっていきました。
決定的な引き金となったのは、1652年5月29日、ドーバー沖で起こった事件です。イングランド艦隊司令官ロバート=ブレイクが、オランダ艦隊司令官マールテン=トロンプに対し、イングランドの旗への敬礼を要求したところ、これが発端となって砲撃戦が勃発しました。この事件を受け、イングランドは1652年7月10日にオランダへ宣戦布告し、第一次英蘭戦争が始まりました。
海戦の展開

戦争は、ほぼ完全に海上で行われました。両国ともに、強力で専門的な海軍を保有しており、その戦いは、数十隻、時には百隻以上の艦船が参加する、大規模な艦隊決戦の様相を呈しました。
戦争の初期、オランダは、経験豊富な提督マールテン=トロンプやウィッテ=デ=ウィットに率いられ、いくつかの海戦で優位に立ちました。特に1652年12月のダンジェネスの海戦では、トロンプがブレイクを破り、一時的にイギリス海峡の制海権を確保しました。この勝利の後、トロンプが自身の船のマストに箒を掲げ、「イギリス海峡を掃き清めた」と豪語したという逸話は有名です。
しかし、イングランドは、その優れた国家財政と行政能力を活かして、素早く海軍を再建・強化しました。彼らは、より大型で重武装の戦列艦を建造し、艦隊の組織と戦術を改良しました。特に、艦船が縦一列の陣形(単縦陣)を組んで、敵艦隊と平行に航行しながら、舷側の砲火を集中させるという「戦列戦術」は、この戦争を通じてイングランド海軍によって体系化され、その後の海戦の標準的な戦術となっていきました。
1653年に入ると、戦局はイングランドに有利に傾き始めます。2月のポートランドの海戦、6月のガッバードの海戦では、イングランド艦隊がオランダ艦隊に大きな損害を与えました。イングランド海軍は、オランダの海岸線を封鎖し、オランダの生命線である海上貿易を麻痺させました。
最後の大きな海戦となったのが、1653年8月のスケフェニンゲンの海戦です。この戦いで、オランダの偉大な提督マールテン=トロンプが戦死し、オランダ艦隊は再び敗北を喫しました。トロンプの死は、オランダの士気に大きな打撃を与えました。
ウェストミンスター条約

海上貿易の完全な停止により、オランダ経済は壊滅的な打撃を受けました。食料不足と失業が深刻化し、国内では和平を求める声が急速に高まりました。一方、イングランドもまた、戦争の経済的負担に苦しんでおり、クロムウェルはプロテスタント国家同士の争いを終わらせたいと考えていました。
和平交渉の結果、1654年4月5日、ウェストミンスター条約が締結され、戦争は終結しました。この条約で、オランダは、1651年の航海法を受け入れることを余儀なくされました。これは、イングランドにとって大きな勝利でした。また、秘密条項として、オランダのホラント州は、イングランド王家と血縁関係にあるオラニエ=ナッサウ家(特に後のウィリアム3世)の人物を、州総督や軍の総司令官といった公職から永久に追放することを約束させられました(排除条項)。これは、イングランド共和国が、王党派の復活に繋がる可能性のあるオラニエ家の影響力を削ごうとしたものでした。
第一次英蘭戦争は、イングランドがその海軍力と経済政策によって、オランダの商業的覇権に初めて深刻な挑戦を行い、一定の成功を収めたことを示しました。しかし、両国の根本的な商業的対立が解決されたわけではなく、この戦争は、その後半世紀にわたる両国のライバル関係の、始まりに過ぎなかったのです。
第二次英蘭戦争(1665–1667)

第一次英蘭戦争から約10年後、イングランドとオランダは再び戦火を交えました。第二次英蘭戦争は、第一次戦争と同様に商業的なライバル意識が根底にありましたが、その対立は世界中の植民地へと拡大し、より大規模で、より破壊的な紛争となりました。この戦争は、イングランドの王政復古という新たな政治状況と、両国の植民地帝国建設の野心が複雑に絡み合ったものでした。
背景=王政復古と植民地競争

1660年、イングランドでは王政が復古し、チャールズ2世が国王として即位しました。新しい王政は、クロムウェルの共和国時代に制定された航海法を、さらに強化・拡充した1660年と1663年の新航海法を制定しました。これらの法律は、特定の植民地産品(砂糖、タバコ、綿花など)を「列挙品目」とし、イングランド以外の市場へ直接輸出することを禁じるなど、オランダの貿易に対する制限をさらに厳しくするものでした。
チャールズ2世の宮廷や議会では、強力な反オランダ感情と商業的野心を持つ一派が大きな影響力を持っていました。彼らは、オランダの富を羨み、戦争によってその貿易を破壊し、植民地を奪い取ることができると信じていました。特に、国王の弟であるヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)は、海軍卿として、主戦論の中心人物でした。
対立は、ヨーロッパの外、すなわちアフリカ、東南アジア、北米の各地で先鋭化しました。西アフリカでは、両国の会社が奴隷と金の貿易を巡って激しく争いました。1664年、イングランドのロバート=ホームズ提督が、オランダの奴隷貿易拠点を次々と攻撃・占領しました。これに対し、オランダはミヒール=デ=ロイテル提督を派遣して、これらの拠点を奪還させます。
最も決定的な出来事は、北米で起こりました。1664年、イングランドは、平時にもかかわらず、艦隊を派遣して、オランダの植民地ニューネーデルラントの中心都市ニューアムステルダムを奇襲し、占領しました。この都市は、国王の弟にちなんで「ニューヨーク」と改名されました。これらの公然たる敵対行為は、もはや外交的な解決を不可能にし、1665年3月、イングランドはオランダに宣戦布告しました。
海戦の展開とメドウェイ川襲撃

戦争が始まると、両国海軍は再び大規模な艦隊決戦を繰り広げました。1665年6月のローストフトの海戦では、ヨーク公ジェームズが率いるイングランド艦隊が、オランダ艦隊に大勝利を収めました。この敗北はオランダに衝撃を与え、指導者であったヨハン=デ=ウィットは、海軍の抜本的な改革と強化に着手します。
翌1666年は、戦争の転換点となりました。6月に行われた「四日海戦」は、海戦史上でも最も長く、最も激しい戦いの一つでした。ミヒール=デ=ロイテル提督率いるオランダ艦隊と、ジョージ=モンク将軍率いるイングランド艦隊が、四日間にわたって死闘を繰り広げ、結果はオランダの戦術的勝利に終わりました。しかし、そのわずか2ヶ月後の聖ジェイムズ日の海戦では、イングランド艦隊が雪辱を果たし、オランダ艦隊を破りました。
イングランドが優位に立ったかに見えましたが、イングランド国内で二つの大災害が発生し、戦局に大きな影響を与えます。1665年から1666年にかけてロンドンを襲ったペストの大流行と、1666年9月のロンドン大火です。これらの災害は、イングランドの財政を破綻寸前に追い込み、戦争遂行能力を著しく低下させました。チャールズ2世は、艦隊の大部分を港に係留し、和平交渉に臨むことを決定します。
このイングランドの油断が、戦争の最も劇的な結末を招きました。1667年6月、オランダの提督ミヒール=デ=ロイテルは、大胆不敵な奇襲作戦を実行します。彼は、小規模な艦隊を率いてテムズ川の河口に侵入し、さらにメドウェイ川を遡って、チャタムの海軍基地を攻撃したのです。オランダ軍は、防備の薄い基地を蹂躙し、停泊していたイングランドの軍艦を次々と焼き払い、イングランド海軍の誇りであった旗艦「ロイヤル=チャールズ」を捕獲して、オランダへと曳航していきました。この「メドウェイ川襲撃」は、イングランド海軍史上最大の屈辱とされ、ロンドンにパニックを引き起こしました。
ブレダの和約

メドウェイ川での屈辱的な敗北により、イングランドは和平交渉で大幅な譲歩を迫られました。1667年7月31日に締結されたブレダの和約では、イングランドは航海法を緩和し、オランダ船がドイツやネーデルラント南部の産品をイングランドに運ぶことを許可しました。これはオランダにとって大きな外交的勝利でした。
植民地に関しては、戦争中に占領した領土をそれぞれが領有することが認められました。これにより、イングランドはニューヨーク(旧ニューアムステルダム)を正式に獲得しましたが、その代償として、南米のスリナム(価値の高い砂糖プランテーションがあった)と、東インド諸島のラン島(香辛料ナツメグの産地)をオランダに譲渡しました。
全体として、第二次英蘭戦争は、オランダの勝利に終わりました。彼らは、デ=ロイテルの卓越した指導力の下で海軍を再建し、イングランドに一矢を報いることに成功しました。しかし、この戦争は両国の財政を疲弊させ、また、フランスのルイ14世がネーデルラント南部への侵攻を開始するなど、新たな脅威の台頭を告げるものでもありました。両国の対立は、まだ終わってはいなかったのです。
第三次英蘭戦争(1672–1674)

第三次英蘭戦争は、それまでの二つの戦争とは大きく性格を異にするものでした。この戦争は、英蘭二国間の商業的対立というよりも、ヨーロッパ大陸の覇権を狙うフランス王ルイ14世の野心に、イングランド王チャールズ2世が加担した、より大きな国際紛争の一部でした。オランダは、フランスとイングランドという二つの大国から陸と海で同時に攻撃され、国家存亡の危機、いわゆる「災厄の年」を迎えました。
ドーヴァーの密約とフランスの野心

第二次英蘭戦争で屈辱的な敗北を喫したイングランド王チャールズ2世は、オランダへの復讐と、議会への財政的依存から脱却するための機会を窺っていました。一方、フランス王ルイ14世は、ヨーロッパにおけるフランスの覇権を確立するため、その最大の障害である、商業的に豊かで軍事的に強力なオランダ共和国を叩き潰そうと計画していました。
両者の利害は一致しました。1670年、チャールズ2世とルイ14世は、秘密裏に「ドーヴァーの密約」を締結します。この密約で、チャールズ2世は、フランスから巨額の資金援助を受け取る見返りに、フランスがオランダに侵攻する際に、イングランド海軍が協力することを約束しました。さらに、チャールズ2世は、将来的に自身がカトリックに改宗し、イングランドをカトリック国に戻すことを(極秘に)誓約しました。この密約は、イングランドの国益よりも、国王個人の野心と宗教的信条が優先された、背信的なものでした。
1672年、フランスは準備を整え、12万人の大軍を率いてオランダに侵攻を開始しました。同時に、イングランドもオランダに宣戦布告し、英仏連合艦隊がオランダ沿岸の制海権を奪うべく出撃しました。オランダは、陸からはフランス軍、海からは英仏連合艦隊、さらに東からはフランスと同盟したドイツのミュンスター司教とケルン選帝侯の軍隊に攻め込まれるという、絶望的な状況に陥りました。
災厄の年とオラニエ公ウィレムの台頭

1672年は、オランダ史において「災厄の年(ランプヤール)」として記憶されています。フランス軍は、オランダの防衛線を次々と突破し、国土の大部分を占領しました。政府があったハーグやアムステルダムも、陥落の危機に瀕しました。この国家的なパニックの中で、民衆の怒りは、これまで国を率いてきた共和派の指導者ヨハン=デ=ウィットに向けられました。デ=ウィットは、フランスとの戦争に反対し、陸軍の軍備を怠ったと非難され、最終的にハーグで暴徒化した民衆によって、弟のコルネリスと共に惨殺されました。
この混乱の中で、オランダの新たな指導者として台頭したのが、若きオラニエ公ウィレム3世(後のイングランド王ウィリアム3世)でした。民衆の圧倒的な支持を受けたウィレムは、州総督に就任し、国の全権を掌握しました。彼は、不屈の意志でフランスへの抵抗を組織し、まず、国土の心臓部を守るために、堤防を決壊させて国土を水浸しにする「洪水線」という最終手段に訴えました。これにより、フランス軍の進撃は停止しました。
デ=ロイテルの海戦術

陸での抵抗が続く中、海では、オランダの存続がかかった決戦が繰り広げられていました。ミヒール=デ=ロイテル提督率いるオランダ艦隊は、数で大きく勝る英仏連合艦隊を相手に、絶望的な戦いを挑まなければなりませんでした。英仏連合艦隊の目的は、オランダ艦隊を殲滅し、オランダ沿岸に上陸部隊を送り込むことでした。
しかし、デ=ロイテルは、その天才的な海軍戦術を駆使して、この目的を阻止しました。1672年6月のソールベイの海戦では、停泊中の英仏連合艦隊を奇襲し、大きな損害を与えて、上陸作戦を延期させました。
翌1673年、デ=ロイテルは、自身のキャリアの頂点ともいえる一連の海戦を戦います。彼は、オランダ沿岸の浅瀬や砂州といった地形を巧みに利用し、より大型の英仏艦隊を混乱させました。6月の二度にわたるスホーネヴェルトの海戦、そして8月のテッセルの海戦において、デ=ロイテルは、数的劣勢を覆し、英仏連合艦隊に決定的な勝利を収めました。これらの勝利によって、オランダ沿岸への上陸計画は完全に頓挫し、オランダは海からの脅威を免れたのです。デ=ロイテルの活躍は、オランダを亡国の淵から救った英雄的行為として、高く評価されています。
ウェストミンスター条約(1674年)

イングランド国内では、フランスとの同盟に対する不満と疑念が高まっていました。多くのイングランド人は、この戦争を、プロテスタント国家であるオランダを、カトリックの絶対君主国であるフランスと組んで攻撃する、不義の戦争と見なしていました。議会は、チャールズ2世のカトリックへの傾倒を警戒し、戦争予算の承認を拒否しました。
海軍の敗北と国内の政治的圧力に直面したチャールズ2世は、戦争から離脱せざるを得なくなりました。1674年2月、イングランドとオランダは、ウェストミンスター条約を締結し、単独で講和しました。この条約は、第二次英蘭戦争後のブレダの和約の内容を再確認するもので、実質的に戦前の状態に戻すものでした。イングランドは、ニューヨークの領有を再確認されたものの、戦争から何ら利益を得ることはできませんでした。
イングランドが脱落した後も、オランダは、スペインや神聖ローマ皇帝といった新たな同盟国を得て、フランスとの戦争を続けました。第三次英蘭戦争は、オランダにとっては、その独立と共和制を守り抜いた、苦難に満ちた勝利の物語となりました。そして、この戦争を通じてオランダを救ったオラニエ公ウィレム3世は、ヨーロッパにおける反フランス連合の中心人物として、その名を高めていくことになります。
第四次英蘭戦争(1780–1784)

第四次英蘭戦争は、それまでの三つの戦争から一世紀近くが経過した、全く異なる国際情勢の中で勃発しました。この戦争は、かつての二つの海洋大国の間の、最後の直接対決でした。しかし、その力関係は、もはや対等ではありませんでした。イギリスは、産業革命の萌芽と広大な植民地帝国を背景に、世界の海に君臨する超大国へと成長していました。一方、オランダの「黄金時代」は遠い過去のものとなり、その経済力、軍事力、そして政治的な影響力は、著しく低下していました。この戦争は、オランダの衰退を決定づけ、その大国としての地位に終止符を打つものとなりました。
背景=アメリカ独立戦争とオランダの貿易

戦争の直接的な原因は、アメリカ独立戦争(1775–1783)にありました。オランダは、公式には中立の立場をとっていましたが、多くのアムステルダムの商人たちは、反乱を起こしたアメリカの植民地側と、密かに武器や弾薬、その他の物資を取引することで、大きな利益を上げていました。特に、カリブ海に浮かぶオランダ領のシント=ユースタティウス島は、アメリカへの密輸貿易の巨大な中継拠点として機能していました。
イギリスは、このオランダによる「敵との通商」を、自国の戦争努力を妨害する敵対行為と見なし、強く反発しました。イギリス海軍は、中立国であるはずのオランダの商船を拿捕し、積荷を没収するようになりました。さらに、イギリスは、オランダが、フランスやスペインといった他のヨーロッパ諸国が結成した、イギリスに対抗するための「武装中立同盟」に加盟しようとしていることを警戒していました。
決定的な証拠となったのは、1780年9月、イギリス海軍が、アメリカの外交官ヘンリー=ローレンスが乗っていた船を拿捕した際に、オランダとアメリカの間の通商条約の草案を発見したことでした。これは、オランダがアメリカの独立を承認しようとしていた動かぬ証拠と見なされました。この発見に激怒したイギリス政府は、1780年12月、オランダに対して宣戦を布告しました。
戦争の展開とオランダの敗北

戦争が始まると、両国の海軍力の圧倒的な差が、すぐに明らかになりました。かつてイギリス海軍と互角以上に渡り合ったオランダ海軍は、長年の平和と財政難により、深刻なまでに弱体化していました。艦船は老朽化し、数も不足しており、イギリス海軍の敵ではありませんでした。
イギリス海軍は、即座に行動を開始しました。1781年初頭、ジョージ=ロドニー提督率いる艦隊が、シント=ユースタティウス島を奇襲し、占領しました。イギリス軍は、この「黄金の岩」と呼ばれた豊かな島を徹底的に略奪し、港に停泊していた150隻以上の商船と、莫大な量の商品を没収しました。この攻撃は、アメリカへの密輸ルートに壊滅的な打撃を与え、オランダの商人たちを破産させました。
ヨーロッパ近海では、1781年8月にドッガーバンクの海戦が行われましたが、これはこの戦争で唯一の本格的な艦隊決戦でした。この戦いは決着がつかず、両軍ともに大きな損害を出しましたが、結果的にオランダ艦隊は、その後、戦争終結まで港に閉じこもることを余儀なくされ、イギリスによる海上封鎖を破ることはできませんでした。
イギリスは、世界中のオランダ植民地を次々と攻撃しました。南米のデメララやエセキボ、インドのナーガパッティナム、そして東南アジアの拠点が、イギリスの手に落ちました。オランダは、自国の貿易と植民地を守る術を、もはや持っていませんでした。
パリ条約と戦争の結末

アメリカ独立戦争が終結に向かうと、第四次英蘭戦争の講和交渉も始まりました。1784年に締結されたパリ条約の一部として、イギリスとオランダは講和しました。
この条約で、オランダは、インドにおける重要な貿易拠点であったナーガパッティナムをイギリスに割譲させられました。さらに、オランダは、イギリスに対して、東インド諸島(現在のインドネシア)での自由な貿易を許可することを余儀なくされました。これは、かつてオランダが独占していた香辛料貿易に、イギリスが公式に参入することを意味し、オランダ東インド会社の衰退をさらに加速させました。
第四次英蘭戦争は、オランダにとって、軍事的にも経済的にも、そして心理的にも、壊滅的な敗北でした。この戦争は、オランダの海軍と植民地帝国の脆弱性を白日の下に晒し、その大国としての地位が完全に失われたことを内外に示しました。国内では、この敗北に対する不満から、「愛国派」と呼ばれる改革派勢力が台頭し、既存の政治体制に対する批判が高まるなど、深刻な政治的混乱を引き起こしました。オランダの黄金時代は、この戦争によって、名実ともに終わりを告げたのです。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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