台湾とは
17世紀という時代は、台湾の歴史において、まさに激動と変容の世紀でした。それまで、主にオーストロネシア語族の先住民が多様な社会を営む島であった台湾は、この100年の間に、大航海時代の荒波に飲み込まれ、複数の外部勢力がその覇権をめぐって激しく争う舞台へと変貌を遂げます。東アジアの海上交易ルートの要衝に位置するという地理的条件が、台湾の運命を大きく左右しました。日本の倭寇、ポルトガル商人、そして本格的な植民地経営に乗り出したオランダとスペイン、さらには明朝末期の混乱の中から現れた鄭成功の一族。これらの勢力が次々と台湾に関与し、島の社会、経済、文化、そして人々の暮らしに不可逆的な変化をもたらしました。
この世紀の幕開けにおいて、台湾はまだ大部分が先住民の世界であり、漢人の恒久的な大規模集落は沿岸部に散在する程度でした。しかし、世紀半ばにはオランダ東インド会社が島の南西部を拠点に一大貿易センターを築き上げ、砂糖や鹿皮の生産を軸とした植民地経済を確立します。その過程で、先住民社会はキリスト教の布教や新たな統治システムによって大きく変容し、また労働力として多くの漢人移民が対岸の福建省から流入しました。島の北部では、オランダのライバルであるスペインが拠点を築き、カトリックの布教とマニラ=福建間の交易ルート確保を目指しましたが、両者の競争はオランダの勝利に終わります。
そして世紀の後半、物語はさらに劇的な展開を見せます。明朝復興を掲げる鄭成功が、満州族の清朝に大陸を追われ、新たな拠点を求めて台湾のオランダ勢力を駆逐しました。これにより、台湾は史上初めて漢人による独立政権=鄭氏政権の統治下に入ります。鄭氏一族は、台湾を反清復明の軍事基地と位置づけ、農地の開墾やインフラ整備を進めましたが、その統治も三代で終わりを告げ、最終的に台湾は清朝の版図に組み込まれることになります。
このように、17世紀の台湾は、先住民の島から、ヨーロッパの植民地へ、そして漢人の政権を経て、中国大陸の帝国の一部へと、その帰属と性格をめまぐるしく変えました。
大航海時代以前の台湾
17世紀の激動を理解するためには、まずそれ以前の台湾がどのような場所であったかを知る必要があります。ヨーロッパ人や漢人が本格的に到来する前、台湾は数千年以上にわたり、多様な文化を持つ先住民たちの世界でした。
先住民の世界
台湾の先住民は、言語的=文化的にオーストロネシア語族に属します。この語族は、マダガスカルからイースター島、ニュージーランドから台湾まで、広大なインド洋と太平洋に広がる島々に住む人々の言語グループです。近年の言語学や考古学、遺伝学の研究から、台湾こそがこの巨大なオーストロネシア語族の拡散が始まった原郷であるという説が極めて有力になっています。つまり、数千年前に台湾から舟を漕ぎ出した人々が、太平洋の島々へと移り住んでいったと考えられるのです。
17世紀初頭の時点で、台湾には数十の異なる言語や文化を持つ先住民の集団が存在していました。彼らの社会は、大きく二つに大別できます。一つは、広大な西部の平野部に住む平埔族、もう一つは中央山脈や東海岸に住む高山族です。この区分は後の時代に作られたものであり、当の本人たちがそのような自己認識を持っていたわけではありませんが、生活様式の違いを理解する上では便利です。
平埔族の社会は、主に農業を基盤としていました。彼らは焼畑農業や、場所によっては簡単な灌漑を用いて、アワ、タロイモ、サツマイモなどを栽培していました。また、狩猟も重要な生業であり、特に鹿は食料としてだけでなく、その皮が重要な交易品となるため、盛んに狩りが行われました。彼らは数百人から千人規模の村(社)を形成し、それぞれの村が独立した政治単位として機能していました。村の意思決定は、長老たちの合議によって行われることが多く、特定の個人に権力が集中する強力な首長制は、一部の集団を除いてあまり発達していませんでした。村同士の関係は、同盟を結んだり、交易を行ったりする友好的なものから、土地や狩場をめぐって争う敵対的なものまで様々でした。
一方、険しい山岳地帯に住む高山族は、より狩猟採集や焼畑農業に依存した生活を送っていました。彼らの社会は、外部の世界から隔絶された環境で、独自の文化や慣習を色濃く保持していました。首狩りの風習も、一部の集団にとっては、成人儀礼や村の栄誉に関わる重要な文化的実践でした。
これらの先住民社会は、決して静的で閉鎖的なものではありませんでした。村同士の交易ネットワークが存在し、物資や情報、そして人々が島内を移動していました。彼らは文字を持たなかったため、その歴史は口承によって伝えられてきましたが、その生活は豊かで複雑な精神世界と社会規範に支えられていたのです。
初期の外部との接触
台湾が完全に外部世界から孤立していたわけではありません。古くから、台湾は東アジアの海上ネットワークの中に、間接的にではあれ組み込まれていました。
中国の文献には、隋の時代(7世紀初頭)に「流求」と呼ばれる島へ遠征軍が送られたという記録があり、これが台湾を指すのではないかと考えられていますが、確証はありません。元朝の時代(13世紀から14世紀)には、澎湖諸島に巡検司という役所が置かれ、台湾本島への干渉も試みられましたが、恒久的な支配には至りませんでした。
より常態的だったのは、漁民や海賊、商人といった非公式なレベルでの接触です。明代、特に15世紀以降、中国大陸の沿岸部では、政府の海禁政策(民間人の海外渡航や貿易を禁止する政策)にもかかわらず、多くの人々が海に出て活動していました。福建省や広東省の漁民たちは、漁の途中で台湾海峡を渡り、台湾の沿岸で一時的に停泊したり、先住民と簡単な物々交換を行ったりしていました。
16世紀になると、こうした活動はさらに活発化します。明の海禁政策が厳しくなる一方で、日本や東南アジアとの密貿易の需要は高まり続けました。この密貿易に従事したのが、いわゆる「倭寇」です。倭寇というと日本の海賊というイメージが強いですが、実際にはその構成員の多くは中国商人であり、日本人やポルトガル人なども含む多国籍的な武装集団でした。彼らは、明の官憲の追及を逃れるための拠点として、法の支配が及ばない台湾を格好の隠れ家としました。台湾のいくつかの港は、彼らの密貿易の中継基地として利用され、そこでは鹿皮や硫黄といった台湾の産品が、中国の絹や陶磁器、日本の銀などと交換されました。
この時期、台湾を訪れたポルトガル人は、緑豊かな島を見て「イラ=フォルモサ(美しい島)」と呼びました。この名前は、後にヨーロッパの地図に記載され、台湾の西欧名として定着していきます。
しかし、これらの倭寇や商人たちの活動は、あくまで台湾を一時的な拠点や交易の場として利用するものであり、永続的な植民や統治を目指すものではありませんでした。彼らと先住民との関係も、交易相手となることもあれば、略奪や衝突に発展することもあり、安定的ではありませんでした。16世紀末の時点では、台湾本島に大規模な漢人のコミュニティはまだ存在せず、島は依然として先住民が主役の世界だったのです。この状況が劇的に変化するのが、17世紀のオランダ東インド会社の到来でした。
オランダ統治時代
17世紀の台湾史の幕開けを告げたのは、ヨーロッパの新たな海洋大国オランダの到来でした。香辛料貿易の独占を目指して設立されたオランダ東インド会社(VOC)は、アジアにおける貿易ネットワークを拡大する中で、中国との直接交易の拠点を確保しようと試みます。その過程で、彼らは台湾という島に戦略的な価値を見出し、この島をその後の約38年間にわたって統治下に置くことになります。
オランダの東アジア進出と台湾占領
17世紀初頭、オランダ東インド会社は、ジャワ島のバタヴィア(現在のジャカルタ)にアジア貿易の総督府を置き、香辛料諸島(モルッカ諸島)での支配を固めつつありました。彼らの次なる目標は、当時世界経済の大きな部分を占めていた中国市場への参入でした。中国の絹や陶磁器はヨーロッパで莫大な利益を生む商品であり、また、日本との交易においても中国産品は不可欠でした。当時の日本は、内戦の終結と徳川幕府の成立により国内が安定し、銀の生産量が飛躍的に増大していました。この日本の銀と中国の絹を交換する中継貿易は、莫大な利益が期待できる「金のなる木」だったのです。
しかし、明朝は依然として海禁政策を維持しており、ポルトガル人だけにマカオでの限定的な交易を許可している状況でした。オランダは、武力を行使してでもこの状況を打破しようと試みます。1604年と1622年の二度にわたり、オランダ艦隊は澎湖諸島を占領し、明に対して交易を要求しました。しかし、澎湖諸島は明の領土と見なされており、明は軍を派遣してオランダを攻撃しました。
二度目の澎湖占領の際、福建省の地方官僚との交渉の末、オランダはある妥協案を受け入れます。それは、澎湖諸島から撤退する代わりに、明の管轄外と見なされていた台湾本島へ移ることを黙認するというものでした。オランダにとって、台湾は澎湖ほど理想的な場所ではありませんでしたが、中国沿岸に近く、日本と東南アジアを結ぶ航路の中間点に位置するという地理的利点は魅力的でした。こうして1924年、オランダ東インド会社は台湾南西部の沿岸、現在の台南市安平区にあたる砂州に上陸し、そこを「タイオワン」と名付けました。彼らはここに商館と要塞を建設し始めます。これが、台湾におけるオランダ植民地支配の始まりでした。
ゼーランディア城とプロヴィンティア城
オランダは、タイオワンの砂州に堅固な要塞を築きました。これがゼーランディア城です。レンガはバタヴィアから船で運ばれ、セメントの代わりには牡蠣の殻を焼いた石灰と砂糖水、もち米が使われました。ゼーランディア城は、オランダ東インド会社の台湾における行政=軍事=貿易の中心拠点となりました。城内には商館、倉庫、教会、そして台湾長官の公邸が置かれ、城壁には多数の大砲が据え付けられました。この城は、海からの攻撃に対する防御拠点であると同時に、周辺の先住民や漢人移民に対するオランダの権威を象徴する建造物でもありました。
ゼーランディア城が位置する砂州は防御には適していましたが、生活用水の確保が難しく、また対岸の平野部を直接管理するには不便でした。そこでオランダは、1953年、タイオワンの対岸にあるサッカムという場所に、より小規模な城塞を建設しました。これがプロヴィンティア城です。この城は、主に行政機能と農業管理の中心として機能しました。ゼーランディア城が貿易と防衛の拠点であったのに対し、プロヴィンティア城は内陸部の支配と農業経営の拠点という役割分担がなされていました。この二つの城を中心に、オランダの植民都市が形成されていったのです。
植民地経営
オランダ東インド会社の最大の目的は、利益を上げることでした。台湾の植民地経営も、徹頭徹尾、経済的な合理性に基づいて行われました。
当初、オランダが最も期待したのは、日本=中国間の中継貿易でした。ゼーランディア城は、中国のジャンク船がもたらす絹織物や陶磁器を買い付け、それを日本の平戸にあったオランダ商館へ送り、代わりに日本の銀を受け取るための理想的な中継港となりました。この貿易は、1630年代から1640年代初頭にかけて最盛期を迎え、オランダ東インド会社に莫大な利益をもたらしました。
しかし、中継貿易だけに依存するのは不安定でした。そこでオランダは、台湾島そのものから利益を生み出すための開発に着手します。彼らが着目したのが、鹿皮と砂糖でした。
当時、台湾の平野部には膨大な数の鹿が生息していました。鹿皮は、日本の武士の鎧や衣服の材料として高い需要があり、高値で取引されました。オランダは、先住民の狩猟能力を利用し、彼らに鹿の狩猟を奨励しました。先住民は、オランダから鉄製品や布地、塩などを得るために、大量の鹿皮をオランダ商館に納めました。この鹿皮貿易は、オランダ統治初期の台湾における最大の収入源の一つとなりました。しかし、乱獲の結果、鹿の数は急速に減少し、1650年代にはこの貿易は衰退に向かいます。
鹿皮貿易に代わって、オランダが次に力を入れたのがサトウキビ栽培でした。台湾南西部の平野は、サトウキビの栽培に適した気候と土壌を持っていました。砂糖は、当時アジアだけでなく、ペルシャやヨーロッパでも需要が高まっていた国際商品でした。オランダは、大規模なサトウキビプランテーションを経営するため、対岸の福建省から大量の漢人移民を労働力として積極的に誘致しました。
オランダは、土地の所有権は会社にあると宣言し、漢人の開拓者に土地を貸し与え、サトウキビの栽培を奨励しました。開拓者は、オランダから牛や農具、資金を借りることができましたが、収穫したサトウキビはすべてオランダが指定する製糖業者に売却し、砂糖として会社に納める義務がありました。会社は、この砂糖を独占的に買い上げ、国際市場で販売して利益を得ました。このシステムにより、台湾の砂糖生産量は飛躍的に増大し、1650年代には台湾はアジア有数の砂糖生産地となりました。この砂糖プランテーションのために導入された漢人移民の数は数万人に達し、台湾の人口構成を大きく変えることになります。
先住民統治とキリスト教布教
オランダ東インド会社は、商業的な利益を追求する企業でしたが、その統治を安定させるためには、島の先住民を管理下に置く必要がありました。
オランダが台湾にやって来た当初、周辺の平埔族の村々は、オランダを新たな交易相手の一つとしか見ていませんでした。しかし、オランダが恒久的な支配を目指していることが明らかになると、いくつかの村は抵抗を試みました。特に、1629年のマタウ社の抵抗や1635年のソウラン社の反乱は有名です。これに対し、オランダは容赦ない軍事力で鎮圧しました。反抗した村は焼き払われ、多くの住民が殺害されました。この徹底した武力行使は、他の村々に対する見せしめとなり、平野部の先住民社会に大きな衝撃と恐怖を与えました。
武力で抵抗を鎮圧した後、オランダはより巧妙な統治システムを導入します。彼らは、各村の長老たちをゼーランディア城に集め、年に一度「地方会議」を開催しました。この会議で、オランダの台湾長官は、長老たちにオランダ東インド会社への忠誠を誓わせ、村の指導者としての地位を公式に認める証として、杖や豪華な衣装を与えました。これにより、村の長老たちは、自らの権威がオランダによって保障されていると認識するようになり、オランダの統治システムに組み込まれていきました。オランダは、村の内部問題には深く干渉せず、長老たちを通じた間接的な統治を行いましたが、村同士の争いは厳しく禁じました。これにより、平野部では「パクス=ホランディカ(オランダによる平和)」と呼ばれる、かつてない安定した状態がもたらされました。
統治のもう一つの重要な柱が、キリスト教(プロテスタントのカルヴァン派)の布教でした。オランダ人宣教師たちは、先住民の村々に入り込み、教会の設立や学校の建設を進めました。彼らの目的は、先住民を「野蛮な」異教の慣習から解放し、「文明化された」キリスト教徒にすることでした。宣教師たちは、先住民の言語を学び、その言語をローマ字で表記する方法を考案しました。これは「新港文書」として知られ、先住民が自らの言語を文字で記録した貴重な資料となっています。彼らはこのローマ字化された先住民言語を使って、聖書や教理問答書を翻訳し、教育を行いました。
布教活動は、特に平野部で大きな成功を収め、数千人の先住民が洗礼を受けました。キリスト教の受容は、先住民社会に大きな変化をもたらしました。伝統的な宗教儀式や祭りは禁止され、一夫一婦制が強制されるなど、生活の隅々にまで影響が及びました。宣教師は、単なる宗教家ではなく、教師、医者、そして時にはオランダ当局と村との間の仲介者としての役割も果たしました。しかし、この布教活動は、先住民の固有文化を破壊するものであったという側面も否定できません。
漢人移民の増加と郭懐一の乱
オランダ統治下で最も大きな社会変化は、漢人移民の急増でした。前述の通り、オランダは砂糖プランテーションの労働力として、対岸の福建省南部から多くの漢人を積極的に募集しました。当時、福建省は人口過剰と食糧不足に悩まされており、多くの人々が新天地を求めていました。オランダは渡航費用を立て替えるなどして、彼らの移住を後押ししました。
その結果、オランダ統治下の台湾における漢人の人口は、当初の数百人から、1650年代には3万人から5万人にも達したと推定されています。彼らは、オランダの許可を得て土地を開墾し、主にサトウキビや米を栽培しました。漢人移民の増加は、台湾の経済発展に大きく貢献しましたが、同時に新たな社会問題も生み出しました。
オランダ当局は、漢人移民を統治と搾取の対象と見なしていました。彼らには人頭税が課され、その行動は厳しく監視されました。武器の所持は禁止され、夜間の外出も制限されました。オランダ人による恣意的な扱いや、重税に対する不満は、漢人社会の内部で次第に高まっていきました。
そして1652年、その不満が大規模な反乱として爆発します。これが郭懐一の乱です。郭懐一は、漢人開拓者のリーダーの一人でした。彼は、オランダの圧政に苦しむ農民たちを組織し、プロヴィンティア城を攻撃する計画を立てました。しかし、計画は事前に密告によってオランダ側に漏れてしまいます。追い詰められた郭懐一は、予定を早めて蜂起しましたが、準備不足は否めませんでした。
数千人の漢人農民が、農具や竹槍を手にプロヴィンティア城周辺のオランダ人入植地を襲撃しました。しかし、近代的な武器で武装したオランダ軍の敵ではありませんでした。オランダは、同盟関係にあった先住民の村々からも援軍を動員し、反乱を徹底的に鎮圧しました。この戦いで、郭懐一を含む数千人の漢人が殺害されたと言われています。これは、オランダ統治時代における最大規模の反乱であり、オランダ当局を震撼させました。この事件以降、オランダは漢人に対する警戒を一層強め、プロヴィンティア城の防御を強化するなどしましたが、植民地社会に潜む民族間の緊張関係を根本的に解決することはできませんでした。この緊張関係は、後の鄭成功による台湾攻略の伏線の一つとなります。
スペインの挑戦
オランダが台湾南部で着々と植民地経営を進めている頃、もう一つのヨーロッパ勢力が台湾に関心を示していました。それは、オランダの長年のライバルであるスペインでした。フィリピンのマニラを拠点としていたスペインは、オランダが東アジアの交易ルートに割り込んできたことを警戒し、対抗措置として台湾北部への進出を試みます。
マニラ
16世紀後半から、スペインはフィリピンのルソン島を植民地化し、マニラをアジアにおける一大拠点としていました。マニラは、メキシコのアカプルコとの間を結ぶガレオン貿易の中心地でした。新大陸で採掘された莫大な量の銀がガレオン船でマニラに運ばれ、その銀で中国の絹や陶磁器、香辛料などを買い付け、再びアカプルコへ送るというこの貿易は、スペイン帝国に巨万の富をもたらしていました。
このマニラ=ガレオン貿易において、中国産品の安定的な供給は生命線でした。多くの福建商人がジャンク船でマニラを訪れ、スペイン人に商品を供給していました。オランダが台湾に拠点を築いたことは、スペインにとって大きな脅威でした。台湾がオランダの手に落ちれば、マニラと福建を結ぶこの重要な交易ルートが、オランダの艦船によって容易に妨害、遮断される危険性があったからです。また、オランダが台湾を拠点に日本との貿易を独占することも、スペインにとっては看過できない事態でした。
さらに、宗教的な動機もスペインの台湾進出を後押ししました。当時、カトリック教会は、プロテスタントのオランダに対抗し、アジアでの布教活動を積極的に進めていました。スペイン人宣教師たちは、台湾を、まだキリスト教が伝わっていない中国や日本への布教の足がかりとなる重要な拠点と見なしていました。
これらの軍事的、経済的、宗教的な動機が絡み合い、スペインはオランダに対抗して台湾北部に拠点を築くことを決定します。
サン=サルバドル城とサント=ドミンゴ城
1626年、スペインの艦隊がマニラから台湾北部の海岸に到着しました。彼らは、現在の基隆港の沖合にある小さな島(現在の和平島)に上陸し、そこを占領しました。彼らはこの地にサン=サルバドル城と名付けた要塞を建設し、植民地経営の拠点としました。
さらに1629年、スペインは台湾北西部の淡水にも進出し、川の河口を見下ろす丘の上にサント=ドミンゴ城を建設しました。この二つの城塞を拠点として、スペインは台湾北部とその周辺海域の支配を試みました。
スペインの統治は、主にカトリックのドミニコ会修道士による布教活動を中心に行われました。宣教師たちは、周辺の先住民の村々を訪れ、カトリックの教えを広めようとしました。彼らは先住民の言語を学び、辞書や教理問答書を作成するなど、精力的に活動しました。しかし、布教活動は困難を極めました。先住民の伝統的な信仰は根強く、また、スペイン人兵士による横暴な振る舞いが、先住民の反感を買うことも少なくありませんでした。いくつかの村では、スペインの支配に抵抗する反乱も発生しました。
経済的には、スペインの台湾経営はほとんど成功しませんでした。彼らが期待した中国や日本との貿易は、オランダの妨害や徳川幕府の鎖国政策の強化(1639年にはポルトガル船の来航が禁止され、スペインとの関係も冷え込んでいました)により、思うように進みませんでした。植民地の維持には多額の費用がかかりましたが、それに見合うだけの利益を上げることができず、マニラのスペイン政庁にとって台湾北部の拠点は次第に重荷となっていきました。
オランダによるスペイン勢力の駆逐
台湾島に二つの敵対するヨーロッパ勢力が存在する状況は、長くは続きませんでした。台湾全島の支配を目指すオランダは、北部のスペイン拠点を常に脅威と見なしていました。
オランダは、1641年に最初の攻撃を試みましたが、これは失敗に終わりました。しかし、翌1642年、オランダはより大規模な遠征軍を組織し、再び基隆のサン=サルバドル城を攻撃しました。この時、台湾北部のスペイン軍は、兵力不足と士気の低下に悩まされており、十分な抵抗をすることができませんでした。数日間の戦闘の後、スペインの守備隊は降伏し、台湾から完全に撤退しました。
こうして、スペインによる16年間の台湾北部統治は終わりを告げました。オランダは、ライバルを島から追い出し、台湾全島の唯一のヨーロッパ支配者としての地位を確立したのです。スペインの統治期間は比較的短く、その影響は限定的でしたが、彼らが築いたサント=ドミンゴ城は、後にオランダによって再建され、「紅毛城」として知られるようになり、台湾北部の歴史を象徴する建造物として現存しています。
鄭氏政権の時代
1640年代から1650年代にかけて、オランダは台湾における支配の絶頂期を迎えていました。しかし、その足元では、中国大陸の地殻変動が、やがて台湾の運命を根底から覆す巨大な津波となって押し寄せていました。明朝が滅亡し、満州族の清朝が新たな支配者となるという激動の中で、一人の英雄が歴史の表舞台に登場します。その名は鄭成功。彼の存在が、台湾の歴史を全く新しい段階へと導くことになります。
鄭成功の登場と反清復明運動
鄭成功は、1624年に日本の平戸で生まれました。彼の父親は鄭芝龍、母親は日本人の田川マツです。父親の鄭芝龍は、単なる海賊や商人ではありませんでした。彼は、日本の平戸から台湾、そして福建省沿岸に至る広大な海域を支配する、巨大な海上交易帝国の支配者でした。彼は強力な私設艦隊と軍隊を擁し、明朝の官憲さえも彼をコントロールできず、最終的には彼を提督に任命してその力を利用しようとしたほどでした。
鄭成功は、幼少期を日本で過ごした後、福建省に移り、儒学の教育を受けました。彼は、明朝の南京国子監で学び、将来を嘱望されるエリートでした。しかし、1644年、李自成の反乱軍が北京を占領し、明の崇禎帝が自害するという衝撃的な事件が起こります。さらに、その混乱に乗じて満州族の清が万里の長城を越えて南下を開始し、中国全土の征服に乗り出しました。
この国難に際し、鄭成功は「反清復明(清に反抗し、明を復興する)」の旗を掲げることを決意します。しかし、彼の父親である鄭芝龍は、清の力はあまりに強大であり、抵抗は無益だと考え、1646年に清に降伏してしまいます。父親の降伏に激しく反対した鄭成功は、鄭芝龍の艦隊と部下の一部を引き継ぎ、福建省のアモイ(廈門)や金門島を拠点として、独力で清への抵抗運動を続けました。
その後十数年にわたり、鄭成功は福建省から浙江省、広東省の沿岸部でゲリラ的な戦闘を繰り広げ、一時は南京にまで迫る大攻勢をかけましたが、最終的には清の大軍の前に敗退しました。度重なる戦いで大陸における拠点を次々と失い、アモイと金門に追い詰められた鄭成功は、反清復明運動を継続するための新たな、そして安全な基地を必要としていました。彼の目が向けられたのが、台湾海峡の向こう側にある、オランダ人が支配する豊かな島、台湾でした。
台湾攻略とオランダ人の降伏
鄭成功にとって、台湾は未知の土地ではありませんでした。彼の父親、鄭芝龍は、かつて台湾を拠点の一つとしており、オランダ人とも協力したり対立したりする複雑な関係にありました。また、オランダ統治下の台湾には、郭懐一の乱で見たように、オランダの支配に不満を持つ数万人の漢人移民が住んでいました。鄭成功は、彼らが自分の味方になると期待しました。
1661年4月、鄭成功は、数百隻のジャンク船からなる大艦隊と、2万5千人の兵士を率いて、澎湖諸島を経由し、台湾のタイオワンへと向かいました。彼は、オランダ人が予測していなかった浅い水路を通り、ゼーランディア城とプロヴィンティア城の間のラグーンに艦隊を進めることに成功します。これは、かつてオランダに仕え、台湾の地理に詳しかった漢人通訳、何斌(かひん)の手引きによるものでした。
鄭成功軍の上陸に、オランダ側はパニックに陥りました。プロヴィンティア城はすぐに降伏しましたが、ゼーランディア城は台湾長官フレデリック=コイエットの指揮の下、籠城して抵抗を続けました。コイエットは、バタヴィアの総督府に援軍を要請し、鄭成功軍の包囲に耐えました。
包囲戦は9ヶ月にも及びました。オランダ側は、城壁からの砲撃で抵抗しましたが、食料と弾薬は次第に尽きていきました。バタヴィアから送られてきた援軍も、鄭成功の艦隊に敗れ、有効な助けとなることはできませんでした。冬になり、兵士たちの間には病気と絶望が広がりました。
決定打となったのは、1662年1月、鄭成功軍がゼーランディア城を見下ろす高地を占領し、そこから城内へ直接砲撃を開始したことでした。城壁の一部が破壊され、もはや抵抗は不可能と判断したコイエットは、ついに降伏を決意します。
1662年2月1日、鄭成功とコイエットの間で条約が結ばれました。条約により、オランダ東インド会社は、ゼーランディア城とすべての財産を鄭成功に引き渡し、台湾から完全に撤退することが定められました。オランダ人兵士や民間人は、個人の財産を持ってバタヴィアへ退去することが許されました。こうして、38年間にわたるオランダの台湾統治は、その幕を閉じたのです。鄭成功による台湾攻略は、ヨーロッパの植民地勢力が、アジアの地方勢力との戦争に敗れて領土を失った、歴史上でも稀な出来事でした。
鄭氏政権の統治
オランダを駆逐した後、鄭成功は台湾を新たな拠点と定め、統治体制の構築に着手しました。彼は、ゼーランディア城を「安平鎮」と改名し、プロヴィンティア城を「承天府」として、台湾全土の行政の中心としました。台湾は「東都」と名付けられ、反清復明運動の総本山と位置づけられました。
しかし、台湾の新たな支配者となった鄭成功は、そのわずか数ヶ月後の1662年6月に病(マラリアと言われる)で急死してしまいます。彼の夢であった明の復興は、道半ばで絶たれました。
鄭成功の死後、後継者をめぐる内紛がありましたが、最終的に彼の長男である鄭経が政権を継承しました。鄭経は、父親の遺志を継ぎ、台湾を拠点に清への抵抗を続けました。鄭氏政権の統治は、鄭成功、鄭経、そしてその息子である鄭克ソウの三代、約22年間にわたって続きます。
鄭氏政権下の台湾は、単なる軍事基地ではありませんでした。それは、独自の統治機構と経済基盤を持つ、事実上の独立王国でした。
統治機構は、明の制度を模倣して作られました。中央には、吏、戸、礼、兵、刑、工の六官が置かれ、行政を分担しました。台湾の各地には県や州が設置され、地方行政が行われました。
鄭氏政権にとって最大の課題は、数万人の兵士と移民を養うための食糧を確保することでした。そのために、彼らは大規模な土地開墾を推進しました。兵士たちは、平時には農地を開墾し、有事には戦闘に参加するという「屯田制」が導入されました。これにより、台湾南西部を中心に、水田や畑が急速に拡大し、米やサトウキビの生産が増加しました。この時代に開墾された土地の多くは、現代の台湾の都市や農村の基礎となっています。
経済面では、鄭氏政権は海上貿易を重視しました。彼らは、父親の代から受け継いだ強力な艦隊と交易ネットワークを駆使し、清が発令した海禁令(遷界令とも呼ばれ、沿岸住民を内陸に強制移住させ、鄭氏政権との交易を断つ政策)を破って、中国大陸との密貿易を続けました。また、日本、東南アジア、さらにはイギリス東インド会社とも交易を行い、武器や兵糧の購入資金を獲得しました。特に、台湾産の砂糖や鹿皮を輸出し、日本の銀や銅、イギリスの武器などを輸入する貿易は、鄭氏政権の財政を支える重要な柱でした。この活発な海上交易は、鄭氏政権が清の経済封鎖にもかかわらず、20年以上にわたって存続できた大きな理由の一つです。
文化面では、鄭氏政権は儒教文化の導入と普及に努めました。鄭成功自身が儒学者であったこともあり、台湾に孔子廟を建立し、官吏を養成するための学校を設立しました。これは、台湾における本格的な儒教教育の始まりであり、漢人社会の文化的基盤を築く上で大きな意味を持ちました。
清による征服
鄭氏政権は、台湾に確固たる基盤を築きましたが、彼らの最終目標はあくまで大陸反攻=明の復興でした。1674年、清で「三藩の乱」という大規模な内乱が勃発すると、鄭経はこれを絶好の機会と捉え、大軍を率いて福建省に攻め込みました。一時はいくつかの都市を占領するなど勢いを見せましたが、三藩の乱が鎮圧されるにつれて戦況は不利になり、数年間の戦闘の末、鄭経は再び台湾へ撤退せざるを得ませんでした。
この大陸反攻の失敗は、鄭氏政権に大きな打撃を与えました。多くの兵力と資源を消耗し、政権の力は大きく衰えました。さらに1681年、指導者であった鄭経が病死すると、政権内で深刻な後継者争いが起こり、幼い鄭克ソウが擁立されるなど、政治的な混乱が深まりました。
この鄭氏政権の弱体化と内紛を、清の康熙帝は見逃しませんでした。康熙帝は、長年懸案であった台湾問題を最終的に解決するため、かつて鄭芝龍の部下であり、水軍の指揮に長けた施琅(しろう)を提督に任命し、台湾遠征を命じました。
1683年、施琅率いる清の大艦隊が澎湖諸島沖で鄭氏の水軍と激突しました(澎湖海戦)。数に勝り、準備も万全であった清軍は、鄭氏の水軍を壊滅させ、澎湖諸島を占領しました。
最後の頼みの綱であった水軍を失い、澎湖という台湾の玄関口を奪われた鄭氏政権に、もはや抵抗する力は残されていませんでした。清の大軍が台湾本島に上陸するのを前に、鄭克塽は降伏を決断します。こうして、1683年、台湾は正式に清朝の版図に組み込まれ、鄭成功から三代続いた鄭氏政権は終わりを告げました。
当初、清朝内には、台湾を放棄すべきだという意見も強くありました。台湾の統治には多大な費用がかかり、また反乱の拠点となる危険性があると考えられたからです。しかし、提督の施琅は、「台湾を放棄すれば、再びオランダのような外国勢力や海賊の拠点となり、沿岸の安全保障にとって永続的な脅威となる」と強く主張し、台湾を領土として維持することの重要性を説きました。最終的に康熙帝は施琅の意見を受け入れ、台湾を福建省に属する一つの府(台湾府)として、正式に統治下に置くことを決定しました。
17世紀は、台湾がその歴史上、最も劇的な変貌を遂げた時代でした。この100年間で、台湾は先住民が暮らす島から、オランダとスペインが覇を競う植民地へ、そして漢人による鄭氏政権の拠点となり、最終的には中国大陸の清朝帝国の一部へと、その姿をめまぐるしく変えました。
世紀の初めに台湾を訪れたオランダ東インド会社は、純粋な商業的動機からこの島を支配下に置き、中継貿易の拠点として、また砂糖と鹿皮の供給地として開発しました。その過程で、彼らは先住民社会を武力と宗教によって統制し、労働力として大量の漢人移民を導入しました。このオランダによる統治は、台湾に初めて西洋式の行政システムとキリスト教をもたらし、また漢人社会が本格的に形成されるきっかけを作りました。島の北部に拠点を築いたスペインの挑戦は短期間で終わりましたが、これもまた、台湾が当時のグローバルな競争の舞台であったことを示しています。
世紀の後半、中国大陸の明清交代という激動は、鄭成功という類稀な人物を台湾へと導きました。彼はオランダ勢力を駆逐し、台湾を反清復明運動の最後の砦としました。鄭氏政権は、軍事政権としての性格を持ちながらも、土地開墾、行政制度の整備、海上貿易の推進、儒教文化の導入などを通じて、台湾における漢人社会の基礎を固めました。彼らの統治はわずか22年で終わりましたが、その後の台湾の発展に与えた影響は計り知れません。