新規登録 ログイン

18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 主権国家体制の成立

アルザスとは わかりやすい世界史用語2664

著者名: ピアソラ
Text_level_2
マイリストに追加
アルザスとは

1648年に締結されたウェストファリア条約は、ヨーロッパの歴史地図を塗り替えた画期的な講和でした。三十年戦争という未曾有の戦乱に終止符を打ち、近代的な主権国家体制の基礎を築いたとされるこの条約は、多くの地域に新たな運命をもたらしました。その中でも、神聖ローマ帝国の辺境に位置したアルザスの帰属をめぐる決定は、その後のヨーロッパ史に長く影響を及ぼす、極めて複雑で重大な意味を持つものでした。
この条約によって、アルザスは800年近くにわたって属してきた神聖ローマ帝国=ドイツ語圏の世界から、その一部がフランス王国へと割譲されることになりました。しかし、これは単純な領土の移譲ではありませんでした。それは、意図的な曖昧さを内包した外交的駆け引きの産物であり、アルザスという土地が持つ重層的な権利関係と、フランスの地政学的な野心が交錯する、複雑なプロセスの始まりでした。条約の条文は、フランスにアルザスへの足がかりを与えると同時に、将来の紛争の火種をも宿していたのです。



条約以前のアルザス

ウェストファリア条約がアルザスにもたらした変化の大きさを理解するためには、17世紀半ばのこの地域が、どのような政治的、社会的、そして文化的な構造を持っていたのかを把握することが不可欠です。当時のアルザスは、単一の政治的実体ではなく、神聖ローマ帝国の枠組みの中に存在する、無数の領主権が複雑に絡み合った、モザイク模様のような世界でした。その忠誠心は多様であり、その文化は深くドイツ語圏に根差していました。
神聖ローマ帝国の辺境

870年のメルセン条約によって東フランク王国に帰属して以来、アルザスは神聖ローマ帝国の南西辺境としての歴史を歩んできました。しかし、神聖ローマ帝国は、フランスやイギリスのような中央集権的な王国とは異なり、皇帝の権力が常に強力であったわけではない、極めて分権的な政治体でした。帝国の権威は、帝国内に存在する数百もの領邦君主(諸侯)、聖職者領主、騎士、そして帝国都市といった多様な構成員(帝国等族)との力関係の中で成り立っていました。
アルザスもその例外ではありませんでした。この地域には、単一の支配者は存在しませんでした。最大の領主は、オーストリア=ハプスブルク家でした。彼らは、シュヴァーベン大公領の一部として、アルザス南部の広大な地域(オーバーエルザス、または上アルザス)に多くの土地と権利を所有していました。ハプスブルク家は、エンスィスハイムに置かれた代官を通じてこの地を統治し、その影響力は絶大でした。
しかし、ハプスブルク家の支配も絶対的なものではありませんでした。ストラスブールとバーゼルの司教は、それぞれが広大な聖職者領を治める独立した領邦君主でした。その他にも、ハンナウ=リヒテンベルク伯、プファルツ=ツヴァイブリュッケン公、ヴュルテンベルク公といった世俗の諸侯たちが、アルザス各地に領地を所有していました。さらに、小規模な帝国騎士たちの所領も点在しており、その権力構造は極めて断片的でした。
帝国都市と同盟

この封建領主たちの権力が乱立する中で、アルザスの都市は独自の地位を築き、地域の政治経済において重要な役割を果たしていました。ストラスブール、コルマール、アグノー、ミュルーズ、セレスタといった主要都市は、皇帝から特権を認められた「帝国自由都市」でした。これは、彼女たちが特定の領邦君主に属さず、皇帝にのみ直属し、高度な自治権を享受していたことを意味します。彼女たちは独自の市参事会を持ち、法律を制定し、税を徴収し、城壁を築き、さらには戦争や同盟締結の権利さえ持っていました。
これらの都市の中でも、ストラスブールは群を抜いた存在でした。ライン川の重要な橋を管理し、商業の中心地として繁栄したこの都市は、事実上の都市共和国として、周辺地域に大きな影響力を行使していました。その壮大な大聖堂は、都市の富と誇りの象徴でした。
中世後期、これらの都市の多くは、共通の利益を守るために協力体制を築きました。1354年に結成された「十都市同盟(デカポリス)」は、アルザスの10の帝国都市(アグノー、コルマール、カイゼルスベルク、ミュンスター、オベルネ、ロサイム、セレスタ、テュルクハイム、ヴィサンブール、そして後に加わったミュルーズ)による強力な相互防衛同盟でした。この同盟は、約3世紀にわたり、外部の領主の脅威に対抗し、ライン川交易の安全を確保するための政治的・軍事的な枠組みとして機能しました。
このように、17世紀半ばのアルザスは、ハプスブルク家、司教、諸侯、そして自由な帝国都市といった、様々な権力が共存し、時には競合する場でした。その住民の大多数はドイツ語の方言であるアルザス語を話し、その法制度、社会慣習、文化は、ライン川の対岸のドイツ諸邦と密接に結びついていました。彼らの政治的な忠誠は、フランス国王ではなく、それぞれの直接の領主、そしてその上に立つ神聖ローマ皇帝に向けられていたのです。この複雑で断片化された政治状況こそが、フランスの介入を可能にし、ウェストファリア条約における曖昧な割譲の条文が生まれる背景となったのです。
三十年戦争とフランスの介入

三十年戦争(1618年=1648年)は、アルザスの歴史における暗黒時代であると同時に、その運命を決定的に変える転換点でもありました。神聖ローマ帝国内の宗教紛争として始まったこの戦争は、やがてヨーロッパの覇権をめぐる大国間の闘争へと発展し、その戦略的な位置から、アルザスは主要な戦場の一つとなりました。度重なる軍隊の通過、包囲戦、そして略奪は地域を荒廃させ、既存の政治秩序を崩壊させました。この混乱の隙をついて、フランスはアルザスへの影響力を着実に拡大していきました。
戦乱による荒廃

戦争が始まると、アルザスはプロテスタントとカトリックの両陣営の軍隊が衝突する舞台となりました。エルンスト=フォン=マンスフェルトのような傭兵隊長が率いるプロテスタント軍、皇帝フェルディナント2世に忠誠を誓うカトリック連盟軍、そして後にはスウェーデン軍やフランス軍が、この肥沃な土地を次々と蹂躙しました。
軍隊は、その食料や物資を現地での徴発、すなわち略奪に頼っていました。兵士たちは村々を襲い、農作物や家畜を奪い、住民に暴行を加えました。都市は長い包囲戦に耐えなければならず、降伏すれば多額の賠償金を要求されました。アグノーのような都市は、戦争中に何度も占領者が入れ替わるという悲運に見舞われました。
この絶え間ない軍事行動は、飢饉と疫病という、さらに恐ろしい災厄を伴いました。農業は破壊され、食料生産は激減しました。栄養失調に陥った人々の間でペストなどの伝染病が猛威を振るい、多くの命を奪いました。一部の地域では、人口が戦前の半分以下にまで減少したと推定されています。アルザスの経済は壊滅的な打撃を受け、かつて繁栄を誇った都市や村は、廃墟と化しました。
この混乱の中で、神聖ローマ皇帝やハプスブルク家の権威は、アルザスの人々を守るにはあまりにも無力であることが露呈しました。地域の領主や都市は、自らの力だけで生き残りを図らなければならず、既存の政治的枠組みは機能不全に陥りました。
フランスの「保護」

このような混沌とした状況は、隣接する強国フランスにとって、長年の野望を実現する絶好の機会となりました。フランスのブルボン朝、特に宰相リシュリューとその後継者マザランは、宿敵であるハプスブルク家を弱体化させ、フランスの国境を「自然国境」であるライン川まで拡大することを、国家の最重要目標と位置づけていました。
フランスは当初、プロテスタント勢力に資金援助を行うという形で、間接的に戦争に関与していました。しかし、1630年代に入ると、より直接的な介入を開始します。スウェーデン軍が南ドイツで敗北し、プロテスタント側が劣勢に陥ると、フランスはアルザスのプロテスタント諸侯や都市に接近し、「保護」を申し出ました。
例えば、十都市同盟は、スウェーデン軍の駐留による負担と皇帝軍の脅威に苦しむ中で、1634年にフランスとの間で保護条約を結びました。これにより、フランスは同盟都市に守備隊を駐留させる権利を得ました。同様に、プロテスタント系の領主であったヴュルテンベルク公やプファルツ=ツヴァイブリュッケン公も、自らの領地を守るためにフランスの保護下に入りました。
この「保護」は、もちろん無償ではありませんでした。フランスは、守備隊の駐留や軍事行動の拠点として、アルザスの重要な要塞都市を次々と占領していきました。コルマール、セレスタ、そしてライン川の重要な橋頭堡であるブライザッハなどが、フランス軍の支配下に置かれました。
1635年、フランスはついにスペインに宣戦布告し、三十年戦争に全面的に参戦します。フランス軍はアルザスを主要な作戦基地とし、この地からハプスブルク家の領土へと侵攻しました。戦争の最終段階において、アルザスの大部分は、すでにフランスの軍事的な占領下にあるという既成事実が作り上げられていました。
こうして、三十年戦争の終結が近づく頃には、フランスはアルザ-スにおける最も強力な軍事プレゼンスを持つ勢力となっていました。アルザスの領主や都市は、戦争の惨禍から逃れるためにフランスの力を頼りましたが、それは結果的に、自らの土地をフランスの野心に引き渡す道を開くことになったのです。ウェストファリアの講和会議が始まった時、フランスは、この軍事的な占領という強力な交渉カードを手にしていたのでした。
ウェストファリア条約の条文

三十年戦争を終結させたウェストファリア条約は、実際には単一の文書ではなく、1648年10月24日に署名された二つの条約、すなわちオスナブリュック条約とミュンスター条約の総称です。アルザスの運命を決定づけたのは、主に神聖ローマ皇帝とフランスとの間で結ばれたミュンスター条約でした。この条約のアルザスに関する条項は、意図的とも思えるほどの曖昧さに満ちており、その後のフランスによる解釈と支配権拡大の法的根拠として、また同時に終わりのない論争の源として機能することになります。
割譲の範囲

ミュンスター条約の中心的なアルザス関連条項は、第73条と第74条です。これらの条文は、神聖ローマ皇帝フェルディナント3世が、ハプスブルク家を代表して、また帝国を代表して、フランス国王ルイ14世に対して特定の権利と領土を割譲することを規定しています。
具体的には、皇帝は「オーバーエルザスとウンターエルザス(上アルザスと下アルザス)の両アルザスにおける、すべての権利、財産、領地、所有権、および主権」をフランス国王に「永久に」譲渡すると述べられています。また、ハプスブルク家がこれまでアルザスに持っていた領地、特にスンゴー伯領や、十都市同盟に対する代官の地位なども、明確にフランスに割譲されると記されました。
一見すると、これはアルザス全域がフランスに割譲されたかのように読めます。フランスの交渉団は、まさにそのような包括的な主権の移譲を狙っていました。しかし、条文は同時に、この割譲が「ハプスブルク家が所有していた」権利と領地に限定されるかのような含みも持たせていました。これは、アルザスに存在する他の多くの独立した領主、特に帝国都市や司教領の地位をどう扱うかという、極めて重要な問題を未解決のままにしました。
帝国都市の地位

この曖昧さをさらに複雑にしたのが、ミュンスター条約第87条でした。この条項は、フランスに割譲された領地に位置する帝国等族、特にストラスブール司教、そしてストラスブール市をはじめとする他の帝国都市に関して、特別な規定を設けています。
条文は、これらの都市や領主が、これまで神聖ローマ帝国に対して享受してきた「自由と、皇帝への直接の臣従関係(皇帝直属身分)」を維持し、その地位に留まることを保障すると述べています。つまり、彼らはフランス国王の臣下となるのではなく、引き続き神聖ローマ皇帝に直属する、帝国の構成員であり続けるとされたのです。
この第87条は、アルザス全域の主権を主張する第73条や第74条と、明らかに矛盾しています。一つの土地が、同時にフランス国王の主権下と神聖ローマ皇帝の主権下の両方に属することは、論理的に不可能です。なぜこのような矛盾した条文が生まれたのでしょうか。
これは、交渉における妥協の産物でした。フランスはアルザス全域の支配を望みましたが、皇帝側と帝国諸侯は、帝国の重要な構成員である帝国都市や司教領を完全に失うことに強く抵抗しました。また、交渉を仲介したスウェーデンも、フランスが過度に強大化することを望まず、帝国都市の独立を支持しました。その結果、両者の主張を玉虫色の表現で両立させたかのような、矛盾をはらんだ条文が起草されたのです。
フランスの交渉団は、この曖昧さが長期的には自国に有利に働くと計算していました。彼らは、まずハプスブルク家の旧領という確実な足がかりを確保し、そこから「アルザスにおける主権」という包括的な文言を根拠に、時間をかけて支配領域を拡大していく戦略を描いていたのです。一方、皇帝側は、帝国都市の権利が明記されたことで、フランスの野心に一定の歯止めをかけられると期待しました。
法的解釈の闘争

結果として、ウェストファリア条約は、アルザスの法的地位を確定させるどころか、新たな解釈闘争の始まりを告げるものとなりました。条約締結後、フランスと神聖ローマ帝国の間では、これらの条文の「正しい」意味をめぐって、終わりなき論争が繰り広げられました。
フランス側は、第87条の帝国都市に関する規定は、あくまで彼らの市内部の自治権や特権を保障するものであり、アルザス全域に対するフランスの最高主権を否定するものではない、と主張しました。彼らにとって、帝国都市はフランスの主権下にある「自由都市」となったのであり、もはや神聖ローマ帝国の構成員ではない、という理屈でした。
一方、帝国側は、第87条こそが本質的な規定であり、帝国都市は依然として帝国の不可分の一部であると反論しました。彼らは、フランスに割譲されたのはハプスブルク家の私的な所領のみであり、帝国全体の主権が及ぶ土地は割譲されていないと主張しました。
この法的な論争は、単なる言葉遊びではありませんでした。それは、アルザスの未来を左右する、現実的な政治闘争でした。そして、この闘争の行方を最終的に決定づけたのは、法の論理ではなく、力の論理、すなわちフランス絶対王政の圧倒的な軍事力と政治力だったのです。ウェストファリア条約の曖昧なインクの染みは、やがてフランス軍の進軍によって、フランスに有利な形ではっきりと地図上に描き直されていくことになります。
フランスによる支配の確立

ウェストファリア条約は、フランスにアルザスへの扉を開きましたが、その部屋のすべての調度品を手に入れるまでには、さらに数十年を要しました。ルイ14世(在位1643年=1715年)の治世下、フランスは条約の曖昧な条文を最大限に活用し、法的な解釈、外交的圧力、そして最終的には軍事力を組み合わせた巧みな政策によって、アルザスに対する完全な支配権を段階的に確立していきました。この過程は、フランス絶対王政の国家理性が、中世的な封建的権利の複雑な網の目をいかに解きほぐし、自らの主権の下に統合していったかを示す、典型的な事例となりました。
「再統合」政策

ルイ14世が親政を開始すると、アルザス問題は新たな段階に入りました。彼の野心的な目標は、ウェストファリア条約で留保された諸権利を無力化し、アルザス全域をフランス王権の下に完全に服属させることでした。そのための巧妙な道具として考案されたのが、「再統合政策」です。
1679年以降、ルイ14世は、メッス、ブザンソン、そしてアルザスに近いブライザッハに、「再統合院」と呼ばれる特別法廷を設置しました。これらの法廷の任務は、ウェストファリア条約やその他の条約によってフランスに割譲された領土を調査し、それらの土地に歴史的に付属していたすべての封土、権利、および依存関係を特定し、それらをフランス王領に「再統合」する判決を下すことでした。
これは、一方的な法的解釈に基づく、極めて強引な手法でした。フランスの法律家たちは、中世の封建的な文書を徹底的に洗い直し、わずかでもフランスに割譲された土地との関連性が見いだせる領地や権利を見つけ出しては、それらもまたフランスの主権に服すべきであると宣言しました。
アルザスに残っていた多くの小規模なドイツ人領主や騎士たちは、この再統合院から次々と召喚状を受け取りました。彼らは、自らの領地がフランス王の封土であることを認め、ルイ14世に忠誠を誓うよう要求されました。これに抵抗しようものなら、財産没収や軍事的圧力が待っていました。神聖ローマ皇帝や帝国議会は、このフランスの行動に激しく抗議しましたが、オスマン帝国との戦争などで手一杯であり、有効な対抗策を講じることはできませんでした。
この政策によって、十都市同盟も事実上その機能を失いました。フランスは、同盟都市が神聖ローマ帝国の機関に助けを求めることを禁じ、その自治権を徐々に奪っていきました。各都市は、個別にフランス王権との関係を結び直すことを余儀なくされ、同盟としての連帯は失われました。
ストラスブールの併合

「再統合」政策のクライマックスであり、アルザスのフランスへの統合を象徴する出来事が、1681年の帝国自由都市ストラスブールの併合でした。ストラスブールは、アルザス最大かつ最も重要な都市であり、ウェストファリア条約でその独立性が保障されたはずの、プロテスタントの拠点でした。その存在は、フランスのアルザス完全支配における、最後の、そして最大の障害でした。
ルイ14世は、ヨーロッパの政治情勢がフランスに有利に働いている時期を狙いました。神聖ローマ皇帝レオポルト1世が、東方でのオスマン帝国の脅威とハンガリーでの反乱への対応に追われている隙をついたのです。1681年9月、ルイ14世は、約3万5千人の大軍をストラスブールの城門の前に進め、都市を完全に包囲しました。
フランスの司令官は、ストラスブール市参事会に対して降伏を勧告しました。その条件は、市がフランス王の主権を認め、フランス軍の駐留を受け入れる代わりに、市民の財産、特権、そしてプロテスタント信仰(ルター派)を保障するというものでした。外部からの援軍を期待できず、圧倒的な軍事力の前に抵抗が無意味であることを悟った市参事会は、血を流すことを避けるため、この降伏勧告を受け入れることを決定しました。
1681年9月30日、ストラスブールは正式に降伏し、フランス軍が平和裏に入城しました。ルイ14世は自らこの都市を訪れ、勝利を祝いました。この併合は、純粋な軍事征服ではなく、軍事的威嚇を背景とした「合意された」降伏という形をとりましたが、その本質は力の論理によるものでした。フランスは、この重要な戦略拠点とライン川の橋を確保し、アルザスにおける支配を盤石なものとしました。
その後の統治

ストラスブールの併合後も、フランスはアルザスに対して、ある程度の現実的な配慮を伴った統治を行いました。ルイ14世は、ナントの勅令を廃止してフランス国内のプロテスタント(ユグノー)を弾圧しましたが、アルザスにおいては、ウェストファリア条約とストラスブール降伏条約の規定に基づき、ルター派の信仰を一定程度容認しました。ただし、ストラスブール大聖堂はカトリックの手に戻され、カトリック化も奨励されました。
経済面では、フランスはアルザスを国内の関税制度の外に置くという、特異な扱いを続けました。アルザスは「事実上の外国」と見なされ、フランス本土との間には関税がありましたが、ライン川を越えたドイツ諸邦との交易は比較的自由に行うことができました。この政策は、アルザスの経済的繁栄を維持し、住民の不満を和らげる効果がありました。
言語や文化の面でも、フランスは性急な同化を強制しませんでした。行政や司法の上層部ではフランス語が使われましたが、民衆の日常生活ではアルザス語(ドイツ語方言)が話され続け、地域の慣習も維持されました。
このようにして、17世紀末までに、アルザスはフランス王権の下に完全に統合されました。ウェストファリア条約の曖昧な条文から始まったこのプロセスは、ルイ14世の巧みな権力政治によって完遂されたのです。アルザスの人々は、政治的にはフランス国王の臣下となりましたが、その心の中や日常生活では、ドイツ語圏の文化との深いつながりを保ち続けました。この二重性が、その後のアルザスの複雑なアイデンティティを形成していく基礎となったのです。

ウェストファリア条約がアルザスにもたらした結果は、単なる国境線の変更や領土の割譲に留まるものではありませんでした。それは、この地域が800年近くにわたって属してきた神聖ローマ帝国という政治的・文化的宇宙から引き剥がされ、フランス絶対王政という全く異なるシステムへと組み込まれていく、長く複雑なプロセスの出発点でした。条約の条文そのものが、この移行の困難さと曖昧さを内包していました。
ミュンスター条約は、フランスにアルザスにおけるハプスブルク家の権利を譲渡するという明確な足がかりを与えました。これは、フランスが長年追求してきたライン川への国境拡大政策における、大きな外交的勝利でした。しかし同時に、条約はストラスブールをはじめとする帝国都市の「自由」と「皇帝直属身分」を保障するという、矛盾した条項を含んでいました。この意図的な曖昧さは、講和を成立させるための妥協の産物でしたが、結果的にアルザスの法的地位を不安定なままにし、将来の解釈闘争の扉を開きました。
この闘争の勝敗を決したのは、法の論理ではなく、力の論理でした。ルイ14世のフランスは、圧倒的な軍事力と政治力を背景に、「再統合」という一方的な法的解釈を推し進め、ウェストファリア条約の条文を自国に都合よく拡大解釈しました。1681年のストラスブール併合は、このプロセスの集大成であり、条約が残した最後の抵抗拠点を屈服させ、アルザス全域に対するフランスの主権を事実上確立した瞬間でした。
しかし、この政治的な統合は、文化的な同化をすぐにもたらしたわけではありません。フランスは、アルザスを関税制度の外に置くなど、その経済的な特殊性を認め、言語や慣習の性急な変更を避けるという現実的な統治を行いました。これにより、アルザスはフランス国王の臣下となりながらも、その社会や文化はドイツ語圏との深いつながりを維持し続けるという、二重の性格を帯びることになりました。
したがって、ウェストファリア条約は、アルザスを即座にフランス領にしたわけではありません。むしろ、フランスがアルザスを自国領とするための、法的かつ政治的な「正当性」と「機会」を提供した条約と見るべきです。条約が蒔いた種は、ルイ14世の権力政治という土壌の上で芽吹き、約半世紀をかけてフランスによる完全支配という果実を実らせたのです。この17世紀後半の出来事こそが、その後、アルザスがフランスとドイツの間で引き裂かれる悲劇的な近代史の、直接的な起源となったのでした。
Tunagari_title
・アルザスとは わかりやすい世界史用語2664

Related_title
もっと見る 

Keyword_title

Reference_title
『世界史B 用語集』 山川出版社

この科目でよく読まれている関連書籍

このテキストを評価してください。

※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。

 

テキストの詳細
 閲覧数 0 pt 
 役に立った数 0 pt 
 う〜ん数 0 pt 
 マイリスト数 0 pt 

知りたいことを検索!

まとめ
このテキストのまとめは存在しません。