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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 主権国家体制の成立

ブルボン朝とは わかりやすい世界史用語2651

著者名: ピアソラ
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ブルボン朝とは

ブルボン朝は、ヨーロッパの歴史において最も重要かつ広範な影響を及ぼした王家の一つです。その名は、フランス中部のブルボン・ラルシャンボーに由来し、カペー朝の分家として歴史の舞台に登場しました。16世紀末にフランス王位を継承して以来、フランス革命による中断を挟みながらも19世紀半ばまでフランスを統治し、また、スペイン、ナポリ=シチリア、パルマなどヨーロッパ各地にその血脈を広げ、それぞれの国の歴史に深く刻印を残しました。ブルボン朝の歴史は、宗教戦争の混乱から絶対王政の確立とその栄華、そして啓蒙思想の広がりと革命の動乱、さらには王政復古とその終焉という、近世から近代にかけてのヨーロッパ史の劇的な変遷そのものを体現しています。



起源とフランス王位への道

ブルボン家の起源は、フランス王国の名門カペー家に遡ります。カペー朝の国王ルイ9世(聖王ルイ)の六男であるロベール・ド・クレルモンが、1272年にブルボン家の女子相続人であったベアトリス・ド・ブルゴーニュと結婚したことが、王家としてのブルボン家の直接の始まりです。 この結婚により、ロベールはブルボン領の領主となり、その子孫がブルボン公の称号を名乗るようになりました。当初、ブルボン家は数あるフランス貴族の一つに過ぎず、王位継承順位も決して高いものではありませんでした。カペー朝の直系が1328年に断絶した際には、より血縁の近いヴァロワ家が王位を継承し、ブルボン家がフランス王位に就くのは、それからさらに2世紀半以上後のことになります。
ブルボン家が王位継承の可能性を帯びるようになったのは、16世紀のフランスを揺るがした宗教戦争(ユグノー戦争)の時代でした。15世紀末以降、ブルボン家はヴァンドーム公家とモンパンシエ公家に分かれていましたが、1527年にモンパンシエ公シャルル3世が国王フランソワ1世を裏切って神聖ローマ皇帝カール5世に与したため、その所領は没収され、ブルボン家の家長権はヴァンドーム公家へと移りました。
ヴァンドーム公アントワーヌ・ド・ブルボンは、1548年にナバラ女王ジャンヌ・ダルブレと結婚し、1555年にはナバラ王(共同統治者)となります。 ナバラ王国はピレネー山脈にまたがる小国でしたが、この結婚によりブルボン家は王家の称号を得ることになりました。そして、このアントワーヌとジャンヌの間に生まれたのが、後のフランス国王アンリ4世となるアンリ・ド・ナヴァールです。
当時のフランスは、カトリックとプロテスタント(フランスではユグノーと呼ばれる)の対立が激化し、内戦状態にありました。ジャンヌ・ダルブレは熱心なカルヴァン派であり、その影響でアンリもプロテスタントとして育てられました。 1562年に父アントワーヌが戦死し、1572年に母ジャンヌが亡くなると、アンリはナバラ王位を継承するとともに、ユグノー派の総帥として、フランスの宗教戦争の中心人物の一人となります。
1572年、カトリックとユグノーの和解を図るため、アンリはフランス国王シャルル9世の妹であるマルグリット・ド・ヴァロワと結婚します。しかし、この祝宴のさなかに、カトリック側のギーズ公アンリらが主導してユグノーの指導者たちを大量虐殺するというサン・バルテルミの虐殺が起こりました。アンリ自身もカトリックへの改宗を強要され、数年間パリの宮廷で軟禁状態に置かれますが、後に脱出して再びユグノーの指導者として復帰します。
その後、フランス王位をめぐる争いは、ヴァロワ家の国王アンリ3世、カトリック同盟を率いるギーズ公アンリ、そしてユグノーを率いるナバラ王アンリの三者による「三アンリの戦い」へと発展します。1588年にアンリ3世がギーズ公アンリを暗殺し、翌1589年にはその報復としてアンリ3世自身がカトリックの修道士に暗殺されるという劇的な展開をたどります。アンリ3世には男子の跡継ぎがおらず、サリカ法典に基づき、男系の血縁で最も近い親族であったナバラ王アンリが、王位継承者として指名されました。
こうして、ブルボン家のアンリがアンリ4世としてフランス王位を継承することになりましたが、プロテスタントの王に対するカトリック勢力の抵抗は根強く、特にパリは頑強に彼を受け入れようとしませんでした。カトリック同盟はスペインの支援を受けてアンリ4世に対抗し、内戦は続きました。この状況を打開するため、アンリ4世は「パリはミサを捧げるに値する」という有名な言葉を残し、1593年にカトリックに改宗するという政治的決断を下します。この改宗によって、彼は国内の大多数を占めるカトリック教徒の支持を得ることに成功し、翌1594年、ついにパリに入城して正式にフランス国王として戴冠しました。ここで、ブルボン朝が始まったのです。
アンリ4世後世と宗教戦争の終結

アンリ4世の治世(1589年=1610年)は、ブルボン朝の礎を築いた重要な時代です。彼の最大の功績は、半世紀近くにわたってフランスを分裂させ、疲弊させた宗教戦争を終結させたことにあります。カトリックに改宗した後も、彼はかつての仲間であったユグノーの権利を保護することを忘れず、1598年に「ナントの勅令」を発布しました。 この勅令は、カトリックをフランスの国教と定めつつも、ユグノーに対して個人の信仰の自由と、特定の地域における礼拝の自由、そして公職に就く権利などの市民権を保障するものでした。さらに、彼らの安全を保障するために、ラ・ロシェルなどの要塞都市をユグノーに与えました。ナントの勅令は、一つの国家の中に異なる宗派の共存を認める画期的なものであり、これによりフランスはようやく内戦状態から脱し、平和を回復することができました。
宗教的寛容の確立と並行して、アンリ4世は国家の再建に精力的に取り組みました。長年の内戦で国土は荒廃し、財政は破綻状態にありました。彼は、有能な側近であるシュリー公マクシミリアン・ド・ベテュームを財務長官に登用し、財政再建を断行します。シュリーは、汚職の追放、徴税システムの効率化、歳出の削減などを通じて国家財政を健全化させました。また、農業を国家の基盤と捉え、「農耕と牧畜こそはフランスの二つの乳房である」と述べ、農地の回復や沼沢地の干拓、養蚕の奨励など、農業振興策を積極的に推進しました。
産業の育成にも力が注がれ、絹織物やガラス、タペストリーなどのマニュファクチュアが設立されました。また、道路や運河などのインフラ整備も進められ、国内の商業活動が活発化しました。対外的には、カナダのケベックに植民地を建設するなど、後のフランス植民地帝国の基礎を築きました。
アンリ4世は、その陽気で気さくな人柄から「良王アンリ」として国民に親しまれました。「私の王国のすべての農民が、日曜には鶏肉を鍋に入れられるようにしたい」という彼の言葉は、国民の生活向上を目指す為政者としての姿勢を象徴しています。しかし、彼の宗教的寛容政策は、一部の狂信的なカトリック教徒の憎悪を買い続けました。数々の暗殺未遂を乗り越えてきた彼も、1610年、狂信的なカトリック教徒フランソワ・ラヴァイヤックによってパリの路上で暗殺され、その生涯を閉じました。 彼の突然の死はフランス全土に衝撃を与えましたが、彼が築いた平和と繁栄の礎は、次の時代へと引き継がれていくことになります。
ルイ13世とリシュリュー枢機卿

アンリ4世の死後、王位を継承したのはわずか9歳の息子ルイ13世(在位1610年=1643年)でした。 幼い王に代わって政治の実権を握ったのは、母后マリー・ド・メディシスです。彼女の摂政時代は、アンリ4世の政策から一転し、親スペイン=ハプスブルク家的な外交政策がとられ、宮廷内では寵臣コンチーノ・コンチーニが権勢を振るいました。大貴族たちは再び勢力を盛り返し、政治は不安定化しました。
1617年、青年へと成長したルイ13世は、クーデターによってコンチーニを暗殺し、母マリーを追放して親政を開始します。しかし、内向的で気弱な性格であったルイ13世は、当初、必ずしも強力な指導力を発揮できたわけではありませんでした。彼の治世が真に安定し、フランスの王権が飛躍的に強化されるのは、1624年にアルマン・ジャン・デュ・プレシ・ド・リシュリュー枢機卿を宰相として登用してからです。
リシュリューの政治目標は明確でした。それは、国内における王権の絶対的な確立と、国外におけるフランスの威信の向上です。彼はこの目標を達成するため、冷徹かつ非情なまでのリアリズムをもって政策を遂行しました。
国内において、リシュリューが最大の脅威と見なしたのは、ナントの勅令によって政治的・軍事的な特権を与えられていたユグノーと、依然として地方で強大な力を持つ大貴族たちでした。リシュリューは、ユグノーが「国家の中の国家」を形成している状況を看過できず、1627年、ユグノーの最大拠点であった港湾都市ラ・ロシェルに対する包囲攻撃を開始します。1年以上にわたる壮絶な籠城戦の末、ラ・ロシェルは陥落しました。1629年の「アレスの和約」により、ユグノーは信仰の自由こそ維持されたものの、ナントの勅令で認められていた要塞の保持権や政治的集会の権利といった軍事的・政治的特権はすべて剥奪されました。これにより、ユグノーは純粋な宗教的少数派となり、もはや王権に反抗する政治勢力ではなくなりました。
次にリシュリューは、大貴族の勢力を削ぐことに着手します。彼は、貴族間の私的な決闘を厳しく禁じ、国王の権威に挑戦するものを容赦なく処罰しました。また、地方の城塞を次々と破壊し、貴族が反乱の拠点を持つことを物理的に不可能にしました。さらに、国王の意向を地方で直接執行させるため、各地方に監察官(アンタンダン)を派遣する制度を強化しました。アンタンダンは国王によって任命され、国王に対してのみ責任を負う官僚であり、彼らを通じて中央集権的な行政システムが全国に張り巡らされていきました。
対外的には、リシュリューはフランスを包囲するハプスブルク家(スペインとオーストリア)の勢力を打破することを最優先課題としました。彼はカトリックの枢機卿でありながら、国家理性を宗教的信条よりも優先させ、ドイツで起こっていた三十年戦争において、カトリックのハプスブルク家と戦うプロテスタント勢力(スウェーデンやドイツ諸侯)を財政的に支援しました。そして1635年、ついにフランスは直接ハプスブルク家スペインに宣戦布告し、三十年戦争に本格的に介入します。この戦争はリシュリューの死後まで続きますが、最終的にフランスの勝利に終わり、1648年のヴェストファーレン条約と1659年のピレネー条約によって、フランスはヨーロッパにおける覇権を確立することになります。
リシュリューはまた、文化政策にも力を入れ、フランス語の純化と統一を目的とするアカデミー・フランセーズを設立しました。これは、言語を統一することが国家の統一に不可欠であるという彼の信念の表れでした。
ルイ13世は、リシュリューの強力な指導力に全幅の信頼を寄せ、その政策を終始一貫して支持し続けました。国王と宰相のこの緊密な協力関係こそが、ブルボン朝の絶対王政の基礎を固める上で決定的な役割を果たしたのです。リシュリューは1642年に、ルイ13世はその翌年に相次いで亡くなりますが、彼らが残した中央集権化された国家と、ヨーロッパにおける優位な地位は、次の「太陽王」の時代に引き継がれていきます。
ルイ14世

ルイ13世の死により、わずか4歳で王位に就いたのがルイ14世(在位1643年=1715年)です。 彼の72年間に及ぶ治世は、ヨーロッパの君主の中で史上最長であり、ブルボン朝の、そしてフランス絶対王政の栄光が頂点に達した時代として記憶されています。
マザラン枢機卿とフロンドの乱

ルイ14世の治世の初期は、父ルイ13世の時代と同様、母后アンヌ・ドートリッシュによる摂政政治と、リシュリューの後継者であるジュール・マザラン枢機卿による指導の下で始まりました。 マザランは、リシュリューの政策を継承し、三十年戦争をフランスに有利な形で終結させることに成功しますが、その強引な増税策は国内の広範な不満を引き起こしました。
1648年、この不満が爆発し、「フロンドの乱」と呼ばれる大規模な反乱が勃発します。 この反乱は、当初、高等法院(パルルマン)を中心とする法服貴族たちが王権の制限を求めて起こしたものでしたが、やがてコンデ公ルイ2世をはじめとする大貴族たちも加わり、フランス全土を巻き込む内戦へと発展しました。幼いルイ14世は、母アンヌやマザランと共にパリからの逃亡を余儀なくされるなど、屈辱的な経験をしました。この反乱は、反乱者たちの内部対立によって1653年までに鎮圧されますが、少年時代のこの体験は、ルイ14世の心に貴族への根深い不信感と、国王の権威が揺らぐことへの強い恐怖を植え付けました。 フロンドの乱の経験こそが、後に彼が絶対的な権力を確立しようとする強烈な動機となったのです。
親政の開始と絶対王政の確立

1661年、マザラン枢機卿が死去すると、22歳になっていたルイ14世は、宰相を置かずに自ら統治を行う「親政」を宣言します。 彼は閣議で「朕は国家なり(L'état, c'est moi)」と述べたと伝えられており、これは彼の統治理念を象徴する言葉として有名です。 彼は、神から王権を授かったとする王権神授説を信奉し、国王の権威は絶対であり、何者にも制約されないと考えました。
ルイ14世は、リシュリュー以来の中央集権化をさらに徹底させます。彼は、有能な実務家を大臣として登用し、政治のあらゆる側面を自らの管理下に置こうとしました。特に有名なのが、財務総監ジャン=バティスト・コルベールです。コルベールは、国家の富を増やすためには輸出を増やし輸入を減らすべきだとする重商主義政策を強力に推進しました。彼は、王立マニュファクチュアの設立、国内産業の保護育成、植民地貿易の振興、海軍の増強、交通網の整備など、多岐にわたる改革を実行し、フランスの経済的基盤を強化しました。
ルイ14世はまた、フロンドの乱の教訓から、貴族の力を完全に無力化する必要があると考えました。彼は、貴族たちを地方の領地から引き離し、パリ郊外に建設した壮麗なヴェルサイユ宮殿に居住させる政策をとりました。 ヴェルサイユ宮殿では、国王の起床から就寝に至るまで、日常生活のあらゆる場面が儀式化され、貴族たちはその儀式に参加する栄誉を競い合いました。彼らは、国王の寵愛を得ることに汲々とする宮廷人となり、かつてのような独立した政治勢力としての力を完全に失っていきました。ヴェルサイユ宮殿は、単なる王の住居ではなく、貴族を飼いならし、国王の権威を視覚的に誇示するための壮大な政治装置だったのです。
宗教政策においては、ルイ14世は「一つの国に、一つの法、一つの信仰」を理想とし、国内の宗教的統一を目指しました。 彼は、アンリ4世が定めたナントの勅令が、国家の統一を妨げるものだと考え、ユグノーに対する圧迫を次第に強めていきました。そして1685年、ついに「ナントの勅令の廃止」を宣言します。 これにより、ユグノーの信仰は非合法化され、多くのユグノーたちが信仰の自由を求めてオランダ、イギリス、プロイセンなど国外へ亡命しました。亡命したユグノーには熟練した職人や商工業者が多く含まれていたため、彼らの流出はフランス経済にとって大きな打撃となりました。
相次ぐ戦争と栄光の代償

ルイ14世の治世は、フランスの栄光をヨーロッパ中に輝かせるための、絶え間ない戦争の時代でもありました。彼は、ミシェル・ル・テリエと、その息子であるルーヴォワ侯フランソワ=ミシェル・ル・テリエといった有能な陸軍大臣の補佐を受け、強力な常備軍を組織しました。彼の目標は、フランスの国境を「自然国境」(ライン川、アルプス山脈、ピレネー山脈)まで拡大することにありました。
ネーデルラント継承戦争、オランダ侵略戦争、大同盟戦争(ファルツ継承戦争)など、一連の侵略戦争を通じて、フランスはフランドル地方やフランシュ=コンテ、ストラスブールなどを獲得し、領土を拡大しました。しかし、フランスの覇権的な動きは、イギリス、オランダ、オーストリア(神聖ローマ帝国)など周辺諸国の警戒心を呼び起こし、大規模な反フランス同盟が結成されることになります。
ルイ14世の治世の最後にして最大規模の戦争が、スペイン継承戦争(1701年=1714年)です。 1700年にスペイン=ハプスブルク家の国王カルロス2世が跡継ぎなく死去すると、その遺言により、ルイ14世の孫であるアンジュー公フィリップがフェリペ5世としてスペイン王位を継承することになりました。 フランスとスペインという二大強国がブルボン家の下で統合される可能性は、ヨーロッパの勢力均衡を根本から覆すものであり、イギリス、オランダ、オーストリアはこれを阻止するために大同盟を結成し、フランス=スペイン連合軍と戦いました。
戦争はヨーロッパ全土、さらには北米植民地(アン女王戦争)にまで及び、フランスはマールバラ公ジョン・チャーチルやプリンツ・オイゲンといった名将に率いられた同盟軍の前に、ブレンハイムの戦いなどで手痛い敗北を喫しました。 長引く戦争はフランスの国力を著しく消耗させ、国内では飢饉が発生するなど、国民の生活は困窮を極めました。
最終的に、1713年のユトレヒト条約と1714年のラシュタット条約によって戦争は終結します。 この条約で、フェリペ5世のスペイン王位は承認されたものの、フランスとスペインの王位を永久に統合しないことが条件とされました。 フランスは、北米の植民地の一部(ニューファンドランド、アカディアなど)をイギリスに割譲し、スペインは、南ネーデルラントやイタリアの領土をオーストリアに、ジブラルタルとミノルカ島をイギリスに割譲しました。 スペイン継承戦争は、ルイ14世の野望に一定の歯止めをかけ、イギリスが海洋帝国として台頭するきっかけを作りました。
ルイ14世の治世は、ヴェルサイユ宮殿に象徴される華麗な文化(フランス古典主義)を開花させ、フランスの威信をヨーロッパの頂点にまで高めました。しかし、その栄光は、絶え間ない戦争と重税、そして宗教的不寛容によって国民に大きな犠牲を強いた上になりたっていました。彼が1715年に亡くなった時、フランスは栄光の頂点にあると同時に、深刻な財政難と社会の疲弊という負の遺産を抱えていたのです。
ルイ15世とルイ16世

ルイ14世の死後、王位は曾孫のルイ15世(在位1715年=1774年)に引き継がれました。彼が即位した時まだ5歳という幼さであったため、当初はルイ14世の甥にあたるオルレアン公フィリップ2世が摂政を務めました。
ルイ15世の治世

ルイ15世の長い治世は、しばしば「太陽王」の時代の輝きが失われ、アンシャン・レジーム(旧体制)の矛盾が深刻化していく時代として特徴づけられます。ルイ15世自身は、政治への関心が薄く、統治をフルーリー枢機卿などの大臣や、ポンパドゥール夫人やデュ・バリー夫人といった公妾たちに任せがちでした。 宮廷の浪費は続き、財政状況は改善されませんでした。
外交面では、ポーランド継承戦争やオーストリア継承戦争といった王朝間の戦争に関与し、一定の成果(ロレーヌ公国の獲得など)を上げました。しかし、ヨーロッパの勢力図を大きく塗り替えた七年戦争(1756年=1763年)では、長年の宿敵であったオーストリア=ハプスブルク家と同盟を結んでプロイセン=イギリス連合と戦うという「外交革命」を行いましたが、結果的に大敗を喫します。 この戦争で、フランスはカナダやインドにおける広大な植民地をイギリスに奪われ、海洋国家としての覇権争いから大きく後退することになりました。
一方で、ルイ15世の時代は、ヴォルテール、ルソー、モンテスキューといった思想家たちが活躍した啓蒙思想の最盛期でもありました。 彼らの思想は、理性に基づかない権威や特権を批判し、個人の自由や平等を唱えました。これらの新しい思想は、サロンなどを通じて貴族やブルジョワジー(富裕な市民階級)の間に広まり、絶対王政や身分制度といったアンシャン・レジームの正当性を内側から揺るがし始めました。
治世の末期には、大法官モープーらが高等法院の権限を抑制し、税制改革を行おうとする試みもありましたが、特権身分の強い抵抗にあい、ルイ15世の死によって頓挫しました。ルイ15世は「我亡き後に洪水は来たれ」という言葉を残したとされますが、彼の治世は、まさに次の時代に訪れる大洪水の予兆に満ちていたのです。
ルイ16世とフランス革命

1774年、ルイ15世の孫であるルイ16世(在位1774年=1792年)が即位します。 彼は誠実で善良な人柄でしたが、国王としての決断力や政治的指導力に欠けていました。彼が継承した王国は、破綻寸前の財政と、深刻な社会的矛盾という時限爆弾を抱えていました。
ルイ16世は、テュルゴーやジャック・ネッケルといった改革派の財務長官を登用し、財政再建に取り組もうとしました。 彼らは、特権身分(第一身分の聖職者と第二身分の貴族)への課税を含む抜本的な税制改革案を提唱しましたが、これらの改革は、課税を免除されてきた特権身分と、彼らの牙城であった高等法院の猛烈な反対によってことごとく失敗に終わりました。
フランスの財政危機を決定的にしたのは、アメリカ独立戦争への介入でした。 イギリスへの報復と、自由を求めるアメリカへの共感から、フランスは多額の軍事援助と派兵を行いました。この戦争はアメリカの独立という結果をもたらしましたが、フランスの国庫には10億リーブル以上の莫大な負債が残りました。
財政が完全に行き詰まる中、ルイ16世は最後の手段として、1614年以来開かれていなかった全国三部会(聖職者、貴族、平民の三つの身分の代表者からなる議会)を1789年5月に召集することを決定します。 しかし、議決方法(身分ごとの投票か、議員一人一人の投票か)をめぐって、第三身分(平民)の代表と特権身分の代表が対立します。第三身分の代表たちは、自分たちこそが国民を代表するものであると主張し、三部会から分離して「国民議会」の設立を宣言し、憲法が制定されるまでは解散しないことを誓いました(球戯場の誓い)。
国王と宮廷がこれを武力で弾圧しようとする動きを見せると、パリの民衆はこれに反発し、1789年7月14日、圧政の象徴と見なされていたバスティーユ牢獄を襲撃しました。この事件が引き金となり、革命の動きはフランス全土へと広がっていきました。
国民議会は、「封建的特権の廃止」を宣言し、「人権宣言」を採択して、人間の自由、平等、国民主権、所有権の不可侵といった近代市民社会の基本原則を打ち立てました。ルイ16世は、当初これらの動きに抵抗しましたが、パリの民衆がヴェルサイユ宮殿に行進して国王一家をパリのテュイルリー宮殿に連行する事件(ヴェルサイユ行進)が起こり、革命の進展を事実上承認せざるを得なくなりました。
1791年、国民議会は立憲君主制を定めた憲法(1791年憲法)を制定し、ルイ16世はこれに宣誓しました。しかし、彼は内心では革命を認めておらず、1791年6月、王妃マリー・アントワネットの実家であるオーストリアへの逃亡を図ります(ヴァレンヌ逃亡事件)。この事件は国境近くで発覚し、国王一家はパリに連れ戻されました。国王の裏切りは国民の信頼を完全に失墜させ、共和制を求める声が急速に高まりました。
1792年、フランス革命政府はオーストリアに宣戦布告し、フランス革命戦争が勃発します。戦争の危機と、プロイセン軍がパリに迫る中で、革命はさらに急進化します。同年8月10日、パリの民衆と義勇兵がテュイルリー宮殿を襲撃し、王権は停止されました(8月10日事件)。ルイ16世と家族はタンプル塔に幽閉され、新たに召集された国民公会は、9月21日に君主制の廃止と共和制(第一共和政)の樹立を宣言しました。
国民公会は、前国王ルイ16世を「市民ルイ・カペー」として裁判にかけ、国家への反逆罪で死刑を宣告しました。そして1793年1月21日、ルイ16世は革命広場(現在のコンコルド広場)でギロチンによって処刑されました。同年10月には王妃マリー・アントワネットも同様に処刑され、ブルボン朝によるフランス統治は、一旦ここで完全に終焉を迎えたのです。
王政復古と七月王政

フランス革命とそれに続くナポレオン・ボナパルトの時代を経て、ブルボン家が再びフランスの王位に返り咲く機会が訪れます。
ブルボン復古王政

1814年、ナポレオンがヨーロッパ連合軍との戦いに敗れて退位すると、連合国はフランスの正統な君主としてブルボン家を復活させることを決定しました。 処刑されたルイ16世の弟であるプロヴァンス伯が、ルイ18世(在位1814年=1824年)として即位しました。 これがブルボン復古王政(Bourbon Restoration)の始まりです。ルイ16世の息子であるルイ17世は、革命中に幽閉先で亡くなっていたため、欠番とされました。
ルイ18世は、革命によってフランス社会が大きく変化したことを理解しており、アンシャン・レジームへの完全な復帰が不可能であることを認識していました。彼は、国民の権利や議会の存在を認める「1814年憲章(シャルト)」を発布し、立憲君主として統治を行おうとしました。 しかし、彼の治世は、1815年にエルバ島を脱出したナポレオンがパリに帰還したことで中断されます(百日天下)。ルイ18世はヘントへ亡命を余儀なくされましたが、ワーテルローの戦いでナポレオンが最終的に敗北すると、再びパリに戻り王位に復しました。
ルイ18世の治世後半は、比較的穏健な政策がとられましたが、彼の死後、王位を継いだ弟のシャルル10世(在位1824年=1830年)の時代になると、政治は大きく揺れ動きます。 シャルル10世は、兄とは対照的に、革命前の絶対王政への回帰を夢見る超王党派(ユルトラ)の筆頭でした。彼は、亡命貴族への補償法の制定や、涜神罪の厳罰化など、時代錯誤な反動的政策を次々と打ち出しました。
1830年7月、シャルル10世は、選挙で自由主義派が勝利したことに対抗し、議会の解散、選挙権の制限、言論・出版の自由の停止などを内容とする勅令(七月勅令)を発布しました。これに激怒したパリの市民や学生、労働者たちは蜂起し、「栄光の三日間」と呼ばれる市街戦の末、ブルボン朝の軍隊を打ち破りました。これが七月革命です。 シャルル10世は退位してイギリスへ亡命し、ブルボン家の直系によるフランス統治は、今度こそ完全に終わりを告げました。
七月王政

七月革命の結果、王位に就いたのは、ブルボン家の分家であるオルレアン家の当主、ルイ=フィリップ(在位1830年ー1848年)でした。 彼はルイ13世の弟の末裔であり、フランス革命の際には革命を支持したこともある自由主義的な人物として知られていました。彼は「フランス国王」ではなく「フランス人民の王」と名乗り、三色旗を国旗として復活させ、より自由主義的な憲章を制定するなど、ブルジョワジーの支持を得ようと努めました。
彼の治世は「七月王政」と呼ばれ、産業革命が本格化し、富裕なブルジョワジーが政治的・経済的な主導権を握る時代となりました。 しかし、選挙権は依然として高額納税者に限定されており、大多数の国民、特に都市の労働者階級は政治から排除されたままでした。ルイ=フィリップの政府は、ギゾー首相の下で次第に保守化し、選挙法改正などの改革要求を頑なに拒否し続けました。
経済不況と食糧危機が深刻化する中、1848年2月、改革を求める宴会(政治集会)が政府によって禁止されたことをきっかけに、パリで再び革命が勃発します(二月革命)。 国民衛兵までもが反乱側に加わる中、ルイ=フィリップは退位を余儀なくされ、イギリスへ亡命しました。 これにより、フランスにおけるブルボン家(オルレアン家を含む)による王政は完全に終焉し、第二共和政が樹立されることになりました。
フランス国外のブルボン朝

ブルボン家の歴史はフランス国内にとどまりません。特にスペインにおいては、18世紀初頭から今日に至るまで、断続的ながらも王位を保持し続けています。
スペイン=ブルボン朝

スペインにおけるブルボン朝の始まりは、ルイ14世の治世の最後を飾ったスペイン継承戦争に遡ります。 1700年、子のないスペイン国王カルロス2世が、ルイ14世の孫であるアンジュー公フィリップを後継者に指名して死去しました。フィリップはフェリペ5世として即位しましたが、これにオーストリアやイギリスなどが猛反発し、戦争へと突入しました。 1713年のユトレヒト条約により、フェリペ5世はフランス王位継承権を放棄することを条件に、スペイン国王として正式に承認されました。 これがスペイン=ブルボン朝(ボルボン朝)の始まりです。
フェリペ5世は、フランス流の中央集権的な統治システムをスペインに導入し、国家の近代化を図りました。彼の後継者たち、特にカルロス3世の時代には、啓蒙専制君主として知られるカルロス3世が登場し、行政改革、経済振興、イエズス会の追放など、多くの改革を行いました。
しかし、19世紀に入ると、スペイン=ブルボン朝もまたフランス革命とナポレオン戦争の動乱に巻き込まれます。ナポレオンはスペインに侵攻し、兄のジョゼフ・ボナパルトを国王ホセ1世として即位させました。これに対してスペイン民衆はゲリラ戦で激しく抵抗し、このスペイン独立戦争はナポレオン帝国の没落を早める一因となりました。
ナポレオン失脚後、フェルナンド7世が王位に復帰しますが、彼の治世は自由主義者と絶対主義者の対立に終始しました。彼の死後、サリカ法を廃して娘のイサベル2世を即位させたことから、王位継承をめぐって深刻な対立が生じます。フェルナンド7世の弟ドン・カルロスを支持する保守的な「カルリスタ」と、イサベル2世を支持する自由主義的な「イサベリスタ」との間で、19世紀を通じて断続的に内戦(カルリスタ戦争)が繰り返され、スペインの政情は極度に不安定化しました。
イサベル2世の治世も混乱を極め、1868年の革命で彼女は追放されます。その後、一時的な王政(サヴォイア家のアマデオ1世)と第一共和政を経て、1874年にイサベル2世の息子アルフォンソ12世が即位し、ブルボン復古王政が実現しました。アルフォンソ12世とその息子アルフォンソ13世の時代は、比較的安定していましたが、社会の根底にある矛盾は解決されませんでした。
20世紀に入り、社会不安が増大する中、1931年に選挙で共和派が圧勝したことを受けて、アルフォンソ13世は国外へ亡命し、スペイン第二共和政が成立しました。その後、スペインは悲惨な内戦(1936年=1939年)を経て、フランシスコ・フランコによる独裁体制下に入ります。フランコは君主制の復活を約束していましたが、自らの存命中は王を置かず、摂政としてスペインを統治しました。
フランコは、アルフォンソ13世の孫であるフアン・カルロスを後継者として指名し、帝王学を学ばせました。1975年にフランコが死去すると、フアン・カルロス1世として即位し、スペインにブルボン朝の王政が復活しました。多くの人が、彼がフランコの独裁体制を継続するものと予想していましたが、フアン・カルロス1世は国民の期待を良い意味で裏切り、独裁体制から民主主義への平和的な移行(トランシシオン)を主導しました。1981年に起きた軍事クーデター未遂事件の際には、テレビ演説で国民に冷静を呼びかけ、民主主義を守る断固たる姿勢を示してクーデターを失敗に終わらせ、国民の絶大な信頼を勝ち取りました。
2014年、フアン・カルロス1世は高齢などを理由に退位し、息子のフェリペ6世が即位しました。フェリペ6世は、カタルーニャ独立問題など、現代スペインが抱える困難な課題に直面しながら、立憲君主としての役割を果たしています。
ナポリ=シチリアとパルマのブルボン家

スペイン=ブルボン家からは、さらにイタリアの王家に分かれました。フェリペ5世の息子であるドン・カルロスは、ポーランド継承戦争の結果、1734年にナポリ王国とシチリア王国の国王(ナポリ王カルロ7世、シチリア王カルロ5世)となりました。彼が後にスペイン王カルロス3世として本国に帰る際、王位は三男のフェルディナンドに譲られ、両シチリア=ブルボン朝が成立しました。この王国は、ナポレオン時代に一時中断されたものの、ウィーン体制下で「両シチリア王国」として復活し、1861年にイタリア統一(リソルジメント)によってサルデーニャ王国に併合されるまで続きました。
また、フェリペ5世の別の息子であるドン・フィリッポは、オーストリア継承戦争の結果、1748年にパルマ公国の君主となり、パルマ=ブルボン家が始まりました。この公国もまた、ナポレオン時代の中断を経て、1859年にイタリア統一の過程でその歴史を終えました。
ブルボン朝の遺産

ブルボン朝の歴史は、近世から近代にかけてのヨーロッパ史の縮図です。アンリ4世による宗教戦争の終結と国家再建に始まり、ルイ13世とリシュリューによる中央集権化、そしてルイ14世の治下で迎えた絶対王政の黄金時代は、フランスという近代国家の枠組みを形成する上で決定的な役割を果たしました。ヴェルサイユ宮殿に象徴される壮麗な文化は、ヨーロッパ中の宮廷の模範となり、フランス語は外交と文化の国際語としての地位を確立しました。
しかし、その栄光の裏で、絶え間ない戦争と重税は国民を疲弊させ、ナントの勅令廃止に代表される不寛容な政策は社会に深い亀裂を残しました。啓蒙思想の光がアンシャン・レジームの矛盾を照らし出す中で、ルイ16世の悲劇的な結末とフランス革命の勃発は、歴史の必然であったのかもしれません。
革命とナポレオンの時代を経て復活したブルボン朝は、もはや時代の潮流に抗うことはできず、19世紀半ばまでにフランスの政治舞台から完全に姿を消しました。しかし、その血脈はスペインで生き残り、20世紀後半に独裁から民主主義への移行を導くという、予期せぬ歴史的役割を果たすことになります。
ブルボン朝が残した遺産は、壮麗な宮殿や芸術作品だけではありません。それは、国家理性の追求、中央集権国家の形成、そして絶対王政という統治モデルの確立とその崩壊の物語であり、現代に至る国家と社会のあり方を考える上で、今なお多くの示唆を与え続けています。その名は、栄光と悲劇、創造と破壊、そして権力の盛衰という、ヨーロッパ史のダイナミズムそのものを象徴しているのです。
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・ブルボン朝とは わかりやすい世界史用語2651

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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