ヴァロワ朝断絶とは
1589年8月2日の早朝、パリ郊外のサン=クルーの館で、フランス国王アンリ3世は血まみれのベッドに横たわっていました。前日、ドミニコ会の修道士ジャック=クレマンを名乗る狂信的なカトリック教徒に腹部を刺され、致命傷を負ったのです。死を目前にした国王の周りには、彼の後継者と目されるナバラ王アンリをはじめとする廷臣たちが集まっていました。アンリ3世は、力を振り絞り、プロテスタントであるナバラ王アンリに、フランス王位を継承するためにはカトリックに改宗することが不可欠であると説き、そして廷臣たちに、彼を正統な後継者として受け入れるよう誓わせました。その数時間後、アンリ3世は息を引き取りました。4人の息子をもうけながらも、誰一人として成人することなく、自らもまた子を残さなかったフランソワ1世の孫、アンリ2世の最後の息子でした。彼の死によって、1328年から261年間にわたってフランスを統治してきたヴァロワ家の直系男子の血筋は、完全に途絶えることになります。
この劇的な暗殺事件は、単に一人の国王の死を意味するだけではありませんでした。それは、フランスという国を半世紀近くにわたって引き裂いてきた、宗教戦争という名の泥沼の内乱が、最も混沌とした局面を迎えたことを象G徴していました。ヴァロワ朝の断絶は、この宗教戦争の直接的な帰結であり、また、フランスがブルボン朝という新たな時代へと移行する、産みの苦しみを伴う転換点でもあったのです。この王朝の終焉を理解するためには、時計の針を少し戻し、アンリ3世の父であるアンリ2世の治世、そして彼を襲った突然の悲劇から話を始める必要があるでしょう。
悲劇の馬上槍試合
16世紀半ばのフランスは、フランソワ1世とその息子アンリ2世という二人のルネサンス君主の下で、華やかな宮廷文化が花開き、イタリア戦争を通じてヨーロッパにおける大国としての地位を確立していました。しかし、その華やかさの裏側で、社会を蝕む深刻な亀裂が静かに広がりつつありました。それは、宗教改革の波です。ジャン=カルヴァンの教えに基づくプロテスタント、フランスではユグノーと呼ばれる人々が、都市の商人や職人、そして地方の貴族たちの間に急速に信者を増やしていました。
敬虔なカトリック教徒であったアンリ2世は、このプロテスタントの「異端」を根絶することに情熱を燃やし、厳しい弾圧政策を推し進めます。彼は、異端審問のための特別法廷、通称「火刑裁判所」を設置し、多くのユグノーを火あぶりの刑に処しました。しかし、弾圧はむしろユグノーの結束を強め、彼らをより過激な抵抗へと駆り立てる結果にしかなりませんでした。
国内の宗教的緊張が高まる一方で、アンリ2世は長年にわたるイタリア戦争の終結にも取り組んでいました。1559年、フランスは宿敵であったハプスブルク家のスペインとの間にカトー=カンブレジ条約を締結し、イタリア戦争に終止符を打ちます。この和平を祝して、パリでは盛大な祝祭が催されることになりました。そのハイライトが、国王自身も参加する馬上槍試合でした。
1559年6月30日、アンリ2世は、自らの護衛隊長であるモンゴムリ伯ガブリエル=ド=ロルジュを相手に、馬上槍試合に臨みました。最初の二試合は引き分けに終わりましたが、国王は三度目の対戦を強く望みました。周囲の反対を押し切り、三度目の突撃が行われたその時、悲劇が起こりました。モンゴムリ伯の槍が国王の兜の隙間から右目を貫き、脳にまで達したのです。アンリ2世は落馬し、宮殿に運び込まれましたが、10日間の苦しみの後、40歳でこの世を去りました。
この予期せぬ事故は、フランスの運命を大きく狂わせました。もしアンリ2世が生き長らえていれば、彼はおそらくその強力な指導力でプロテスタントの弾圧を続け、宗教内乱の勃発を抑え込むことができたかもしれません。しかし、彼の突然の死によって、フランスは若く経験の浅い王たちと、権力を巡って争う野心的な貴族たち、そして何よりも、国を二分する宗教的対立という、危険な組み合わせの時代へと突入することになるのです。アンリ2世の死は、ヴァロワ朝の長い黄昏の始まりを告げる、不吉な前兆でした。
カトリーヌ=ド=メディシスの苦悩
アンリ2世の死後、王位を継承したのは、彼の長男である15歳のフランソワ2世でした。若く病弱な国王には、国を治める力はなく、実権は彼の妃であるスコットランド女王メアリー=ステュアートの母方の伯父、ギーズ公フランソワとロレーヌ枢機卿シャルルという、ギーズ家の兄弟が握ることになります。ギーズ家は、熱狂的なカトリックの擁護者であり、その権勢は王家をもしのぐほどでした。彼らは、アンリ2世の弾圧政策をさらに強化し、ユグノーに対する徹底的な弾圧を開始します。
このギーズ家の専横に対し、ブルボン家のアントワーヌ(ナバラ王)やコンデ公ルイといった、血統的には王家に近いユグノー派の貴族たちは、強い反発を覚えました。1560年、一部のユグノー貴族が、ギーズ家の影響下にあるフランソワ2世を誘拐し、ギーズ家を排除しようと企てた「アンボワーズの陰謀」が起こります。この陰謀は事前に発覚し、参加者は捕らえられて容赦なく処刑されました。この事件は、宗教的対立が、宮廷内の権力闘争と結びつき、もはや話し合いでは解決できない段階に達しつつあることを示していました。
このような緊迫した状況の中、1560年12月、フランソワ2世が即位からわずか1年半で病死します。彼の死により、王位は10歳の弟、シャルル9世へと移りました。幼い国王に代わって摂政として国政の舵取りを任されたのが、彼らの母、カトリーヌ=ド=メディシスでした。
イタリア=フィレンツェの豪商メディチ家出身のカトリーヌは、夫アンリ2世の生前は、その寵姫ディアーヌ=ド=ポワチエの陰に隠れ、政治的な影響力をほとんど持てませんでした。しかし、夫と長男の死によって、彼女は突如としてフランス王国の最高権力者の地位に就くことになります。彼女が直面したのは、一触即発の宗教的対立と、ギーズ家(カトリック派)とブルボン=コンデ家(ユグノー派)という二大貴族派閥の対立が絡み合った、極めて困難な状況でした。
カトリーヌの政治家としての第一の目標は、何よりもまず、息子たち、すなわちヴァロワ家の王権を守り抜くことでした。彼女は、特定の宗教派閥に与するのではなく、両者の間でバランスをとることで、王家の権威を維持しようと試みます。彼女は、宗教的な信念よりも、国家の安定を優先する「ポリティーク派」と呼ばれる穏健派の思想に近い立場をとりました。1661年には、カトリックとユグノーの神学者を招いてポワシー会談を開き、教義上の和解を試みますが、両者の溝は埋めがたく、会談は決裂に終わります。それでも彼女は諦めず、1662年には、ユグノーに対して、城壁の外での私的な礼拝を認めるという、画期的な寛容令(サン=ジェルマン勅令)を発布しました。
しかし、このカトリーヌの融和政策は、双方の過激派から不信の目で見られました。そして1562年3月1日、ギーズ公フランソワの兵士たちが、シャンパーニュ地方のヴァシーで礼拝中のユグノーを多数虐殺するという事件(ヴァシーの虐殺)が起こります。この事件は、ついに内戦の導火線に火をつけました。ユグノー側は、コンデ公ルイを指導者として武装蜂起し、フランス全土を巻き込む、血で血を洗う宗教戦争(ユグノー戦争)が始まったのです。
この後、約30年間にわたり、フランスは和平と戦争を繰り返す、泥沼の内乱状態に陥ります。カトリーヌは、その中で必死に和平の道を探り続けます。彼女は、一方の派閥が強くなりすぎれば、もう一方を支援して勢力の均衡を図るという、綱渡りのような政策を続けました。しかし、宗教的憎悪の炎はあまりにも激しく、彼女の努力もむなしく、内戦はフランス全土を荒廃させていきました。彼女の苦悩は、ヴァロワ朝の衰退と、フランスという王国の解体の危機を象徴するものでした。
サン=バルテルミの虐殺
ユグノー戦争が始まってから10年、三度にわたる内戦を経て、フランスは束の間の平和を享受していました。1570年のサン=ジェルマン和平条約によって、ユグノーには広範な信教の自由と、ラ=ロシェルなどの要塞都市を安全保障地として保持する権利が認められました。この和平を確固たるものにするため、カトリーヌ=ド=メディシスは、一つの大きな賭けに出ます。それは、彼女の娘であるマルグリット=ド=ヴァロワ(マルゴ王女)と、ユグノー派の若き指導者であるナバラ王アンリを結婚させるという、政略結婚でした。
この結婚は、カトリックとプロテスタントの和解を象徴するものとなるはずでした。1672年8月18日、パリのノートルダム大聖堂の前で、盛大な結婚式が執り行われました。この歴史的な結婚式を祝うため、ナバラ王アンリに付き従って、フランス中から多くのユグノー貴族がパリに集結していました。パリの街は、祝祭ムードに包まれているかのように見えました。
しかし、この和解の試みは、カトリック過激派、特にギーズ家の人々にとっては、到底受け入れられるものではありませんでした。彼らは、異端者であるユグノーと王家が手を結ぶことを、神への裏切りと見なしていました。また、宮廷内では、ユグノー派の重鎮であるコリニー提督が、若きシャルル9世に大きな影響力を及ぼすようになっていました。コリニー提督は、国王に対し、当時ネーデルラントでスペインの支配に対して反乱を起こしていたプロテスタントを支援するため、スペインと開戦するよう進言していました。この動きは、スペインとの和平を維持したいカトリーヌ=ド=メディシスの政策とは相容れないものであり、彼女はコリニー提督の影響力を危険視し始めていました。
結婚式から4日後の8月22日、コリニー提督が何者かに狙撃され、重傷を負うという事件が起こります。犯人は捕らえられませんでしたが、ユグノーたちは、これがギーズ家の仕業であると確信し、報復を叫び始めました。パリの空気は一変し、不穏な緊張が高まります。カトリーヌとシャルル9世は、ユグノーの報復によって、新たな内戦が勃発し、王家の立場が危うくなることを極度に恐れました。
追い詰められたカトリーヌとシャルル9世は、恐るべき決断を下します。それは、ユグノーの指導者たちが一堂に会しているこの機会に、彼らを先制攻撃によって皆殺しにし、ユグノーの力を削いでしまおうという計画でした。8月23日の深夜、サン=ジェルマン=ロクセロワ教会の鐘の音を合図に、虐殺が開始されました。
まず、ギーズ公アンリに率いられた一団が、傷ついてベッドにいたコリニー提督の館を襲い、彼を殺害してその遺体を窓から投げ捨てました。これを皮切りに、王の軍隊とパリの民衆が、市内に滞在していたユグノー貴族たちを次々と襲い始めました。ルーヴル宮殿内でも、ナバラ王アンリの従者たちが容赦なく殺害されました。ナバラ王アンリ自身とコンデ公アンリは、カトリックへの改宗を誓うことで、かろうじて命拾いしました。
虐殺は、指導者たちだけにとどまりませんでした。カトリックの過激な説教師たちに煽られたパリの民衆は、狂乱状態に陥り、ユグノーと見られる人々を、男、女、子供の区別なく手当たり次第に殺害し始めました。憎悪の連鎖はパリ中に広がり、数日間にわたって、略奪、暴行、そして殺戮の嵐が吹き荒れました。この虐殺の波は、ルーアン=オルレアン=リヨンといった地方都市にも飛び火し、フランス全土で数千人、一説には数万人のユグノーが命を落としたと言われています。
この「サン=バルテルミの虐殺」は、ユグノー戦争における最大の悲劇であり、ヴァロワ朝の歴史における最も暗い汚点となりました。和解の象徴となるはずだった結婚式は、血塗られた罠へと変わり果てたのです。この事件は、ユグノーたちに、ヴァロワ王家に対する決定的な不信感を植え付けました。彼らは、暴君に対しては抵抗する権利があるとする「暴君放伐論」を掲げ、より組織的で過激な抵抗運動を展開するようになります。フランスは、もはや修復不可能なほど深く分裂し、ヴァロワ朝は、自らが蒔いた憎しみの種によって、その権威を致命的に傷つけられることになったのです。
アンリ3世の治世
サン=バルテルミの虐殺という惨劇から2年後の1574年、シャルル9世が結核のため、23歳の若さで亡くなります。彼は、死の床まで虐殺の悪夢にうなされ続けたと言われています。彼には息子がいなかったため、王位は弟のアンジュー公アンリに渡りました。しかし、この時アンリはフランスにはいませんでした。彼は、前年にポーランドの国王に選出されており、遠くクラクフの地にいたのです。
母カトリーヌから兄の死の知らせを受け取ったアンリは、ポーランド王位を事実上放棄し、夜陰に紛れてポーランドを脱出、ヴェネツィアを経由してフランスへと帰国しました。そして1575年、ランスで聖別され、アンリ3世として即位します。彼は、アンリ2世の四人の息子のうち、最後の王となる運命でした。
アンリ3世は、兄たちとは異なり、成年に達して即位した、知的で洗練された人物でした。彼は、華やかな衣装や宝飾品を好み、宮廷に洗練された儀礼を導入するなど、文化的な側面を持っていました。しかし、彼が継承した王国は、サン=バルテルミの虐殺によって、修復不可能なほどに傷つき、分裂していました。
彼の治世は、当初から困難を極めました。即位の翌年、宮廷から脱出したナバラ王アンリとコンデ公アンリが再びプロテスタントに改宗し、ユグノーの軍勢を率いて反乱を起こします。さらに、国王の実の弟であるアランソン公フランソワまでもが、自らの野心からユグノーと手を結び、反乱に加わりました。この反乱に直面したアンリ3世は、1576年、ユグノーに対して大幅な譲歩を認める「ボーリュー勅令」(ムッシューの和約)を結ばざるを得ませんでした。この和約は、サン=バルテルミの虐殺を非難し、ユグノーにほぼ完全な信教の自由を認めるものでした。
しかし、この寛容な和約は、カトリック過激派の猛烈な反発を招きます。ギーズ公アンリは、カトリックの信仰と自らの権益を守るため、全国的な規模で「カトリック同盟(聖なる同盟)」を結成しました。この同盟は、表向きは国王に忠誠を誓いつつも、実質的にはギーズ家の私兵組織であり、国王の権威を脅かす強大な勢力となっていきます。カトリック同盟は、スペイン王フェリペ2世からの資金援助を受け、フランス国内で国家内国家のような存在となっていきました。
アンリ3世は、ユグノーとカトリック同盟という二つの強大な勢力に挟まれ、身動きが取れない状況に陥ります。彼は、カトリック同盟の圧力を受けて、ユグノーに対する寛容政策を撤回せざるを得なくなり、内戦は再び激化します。王国の統治は麻痺し、国王の権威は地に落ちました。アンリ3世は、誰からも信頼されず、カトリックからはユグノーに甘いと非難され、ユグノーからはサン=バルテルミの虐殺の責任者として憎まれるという、孤立無援の状態でした。
さらに、アンリ3世を個人的な悲劇が襲います。彼は、妃であるルイーズ=ド=ロレーヌとの間に、世継ぎとなる子供をもうけることができませんでした。これにより、ヴァロワ家の直系男子の血筋が、アンリ3世の代で途絶えることが確実となったのです。
三アンリの戦い
1584年、アンリ3世の治世とフランスの運命を決定的に左右する出来事が起こります。国王の最後の弟であり、王位継承者であったアランソン公フランソワ(アンジュー公とも呼ばれる)が、結核で亡くなったのです。彼には子供がいませんでした。これにより、ヴァロワ家の男子はアンリ3世ただ一人となり、彼の死後、誰が王位を継ぐのかという問題が、フランス全土を揺るがす最大の政治問題として浮上しました。
フランスの王位継承法であるサリカ法典は、女子および女系を通じて王位を継承することを禁じていました。この法に従えば、アンリ3世の次に最も血筋の近い男子は、ブルボン家の当主であるナバラ王アンリでした。彼は、13世紀の国王ルイ9世の子孫であり、アンリ3世とは遠い従兄弟の関係にあたりました。しかし、ここには大きな問題がありました。ナバラ王アンリは、ユグノーの指導者であり、プロテスタントだったのです。
カトリック教徒が国民の大多数を占めるフランスで、プロテスタントの王が誕生するなど、カトリック同盟とその指導者であるギーズ公アンリにとっては、到底受け入れられることではありませんでした。彼らは、ナバラ王アンリの王位継承権を否定し、代わりに彼の叔父にあたる、カトリックのブルボン枢機卿をシャルル10世として王位継承者に推し立てました。カトリック同盟は、スペインからの支援を背景に、アンリ3世に対して、ナバラ王アンリの継承権を剥奪し、ユグノーを完全に根絶するよう、強硬に要求します。
追い詰められたアンリ3世は、1585年、カトリック同盟の要求を全面的に受け入れたヌムール条約に署名せざるを得ませんでした。この条約は、ユグノーの信仰を完全に禁止し、全てのユグノー聖職者の国外追放を命じるものでした。これにより、ナバラ王アンリは、改宗か亡命かという選択を迫られることになります。
このヌムール条約は、必然的に新たな内戦を引き起こしました。この戦争は、国王アンリ3世、カトリック同盟の指導者ギーズ公アンリ、そしてユグノーの指導者で正統な王位継承者であるナバラ王アンリという、三人のアンリがそれぞれの勢力を率いて争ったことから、「三アンリの戦い」と呼ばれています。
戦争の初期、ナバラ王アンリは優れた軍事的才能を発揮し、1587年のクートラの戦いで国王軍に勝利します。しかし、カトリック同盟の勢力は依然として強大であり、特にパリの民衆は、ギーズ公アンリを熱狂的に支持していました。
1588年5月、アンリ3世が、パリにおけるギーズ公の影響力を削ぐためにスイス人傭兵を市内に駐留させようとしたところ、これに反発したパリ市民が蜂起し、市内にバリケードを築いて国王軍に抵抗するという事件が起こります(バリケードの日)。この蜂起を背後で操っていたのは、ギーズ公アンリでした。身の危険を感じたアンリ3世は、パリからの脱出を余儀なくされ、ギーズ公アンリがパリの事実上の支配者となりました。
国王としての権威を完全に失墜させられたアンリ3世は、屈辱に耐えながら、反撃の機会を窺っていました。彼は、ギーズ公の増長をこれ以上放置すれば、王位そのものが奪われかねないと考え、ついに非情な決断を下します。
王朝の終焉
パリを追われたアンリ3世は、ブロワの城で三部会を召集しました。しかし、三部会の代議員の多くはカトリック同盟の支持者であり、国王の権威をさらに制限する要求を突きつけるばかりでした。自らの無力さを痛感し、追い詰められたアンリ3世は、もはや法的な手段ではギーズ公アンリを排除できないと悟り、暗殺という最後の手段に訴えることを決意します。
1588年12月23日の早朝、アンリ3世は、ギーズ公アンリを自らの私室に呼び出しました。何も知らずに部屋に入ったギーズ公を待ち受けていたのは、国王の護衛隊「四十五人隊」の刺客たちでした。ギーズ公は、勇敢に抵抗したものの、全身を剣で貫かれて絶命しました。その翌日には、ギーズ公の弟であるロレーヌ枢機卿も捕らえられ、殺害されました。アンリ3世は、母カトリーヌ=ド=メディシスの病床を見舞い、「今や私がフランスの王だ。パリの王を殺したのだから」と告げたと言われています。その数週間後、カトリーヌ自身もこの世を去りました。
アンリ3世は、宿敵を排除することで、王権を取り戻せると考えたかもしれません。しかし、この暗殺は、事態をさらに悪化させる結果しか生みませんでした。ギーズ公の死は、カトリック同盟とパリの民衆を激怒させました。彼らは、アンリ3世を暴君であり、神の敵であると公然と非難し、多くの都市が国王に対して反旗を翻しました。カトリック同盟は、ギーズ公の弟であるマイエンヌ公を新たな指導者とし、アンリ3世の廃位を宣言します。
完全に孤立したアンリ3世には、もはや頼るべき相手は一人しかいませんでした。それは、皮肉にも、彼が長年敵対してきた、ユグノーの指導者ナバラ王アンリでした。1589年4月、二人のアンリは会見し、カトリック同盟という共通の敵を打倒するために、同盟を結ぶことで合意します。正統な国王と、正統な王位継承者が、ついに手を結んだのです。
国王軍とユグノー軍からなる連合軍は、パリへと進軍を開始しました。その勢いは凄まじく、カトリック同盟が支配する都市を次々と攻略し、同年7月末には、パリを完全に包囲するに至ります。パリの陥落は、もはや時間の問題かと思われました。
しかし、その時、運命は再び残酷な一撃を加えます。8月1日、ジャック=クレマンと名乗るドミニコ会の修道士が、国王に重要な手紙を渡したいと偽って、サン=クルーに置かれたアンリ3世の本営に侵入しました。そして、国王に近づくと、隠し持っていた短剣でその腹部を深く突き刺したのです。
致命傷を負ったアンリ3世は、自らの死を悟り、冒頭で述べたように、ナバラ王アンリを後継者に指名し、廷臣たちに彼への忠誠を誓わせました。そして翌日、彼は息を引き取りました。アンリ2世の最後の息子、そしてヴァロワ朝最後の王の、あまりにも劇的な最期でした。
アンリ3世の死によって、ヴァロワ家の血筋は完全に絶え、王位はサリカ法に基づき、ナバラ王アンリへと渡りました。彼は、アンリ4世として、ブルボン朝の初代国王となります。しかし、プロテスタントである彼が、カトリック同盟とパリ市民に王として受け入れられるまでには、さらに数年間の戦いと、そして何よりも「パリはミサを執り行う価値がある」という有名な言葉とともに、彼自身がカトリックへと改宗するという、大きな決断が必要でした。
ヴァロワ朝の断絶は、単なる王朝の交代劇ではありません。それは、宗教という、人々の魂の根幹をなす信念が、いかに国家を分裂させ、血なまぐさい悲劇を生むかという、痛ましい教訓の物語です。そして、その混乱と破壊の中から、宗教的寛容と、王権の下での国家統一という、新たな時代のフランスが生まれ出るための、避けられない陣痛でもあったのです。アンリ2世の馬上槍試合での不慮の死から始まったヴァロワ家の悲劇は、その息子たちの相次ぐ死と、母カトリーヌの苦悩、そしてサン=バルテルミの虐殺という狂気を経て、三アンリの戦いという最終章を迎え、アンリ3世の暗殺によって、ついにその幕を閉じたのでした。