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『君主論』とは わかりやすい世界史用語2608
著作名: ピアソラ
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君主論とは

ニッコロ・マキャヴェリの『君主論』(The Prince)は、西洋政治思想史において最も影響力があり、同時に最も大きな物議を醸してきた著作の一つです。1513年、フィレンツェ共和国の書記官の職を失い、失意の隠棲生活を送っていたマキャヴェリによって執筆されたこの小冊子は、単なる政治論の書物にとどまらず、権力の本質、人間の本性、そして道徳と政治の相克という、時代を超えた普遍的な問いを投げかけます。
本書は、伝統的なキリスト教道徳に基づいた「君主の鑑(君主かくあるべしと説く教訓書)」の体裁をとりながら、その内容において徹底して現実主義的かつ非情な視点を貫いています。マキャヴェリは、君主が国家を維持し、栄光を勝ち取るためには、理想論や綺麗ごとではなく、冷徹な現実認識に基づいた行動をとらなければならないと説きました。彼は、政治の世界を、宗教や伝統的な道徳律から切り離された、それ自体が持つ独自の法則性(国家理性)によって動く領域として捉えようとしました。その結果生まれた「目的は手段を正当化する」という思想は、「マキャヴェリズム」として後世に名を残し、多くの誤解と非難を生む一方で、近代的な政治学の幕開けを告げる画期的な試みとして評価されています。この書物は、ルネサンス期イタリアの激動の時代を背景に、権力の本質を赤裸々に暴き出した、恐るべき洞察の書なのです。



君主国の種類と統治方法

『君主論』の序盤(第1章から第11章)は、君主国の種類を分類し、それぞれの獲得方法と統治の難易度について分析することから始まります。マキャヴェリは、全ての国家は共和国か君主国のいずれかであると述べた上で、議論を君主国に絞ります。彼は、君主国をさらに世襲型と新規型に分類し、特に後者の「新しい君主国」の分析に力点を置きます。なぜなら、世襲の君主国は、先祖代々の法と秩序に従っていれば統治は比較的容易であるのに対し、全く新しい君主国を創設し、維持することこそが、君主の真の力量(ヴィルトゥ)を最も必要とするからです。
世襲君主国と混合君主国

マキャヴェリは、世襲君主国(第2章)の統治は容易であると簡潔に述べます。人々は旧来の君主の血筋に慣れ親しんでおり、君主がよほどの悪事を働かない限り、その地位は安泰だからです。
議論の中心は、既存の君主国に新たな領土が併合される「混合君主国」(第3章)から始まります。ここでマキャヴェリは、統治の難しさの根源にある人間性についての最初の冷徹な観察を示します。すなわち、「人間というものは、現状をより良くできると信じて、喜んで支配者を変えようとするが、後になって、かえって事態が悪化したことに気づく」のです。新しい君主は、必然的に新しい領民に軍隊の駐留や様々な負担を強いることになり、彼らの反感を買います。
マキャヴェリは、新たに獲得した領土を維持するための具体的な方策を提示します。もし新しい領土が、言語や文化が同じで、旧君主の血筋を根絶やしにすれば、統治は比較的容易です。しかし、言語、習慣、法制度が異なる領土を統治するのは極めて困難です。この場合、最も効果的な方法は、君主自身がその地に住むことです。これにより、問題が起きた際に迅速に対応でき、役人の不正も防ぐことができます。もう一つの有効な方法は、植民市を建設することです。これは、大規模な軍隊を駐留させるよりもはるかに安上がりで、領民への負担も少なくて済みます。
さらにマキャヴェリは、古代ローマ人の巧みな統治術を例に挙げ、外国の君主が新たな領土を支配する際の基本原則を説きます。それは、「弱小な勢力を保護し、強大な勢力を弱体化させ、そして自分と同等の力を持つ外国勢力が影響力を持つのを防ぐ」ことです。彼は、当時のフランス王ルイ12世がイタリア政策で犯した一連の過ちを分析し、ルイ12世がこの原則の全てに違反したために、最終的にイタリアを失ったと喝破します。この分析は、マキャヴェリが単なる理論家ではなく、同時代の政治を鋭く観察する実践的な分析家であったことを示しています。
全く新しい君主国

マキャヴェリの議論の核心は、「全く新しい君主国」、すなわち自らの力量(ヴィルトゥ)と軍隊によって獲得される君主国(第6章)にあります。彼は、モーセ、キュロス、ロムルス、テセウスといった、神話的・歴史的な偉大な国家創設者たちを例に挙げます。彼らが偉業を成し遂げることができたのは、幸運(フォルトゥナ)が彼らに機会を与えたからですが、その機会を捉えて偉業を成し遂げたのは、彼らが持つ並外れた「ヴィルトゥ」があったからに他なりません。
ここでマキャヴェリは、重要な区別を導入します。それは、「武装した預言者」と「武装していない預言者」の区別です。新しい秩序を導入しようとする者は、必然的に旧秩序から利益を得ていた人々の敵意に直面します。この抵抗を打ち破り、新しい秩序を人々に信じさせるためには、最終的には「力」が必要となります。モーセやキュロスは「武装した預言者」であったから成功し、フィレンツェのサヴォナローラは「武装していない預言者」であったから、人々の支持が揺らいだ時に破滅したのです。マキャヴェリにとって、政治の世界では、説得だけでは不十分であり、強制力、すなわち軍事力が不可欠でした。
これと対照的なのが、他人の武力や幸運によって君主となった者たちです(第7章)。彼らは容易に権力の座に就くことができますが、その地位を維持するのは極めて困難です。なぜなら、彼らは自らの力量で困難を乗り越えた経験がなく、自らを支える忠実な軍隊も持たないからです。
この章で、マキャヴェリは彼の思想に最も大きな影響を与えた人物、チェーザレ・ボルジアを登場させます。チェーザレは、父である教皇アレクサンデル6世の権力という「幸運」によってロマーニャ地方の君主となりました。しかし、彼はその幸運に安住することなく、自らの「ヴィルトゥ」を発揮して、その地位を盤石なものにしようとあらゆる努力をしました。彼は、信頼できない傭兵隊長たちを巧みな策略で一挙に粛清し、有能だが残忍な部下レミーロ・デ・オルコを起用してロマーニャに秩序を回復させた後、そのレミーロを処刑して見せしめにすることで、民衆の恐怖と満足を同時に勝ち取りました。マキャヴェリは、チェーザレの冷酷さと計算高さを、新しい君主が学ぶべき手本として詳細に分析します。
しかし、そのチェーザレでさえ、最終的には破滅します。それは、彼の父である教皇が急死し、彼自身も重病に倒れるという、「並外れた悪意に満ちた幸運」に見舞われたからでした。マキャヴェリは、チェーザреの破滅の原因を分析し、彼が唯一犯した過ちは、父の後の教皇選挙で、自らの敵対者であったジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(後のユリウス2世)の選出を許してしまったことだと指摘します。これは、いかに優れたヴィルトゥを持つ君主でさえ、予測不可能なフォルトゥナの力の前では脆弱であることを示唆しています。
悪行によって君主になった者

マキャヴェリはさらに、純粋な悪行や犯罪によって権力を手に入れた君主(第8章)についても考察します。彼は、古代シラクサのアガトクレスや、同時代人のオリヴェロット・ダ・フェルモを例に挙げます。彼らは、市民や縁者を虐殺するという極悪非道な手段で権力を掌握しました。マキャヴェリは、彼らの行いを「ヴィルトゥ」とは呼びません。なぜなら、それは栄光をもたらさないからです。
しかし、ここで彼は重要な区別を設けます。それは、「巧みに使われた残酷さ」と「下手に使われた残酷さ」です。巧みに使われた残酷さとは、国家の安全を確保するために、一度に、やむを得ず行われるものであり、その後は民衆のためになるべく多くの利益を与える方向に転換されるものです。一方、下手に使われた残酷さとは、最初は小規模でも、時とともに増大していくものであり、君主は常に剣を手にしていなければならず、民衆の憎悪を買い続けることになります。

マキャヴェリは、征服者は、領土を奪い取った際に、実行すべき全ての加害行為を一度によく検討し、それらを一挙に断行して、日々繰り返す必要がないようにすべきだと結論付けます。なぜなら、加害行為は一度にまとめて行う方が、人々の怒りを買う時間が短くて済むからです。逆に、恩恵は、人々により良く味わってもらうために、少しずつ与えるべきなのです。この冷徹な分析は、君主の行動が道徳的に善か悪かではなく、それが国家の安定という目的のために効果的かどうかという基準でのみ判断されるべきであるという、マキャヴェリの一貫した姿勢を浮き彫りにしています。
君主の行動規範

『君主論』の後半部分(特に第15章から第19章)は、本書の中で最も革命的で、最も物議を醸す核心部分です。ここでマキャヴェリは、君主がどのように振る舞うべきかという伝統的な問いに対し、従来の道徳観を根底から覆す、衝撃的な答えを提示します。彼は、政治の世界をありのままに、すなわち「いかにあるべきか」ではなく「いかにあるか」という観点から直視し、君主は自らの地位を維持するために、善人であり続けることはできないと断言します。
想像上の国家ではなく、現実を直視せよ

第15章で、マキャヴェリは自らのアプローチが、先行する全ての政治思想家たちと根本的に異なると宣言します。プラトンをはじめとする多くの思想家たちは、現実には存在しない理想的な共和国や君主国を想像し、君主は正義や節制といった徳を体現すべきだと説きました。しかしマキャヴェリは、このような理想論は現実の政治闘争の中では全く役に立たない、と一蹴します。
彼は、「人間がいかに生きるかという現実と、いかに生きるべきかという理想との間には、かくも大きな隔たりがある。だから、なすべきことのために、現になされていることを無視する者は、自らを維持するどころか、破滅させる道を学ぶことになる」と述べます。善人であろうとする君主は、善人でない多くの人々に囲まれて、必ずや破滅するでしょう。したがって、国家を維持しようと望む君主は、「善人でない方法を学び、必要に応じてそれを使うか使わないかを心得ておかなければならない」のです。
この宣言は、政治を道徳や神学から切り離し、独立した一つの「技術」として捉えようとする、近代政治学の誕生を告げるものでした。君主の行動は、それが神の教えや普遍的な道徳律に合致しているかどうかではなく、それが国家の維持という究極の目的に対して有効であるかどうかによって評価されるべきなのです。
気前よさと吝嗇

この新しい視点から、マキャヴェリは君主が持つべきとされる伝統的な徳目を一つ一つ再検討していきます。まず取り上げるのが「気前よさ」(第16章)です。一般的に、君主は気前がよいと評判される方が良いと考えられています。しかし、マキャヴェリはその通説に疑問を投げかけます。
君主が気前よさを見せびらかそうとすれば、莫大な富を浪費することになります。やがて財産が尽きれば、彼は民衆に重税を課さざるを得なくなり、結果として民衆の憎しみを買うことになります。そして、いざ戦争などの危機が訪れた時には、国庫は空っぽで、国を守ることができません。気前よさをやめようとすれば、今度は「吝嗇(けち)」であるという悪評が立つでしょう。
したがって、賢明な君主は、最初から吝嗇であるという評判を気にしてはなりません。吝嗇であることによって歳入が国庫に蓄えられれば、彼は戦争から国を守り、民衆に負担をかけることなく公共事業を行うことができます。時が経てば、人々は、彼の吝嗇さのおかげで国家が豊かになり、安全が保たれていることを理解し、彼を真に気前のよい君主だと見なすようになるでしょう。マキャヴェリは、教皇ユリウス2世やフランス王ルイ12世が、吝嗇であったからこそ偉大な戦争を遂行できたのだと指摘します。君主の気前よさは、他人の財産(戦利品など)を使う場合にのみ発揮されるべきであり、自国と臣民の財産に関しては、吝嗇であることが真の徳なのです。
慈悲と残酷さ=愛されるより恐れられるべきか

次にマキャヴェリが論じるのが、「慈悲と残酷さ」であり、それに続いて「君主は愛されるのと恐れられるのと、どちらが良いか」という有名な問い(第17章)です。
理想を言えば、君主は慈悲深いと見なされ、人々に愛されるのが望ましいでしょう。しかし、マキャヴェリは、慈悲深さを不適切に用いると、かえって国に混乱を招き、多くの人々を害することになると警告します。例えば、反乱の芽を慈悲から見逃せば、やがてそれは内乱へと発展し、多くの殺戮と略奪を引き起こします。それならば、少数の首謀者を見せしめとして厳しく処罰する方が、結果として多くの人々を救うことになり、真に慈悲深い行為と言えるのです。チェーザレ・ボルジアは残酷だと見なされましたが、その残酷さによってロマーニャ地方に平和と秩序をもたらしました。
そしてマキャヴェリは、愛されることと恐れられることの比較に移ります。彼は、「両方であることが望ましいが、その二つを両立させるのは難しいので、どちらか一つを選ばねばならないとすれば、愛されるよりも恐れられる方がはるかに安全である」と断言します。
その根拠は、彼の人類に対する辛辣なまでの現実認識にあります。すなわち、「人間というものは、一般的に、恩知らずで、移り気で、偽善的で、危険を避け、利益に貪欲なものである」からです。人々は、君主が恩恵を与えているうちは忠誠を誓いますが、いざ危機が訪れると、簡単に君主を裏切ります。なぜなら、愛という絆は、人間の利己的な本性の前では、機会があるたびに断ち切られてしまう、もろいものだからです。
それに対して、恐怖は、処罰への恐れによって維持されるものであり、決して人を裏切ることがありません。したがって、君主は、人々の愛情という不確かなものに頼るのではなく、恐怖という確実な基盤の上に自らの権力を築くべきなのです。
しかし、ここでマキャヴェリは極めて重要な注意点を付け加えます。君主は、恐れられるべきですが、「憎悪されてはならない」のです。恐怖と憎悪は紙一重であり、その境界線を越えてしまえば、君主の地位はかえって危険にさらされます。では、どうすれば憎悪を避けることができるのか。マキャヴェリの答えは明快です。「市民や臣下の財産と、その妻たちに手を出さないこと」です。人間は、父の死はすぐに忘れても、奪われた財産のことは決して忘れないものだからです。君主が殺人を犯さなければならない場合でも、それは正当な理由がある時に限るべきです。理由なき暴力、そして何よりも財産の没収は、人々の消えることのない憎悪を招き、君主の破滅へとつながるのです。
君主の信義

マキャヴェリの思想の中で最もスキャンダラスな部分が、君主は約束を守るべきかという「信義」に関する議論(第18章)です。
誰もが、君主は信義を守り、誠実に生きるべきだと考えるでしょう。しかし、マキャヴェリは、歴史を振り返れば、偉大な事業を成し遂げた君主たちは、信義をあまり気にかけず、むしろ欺瞞によって人々を巧みに操ってきた者たちである、と指摘します。
彼は、戦いには二つの方法があると言います。一つは「法による戦い」であり、これは人間に固有のものです。もう一つは「力による戦い」であり、これは野獣のものです。しかし、前者だけでは不十分な場合が多いため、君主は後者、すなわち「野獣になる方法」も学ばなければなりません。
そして、君主が模倣すべき野獣として、マキャヴェリは「狐」と「ライオン」を挙げます。ライオンは、罠を見抜くことができず、狐は、狼から身を守ることができません。したがって、君主は、罠を見抜くためには「狐」のように狡猾でなければならず、狼を追い払うためには「ライオン」のように勇猛でなければならないのです。ライオンであるだけでは、政治の罠にかかって破滅するでしょう。
この比喩を用いて、マキャヴェリは結論を導き出します。賢明な君主は、「信義を守ることが自らにとって不利益になる場合、あるいは約束を結んだ時の理由がもはや存在しない場合には、信義を守ることはできないし、また守るべきでもない」のです。もし全ての人間が善人であるならば、この教えは不要でしょう。しかし、人間は邪悪であり、君主に対して信義を守らないのですから、君主もまた彼らに対して信義を守る必要はないのです。
君主は、約束を破るための正当な理由を常に見つけ出すことができます。教皇アレクサンデル6世は、生涯を通じて人々を欺き続けましたが、常に成功しました。なぜなら、彼は人間の騙されやすさを熟知していたからです。
しかし、ここでもマキャヴェリは巧妙な注意書きを忘れません。君主は、実際に慈悲、信義、誠実、人間性、敬神といった徳性を全て備えている必要はありません。しかし、「それらを備えているように見せること」は絶対に必要です。いや、むしろ、実際にそれらの徳性を持っていると、国家を維持する上でかえって有害になる場合さえあります。君主は、状況に応じて、これらの徳性に反する行動をとる覚悟ができていなければなりません。
君主は、幸運の風向きや事態の変動に応じて、自らの行動を変えることができる、しなやかな精神を持つべきです。できる限り善から離れないようにしつつも、必要とあらば、ためらわずに悪へと踏み込むことができなければならないのです。人々の目は、結果しか見ません。君主が国家を維持し、勝利を収めることに成功しさえすれば、その手段は常に名誉あるものと見なされ、万人から賞賛されるでしょう。なぜなら、「俗衆は常に外見と物事の結果に惑わされる」からです。
国家の防衛と君主の務め

マキャヴェリは、君主の行動規範を論じた後、国家の存立基盤、特に軍事力の重要性へと議論を移します。彼にとって、良い法と良い軍隊は、あらゆる国家の最も重要な土台であり、良い軍隊なくして良い法はありえないのです。
傭兵と自国軍

第12章から第14章にかけて、マキャヴェリは軍隊の種類について徹底的な分析を行います。彼は、軍隊を傭兵軍、援軍、自国軍、そして混合軍に分類し、傭兵軍と援軍は「無用かつ危険である」と断じます。
傭兵は、金で雇われているだけであり、君主への忠誠心もなければ、仲間同士の結束もありません。彼らは、平時には君主の財産を食いつぶし、戦時には敵前で逃亡するか、あるいは君主を裏切って自らが権力を奪おうとさえします。マキャヴェリは、彼自身の時代にイタリアが外国勢力に蹂躙され続けている根本的な原因は、イタリアの諸侯や共和国が長年にわたって傭兵に依存してきたことにある、と喝破します。
援軍、すなわち他の君主から借りてきた軍隊は、さらに危険です。彼らが負ければ君主も敗北し、彼らが勝てば、君主はその勝利した援軍の捕虜も同然となってしまうからです。賢明な君主は、常に他人の武力による勝利を避け、自らの力による敗北の方を選ぶべきです。
したがって、君主が頼るべき唯一の軍隊は、自らの市民や臣下から構成される「自国軍」です。自国軍だけが、真の忠誠心をもって、命をかけて国を守ろうとするからです。マキャヴェリは、古代ローマの栄光も、スパルタの強さも、全ては彼らが自国民による軍隊を持っていたことに起因すると主張します。これは、彼がフィレンツェ共和国の書記官時代に、市民軍の創設に情熱を注いだ経験から得られた、揺るぎない信念でした。
君主の第一の務め=軍事

軍事力の重要性を強調した上で、マキャヴェリは、君主は軍事以外のことを考えてはならない、とまで言い切ります(第14章)。君主の唯一の専門技術は、戦争と軍隊の編成・規律です。この技術を習得していれば、生まれながらの君主はその地位を保つことができ、一介の市民でさえ君主の座に上り詰めることができます。逆に、この技術を疎かにすれば、君主は国を失うことになります。
君主は、平時においてこそ、戦時に備えなければなりません。そのための訓練には、二つの種類があります。一つは「行動による訓練」、すなわち狩猟などを通じて地理を学び、身体を鍛えることです。もう一つは「精神による訓練」、すなわち歴史を学び、偉大な将軍たちの行動を研究し、勝利の原因と敗北の原因を分析することです。アレクサンダー大王はアキレウスを、カエサルはアレクサンダーを模倣したと言われます。君主は、常に歴史上の偉人を手本とし、その栄光とヴィルトゥを自らのものとしようと努めるべきなのです。
君主の賢明な統治術

本書の最終盤で、マキャヴェリは君主が日々の統治において留意すべき、より具体的な助言を与えます。
側近の選び方と追従の避け方

君主の知性は、まず彼がどのような側近を選ぶかによって判断される、とマキャヴェリは述べます(第22章)。有能で忠実な側近を選ぶことができれば、君主は賢明であると見なされます。
良い側近を見分けるための普遍的な基準は、「その側近が、君主のことよりも自分自身の利益を考えているかどうか」です。もし側近が常に自らの利益を追求しているようなら、彼は決して良い側近にはなれません。君主は、そのような人物を信頼してはなりません。逆に、君主の側も、有能な側近に対しては、名誉を与え、富ませ、恩義を感じさせることで、その忠誠心を維持する努力をすべきです。
君主が避けなければならないもう一つの大きな落とし穴が、追従者(おべっか使い)です(第23章)。宮廷は追従者に満ちており、人間は自己愛が強いため、そこから身を守るのは困難です。追従を避ける唯一の方法は、「真実を述べても君主の怒りを買わない」ということを人々に理解させることです。しかし、誰もが君主に真実を述べられるようになれば、今度は君主への敬意が失われてしまいます。
したがって、賢明な君主は、第三の道を選ぶべきです。すなわち、自らの側近の中から賢明な人物を選び出し、彼らにだけ、君主が尋ねた事柄について真実を語る自由を与えるのです。そして、君主は彼ら以外の誰の意見も聞かず、一度決断したことは断固として実行すべきです。常に他人の意見に左右される君主は、軽蔑されることになります。
フォルトゥナ(運命)との対決

最後に、マキャヴェリは、人間の自由意志と、それを超えた力である「フォルトゥナ(運命の女神)」との関係という、壮大な哲学的問題に挑みます(第25章)。
多くの人々は、人間の出来事は全て運命と神によって定められており、人間の力ではどうすることもできない、と考えています。マキャヴェリも、運命が持つ強大な力を認めます。彼は、フォルトゥナを、堤防を破壊し、全てを押し流す激しい川に喩えます。しかし、彼は完全な運命論には陥りません。彼は、「我々の自由意志を奪い去らないために、私は、運命が我々の行動の半分の支配者であり、残りの半分、あるいはそれに近い部分を、我々自身の裁量に委ねている、と判断するのが真実かもしれない」と述べます。
人間は、川が穏やかなうちに、堤防や水路を築いて、将来の氾濫に備えることができます。同様に、君主も、幸運な時にこそ、自らのヴィルトゥによって、不運の時に耐えうるだけの備えをしておかなければならないのです。フォルトゥナは、抵抗するためのヴィルトゥが準備されていない場所で、その力を振るうのです。
そしてマキャヴェリは、この章を、彼の最も有名で、最も性差別的とも言える比喩で締めくくります。「フォルトゥナは女神であるから、彼女を抑え込もうとするならば、彼女を打ちのめし、突き飛ばすことが必要である。そして、彼女は、冷静に事を進める者よりも、大胆な者にこそ、より多く身を任せることが見て取れる。それゆえ、彼女は常に、女性として、若者の友人なのである。なぜなら、若者はより慎重でなく、より攻撃的で、より大胆な命令で彼女を支配するからだ」。この一節は、君主は慎重であるよりも、時には果敢に行動を起こすこと(インペトゥオ)が成功の鍵であるという、マキャヴェリの信念を力強く表現しています。
イタリア解放への呼びかけ

『君主論』の最終章(第26章)は、それまでの冷徹な分析とは打って変わって、情熱的な愛国心に満ちた、感動的なアピールで終わります。マキャヴェリは、分裂し、外国の「蛮族」たちに蹂躙されているイタリアの惨状を嘆き、今こそ、イタリアをその手から解放する、卓越したヴィルトゥを持つ「新しい君主」が現れる絶好の機会であると訴えます。
彼は、モーセがイスラエルの民を率いるためには、彼らがエジプトで奴隷となっている必要があったように、イタリアの悲惨な現状こそが、新しい君主がその偉大さを示すための最高の舞台装置なのだと説きます。そして、この偉大な使命を担うことができるのは、メディチ家以外にはないと、本書の献呈先であるロレンツォ・デ・メディチに呼びかけます。
彼は、イタリア人が持つ潜在的なヴィルトゥは他国に劣るものではなく、ただそれを率いる優れた指導者がいないだけだと主張します。そして、ペトラルカの詩を引用し、「ヴィルトゥは、憤怒に対して武器を取るだろう。そして戦いは短く終わるだろう。なぜなら、古の勇気は、イタリア人の心の中で、未だ死んではいないからだ」と高らかに宣言し、筆を置きます。
この最終章は、『君主論』全体が、単なる権力獲得のための非情な手引書ではなく、マキャヴェリの祖国イタリアへの深い憂慮と、その再生への熱烈な願いから生まれた書物であることを示しています。彼が描いた冷酷な君主像は、腐敗しきったイタリアを統一し、外国勢力を駆逐するという、崇高な目的を達成するために必要とされる、悲劇的な英雄の姿だったのかもしれません。この書物は、政治の非情な現実を直視することと、祖国への情熱的な愛という、二つの魂の叫びが交錯する、類い稀な傑作なのです。

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