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ポルトガル併合とは わかりやすい世界史用語2621
著作名: ピアソラ
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ポルトガル併合とは

16世紀後半のイベリア半島は、歴史の大きな転換点を迎えようとしていました。その中心にあったのが、ポルトガル王国の王位継承問題です。この問題は、単なる一国の王位をめぐる争いにとどまらず、スペインの強大な王フェリペ2世の野心と結びつき、最終的にはポルトガルの独立を一時的に終わらせる「イベリア連合」の成立へと至ります。この一連の出来事は、ヨーロッパの勢力図を塗り替え、ポルトガルとその広大な海外帝国に深い影響を及ぼしました。



アヴィス朝

すべての物語には始まりがあります。ポルトガル併合劇の幕開けは、1578年8月4日、遠く離れたモロッコの地で起こりました。この日、若きポルトガル王セバスティアン1世は、イスラム勢力との戦いであるアルカセル=キビールの戦いで、その命を落としました。十字軍の理想に燃えるセバスティアンは、周到な準備もなしに無謀な遠征を敢行し、敵の圧倒的な兵力の前にポルトガル軍は壊滅的な敗北を喫したのです。王の遺体は見つからず、この悲劇的な死はポルトガル国民に深い衝撃を与えました。そして、それ以上に深刻だったのは、彼が世継ぎを残していなかったという事実でした。
セバスティアンの死により、王位は彼の年老いた大叔父、エンリケ枢機卿に引き継がれました。エンリケは当時66歳、聖職者として生涯を独身で過ごしてきたため、彼にもまた子供はいませんでした。ポルトガルを統治してきたアヴィス朝は、ここにきて断絶の危機に瀕したのです。エンリケ王の治世は、次期国王を誰にするかという問題に終始しました。王自身は、なんとかアヴィス家の血筋を存続させようと、ローマ教皇に聖職者としての誓いを解いてもらい、結婚して世継ぎをもうける許可を求めましたが、教皇グレゴリウス13世は、ハプスブルク家、特にスペイン王フェリペ2世の強い影響下にあり、この願いを認めませんでした。
エンリケ王の短い治世の間、ポルトガルの宮廷は、王位継承権を主張する者たちの思惑が渦巻く舞台となりました。貴族、聖職者、そして民衆は、それぞれの立場から未来の王について議論を交わし、国全体が不安と期待の入り混じった空気に包まれていました。そして1580年1月、エンリケ王が後継者を指名することなくこの世を去ったとき、ポルトガルはついに権力の空白、すなわち王位継承危機へと突入したのです。アヴィス朝の輝かしい時代は終わりを告げ、ポルトガルの運命は、複数の継承権主張者たちの手に委ねられることになりました。
王位継承権の主張者たち

エンリケ王の死によって空位となったポルトガルの王座をめぐり、複数の有力者が名乗りを上げました。彼らの主張は、いずれもアヴィス朝の王マヌエル1世(在位1495年=1521年)の子孫であるという点に根差していました。マヌエル1世には多くの子供がおり、その子孫たちがヨーロッパ各国の王家と婚姻関係を結んでいたため、問題は複雑な様相を呈していました。主要な王位継承権主張者は、スペイン王フェリペ2世、ブラガンサ公爵夫人カタリナ、そしてクラト修道院長アントニオの三人でした。
スペイン王=フェリペ2世

最も強力な王位継承権主張者は、疑いなくスペイン王フェリペ2世でした。彼の主張の根拠は、母イサベルがマヌエル1世の娘であったことにあります。つまり、フェリペ2世はマヌエル1世の孫にあたり、その血統的な正当性は非常に高いものでした。さらに、彼の最初の妻マリア=マヌエラもまた、ポルトガル王ジョアン3世の娘であり、ポルトガル王家との二重の血縁関係を持っていました。
しかし、フェリペ2世の強みは血筋だけではありませんでした。彼は当時ヨーロッパで最も強大な君主であり、その広大な領土はスペイン本国からネーデルラント、イタリア南部、そしてアメリカ大陸の広大な植民地にまで及んでいました。彼の持つ莫大な富と、ヨーロッパ最強と謳われたスペイン軍は、他の候補者を圧倒する強力な切り札でした。
フェリペ2世は、ポルトガル王位継承の機会を、イベリア半島の統一という長年の夢を実現する絶好の機会と捉えていました。彼は外交と買収工作を巧みに組み合わせ、ポルトガルの貴族や高位聖職者たちを次々と味方につけていきました。彼は、ポルトガルの独立性、法体系、通貨、そして海外領土の行政を尊重することを約束し、ポルトガル人の不安を和らげようと努めました。この現実的なアプローチは、多くの有力者の支持を獲得する上で大きな効果を発揮しました。フェリペ2世にとって、ポルトガル併合は単なる領土拡大ではなく、彼の帝国を完成させるための最後のピースだったのです。
ブラガンサ公爵夫人=カタリナ

ポルトガル国内で最も有力な対抗馬と目されていたのが、ブラガンサ公爵夫人カタリナでした。彼女もまたマヌエル1世の孫であり、その父ドゥアルテはマヌエル1世の息子でした。彼女の血統的な正当性はフェリペ2世に匹敵するものであり、何よりも彼女がポルトガル人であるという点は、外国の君主であるフェリペ2世に対する大きなアドバンテージでした。
カタリナの夫は、ポルトガルで最も裕福で権勢を誇る貴族、ブラガンサ公ジョアン1世でした。ブラガンサ家は広大な領地と多くの支持者を抱えており、その力は王家に次ぐものとされていました。カタリナを支持する人々は、彼女が王位につくことで、ポルトガルの独立が維持され、ハプスブルク家の支配から逃れられると期待しました。
しかし、カタリナには弱点もありました。彼女は女性であり、当時のヨーロッパでは女性の王位継承に対する抵抗感が根強く存在していました。また、彼女の夫であるブラガンサ公は、野心に欠け、優柔不断な性格であったと伝えられています。彼は、フェリペ2世の強大な力と正面から対決することをためらい、決定的な行動を起こすことができませんでした。もし彼がもっと断固とした態度をとっていれば、歴史は違う方向に進んでいたかもしれません。カタリナの主張は正当なものでしたが、それを実現するための政治力と軍事力が、フェリペ2世には及ばなかったのです。
クラト修道院長=アントニオ

三人目の主要な候補者が、クラト修道院長アントニオでした。彼はマヌエル1世の息子であるベージャ公ルイスの庶子、つまりマヌエル1世の孫にあたります。庶子であるという出自は、彼の王位継承権における最大の弱点でした。当時のヨーロッパ社会において、庶子には正式な継承権が認められないのが一般的でした。
しかし、アントニオには他の候補者にはない強みがありました。それは、ポルトガルの民衆、特にリスボンの下層階級からの熱狂的な支持です。彼はカリスマ的な人物であり、外国の支配を嫌い、ポルトガルの独立を熱望する人々の心を捉えました。彼は、自らの出自に関する不利な噂を否定し、父ベージャ公が母と秘密裏に結婚していたと主張しましたが、その証拠を提示することはできませんでした。
アントニオは、貴族や聖職者の支持を得ることが難しいと悟ると、民衆の力に訴える道を選びました。彼は、ポルトガルの独立を守る唯一の希望として自らを位置づけ、反スペイン感情を煽りました。彼の存在は、王位継承問題を単なる法的な争いから、国民感情を巻き込んだ政治闘争へと変質させる大きな要因となりました。彼は、正統性では劣るものの、民衆の支持という強力な武器を手に、フェリペ2世に最後の抵抗を試みることになります。
フェリペ2世の併合戦略

ポルトガル王位が空位となると、フェリペ2世は迅速かつ周到に行動を開始しました。彼の戦略は、軍事的な圧力と外交的な懐柔を巧みに組み合わせた、二正面作戦ともいえるものでした。彼は、力ずくでポルトガルを征服するのではなく、あくまで正当な継承者として王位を受け入れるという形を整えることに細心の注意を払いました。
外交と買収

フェリペ2世は、まずポルトガルの支配層を味方につけることから始めました。彼は、クリストヴァン=デ=モウラをはじめとする有能な外交官をリスボンに送り込み、ポルトガルの貴族や高位聖職者たちとの交渉にあたらせました。彼の使者たちは、フェリペ2世が王位に就いた場合の利点を説き、同時に莫大な資金を使って有力者たちを買収していきました。
フェリペ2世が提示した条件は、ポルトガルの支配層にとって非常に魅力的なものでした。彼は、ポルトガルがスペインに吸収されるのではなく、スペイン王を共通の君主として戴く同君連合の形をとることを約束しました。具体的には、以下の点が保証されました。
ポルトガルとその海外領土は、独自の法律、制度、通貨を維持する。
ポルトガルの統治は、ポルトガル人のみで構成される評議会によって行われる。
ポルトガル本国および海外領土の総督や主要な官職には、ポルトガル人のみが任命される。
スペインとポルトガルのコルテス(議会)は、それぞれ独立して存続する。
これらの約束は、ポルトガルの独立性を最大限尊重するものであり、外国支配に対する貴族たちの不安を和らげるのに大いに役立ちました。多くの貴族は、無力なカタリナや出自に問題のあるアントニオを支持して内乱のリスクを冒すよりも、強大なフェリペ2世の下で国の安定と自らの地位を確保する道を選んだのです。ブラガンサ公でさえ、フェリペ2世から高い地位と報酬を約束され、最終的には抵抗を断念しました。
軍事侵攻

外交工作と並行して、フェリペ2世は軍事的な準備も着々と進めていました。彼は、万が一交渉が決裂した場合に備え、国境地帯に大軍を集結させました。この軍隊の指揮官に任命されたのが、アルバ公フェルナンド=アルバレス=デ=トレドでした。アルバ公は、ネーデルラントの反乱鎮圧でその冷酷さと有能さを示した、当代随一の将軍でした。彼の存在そのものが、ポルトガルに対する無言の圧力となりました。
一方、リスボンでは、民衆の支持を受けたクラト修道院長アントニオが、自らポルトガル王「アントニオ1世」を名乗り、即位を宣言しました。1580年6月24日、彼はサンタレンで民衆の歓呼に迎えられ、事実上の対立政権を樹立します。しかし、彼の支配はリスボンとその周辺地域に限られており、地方の貴族や都市の多くは、フェリペ2世の動向を静観するか、あるいはすでに彼への支持を表明していました。
アントニオの即位宣言は、フェリペ2世に軍事介入の絶好の口実を与えました。彼は、自らの正当な権利を「簒奪者」から取り戻すという大義名分を得たのです。1580年夏、アルバ公率いる約4万のスペイン軍が、ついに国境を越えてポルトガル領内に侵攻しました。
スペイン軍は、ほとんど抵抗を受けることなくポルトガル国内を進軍しました。アントニオが急遽かき集めた軍隊は、主に訓練も装備も不十分な民兵であり、歴戦のスペイン軍の敵ではありませんでした。決定的な戦いとなったのが、同年8月25日、リスボン近郊で行われたアルカンタラの戦いです。この戦いで、アントニオ軍はスペイン軍の前にわずか数時間で総崩れとなり、壊滅しました。アントニオ自身は辛くも戦場を脱出し、亡命を余儀なくされます。
アルカンタラの戦いの勝利により、ポルトガル本土における組織的な抵抗は終焉を迎えました。アルバ公の軍隊はリスボンに入城し、ポルトガルは完全にスペインの軍事的な支配下に置かれたのです。フェリペ2世の周到な二正面作戦は、完璧な成功を収めました。
イベリア連合の成立

軍事的な勝利を収めたフェリペ2世は、征服者としてではなく、あくまで正当な王としてポルトガルを統治する手続きを慎重に進めました。彼の目標は、力による支配ではなく、法的な正当性に基づいた安定した同君連合を築くことでした。
トマールのコルテス

1581年、フェリペ2世はポルトガルの都市トマールでコルテス(身分制議会)を招集しました。このコルテスには、ポルトガルの聖職者、貴族、そして都市の代表たちが集まりました。この議会の目的は、フェリペ2世を正式にポルトガル王として承認し、彼の統治の正当性を法的に確立することでした。
トマールのコルテスにおいて、フェリペ2世は、事前に約束していたポルトガルの自治権を再確認しました。彼は、ポルトガルをスペインの一地方として併合するのではなく、スペインとは別の独立した王国として、その法と伝統を尊重することを厳粛に誓いました。この誓約は「トマールの誓い」として知られ、その後のイベリア連合の基本的な統治原則となりました。
このコルテスで、フェリペ2世は正式にポルトガル王「フィリペ1世」として即位しました。これにより、スペインとポルトガルは、同じ君主を戴く同君連合、すなわち「イベリア連合」を形成することになったのです。二つの王冠は一つの頭上に統合されましたが、二つの王国はそれぞれ独立した国家として存続するという、複雑な構造がここに誕生しました。フェリペ2世は、自身の称号に「ポルトガル王」を加え、「太陽の沈まぬ帝国」は、ブラジルから東インド諸島に至るポルトガルの広大な海外領土をも手中に収め、その版図を最大のものとしたのです。
アントニオの抵抗と亡命

ポルトガル本土を追われたアントニオでしたが、彼の抵抗はまだ終わっていませんでした。彼は、ポルトガル領であったアゾレス諸島に逃れ、そこを拠点に亡命政府を樹立しました。アゾレス諸島は、大西洋の戦略的な要衝であり、アントニオはここから王位奪還の機会をうかがいました。
アントニオは、反スペイン政策をとるフランスやイギリスに支援を求めました。特に、フェリペ2世を宿敵と見なすイギリス女王エリザベス1世は、アントニオに一定の関心を示しました。アントニオの存在は、スペインの力を削ぐための有効なカードになり得たからです。
1582年と1583年、フェリペ2世はアゾレス諸島を制圧するため、サンタ=クルス侯爵アルバロ=デ=バサン率いる艦隊を派遣しました。アゾレス諸島沖で繰り広げられた海戦は激しいものとなりましたが、数で勝るスペイン艦隊が最終的に勝利を収めました。アントニオは再び敗れ、フランス、そしてイギリスへと亡命生活を送ることになります。
1589年、アントニオは最後の大きな賭けに出ます。前年にスペインの無敵艦隊がイギリスに敗れたことを好機と捉え、彼はイギリスの支援を受けてポルトガルへの遠征を試みました。フランシス=ドレークらが率いるイギリス艦隊と共にリスボンに上陸し、民衆の蜂起を期待したのです。しかし、リスボンの民衆は立ち上がりませんでした。長年の混乱に疲弊していたこと、そしてスペインの支配が比較的穏健であったことから、危険な賭けに乗る者はいなかったのです。遠征は完全に失敗し、アントニオの王位奪還の夢は完全に潰えました。彼は失意のうちにパリでその生涯を終えることになります。
イベリア連合の時代

1581年のトマールのコルテスから1640年のポルトガル王政復古戦争までの60年間は、「イベリア連合」の時代として知られています。この時代、ポルトガルは独立した国家としての体裁を保ちながらも、実質的にはスペイン=ハプスブルク家の支配下にありました。この同君連合は、ポルトガルに安定をもたらした一方で、その後の歴史に大きな影を落とすことにもなります。
ハプスブルク朝の統治

フェリペ2世(ポルトガル王フィリペ1世)は、トマールでの誓いを遵守し、ポルトガルの統治に直接介入することを比較的避けました。彼はリスボンに副王を置き、実際の行政はポルトガル人で構成される評議会に委ねられました。この統治システムは、彼の後継者であるフェリペ3世(フィリペ2世)、フェリペ4世(フィリペ3世)の時代にも概ね引き継がれました。
この同君連合は、当初ポルトガルの商人たちに利益をもたらしました。スペインの広大な帝国との貿易が可能になり、新たな市場が開かれたからです。また、スペインの強力な軍事力は、ポルトガルの広大な海外領土を、オランダやイギリスといった新興の海洋国家の脅威から守ってくれると期待されました。
しかし、連合の負の側面も次第に明らかになっていきました。最大の問​​題は、ポルトガルが、自らの意思とは無関係に、スペインの敵対国すべてと敵対関係に立たされたことでした。特に、スペインからの独立を目指して八十年戦争を戦っていたオランダは、ポルトガルにとって深刻な脅威となりました。オランダは、ポルトガルの最も重要な海外領土であるブラジルや、香辛料貿易の拠点であるアジアの港湾を次々と攻撃し、奪い取っていきました。ポルトガルは、かつて自らが築き上げた海外帝国が、スペインとの連合によって切り崩されていくのを、なすすべなく見ているしかなかったのです。
オリバーレス伯公爵の改革とポルトガルの不満

イベリア連合の転機となったのが、フェリペ4世の時代に宰相として絶大な権力を握ったオリバーレス伯公爵の登場でした。オリバーレスは、三十年戦争で疲弊したスペイン帝国を立て直すため、一連の中央集権的な改革を推し進めようとしました。彼の有名な「武器連合」計画は、帝国内の各領邦が、その人口と経済力に応じて、共通の防衛軍に兵士と資金を提供することを義務付けるものでした。
この計画は、それぞれの独立性を重んじてきた帝国内の各地域、特にポルトガルとカタルーニャの強い反発を招きました。ポルトガル人にとって、これはトマールでの誓いを一方的に破棄し、ポルトガルをスペインの一地方に貶めるものと映りました。彼らは、自分たちの税金と若者が、ポルトガルの利益とは無関係なヨーロッパでの戦争に投入されることに、強い憤りを感じました。
さらに、オリバーレスはポルトガルの貴族をマドリードの中央政府に登用しようとしたり、スペイン人をポルトガルの官職に任命しようとしたりするなど、ポルトガルの自治権を侵害する動きを強めました。これらの政策は、ポルトガル国内の反スペイン感情を急速に高めていきました。貴族、聖職者、商人、そして民衆の間に、ハプスブルク家の支配から脱し、独立を回復すべきだという気運が醸成されていったのです。
ポルトガル王政復古戦争と連合の終焉

高まる不満は、ついに爆発の時を迎えます。1640年、スペインがカタルーニャで発生した大規模な反乱(収穫人戦争)の鎮圧に兵力を割かれている隙を突き、ポルトガルの貴族たちは行動を起こすことを決意しました。
1640年12月1日、40人組として知られるポルトガルの貴族たちがリスボンの王宮に押し入り、副王であったマントヴァ公爵夫人マルガリータを追放し、その側近であったミゲル=デ=ヴァスコンセロスを殺害しました。このクーデターは周到に計画されており、ほとんど抵抗を受けることなく成功しました。
反乱を主導した貴族たちは、直ちにブラガンサ公ジョアンを新しい王として擁立しました。彼は、かつての王位継承権主張者であったカタリナの孫にあたります。当初、彼は危険な役割を引き受けることにためらいを見せましたが、妻ルイサ=デ=グスマンの強い説得もあり、王位に就くことを決意しました。彼はポルトガル王ジョアン4世として即位し、ここにブラガンサ朝が始まりました。
このクーデターは、ポルトガル全土で熱狂的に支持されました。長年にわたり鬱積していたハプスブルク支配への不満が一気に噴出し、人々は独立の回復を祝いました。
しかし、独立宣言は、長い戦争の始まりを意味していました。スペインは、ポルトガルの独立を認めるはずがなく、カタルーニャの反乱と並行して、ポルトガルとの間にも戦端が開かれました。これが、28年間にわたるポルトガル王政復古戦争です。
ポルトガルは、フランスやイギリスといったスペインの敵対国からの支援を受けながら、粘り強く戦いました。戦争は、国境地帯での小競り合いや、いくつかの大規模な会戦を経て、一進一退の攻防が続きました。最終的に、スペインは三十年戦争とカタルーニャの反乱で国力を消耗しきっており、ポルトガルにまで十分な兵力を投入することができませんでした。
1668年、スペインはついにポルトガルの独立を認めざるを得なくなり、リスボン条約が締結されました。この条約により、ポルトガルは正式に独立を回復し、60年間にわたるイベリア連合は完全に終焉を迎えました。ポルトガルは、ブラガンサ朝の下で、再び独立国家としての道を歩み始めることになったのです。
フェリペ2世によるポルトガル併合と、それに続くイベリア連合の時代は、イベリア半島の歴史におけるきわめて重要な一章です。それは、アヴィス朝の断絶という偶然の出来事から始まり、フェリペ2世の巧みな戦略によって実現しました。当初は、二つの王国の共存共栄が期待された同君連合でしたが、スペインの国益が優先される中で、ポルトガルの自治と海外領土は次第に脅かされていきました。そして、オリバーレス伯公爵の中央集権化政策が引き金となり、ポルトガル国民の独立への渇望が再燃し、王政復古戦争へとつながりました。
この60年間の経験は、ポルトガルに深い傷跡を残したと同時に、その国民的アイデンティティを再確認させる契機ともなりました。ハプスブルク家の支配からの解放は、ポルトガルの歴史における輝かしい瞬間として記憶され、ブラガンサ朝の下で、ポルトガルは新たな時代を迎えることになります。フェリペ2世の野心が生み出したイベリア連合は、結果としてポルトガルの独立精神をより強固なものにし、その後の歴史を大きく規定する出来事となったのです。

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