|
|
|
|
|
更新日時:
|
|
![]() |
オランダ総督(統領)とは わかりやすい世界史用語2630 |
|
著作名:
ピアソラ
196 views |
|
オランダ総督(統領)とは
16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパ史において、ネーデルラント総督(統領)という役職は、ハプスブルク家の広大な帝国における要石の一つでした。ブリュッセルに居を構えた総督は、遠くマドリードにいるスペイン国王の名代として、ヨーロッパで最も豊かで複雑な地域の一つであるネーデルラント17州を統治する重責を担っていました。この役職は単なる行政官ではありませんでした。総督は君主の代理人であり、最高司令官であり、そして文化的なパトロンでもありました。彼らの個性や政策は、ネーデルラントの運命を直接左右し、ひいてはヨーロッパ全体の政治=宗教=軍事のバランスに大きな影響を与えました。
マルグリット=ドートリッシュやマリア=フォン=ウンガルンのような賢明な女性統治者たちは、現地の貴族と協調しながら、この多様な地域を巧みにまとめ上げました。しかし、フェリペ2世の時代になると、総督の役割は大きく変容します。パルマ公妃マルゲリータの融和的な姿勢が覆され、アルバ公フェルナンド=アルバレス=デ=トレドの鉄腕による弾圧が始まると、総督職はスペインによる圧政の象徴と見なされるようになりました。この強硬策は、ネーデルラントを八十年戦争という泥沼の独立戦争へと突き落とす直接の引き金となります。
戦争の時代において、総督の役割は軍事的な側面に大きく傾斜します。ドン=フアン=デ=アウストリアやアレッサンドロ=ファルネーゼ(パルマ公)といった歴代総督は、ヨーロッパ最強と謳われたフランドル軍を率いて、反乱軍との間で一進一退の攻防を繰り広げました。特にファルネーゼの軍事的・外交的手腕は、南部10州をスペインの支配下に引き戻すことに成功し、後のベルギーの基礎を築きます。一方で、彼の死後は決定的な勝利を得ることができず、ネーデルラントの南北分断は確定的なものとなっていきました。
スペイン領ネーデルラント総督の歴史は、中央集権化を目指す君主の意志と、それに抵抗する地方の特権との間の絶え間ない緊張関係の物語です。それはまた、宗教的寛容を求める声と、カトリックの統一を守ろうとする帝国の論理が激しく衝突した悲劇の記録でもあります。ブリュッセルのクーデンベルク宮殿から発せられた総督たちの命令は、この地の繁栄と悲劇の両方を演出し、ヨーロッパ近代国家の形成に不可逆的な影響を与えたのです。
総督職の確立
ネーデルラントにおける総督職は、ハプスブルク家の統治と共に確立され、発展しました。それは、遠隔地の複雑な領土を、君主の代理人を通じて効率的に支配しようとする試みの現れでした。
ブルゴーニュ公国の遺産
ネーデルラント17州がハプスブルク家の支配下に入る以前、この地はブルゴーニュ公によって統治されていました。フィリップ善良公やシャルル突進公といったブルゴーニュ公たちは、フランドル=ブラバント=ホラントなど、それぞれ独立した歴史と法体系を持つ諸州を一つの政治的共同体としてまとめ上げようとしました。彼らは、君主が不在の際に領土を統治する代理人として、信頼する近親者や高位貴族を任命する慣行を持っていました。これが、後のハプスブル-ク家における総督職の原型となります。
1477年にシャルル突進公が戦死し、その娘マリーがハプスブルク家のマクシミリアンと結婚したことで、ネーデルラントはハプスブルク家の世襲財産となりました。しかし、この広大な帝国を築き上げたカール5世(マリーとマクシミリアンの孫)は、神聖ローマ皇帝としてドイツを、スペイン王としてイベリア半島と新大陸を統治する必要があり、ネーデルラントに常駐することは不可能でした。この物理的な距離が、君主の権威を恒久的に代行する、制度化された総督職の設置を不可欠なものにしたのです。
マルグリット=ドートリッシュの統治
ハプスブルク家によるネーデルラント総督統治の基礎を築いたのは、カール5世の叔母にあたるマルグリット=ドートリッシュです。1507年に総督に任命された彼女は、その後20年以上にわたって、メヘレンを拠点にネーデルラントを統治しました。ブルゴーニュ公国の宮廷で育ち、フランス王太子やスペイン皇太子との結婚を経験した彼女は、高度な政治的教養と外交手腕を身につけていました。
マルグリットの統治は、甥であるカール5世の権威を代表しつつも、ネーデルラントの伝統的な特権や慣習を尊重するという、絶妙なバランスの上に成り立っていました。彼女は、ネーデルラントの大貴族たちを顧問として重用し、彼らで構成される「枢密院」を通じて政策を決定しました。この協調的な姿勢は、諸州や都市の反発を和らげ、ハプスブルク家の支配を円滑に浸透させる上で大きな役割を果たしました。
また、彼女は優れた文化のパトロンでもありました。メヘレンの宮廷は、エラスムスをはじめとする人文主義者や、ヤン=ホッサールトのような芸術家が集う、ルネサンス文化の一大中心地となりました。マルグリットの統治は、ネーデルラントがハプスブルク帝国内で比較的平和で繁栄した時代を享受するための礎を築いたのです。
マリア=フォン=ウンガルンの統治
1530年にマルグリットが亡くなると、カール5世は自らの妹であるマリア=フォン=ウンガルン(ハンガリー王妃)を後任の総督に任命しました。マリアもまた、兄カール5世から絶大な信頼を寄せられた、極めて有能な統治者でした。彼女の統治下で、ネーデルラントの行政機構はさらに整備されます。
マリアは、ブリュッセルのクーデンベルク宮殿に統治の拠点を移し、中央政府の組織を再編しました。彼女は、従来の枢密院を「国家評議会」(外交・軍事担当)、「財務評議会」(財政担当)、そして「秘密評議会」(法務・内政担当)の三つに分割しました。この三評議会体制は、専門的な知識を持つ法律家や官僚を登用するものであり、伝統的な大貴族の政治的影響力を相対的に低下させ、君主による中央集権的な支配を強化する狙いがありました。
しかし、マリアもまた、ネーデルラントの現実を熟知していました。彼女は、兄カール5世が求める過度な課税や中央集権化政策に対して、時にはネーデルラントの立場を代弁して抵抗することもありました。彼女は、君主への忠誠と、統治する土地の利益との間で、常に難しい舵取りを迫られたのです。マリアの統治は、ハプスブルク家による支配が最も安定していた時期と重なりますが、その水面下では、宗教改革の波と、中央集権化への不満が、静かに、しかし着実に広がりつつありました。
対立の時代
1555年、カール5世はネーデルラントの統治権を息子フェリペ2世に譲ります。この君主の交代は、ネーデルラントと宗主国スペインとの関係を根底から揺るがし、総督の役割を決定的に変質させる転換点となりました。
パルマ公妃マルゲリータとグランヴェル枢機卿
フェリペ2世は、父カール5世とは異なり、ネーデルラントで育っておらず、その地の言語や慣習に馴染みがありませんでした。彼はスペインから統治することを好み、ネーデルラントの統治を異母姉であるパルマ公妃マルゲリータに委ねました。マルゲリータ自身は、融和的で穏健な人物でしたが、彼女の側近として、そして事実上の宰相として権力を握ったのが、アントワーヌ=ペルノ=ド=グランヴェルでした。
グランヴェルは、カール5世の時代から仕える有能な官僚でしたが、ネーデルラントの貴族たちからは、スペイン王の意向を押し付ける傲慢な外国人と見なされていました。彼は、フェリペ2世の意を受けて、中央集権化とプロテスタント弾圧を強化しようとします。特に、ネーデルラントの教会組織を再編し、国王が司教を任命できるようにした政策は、教会の独立性を脅かすものとして、また、異端審問を強化する手段として、聖職者と貴族の両方から猛烈な反発を受けました。
オラニエ公ウィレム、エフモント伯、ホールン伯といったネーデルラントの大貴族たちは、グランヴェルの政策が自分たちの伝統的な政治的影響力を奪い、ネーデルラントの自由を侵害するものだと考え、結束して彼に反対しました。彼らは国家評議会への出席をボイコットし、フェリペ2世にグランヴェルの罷免を執拗に要求します。この対立は、単なる権力闘争ではなく、ネーデルラントの自治を守ろうとする貴族層と、絶対主義的な支配を目指すスペイン国王との間の、最初の本格的な衝突でした。1564年、フェリペ2世はついに圧力に屈し、グランヴェルをネーデルラントから召還しますが、対立の火種は残ったままでした。
アルバ公の恐怖政治
グランヴェルが去った後も、フェリペ2世はプロテスタント弾圧の手を緩めませんでした。これに対し、下級貴族たちは「貴族の同盟」を結成し、マルゲリータに異端審問の緩和を求める請願書を提出します。この請願が一部受け入れられたことで、プロテスタントの活動は公然化し、1566年夏、カルヴァン派の説教師に扇動された民衆が各地の教会で聖像や祭壇を破壊する「聖像破壊運動」が勃発しました。
この報告に激怒したフェリペ2世は、ネーデルラントの反乱分子を力で根絶やしにすることを決意します。彼は、歴戦の将軍であるアルバ公フェルナンド=アルバレス=デ=トレドに、1万の精鋭部隊を率いさせてネーデルラントへ派遣しました。アルバ公の到着をもって、マルゲリータの融和的な統治は終わりを告げます。彼女は事実上解任され、アルバ公が軍事権と行政権の全てを掌握する、新しい総督となったのです。
アルバ公は、着任するとすぐに徹底的な弾圧を開始しました。彼は、反乱に関与した者を裁くための特別法廷「騒擾評議会」を設置します。この法廷は、通常の法手続きを無視して次々と死刑判決を下したため、人々から「血の評議会」と恐れられました。その最初の犠牲者となったのが、カトリック教徒でありながら国王に忠実であったエフモント伯とホールン伯でした。彼らはブリュッセルのグラン=プラスで公開処刑され、その見せしめはネーデルラント全土に衝撃と恐怖を与えました。
さらにアルバ公は、スペイン軍の駐留経費を賄うため、「十分の一税」という新しい税金を導入しようとします。これは、全ての商品取引に10%の売上税を課すというもので、商業が生命線であるネーデルラント経済にとって、到底受け入れられるものではありませんでした。この政策は、宗教や身分に関係なく、全てのネーデルラント人の怒りを買うことになります。
アルバ公の統治は、まさに恐怖政治でした。彼は、反乱の芽を完全に摘み取り、国王の絶対的な権威を確立しようとしましたが、その過度な弾圧と経済的収奪は、人々の心からスペインへの忠誠心を消し去り、彼らをオラニエ公ウィレムが掲げる武装抵抗へと駆り立てる結果となったのです。アルバ公は、平和をもたらすどころか、八十年戦争という終わりの見えない戦争の扉を開いてしまいました。
戦争の時代の総督たち
アルバ公の圧政が八十年戦争の引き金となって以降、ネーデルラント総督の役割は、何よりもまず軍司令官としてのそれが中心となりました。彼らの任務は、反乱を鎮圧し、国王の領土を回復することでした。
ルイス=デ=レケセンスの融和策
アルバ公の強硬策が、反乱を拡大させるばかりで財政を破綻させたことを悟ったフェリペ2世は、1573年に彼を解任し、後任としてルイス=デ=レケセンスを派遣しました。レケセンスは、アルバ公とは対照的に、穏健で融和的な人物でした。
彼の任務は、軍事行動を続けつつも、反乱州との和解の道を探ることでした。彼は着任早々、「血の評議会」を廃止し、物議を醸した「十分の一税」を撤回するなど、アルバ公時代の悪政を是正する姿勢を見せました。また、反乱に加わった者たちに対して、カトリックに復帰することを条件に恩赦を提案しました。
しかし、時すでに遅く、双方の溝は埋めがたいものとなっていました。反乱の中心であるホラント州とゼーラント州は、宗教の自由を保証しない限り、いかなる和解にも応じない構えでした。一方、フェリペ2世は、カトリック信仰の維持を絶対に譲れない一線としており、レケセンスに与えられた交渉の裁量権は極めて限られていました。
軍事面でも、レケセンスは困難な状況に直面します。スペイン政府は度重なる財政破綻に陥り、兵士への給与支払いが滞りました。1576年、レケセンスがブリュッセルで急死すると、給与未払いによって統制を失ったスペイン兵が各地で反乱を起こし、アントワープで大規模な略奪と虐殺を行いました(スパニッシュ=フューリー)。この事件は、それまで国王に忠実であった南部の諸州をも反スペインの立場へと駆り立て、「ヘントの和約」として知られる、ネーデルラント17州全体の団結を促す皮肉な結果を生んだのです。
ドン=フアン=デ=アウストリアの野望
レケセンスの死後、新たな総督としてブリュッセルに到着したのは、フェリペ2世の異母弟であり、レパントの海戦の英雄として名高いドン=フアン=デ=アウストリアでした。若く野心的なドン=フアンは、ネーデルラントの平定を、より大きな野望への足がかりと考えていました。彼の夢は、イングランドに侵攻してエリザベス1世を打倒し、幽閉されているスコットランド女王メアリー=スチュアートを救出して結婚し、イングランドの王位に就くことでした。
着任当初、ドン=フアンは「ヘントの和約」を受け入れ、スペイン軍を撤退させることに同意するなど、融和的な姿勢を見せました。しかし、これは彼の野望を実現するための時間稼ぎに過ぎませんでした。彼は、オラニエ公ウィレムが実権を握る反乱州との共存は不可能であると判断し、突如としてナミュールの城砦を占拠して、再び戦争を開始します。
1578年、ジャンブルーの戦いで反乱軍に圧勝するなど、軍事的な才能の片鱗を見せましたが、彼の立場は常に不安定でした。マドリードのフェリペ2世は彼の野心を警戒して十分な支援を与えず、ネーデルラントの諸州は彼を信用しませんでした。孤立無援の中、ドン=フアンは熱病にかかり、わずか31歳でその短い生涯を閉じました。彼の統治は、個人的な野心と、ネーデルラントの複雑な現実とが衝突した、悲劇的な挿話として終わりました。
アレッサンドロ=ファルネーゼの成功と限界
ドン=フアンの死後、彼の副官であったアレッサンドロ=ファルネーゼ(パルマ公)が総督の地位を引き継ぎました。彼は、マルゲリータ=ディ=パルマの息子であり、ネーデルラントの事情にも精通していました。ファルネーゼは、16世紀後半における最も優れた軍司令官であると同時に、極めて狡猾な外交官でもありました。彼の登場により、スペインのネーデルラント政策は、最も成功した時期を迎えます。
ファルネーゼは、軍事力と外交交渉を巧みに使い分けました。「ヘントの和約」によって団結したネーデルラントの弱点が、南部のワロン人カトリック貴族と、北部のカルヴァン派が多数を占める都市との間の宗教的・文化的な対立にあることを見抜きます。彼は、南部の貴族たちに接近し、彼らの伝統的な特権とカトリック信仰を保証することを約束しました。この働きかけは成功し、1579年、エノー、アルトワなどの南部諸州は「アラス同盟」を結成してスペイン国王への忠誠を誓い、反乱戦線から離脱しました。
外交によって南部の足場を固めたファルネーゼは、次に軍事力を行使して、フランドルとブラバントの諸都市の再征服に乗り出します。彼は、包囲戦の達人であり、ブルッヘ、ヘント、ブリュッセル、そして1585年には当時の経済の中心地であったアントワープを、次々と陥落させました。アントワープの陥落は、反乱にとって決定的な打撃であり、ネーデルラントの南北分断を事実上確定させました。
しかし、ファルネーゼの成功も絶対的なものではありませんでした。彼が反乱の最後の拠点であるホラント州とゼーラント州に侵攻しようとした矢先、フェリペ2世は彼に、イングランド侵攻のための「無敵艦隊」の準備と、フランスの内戦(ユグノー戦争)への介入を命じます。ファルネーゼは、ネーデルラント平定という主目的から引き離され、二つの戦線で貴重な戦力と時間を浪費させられました。その間に、マウリッツ=ファン=ナッサウに率いられた北部の反乱軍は、軍制改革を断行して体勢を立て直し、反撃に転じます。1592年、ファルネーseはフランスでの戦闘で負った傷がもとで亡くなりました。彼は、南部ネーデルラントをスペインの手に取り戻した英雄でしたが、同時に、彼の死によって、スペインがネーデルラント全土を再統一する最後の機会は永遠に失われたのです。
南ネーデルラントの統治者として
ファルネーゼの死後、ネーデルラントの南北分断は既成事実となりました。北部は事実上の独立国家ネーデルラント連邦共和国として発展し、南部(後のベルギー)は「スペイン領ネーデルラント」としてハプスブルク家の支配下に留まりました。これ以降、ブリュッセルの総督の役割は、反乱の鎮圧者から、国境を守り、カトリックの信仰と文化を育む、南ネーデルラントの統治者へと変わっていきます。
アルブレヒトとイサベラの共同統治
1598年、フェリペ2世は死の直前に、一つの大きな政治的決断を下します。彼は、娘のイサベラ=クララ=エウヘニアを、彼女の従兄弟であり婚約者であるアルブレヒト=フォン=エスターライヒ(カール5世の孫)と結婚させ、南ネーデルラントを二人の共同統治に委ねることにしたのです。これは、南ネーデルラントに名目上の独立を与え、現地の住民の感情を和らげようとする試みでした。もし二人の間に子供が生まれれば、その子が南ネーデルラントを世襲することになっていました。
アルブレヒトとイサベラの統治は、南ネーデルラントに、長い戦乱の後で待望された平和と安定の時代をもたらしました。彼らは、1609年に、宿敵である北部ネーデルラントとの間に「十二年間休戦協定」を締結します。この休戦は、南ネーデルラントの経済復興と文化の再生にとって、極めて重要な期間となりました。
二人は敬虔なカトリック教徒であり、対抗宗教改革の熱心な推進者でした。彼らの庇護の下、イエズス会などの修道会が活動を活発化させ、教会や修道院が次々と再建・新築されました。この時代、南ネーデルラントは、バロック芸術の一大中心地となります。特に、ピーテル=パウル=ルーベンスは、アルブレヒトとイサベラの宮廷画家として活躍し、そのダイナミックで壮麗な作品は、カトリック教会の勝利とハプスブルク家の栄光を力強く表現しました。
しかし、アルブレヒトとイサベラの統治は、完全な独立ではありませんでした。スペインは軍隊の駐留を続け、外交政策にも大きな影響力を保持していました。そして、二人の間に世継ぎが生まれなかったため、1621年にアルブレヒトが亡くなると、南ネーデルラントの主権は再びスペイン国王(当時はフェリペ4世)の手に戻り、イサベラは国王の名代としての総督として、1633年に亡くなるまで統治を続けました。
衰退期の総督たち
イサベラの死後、南ネーデルラントは、三十年戦争や、その後のフランスとの戦争の主要な戦場となります。この時代の総督たちの主な任務は、フランス王ルイ14世の絶え間ない侵略から、領土を防衛することでした。フェルナンド=デ=アウストリア(フェリペ4世の弟)のような有能な軍人もいましたが、スペイン本国の国力が衰退していく中で、彼らの立場はますます困難なものとなっていきました。
総督たちは、防衛線を維持するために莫大な戦費を必要としましたが、スペインからの支援は滞りがちで、南ネーデルラントの諸州議会に重税を課さざるを得ませんでした。これは、住民の不満を高め、統治をさらに難しくしました。17世紀後半を通じて、南ネーデルラントは、フランスによって次々と領土を蚕食されていきます。
1700年にスペイン=ハプスブルク家の最後の王カルロス2世が亡くなると、スペイン継承戦争が勃発します。この戦争の結果、1714年のラシュタット条約によって、南ネーデルラントはスペインからオーストリア=ハプスブルク家へと割譲されることが決まりました。これにより、スペイン領ネーデルラントとその総督の歴史は、終わりを告げたのです。
スペイン領ネーデルラントの総督たちは、ハプスブルク帝国の栄光と苦悩を体現する存在でした。彼らは、ヨーロッパで最も豊かで、最も扱いにくい領土を、遠く離れた君主の代理として統治するという、極めて困難な任務を背負っていました。マルグリット=ドートリッシュやマリア=フォン=ウンガルンのような初期の総督は、現地の特権を尊重することで、この地の繁栄と安定に貢献しました。しかし、フェリペ2世の不寛容な政策が、アルバ公という冷酷な実行者を得たとき、総督職は圧政の道具と化し、ネーデルラントを分裂と八十年戦争の悲劇へと導きました。
戦争の時代、ファルネーゼのような傑出した軍人総督は、南ネーデルラントをスペインの支配下に繋ぎ止め、後のベルギー国家の原型を形作りました。そして、アルブレヒトとイサベラの共同統治は、戦乱に疲弊した南ネーデルラントに束の間の平和と文化の黄金時代をもたらし、ルーベンスに代表されるフランドル=バロック芸術を開花させました。
総督たちの歴史は、君主の絶対主義的な意志と、それに抵抗する地方の自治の精神との間の、終わりのない対話であり、闘争でした。彼らは、マドリードの宮廷とブリュッセルの現実との間に挟まれ、時には忠実な代理人として、時には現地の利益の代弁者として、常に難しい選択を迫られました。
このテキストを評価してください。
|
役に立った
|
う~ん・・・
|
※テキストの内容に関しては、ご自身の責任のもとご判断頂きますようお願い致します。 |
|
ホラント州とは わかりやすい世界史用語2629
>
独立宣言《オランダ》とは わかりやすい世界史用語2631
>
マキャベリズムとは わかりやすい世界史用語2609
>
ネーデルラントとは わかりやすい世界史用語2623
>
アンリ4世とは わかりやすい世界史用語2649
>
傭兵《近世ヨーロッパ》とは わかりやすい世界史用語2657
>
重商主義とは わかりやすい世界史用語2618
>
最近見たテキスト
|
オランダ総督(統領)とは わかりやすい世界史用語2630
10分前以内
|
>
|
デイリーランキング
世界史
- 先史時代
- 先史時代
- 西アジア・地中海世界の形成
- 古代オリエント世界
- ギリシア世界
- ヘレニズム世界
- ローマ帝国
- キリスト教の成立と発展
- アジア・アメリカの古代文明
- イラン文明
- インドの古代文明
- 東南アジアの諸文明
- 中国の古典文明(殷・周の成立から秦・漢帝国)
- 古代の南北アメリカ文明
- 東アジア世界の形成と発展
- 北方民族の活動と中国の分裂(魏晋南北朝時代)
- 東アジア文化圏の形成(隋・唐帝国と諸地域)
- 東アジア諸地域の自立化(東アジア、契丹・女真、宋の興亡)
- 内陸アジア世界の形成
- 遊牧民とオアシス民の活動
- トルコ化とイスラーム化の進展
- モンゴル民族の発展
- イスラーム世界の形成と拡大
- イスラーム帝国の成立
- イスラーム世界の発展
- インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化
- イスラーム文明の発展
- ヨーロッパ世界の形成と変動
- 西ヨーロッパ世界の成立
- 東ヨーロッパ世界の成立
- 西ヨーロッパ中世世界の変容
- 西ヨーロッパの中世文化
- 諸地域世界の交流
- 陸と海のネットワーク
- 海の道の発展
- アジア諸地域世界の繁栄と成熟
- 東アジア・東南アジア世界の動向(明朝と諸地域)
- 清代の中国と隣接諸地域(清朝と諸地域)
- トルコ・イラン世界の展開
- ムガル帝国の興隆と衰退
- ヨーロッパの拡大と大西洋世界
- 大航海時代
- ルネサンス
- 宗教改革
- 主権国家体制の成立
- 重商主義と啓蒙専制主義
- ヨーロッパ諸国の海外進出
- 17~18世紀のヨーロッパ文化
- ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成
- イギリス革命
- 産業革命
- アメリカ独立革命
- フランス革命
- ウィーン体制
- ヨーロッパの再編(クリミア戦争以後の対立と再編)
- アメリカ合衆国の発展
- 19世紀欧米の文化
- 世界市場の形成とアジア諸国
- ヨーロッパ諸国の植民地化の動き
- オスマン帝国
- 清朝
- ムガル帝国
- 東南アジアの植民地化
- 東アジアの対応
- 帝国主義と世界の変容
- 帝国主義と列強の展開
- 世界分割と列強対立
- アジア諸国の改革と民族運動(辛亥革命、インド、東南アジア、西アジアにおける民族運動)
- 二つの大戦と世界
- 第一次世界大戦とロシア革命
- ヴェルサイユ体制下の欧米諸国
- アジア・アフリカ民族主義の進展
- 世界恐慌とファシズム諸国の侵略
- 第二次世界大戦
- 米ソ冷戦と第三勢力
- 東西対立の始まりとアジア諸地域の自立
- 冷戦構造と日本・ヨーロッパの復興
- 第三世界の自立と危機
- 米・ソ両大国の動揺と国際経済の危機
- 冷戦の終結と地球社会の到来
- 冷戦の解消と世界の多極化
- 社会主義世界の解体と変容
- 第三世界の多元化と地域紛争
- 現代文明
- 国際対立と国際協調
- 国際対立と国際協調
- 科学技術の発達と現代文明
- 科学技術の発展と現代文明
- これからの世界と日本
- これからの世界と日本
- その他
- その他
























