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円明園とは わかりやすい世界史用語2477 |
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著作名:
ピアソラ
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円明園とは
円明園の歴史は、18世紀初頭の清王朝、康熙帝の治世にまで遡ります。 1707年、康熙帝は自身の第四子であり、後の雍正帝となる胤禛のために、北京北西部の広大な土地に庭園を造営するよう命じました。 これが円明園の始まりであり、当初は「賜園」と呼ばれていました。 この時点では、まだ皇帝の私的な遊興のための庭園という性格が強いものでした。
1722年に雍正帝が即位すると、円明園の様相は大きく変化します。 彼はこの庭園を単なる休息の場としてではなく、紫禁城と並ぶもう一つの政治の中心地と位置づけ、大規模な拡張工事に着手しました。 雍正帝は、庭園内に湖や小川、池などを巧みに配置する水利工事を導入し、起伏に富んだ土地と調和させました。 彼は自ら庭園内の28の景勝地を命名し、その美しさを讃えました。 さらに、皇帝とその家族が宦官たちが演じる店主などと交流できる模擬的な村「万方安和」のような、ユニークな施設も建設されました。 このようにして、円明園は単なる庭園から、政治、生活、そして娯楽が一体となった複合的な空間へと変貌を遂げていったのです。
円明園の発展は、次の乾隆帝の時代に頂点を迎えます。 乾隆帝は、祖父である康熙帝と父である雍正帝が築き上げた基盤の上に、さらなる壮麗なビジョンを描きました。 彼は自ら造園計画の指揮を執り、景勝地の数を50にまで増やしました。 1744年には、宮廷画家たちに命じて、これらの景勝地を描いた画集「円明園四十景図」を制作させ、その壮麗さを後世に伝えようとしました。 この画集は、円明園が中国庭園芸術の粋を集めた傑作であったことを物語っています。
乾隆帝の治世において特筆すべきは、1747年に始まった西洋風宮殿群「西洋楼」の建設です。 これは、当時宮廷に仕えていたイエズス会宣教師たちの知識と技術を活用したものでした。 イタリア人画家のジュゼッペ・カスティリオーネが設計を担当し、フランス人神父のミシェル・ブノワが噴水や水力装置の技術を提供しました。 こうして、中国伝統の庭園の中に、バロック様式の宮殿や噴水が融合するという、前例のない景観が誕生したのです。
円明園は、単一の庭園ではなく、円明園、長春園、綺春園(後に万春園と改称)という、それぞれ独立しながらも相互に連結された三つの庭園の総称でした。 これらを合わせて「円明三園」とも呼ばれます。 総面積は約350ヘクタールにも及び、その広大な敷地には、宮殿、楼閣、寺院、回廊、橋など、数百もの建造物が点在していました。 敷地の約40%は人工的に作られた湖や川で占められ、水を中心とした景観が特徴でした。 中国南方の名勝を模した風景や、全国から集められた珍しい植物が植えられ、まさに「万園の園(庭園の中の庭園)」と称されるにふさわしい壮大さを誇っていました。
皇帝たちは、夏の暑さを避けるための避暑地としてだけでなく、日常の政務を執り行う場所として円明園を頻繁に利用しました。 紫禁城が主に公式な儀式のために使われたのに対し、円明園は皇帝の私的な生活空間であり、政治的な意思決定が行われる実質的な権力の中枢でもあったのです。 そのため、一般の人々が足を踏み入れることは固く禁じられていました。
円明園は、建築や庭園だけでなく、膨大な数の芸術品や歴史的宝物の収蔵庫でもありました。 5000年にわたる中国文明を代表するような、絵画、書物、陶磁器、青銅器、玉器などが集められていました。 イギリス軍の従軍牧師であったスチュアート・マギーは、当時の円明園を「古代文明5000年の歴史を代表する、世界で最も偉大な歴史的至宝の集積地であったことは間違いない」と記しています。 このように、円明園は清王朝の栄華と権威、そして中国文化の粋を体現する、比類なき存在だったのです。
庭園芸術の頂点:円明園の設計思想と構成
円明園は、中国の皇室庭園設計の最高傑作と広く認識されています。 その設計思想の根底には、人間と自然の調和を重んじる中国古来の哲学がありました。 広大な敷地は、単なる建物の集合体ではなく、丘や水辺といった自然の景観と、楼閣、宮殿、寺院、橋などの人工的な建造物が見事に融合し、一つの調和のとれた全体を形成していました。 この庭園は、政治的・行政的機能、居住機能、精神的機能、そして娯楽的機能を、山水の風景の中に統合したものでした。
三つの庭園からなる壮大な構成
円明園は、実際には三つの独立しつつも相互に連結された庭園から構成されていました。 それは、中心となる「円明園」、東側に位置する「長春園」、そして南東に位置する「綺春園」(後に万春園と改称)です。 これら三つの庭園を合わせて「円明三園」と呼ばれ、総面積は約350ヘクタールにも及びました。 これはニューヨークのセントラルパークとほぼ同じ広さです。
中心となる円明園は、雍正帝の時代に大規模な拡張が行われ、庭園全体の核となる部分でした。 長春園は乾隆帝の時代に造営が進められ、特に西洋楼があることで知られています。 綺春園は、他の二つの庭園に隣接する形で後から加えられ、いくつかの建物は1860年の破壊を免れ、同治帝の時代に修復が試みられたこともありました。
「万園の園」と称された多様な景観
円明園が「万園の園(庭園の中の庭園)」と称賛されたのは、その驚くべき多様性にあります。 庭園内には、中国各地の有名な景勝地を模した風景が巧みに再現されていました。 例えば、江南地方の美しい庭園や風景が、人工の丘や湖、小川を用いて再現され、皇帝は北京にいながらにして国内各地の絶景を楽しむことができたのです。
敷地の約40%は、人工的に造られた湖、小川、池などの水域で覆われていました。 雍正帝は水利工事を重視し、これらの水景が庭園全体の骨格をなすように設計しました。 湖の中心にはいくつかの小島が浮かび、橋で結ばれていました。 訪問者は船に乗って湖を巡り、変化に富んだ景色を楽しむことができました。
中国伝統建築の粋
円明園内の建物の95%以上は、伝統的な中国様式で建てられていました。 これには、政務を執り行うための壮大な宮殿、皇帝や皇族の居住空間、読書や詩作のための書斎、仏教や道教の寺院、そして景色を眺めるための楼閣やあずまやなどが含まれます。 これらの建物は、赤い漆塗りの柱、精巧な彫刻が施された梁、色鮮やかな瑠璃瓦で飾られ、中国建築の粋を集めたものでした。
また、清王朝の多様性を反映し、チベット様式やモンゴル様式の建物も少数ながら存在しました。 これは、広大な帝国を統治する清朝皇帝のコスモポリタンな世界観の表れと言えるでしょう。
西洋との融合:西洋楼の衝撃
円明園の設計において最もユニークな要素は、長春園の北東部に位置する「西洋楼」と呼ばれる一連のヨーロッパ風宮殿群です。 これは乾隆帝の命により、1747年から1759年にかけて建設されました。 設計には、宮廷に仕えていたイエズス会宣教師、特にイタリア人画家のジュゼッペ・カスティリオーネが中心的な役割を果たしました。
西洋楼は、石造りのように見えながらも、実際には木製の柱や色瓦、レンガ壁といった中国の伝統的な建築技術を基盤としていました。 しかし、その外観は完全にバロック様式であり、当時の中国人にとっては見たこともないような斬新なものでした。
このエリアの最大の見どころは、フランス人イエズス会士ミシェル・ブノワが設計した精巧な噴水と水力装置でした。 中でも「海晏堂」の前に設置された大噴水は圧巻でした。 この噴水は、十二支の動物の頭部を持つブロンズ像が円形に配置され、それぞれの動物が2時間ごとに順番に口から水を噴き出し、正午には全ての像が一斉に水を噴き出すという、精巧な水力時計となっていました。 このような西洋の科学技術と中国の十二支というモチーフの融合は、乾隆帝の異文化への強い関心と、それを自らの庭園に取り込むことで帝国の権威を高めようとする意図を示しています。
西洋楼のエリアには、他にも「万花陣」と呼ばれる迷路庭園があり、皇帝と側室たちが楽しむための場所でした。 この迷路もまた、西洋の庭園設計の要素を取り入れたものでした。
ただし、西洋楼が円明園全体に占める面積はごくわずかであり、庭園全体の5%にも満たなかったことを理解しておくことは重要です。 円明園の大部分はあくまで中国伝統の庭園様式に基づいており、西洋楼はその中に組み込まれたエキゾチックなアクセントという位置づけでした。 にもかかわらず、その遺跡が最も有名であるため、円明園全体が西洋風の宮殿であったという誤解を生むことがあります。
円明園の設計は、自然と人工、東洋と西洋、伝統と革新といった、異なる要素を一つの壮大な庭園の中に統合しようとする、清朝最盛期の皇帝たちの野心的な試みの結晶でした。その結果として生まれたのは、他に類を見ない、まさに「庭園のなかの庭園」と呼ぶにふさわしい芸術作品だったのです。
芸術と文化の宝庫:円明園の収蔵品
円明園は、その壮麗な建築や庭園だけでなく、中国5000年の歴史と文化を物語る膨大な数の芸術品や宝物を収蔵する、世界でも類を見ない巨大な博物館でもありました。 イギリス軍の従軍牧師であったスチュアート・マギーが「世界で最も偉大な歴史的至宝の集積地」と評したように、そのコレクションは質、量ともに圧倒的でした。 これらの収蔵品は、清朝皇帝の権威と富の象徴であると同時に、彼らの洗練された審美眼と深い学識を反映するものでした。
歴代王朝から受け継がれた至宝
円明園には、清王朝以前の歴代王朝から受け継がれた貴重な文物が数多く収蔵されていました。これには、殷・周時代の青銅器、漢代の玉器、唐代の陶磁器、宋・元・明時代の絵画や書などが含まれます。皇帝たちは、これらの歴史的遺産を収集し、鑑賞することを通じて、自らが中華文明の正統な継承者であることを示そうとしました。これらの品々は、単なる美術品ではなく、王朝の正統性を担保する重要な象徴でもあったのです。
清朝当代の最高級工芸品
円明園はまた、清朝当代の最高級の工芸品で満たされていました。景徳鎮の御窯で特別に焼かれた精巧な磁器、皇帝の工房で制作された見事な彫刻が施された象牙製品、そして色とりどりの絹織物などが、宮殿の内部を豪華に飾っていました。 これらの品々は、清朝の職人たちが到達した技術の頂点を示すものであり、その多くは円明園のために特別に作られた一点ものでした。
膨大な書籍と文献
円明園は、芸術品だけでなく、知の宝庫でもありました。特に乾隆帝の時代には、中国史上最大規模の叢書である「四庫全書」が編纂され、そのうちの一部が円明園内の文源閣に収められていました。 「四庫全書」は、経、史、子、集の四部に分類された中国の古典籍を網羅したもので、その編纂事業自体が国家的な文化プロジェクトでした。 文源閣は、この貴重な書物を火災や湿気から守るために、特別な設計が施されていました。 最近の考古学的調査により、文源閣が防火システムを備え、非常に堅固な基礎の上に建てられていたことが明らかになっています。 このことは、清朝皇帝がいかに書物と知識の保存を重視していたかを示しています。 この他にも、円明園には数多くの貴重な古籍や唯一無二の文学作品が保管されていました。
西洋からの贈り物と輸入品
清朝の皇帝たちは、西洋の科学技術や芸術にも強い関心を持っていました。円明園には、ヨーロッパの王室から贈られた外交的な贈り物や、皇帝が個人的に収集した輸入品が数多くありました。 これらには、精巧な機械時計、天文観測儀器、ガラス製品、そして西洋絵画などが含まれます。 特に、西洋楼の内部は、ヨーロッパから輸入された家具やタペストリーで飾られていたと伝えられています。 これらの西洋の品々は、中国の伝統的な美術品と並べて展示されることで、清朝皇帝の国際的な視野と、世界の中心に君臨する天子としての自負を表現する役割を果たしていました。
海晏堂の十二支像
円明園の収蔵品の中でも特に象徴的なのが、西洋楼の海晏堂の前にあった水力時計の噴水を飾っていた十二支のブロンズ製の頭部像です。 これらは、イエズス会士のジュゼッペ・カスティリオーネがデザインし、中国の職人が鋳造したもので、西洋の写実的な表現と中国の伝統的なモチーフが見事に融合した傑作とされています。 それぞれの動物の頭部は、写実的でありながらも生き生きとした表情を持ち、清朝時代の鋳造技術の高さを示しています。 これらの像は、単なる装飾品ではなく、時間を告げるという実用的な機能も兼ね備えていました。
これらの膨大な収蔵品は、円明園が単なる皇帝の私的な庭園ではなく、清帝国の文化的な富と権力が集中する場所であったことを物語っています。しかし、この比類なきコレクションの運命は、1860年の悲劇によって大きく変わることになります。略奪によってその多くが失われ、世界中に散逸してしまったのです。 UNESCOの推計によれば、世界47カ国の博物館に約160万点の中国の文化財が所蔵されており、そのうち約100万点が円明園から流出したものだとされています。 この数字は、円明園がいかに巨大な文化の殿堂であったか、そしてその喪失がいかに甚大なものであったかを物語っています。
西洋との邂逅:イエズス会士と西洋楼の建設
円明園の歴史において、西洋文化との接触は極めて重要な意味を持ちます。特に、18世紀の清朝宮廷で活躍したイエズス会宣教師たちの存在なくして、円明園の最もユニークな特徴の一つである「西洋楼」の誕生を語ることはできません。 この西洋風宮殿群の建設は、当時の中国とヨーロッパの間の文化的、技術的交流を象徴する出来事でした。
宮廷に仕えた宣教師たち
清朝の康熙帝、雍正帝、乾隆帝の三代の皇帝は、西洋の科学技術や芸術に対して非常に開かれた姿勢を持っていました。 彼らは、ヨーロッパからやってきたイエズス会宣教師たちを宮廷に迎え入れ、その専門知識を様々な分野で活用しました。 宣教師たちは、天文学者、地図製作者、そして画家や建築家として皇帝に仕えました。
西洋楼の建設に最も大きく貢献したのは、イタリア人画家のジュゼッペ・カスティリオーネ(中国名:郎世寧)です。 彼は、西洋の写実的な絵画技法と中国の伝統的な画材や画題を融合させた独自の画風で乾隆帝の寵愛を受けました。 乾隆帝は、カスティリオーネの芸術的才能を高く評価し、彼に円明園内にヨーロッパの宮殿のような建物を設計するよう命じました。
また、フランス人イエズス会士のミシェル・ブノワ(中国名:蔣友仁)は、水力学の専門家として、西洋楼の精巧な噴水システムの設計と建設を担当しました。 同じくフランス人のジャン・ドニ・アティレ(中国名:王致誠)も画家としてこのプロジェクトに参加しました。 ヨーロッパの専門家と、彼らの指導のもとで働く中国人の職人たちとの協働によって、西洋楼は建設されたのです。
西洋楼の設計と特徴
西洋楼は、長春園の北東の端、比較的狭いエリアに集中して建てられました。 これは、庭園全体の調和を乱さないようにという配慮があったためと考えられます。西洋楼は、一つの大きな建物ではなく、「諧奇趣」、「海晏堂」、「遠瀛観」など、複数の西洋風の宮殿や庭園、噴水からなる複合施設でした。
建築様式は、主にイタリアのバロック様式とフランスのロココ様式が取り入れられていました。 曲線的なファサード、華麗な装飾、そして大理石の彫刻などが特徴です。しかし、その構造には中国の伝統的な建築技術が用いられており、木製の柱を骨組みとし、レンガや色鮮やかな瑠璃瓦で壁や屋根が作られていました。 つまり、西洋楼は見た目こそ西洋風でしたが、その魂は中国の建築技術に根差していたのです。これは、異文化をただ模倣するのではなく、自らの伝統と融合させようとする清朝の姿勢を象a徴しています。
驚異の水力装置:海晏堂の大噴水
西洋楼の中でも特に人々を驚かせたのが、ミシェル・ブノワが設計した噴水群でした。 当時の中国には大規模な噴水を作る技術がなかったため、これは画期的な試みでした。中でも「海晏堂」の前に設置された水力時計は、その独創性と技術的な精巧さで有名です。
この噴水は、十二支の動物のブロンズ製頭部像が円形に配置され、それぞれの動物が2時間ごとに順番に口から水を噴き出す仕組みになっていました。 そして正午には、12体の像すべてが一斉に水を噴き出し、壮観な光景を創り出しました。 この動力は、数キロ離れた山から水を引き、水力学の原理を利用して圧力を生み出すことで得られていました。この複雑なシステムは、ブノワの高度な科学知識と、それを実現した中国人技術者たちの努力の賜物でした。この噴水は、西洋の科学と中国の伝統的な時間観念(十二支)が融合した、文化交流の象a徴的な産物と言えます。
文化交流の象徴とその限界
西洋楼の建設は、乾隆帝の異文化への強い好奇心と、世界のあらゆる優れたものを自らの庭園に集めたいという皇帝としての願望の表れでした。 ヨーロッパの宮殿を模倣することで、彼は自らの権威が中国国内だけでなく、遠いヨーロッパにまで及ぶかのような印象を与えようとしたのかもしれません。
しかし、この文化交流には限界もありました。西洋楼はあくまで皇帝個人の趣味の範囲に留まり、中国社会全体に西洋建築や技術が広まるきっかけにはなりませんでした。また、西洋楼が円明園全体に占める割合はごくわずかであり、庭園の主流はあくまで中国の伝統的な様式でした。
それでもなお、西洋楼の存在は、18世紀の清朝が決して閉鎖的な世界ではなく、遠いヨーロッパの文化や技術を積極的に受容し、自らの文化の中に取り込もうとしていたことを示す貴重な証拠です。それは、異なる文明が出会い、互いに影響を与え合った、束の間の輝かしい瞬間を今に伝えています。その輝きは、1860年の破壊によって失われましたが、残された遺跡は、かつてこの場所で繰り広げられた壮大な文化の融合を静かに物語っているのです。
悲劇の序章:アヘン戦争と緊張の高まり
19世紀半ば、清王朝の栄華を象徴した円明園の運命を暗転させる歴史的な出来事が起こります。それは、イギリスを中心とする西欧列強との間に勃発したアヘン戦争でした。 この戦争は、単なる軍事衝突に留まらず、異なる価値観を持つ二つの文明の衝突であり、その後の中国の歴史、そして円明園の悲劇へと直接的につながっていくものでした。
貿易不均衡とアヘンの流入
18世紀から19世紀にかけて、イギリスでは中国産の茶の需要が爆発的に増加しました。 しかし、イギリスには中国市場で魅力的な商品が少なく、茶の輸入代金を支払うための銀が大量に流出するという、深刻な貿易不均衡に悩まされていました。 この問題を解決するためにイギリスが目をつけたのが、植民地のインドで生産されるアヘンでした。
イギリスの商人たちは、アヘンを中国に密輸出し、その代金で茶を買い付けるという三角貿易を確立しました。 清朝政府はアヘンの吸引が国民の健康を害し、社会の風紀を乱すとして、何度もアヘンの輸入を禁止する法令を出しましたが、密貿易は後を絶ちませんでした。アヘン中毒者の増加は深刻な社会問題となり、さらにアヘンの代金として大量の銀が国外に流出したため、清朝の財政は危機的な状況に陥りました。
第一次アヘン戦争と不平等条約
事態を重く見た清朝政府は、1839年、欽差大臣の林則徐を広州に派遣し、アヘンの取り締まりを強化しました。林則徐は、イギリス商人たちが所有していた大量のアヘンを没収し、焼却処分するという断固たる措置を取りました。
この事件を口実に、イギリスは自国の商業的利益と「自由貿易」の原則を守るためとして、1840年に遠征軍を派遣し、第一次アヘン戦争が勃発しました。近代的な兵器と海軍力で勝るイギリス軍に対し、清軍は各地で敗北を喫しました。
1842年、清朝は屈辱的な南京条約の締結を余儀なくされます。この条約により、清は香港の割譲、5つの港の開港、多額の賠償金の支払い、そして関税自主権の喪失などを認めさせられました。これは、中国が西欧列強と結んだ最初の不平等条約であり、中国が半植民地化への道を歩み始める第一歩となりました。
第二次アヘン戦争への道
南京条約によって開かれた市場は、イギリスの商人たちが期待したほど大きな利益をもたらしませんでした。彼らは、さらなる市場の開放、アヘン貿易の合法化、そして北京への外交使節の常駐などを求め、条約の改定を清朝政府に迫りました。しかし、清朝側はこれを拒否し続け、両者の間の緊張は再び高まっていきました。
このような状況下で、1856年にアロー号事件が発生します。これは、アロー号というイギリス船籍を主張する船に、清の役人が乗り込み、海賊容疑で中国人船員を逮捕したという事件でした。イギリスはこの事件を条約違反だと主張し、フランスも自国の宣教師が殺害された事件を口実に、共同で軍事行動を起こすことを決定しました。こうして、1856年、第二次アヘン戦争が勃発したのです。
英仏連合軍は、広州を占領した後、北上して天津を攻略し、北京に迫りました。 戦争の過程で、清朝の官僚制度や軍隊の腐敗と弱体化が露呈しました。 乾隆帝の時代には強大であった帝国は、内部からの腐敗と外部からの圧力によって、もはや往時の勢いを失っていたのです。
この戦争の最終局面で、円明園の悲劇が起こります。北京郊外にまで進軍してきた英仏連合軍にとって、皇帝の私的な楽園であり、清朝の権威の象徴であった円明園は、格好の標的となりました。 茶とアヘンをめぐる貿易摩擦から始まった対立は、ついに中国で最も壮麗な宮殿の破壊という、文化的な破壊行為へとエスカレートしていくことになるのです。
破壊と略奪:1860年の悲劇
1860年10月、第二次アヘン戦争の最終局面において、円明園は歴史上最も悲劇的な出来事に見舞われました。北京に到達したイギリス・フランス連合軍によって、この壮麗な皇室庭園は徹底的な略奪の対象となり、そして意図的に焼き払われたのです。 この出来事は、単なる戦争行為に留まらず、近代史における最大級の文化破壊行為の一つとして記憶されています。
交渉使節団の拘束と報復の決定
悲劇の直接的な引き金となったのは、9月中旬に停戦交渉のために清朝側へ向かった英仏の使節団が拘束された事件でした。 ハリー・パークスやヘンリー・ロックを含む外交官、兵士、そしてタイムズ紙の記者トーマス・ボウルビーら39名からなる一行は、休戦の旗の下で交渉に臨みましたが、清朝当局によって捕らえられ、投獄されました。
彼らは過酷な拷問を受け、その結果、約20名が命を落としました。 生還したパークスらが10月中旬に解放され、その悲惨な待遇が連合軍に伝わると、兵士たちの間に激しい怒りが広がりました。
この残虐行為に対する報復として、イギリスの高等弁務官であり遠征軍の総司令官であった第8代エルギン伯爵ジェームズ・ブルースは、円明園の破壊を命じました。 当初、エルギン卿は北京の中心にある紫禁城を焼き払うことも検討しましたが、それは清朝の支配そのものを覆しかねず、和平交渉を困難にすると考え、断念しました。 その代わりに、皇帝個人に最も大きな打撃を与え、個人的な責任を問う場所として、皇帝が最も愛し、政務を執っていた円明園が標的として選ばれたのです。 この破壊行為は、清朝に対して、捕虜の虐待や誘拐を外交手段として用いることの重大な結果を示すという、政治的な警告の意味も込められていました。
野蛮な略奪
円明園の破壊に先立ち、大規模な略奪が行われました。1860年10月6日、連合軍が円明園に到達すると、兵士たちはその壮麗さと膨大な宝物に圧倒されました。 司令官の命令の下、兵士たちは宮殿や建物になだれ込み、目に入るあらゆる貴重品を狂ったように奪い始めました。
フランス軍司令官シャルル・クーザン=モントーバンは、イギリス側に「何一つ触れていない」と伝えましたが、実際にはすでに大規模な略奪が始まっていました。 両軍の司令官は、最も価値のある品々をリストアップし、両国間で分配するための委員会を設置しました。 エルギン卿は皇帝の緑色の翡翠の指揮棒を選び、フランス皇帝ナポレオン3世のためにも同様の品が確保されました。 また、フランス側では、特に価値のある品を皇后ウジェニーに献上することが決定されました。
しかし、公式な分配とは別に、個々の兵士による無秩序な略奪が横行しました。彼らは絹織物、象牙製品、青銅器、磁器、そして西洋製の時計などを手当たり次第に奪いました。 持ち運べないものは容赦なく破壊されました。 フランスの作家ヴィクトル・ユゴーは、この行為を「二人の強盗が博物館に押し入った。一人は略奪し、もう一人は火をつけた」と痛烈に非難しました。 略奪は数日間にわたって続き、中国5000年の歴史が生み出した至宝が、わずかな時間のうちに失われていきました。
三日三晩続いた炎
略奪が終わった後、1860年10月18日、エルギン卿の命令により、円明園の焼き討ちが開始されました。 3,500人から4,000人のイギリス兵が動員され、広大な敷地内の数百もの建物に次々と火を放ちました。 円明園はあまりにも広大だったため、全ての建物を破壊するには3日間を要しました。
炎は三日三晩燃え続け、かつて「万園の園」と謳われた壮麗な宮殿群は、黒い煙を上げる瓦礫の山へと変わりました。 この火災により、略奪を免れた数多くの文化財が灰燼に帰し、また、宮殿内に残っていた宦官、宮女、職人など約300名も命を落としたと伝えられています。
破壊が終わった後、連合軍は「これは背信と残酷さに対する報いである」と中国語で書かれた看板を掲げました。 この円明園の焼失は、第二次アヘン戦争における最後の主要な出来事となりました。
この破壊行為は、フランスの司令官たちからは「不必要で危険な復讐」と見なされるなど、連合軍内部でも完全な合意があったわけではありませんでした。 しかし、エルギン卿の決定は覆されることなく、実行されました。彼の父は、アテネのパルテノン神殿から大理石彫刻群(エルギン・マーブル)を持ち去ったことで知られており、親子二代にわたって世界の文化遺産に大きな傷跡を残すことになったのです。
円明園の破壊は、単に建物が失われただけでなく、そこに集積されていた人類の記憶と文化が暴力によって奪われたことを意味しました。その傷跡は、物理的な廃墟としてだけでなく、中国の人々の心にも深く刻み込まれることになります。
廃墟の運命:破壊後の円明園
1860年の英仏連合軍による破壊と放火は、円明園に壊滅的な打撃を与えましたが、それはこの壮大な庭園が辿る長い受難の時代の始まりに過ぎませんでした。一度その輝きを失った円明園は、その後の数十年間、さらなる破壊と荒廃に晒され続けることになります。
破壊を免れた建物と再建の試み
1860年の大火災は、円明園の建物の90%以上を破壊しましたが、全てが失われたわけではありませんでした。 いくつかの歴史記録によれば、庭園内の景勝地のうち16箇所は火災を免れたとされています。 特に、綺春園にあったいくつかの中国様式の建物は生き残りました。
円明園の破壊後、清朝の宮廷は紫禁城へと移りました。 1873年、若き同治帝は、母である西太后と東太后の隠居所にするという名目で、円明園の再建を試みました。 しかし、アヘン戦争の賠償金支払いなどで財政が逼迫していた清朝には、この巨大なプロジェクトを遂行するだけの経済的な余裕はありませんでした。 宮廷内の反対もあり、皇帝は翌1874年に再建計画の中止を余儀なくされました。
1880年代になると、西太后は円明園に隣接する清漪園を再建し、それを頤和園と改名しました。 この再建には、海軍の予算を流用したとされており、清朝の財政難と政治的混乱を象徴する出来事となりました。 頤和園の再建に巨額の資金が投じられた一方で、円明園の本格的な修復は行われることなく、放置され続けました。
さらなる破壊と荒廃
清朝の権威が失墜し、国が混乱に陥る中で、円明園の廃墟はさらなる破壊の対象となりました。 1900年の義和団の乱の際には、八カ国連合軍が北京を占領し、その一部が円明園に駐留しました。 この時、残っていた建物や装飾品が再び略奪され、破壊されました。
清王朝が1911年に崩壊し、中華民国が成立すると、円明園は管理者を失い、無法地帯と化しました。 周辺の農民や軍閥、そして一般の人々が、建築資材を求めて廃墟に立ち入るようになりました。 残っていた建物の木材、石材、瑠璃瓦などが持ち去られ、家や墓の建設に再利用されました。 西洋楼の壮麗な大理石の彫刻でさえ、切り出されて売られる始末でした。
さらに、庭園の広大な土地は農地に転用され、かつての美しい湖や小川は埋め立てられて水田や畑に変わりました。 丘は削られ、木々は伐採されました。 こうして、かつて「万園の園」と謳われた芸術的な景観は、人間の手によって完全に破壊され、その面影をほとんど失ってしまったのです。
遺跡公園としての再生
中華人民共和国が成立した後、円明園の歴史的価値が再認識されるようになります。 1988年、円明園の遺跡は「円明園遺跡公園」として一般に公開され、国の重要文化財保護単位に指定されました。
公園の管理当局は、残された遺跡を保存し、かつての庭園の環境を回復させるための努力を始めました。 埋め立てられていた湖や水路が再び掘り起こされ、植樹が行われました。 散乱していた石材や彫刻の破片が集められ、元の場所に戻す作業も進められました。
今日、円明園遺跡公園を訪れる人々は、西洋楼の壮大な大理石の廃墟や、かつての建物の基礎、そして復元された庭園の風景を見ることができます。 これらの遺跡は、円明園がかつて持っていた壮麗さと、それが経験した悲劇的な破壊の歴史を静かに物語っています。 廃墟は、単なる破壊の痕跡ではなく、中国の近代史における屈辱と喪失の記憶を刻み込んだ、力強い象徴となっているのです。
ヴィクトル・ユゴーの書簡:正義の声
円明園の破壊と略奪という野蛮な行為に対して、ヨーロッパの知識人の中から、良心に基づいた痛烈な批判の声が上がりました。その最も有名で力強いものが、フランスの文豪ヴィクトル・ユゴーが1861年にバトラー大尉に宛てて書いた書簡です。当時、政治的な理由で亡命生活を送っていたユゴーは、この書簡の中で、英仏連合軍の行為を厳しく断罪し、歴史の裁きを求めました。
「二人の強盗」という痛烈な比喩
ユゴーは書簡の冒頭で、円明園の破壊を「二人の強盗」の仕業にたとえました。
「ある日、二人の強盗が円明園に押し入った。一人は略奪し、もう一人は火をつけた。…我々の目の前で、歴史の証人として、二人の強盗が円明園に侵入したのだ。一人はフランス、もう一人はイギリスと名乗った。」
この強烈な比喩は、自国フランスを含むヨーロッパ列強の行為が、国家の名の下に行われた単なる戦争行為ではなく、本質的には盗賊による野蛮な破壊行為と何ら変わらないことを喝破するものでした。彼は、この行為が文明の名に値しない、恥ずべき犯罪であると断じたのです。
円明園の価値への賛辞
ユゴーは、破壊された円明園がどれほど偉大な文化遺産であったかを、情熱的な言葉で描写しています。
「それは、世界の驚異の一つであった。…芸術には二つの源泉がある。一つは理念から生まれるヨーロッパの芸術、もう一つは想像力から生まれる東洋の芸術だ。円明園は、この想像力の芸術が到達し得た、ほとんど人間を超えた高みにある、巨大なモデルであった。」
彼は、ギリシャのパルテノン神殿が「理念の芸術」の代表であるのに対し、円明園は「想像力の芸術」の至宝であると位置づけました。そして、それは単なる美術品ではなく、「一つの民族の想像力が、何世代にもわたって築き上げてきたもの」であり、時間そのものが作り出した宝であると述べ、その破壊が人類全体の損失であることを強調しました。
歴史の裁きとフランスへの希望
ユゴーは、この犯罪行為の責任が、フランスという国家そのものにあると厳しく指摘しました。彼は、フランス政府がこの犯罪によって得た利益を、あたかも戦利品であるかのように誇示していることを非難しました。
そして、書簡の最後を次のように結びます。
「私は願う。いつの日か、解放され、清められたフランスが、この盗品を奪われた中国に返す日が来ることを。それまでの間、私は、この強盗行為が、フランスとイギリスという二つの勝利者の共同で行われたことを、歴史の証人としてここに記録する。」
この言葉は、単なる非難に留まらず、将来のフランスが過去の過ちを認め、正義を回復することへの強い希望を表明するものでした。ユゴーの書簡は、彼の死後に出版され、広く知られるようになりました。それは、国家の利益や名誉といった名目の下で行われる文化破壊の非人道性を告発し、人類共通の遺産を守るべきであるという普遍的なメッセージを、時代を超えて伝え続けています。この書簡は、中国において、円明園の悲劇を語る上で欠かすことのできない重要な文献として、今日でも高く評価されています。
現代における円明園:記憶、論争、そして未来
1860年の破壊から160年以上が経過した現在、円明園は単なる歴史的な遺跡に留まらず、中国の近現代史における複雑な感情や記憶、そして未来に向けた様々な議論を呼び起こす、生きた場所となっています。その存在は、愛国主義教育の象徴、文化財返還問題の焦点、そして遺跡の保存と修復をめぐる論争の舞台となっています。
愛国主義教育の拠点として
中華人民共和国政府は、円明園の廃墟を「国恥」の象徴と位置づけ、国民、特に若い世代に対する愛国主義教育の重要な拠点として活用しています。西洋列強による侵略と破壊の歴史を学ぶことで、過去の屈辱を忘れず、国家の富強と復興の重要性を認識させることが目的です。
公園内に設置された展示館では、破壊前の円明園の壮麗な姿を再現した模型や絵画と共に、破壊と略奪の悲惨な歴史が詳細に解説されています。学校の団体見学なども頻繁に行われ、子供たちは西洋楼の崩れ落ちた大理石の柱を目の当たりにすることで、教科書で学んだ歴史をより生々しいものとして体感します。この場所は、中国がかつて経験した苦難と、それを乗り越えて今日の発展を遂げたというナショナル・ストーリーを物語るための、強力な装置として機能しているのです。
失われた文化財の返還問題
円明園から略奪された膨大な数の文化財は、現在、イギリスの大英博物館やフランスのフォンテーヌブロー宮殿をはじめ、世界47カ国の博物館や個人のコレクションに散逸していると言われています。中国政府と国民の間では、これらの失われた宝を取り戻すべきだという声が年々高まっています。
特に象徴的なのが、海晏堂の十二支像の頭部をめぐる動きです。これまでに、牛、虎、猿、豚、馬、鼠、兎の7つの頭部が、様々な経緯を経て中国に返還されました。これらの返還は、中国の国力増大を背景に、政府や愛国的な企業家によるオークションでの落札や、寄贈といった形で行われてきました。十二支像の返還は、メディアで大きく報じられ、国民的な関心事となっています。
しかし、多くの海外の博物館は、文化財が略奪されたという歴史的経緯を認めつつも、それらが現在では人類全体の遺産として適切に管理・公開されているとして、返還には消極的な姿勢を示しています。この問題は、文化財の所有権、歴史の解釈、そして国家間の関係が複雑に絡み合う、国際的な課題となっています。
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