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典礼問題とは わかりやすい世界史用語2479
著作名: ピアソラ
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典礼問題とは

清朝の典礼問題は、17世紀から18世紀にかけてカトリック教会の宣教師たちの間で巻き起こった、中国の伝統的な儀礼や儒教の教えの宗教的性質をめぐる論争です。 この論争の中心にあったのは、祖先崇拝や孔子を祀る儀式が、カトリックの信仰と両立しうる世俗的な慣習なのか、それとも異教的な宗教行為にあたるのかという問題でした。 イエズス会はこれらの儀礼をキリスト教と両立可能な世俗的なものと見なしましたが、ドミニコ会やフランシスコ会などの他の修道会はこれに強く反対し、問題をローマ教皇庁に報告しました。 この対立は、ヨーロッパの主要な大学や、清の康熙帝、そしてクレメンス11世やベネディクトゥス14世を含む複数の教皇を巻き込む国際的な問題へと発展しました。



論争の始まり:マテオ=リッチの適応政策

典礼問題の根源は、16世紀末に中国での宣教活動を開始したイエズス会士マテオ=リッチの適応政策に遡ります。 リッチは、中国の知識人層にキリスト教を受け入れてもらうためには、ヨーロッパの文化や習慣を押し付けるのではなく、中国の文化や言語、慣習に適応することが不可欠であると考えました。 彼は中国語と古典を学び、儒学者の服装をまとい、中国の知識人たちとの対話を通じてキリスト教を伝えようと試みました。
リッチの適応政策の核心は、中国の伝統的な儀礼、特に祖先崇拝と孔子を祀る儀式に対する解釈にありました。 彼は、これらの儀式は宗教的な崇拝行為ではなく、祖先への敬意や感謝を示す社会的な、あるいは市民的な慣習であると結論付けました。 したがって、キリスト教に改宗した中国人も、これらの儀式に参加し続けることは許容されるべきだと主張したのです。 このアプローチは、キリスト教の教義の完全性を損なうことなく、中国人が自らの文化的アイデンティティを維持しながら改宗することを可能にするものでした。
また、リッチはキリスト教の「神」を指す中国語の訳語として、中国の古典に由来する「天」や「上帝」といった言葉を使用することを容認しました。 彼は、これらの言葉が古代中国において至高の存在を指していたと考え、キリスト教の神の概念と共通する部分があると判断したのです。 彼はまた、中国人改宗者が長年使用してきた「天主」という言葉も承認しました。 このように、既存の文化的・言語的概念を用いてキリスト教を説明することで、リッチはキリスト教が全く異質で新しいものではなく、中国古来の信仰の完成形であると説いたのです。
リッチのこの適応主義的なアプローチは、中国におけるイエズス会の宣教活動に大きな成功をもたらしました。 彼らは天文学や数学などの西洋科学の知識を武器に、明朝末期から清朝初期にかけての皇帝の宮廷で信頼を得て、多くの知識人や役人を改宗に導きました。
対立の激化:ドミニコ会とフランシスコ会の批判

しかし、17世紀に入り、ドミニコ会やフランシスコ会といった他のカトリック修道会が中国での宣教を開始すると、イエズス会の適応政策は厳しい批判にさらされることになります。 これらの修道会は、しばしばスペイン植民地であったフィリピンを経由して中国に入り、他の地域で適用してきた「白紙状態(タブラ・ラサ)」の原則、すなわち現地の文化や慣習を一切認めずにキリスト教を広めるという方針を中国でも適用しようとしました。 彼らは、イエズス会が容認していた祖先崇拝や孔子儀礼を、明らかに異教的で迷信的な宗教行為であると見なし、カトリックの教えと相容れないものとして強く非難しました。
特に、1633年に中国に到着したドミニコ会士フアン・バウティスタ・モラレスは、イエズス会のやり方を厳しく批判した最初の一人です。 彼は、これらの儀礼が迷信であるとして、マニラ大司教、そして1643年にはローマ教皇庁に問題を報告しました。 ドミニコ会とフランシスコ会は、イエズス会が改宗者を増やすために教義を妥協させ、異教の習慣との混合(シンクレティズム)を助長していると主張しました。
この対立の背景には、神学的な見解の相違だけでなく、修道会間の競争意識や、ポルトガルとスペインというそれぞれの後援国の対立も影響していました。 イエズス会が主にポルトガルの保護下で活動していたのに対し、ドミニコ会やフランシスコ会はスペインと密接な関係にあったのです。
論争の主要な争点は二つありました。一つは、祖先や孔子に捧げられる儀式が宗教的なものか、それとも単なる市民的なものかという問題です。 イエズス会は後者の立場をとり、これらの儀式は故人への敬意を示す社会的な慣習に過ぎないと主張しました。 一方、反対派は、これらが明らかに宗教的な崇拝行為であり、偶像崇拝にあたると反論しました。
もう一つの大きな争点は、「神」を指す中国語の訳語の問題でした。 イエズス会は「天」や「上帝」といった中国古来の言葉の使用を認めましたが、反対派はこれらの言葉が異教の神々との混同を招く恐れがあると主張し、宣教師によって作られた「天主」という言葉のみを使用すべきだと訴えました。
ローマ教皇庁の介入と揺れ動く判断

中国の宣教師たちの間で激化した論争は、やがてヨーロッパに伝わり、ローマ教皇庁の判断を仰ぐことになります。この問題に対する教皇庁の態度は、数十年にわたって揺れ動きました。
1645年、ドミニコ会士モラレスの報告に基づき、教皇庁の布教聖省は、ドミニコ会の主張を支持し、中国の儀礼を迷信的であるとして禁止する最初の裁定を下しました。 この決定は、イエズス会の適応政策にとって大きな打撃となりました。
しかし、イエズス会も黙ってはいませんでした。彼らは自らの主張の正当性を訴えるため、マルティノ・マルティニをローマに派遣しました。マルティニは、中国の儀礼が宗教的なものではなく、あくまで市民的・政治的なものであることを詳細に説明しました。 その結果、1656年、教皇アレクサンデル7世の承認のもと、布教聖省は前回の決定を覆し、迷信的な要素が排除されることを条件に、中国の儀礼を容認するという裁定を下しました。 この決定は、イエズス会の主張を認めるものであり、彼らの宣教活動を再び後押ししました。
ところが、これで問題が解決したわけではありませんでした。1669年、教皇クレメンス9世(在位期間の記述は資料にないが、クレメンス11世の前の教皇)の承認を得た聖務省は、1645年の禁止令と1656年の容認令はどちらも有効であり、それぞれの状況に応じて適用されるべきであるという、曖昧な回答を出しました。 このようなローマの煮え切らない態度は、現場の混乱をさらに増大させる結果となりました。
17世紀末になると、事態はさらに複雑化します。福建省の使徒座代理であったシャルル・メグロが、1693年に中国儀礼を厳しく禁じる7か条の指令を発布したのです。 この指令は、「天」や「上帝」という言葉の使用を禁じ、祖先の位牌の使用を禁止するなど、イエズス会の適応策を真っ向から否定するものでした。 このメグロの指令は、イエズス会だけでなく、多くのアウグスティヌス会士やフランシスコ会士、そして一部のドミニコ会士からも強い反発を招き、論争は再び燃え上がりました。
この騒動を受け、ローマでは1697年に中国儀礼問題を再審理するための特別委員会が設置されました。
康熙帝の介入と教皇特使の派遣

典礼論争は、カトリック教会内部だけの問題にとどまりませんでした。清朝の最も偉大な皇帝の一人とされる康熙帝も、この問題に深く関わることになります。 康熙帝は当初、イエズス会士たちがもたらす西洋の科学技術や知識に強い関心を示し、彼らを宮廷で重用していました。 1692年には、キリスト教の布教を公認する「容教令」を発布し、カトリック教会を保護する姿勢を示しました。 康熙帝にとって、イエズス会士たちは有能な技術者であり、信頼できる顧問でした。
しかし、ヨーロッパから伝わってくる儀礼問題に関する否定的な報告は、康熙帝とローマ教皇庁との関係に影を落とし始めます。イエズス会士たちは、自らの立場を有利にするため、康熙帝に中国儀礼の性質について公式な見解を求めました。 1700年11月30日、康熙帝は、孔子への儀式は尊敬の表現であり、祖先崇拝は故人を偲び、感謝を示すためのものであって、宗教的な意味合いはないとする勅書を出しました。 これは、イエズス会の解釈を皇帝が公式に支持したことを意味しました。
一方、ローマでは、長年の審議の末、教皇クレメンス11世が1704年11月20日に教令「クム・デウス・オプティムス」を発布しました。 この教令は、メグロの指令をおおむね支持し、中国儀礼を明確に禁止するものでした。 「天」や「上帝」の使用を禁じ、「神」の訳語としては「天主」のみを認めること、そして孔子や祖先への儀式への参加を一切禁じることが定められました。
この決定を中国側に伝え、徹底させるために、クレメンス11世は教皇特使としてシャルル=トマ・マイヤール・ド・トゥルノンを北京に派遣しました。 トゥルノンは1705年12月に北京に到着し、康熙帝と会見しましたが、交渉は決裂に終わりました。 トゥルノンは、教皇の権威を盾に、中国の慣習を理解しようとせず、一方的に禁止令を伝えようとしました。 これに対し、康熙帝は、西洋人は中国の大きな問題を理解しておらず、その言説は信じがたく、馬鹿げていると激怒しました。 皇帝は、ローマ教皇庁の決定を、中国の文化と主権に対する内政干渉と見なしたのです。
康熙帝は、トゥルノンの強硬な態度に反発し、1706年、マテオ=リッチの方針に従うことを宣誓した宣教師にのみ中国滞在を許可する「票(ピヤオ)」制度を導入しました。 これを拒否したトゥルノンは、最終的にマカオに追放され、そこで客死しました。
教皇庁の最終決定とキリスト教の禁止

トゥルノン使節団の失敗にもかかわらず、ローマ教皇庁の強硬な姿勢は変わりませんでした。1715年3月19日、クレメンス11世は、さらに厳しい教皇勅書「エクス・イラ・ディエ」を発布しました。 この勅書は、1704年の教令を再確認し、中国儀礼を公式に断罪するものでした。 全ての宣教師に対して、この勅書に従うことを誓約させ、違反者には破門という最も重い罰則を科すことを定めました。
この勅書は、中国におけるカトリック教会の状況を決定的に悪化させました。康熙帝は、教皇の勅書に激しく反発し、1721年、ついに中国全土でのキリスト教の布教を禁止するに至りました。 康熙帝は、「西洋人は実に些細なことしか考えていない」と述べ、教皇の布告を「馬鹿げた内容」と断じました。 かつては寛容な姿勢を示していた皇帝が、キリスト教に対して敵対的な態度へと転じた瞬間でした。
康熙帝の後を継いだ雍正帝(在位1722-1735)の時代になると、キリスト教への弾圧はさらに厳しくなりました。 1724年、雍正帝はカトリックを「天主教」という名の邪教として正式に禁止し、宣教師の追放と教会の破壊を進めました。
教皇庁側も、この問題に終止符を打とうとします。1742年、教皇ベネディクトゥス14世は、教皇勅書「エクス・クオ・シングラーリ」を発布し、クレメンス11世の決定を再確認しました。 この勅書は、中国儀礼の禁止を最終的かつ決定的なものとし、この問題に関するいかなる議論も禁じました。 中国で活動する宣教師は、この決定に従うことを宣誓する義務を負わされました。
こうして、1世紀以上にわたって続いた典礼論争は、イエズス会の適応政策の完全な敗北と、ローマ教皇庁による中国儀礼の全面的な禁止という形で幕を閉じました。この決定は、中国におけるカトリック教会の宣教活動に壊滅的な打撃を与え、教会はその後2世紀近くにわたって停滞と迫害の時代を迎えることになります。
論争の歴史的影響と再評価

典礼問題とその結末は、中国と西洋の関係、そしてキリスト教の宣教史に深刻かつ長期的な影響を及ぼしました。
第一に、中国におけるカトリック教会の衰退を決定づけました。 教皇庁の強硬な決定は、清朝政府のキリスト教に対する不信感と敵意を煽り、大規模な迫害を引き起こしました。 多くの宣教師が追放され、教会は破壊され、信者の数は激減しました。 かつては皇帝の厚い信頼を得ていたイエズス会もその影響力を失い、中国のキリスト教はその後、長い冬の時代に入ります。
第二に、中国とバチカンの関係を長期にわたって断絶させました。 康熙帝が教皇の決定を内政干渉と見なしたように、この論争は宗教的な対立だけでなく、文化的主権をめぐる政治的な対立の側面も持っていました。 この出来事は、中国側に西洋、特にカトリック教会に対する根強い不信感を植え付け、両者の公式な関係が樹立されるのを著しく遅らせました。
第三に、異文化理解と宣教のあり方について、後世に重要な教訓を残しました。典礼論争は、本質的にはヨーロッパ中心主義的な視点と、異文化への適応を目指す視点との衝突でした。 ローマ教皇庁が最終的に下した判断は、中国の文化や社会に対する深い理解を欠いたものであり、その結果、大きな機会を失ったと評価されています。 マテオ=リッチが苦心して開いた扉は、後継者たちの不寛容によって閉ざされてしまったのです。
しかし、この物語は完全な終わりを迎えたわけではありませんでした。約200年の時を経て、20世紀になると、カトリック教会は典礼問題に対する見直しを始めます。 1939年12月8日、教皇ピウス12世は、新たな教令「プラーネ・コンペルトゥム」を発布しました。 この教令は、満州国政府から、問題となっている儀式が宗教的なものではなく、あくまで市民的な性格のものであるという保証を得たことを受け、クレメンス11世とベネディクトゥス14世の教令の一部を緩和するものでした。 これにより、中国人のカトリック信者が、孔子を祀る儀式に参加し、祖先崇拝の儀礼を行うことが正式に許可されたのです。
この歴史的な決定は、中国の慣習がもはや迷信とは見なされず、親族を敬うための名誉ある方法として認められたことを意味しました。 儒教もまた、カトリックと対立する異教ではなく、中国文化に不可欠な哲学として認識されるようになりました。 この決定は、中国における教会の状況を革命的に変化させ、1943年には中華民国政府とバチカンとの間に外交関係が樹立される道を開きました。
さらに、第2バチカン公会議(1962-1965)では、可能な限り現地の儀式を教会の典礼に取り入れるという原則が打ち出され、マテオ=リッチが目指した「インカルチュレーション(文化適応)」の理念が、現代のカトリック宣教学の基礎として再評価されることになりました。
結論として、清朝の典礼問題は、異なる文明が出会う際に生じる複雑な文化的、宗教的、政治的対立を象徴する出来事でした。イエズス会の先駆的な適応の試みと、それに続く教皇庁の強硬な禁止、そして2世紀後の和解という長い道のりは、異文化間の対話と相互理解の重要性を物語っています。

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