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行商(公行)とは わかりやすい世界史用語2461
著作名: ピアソラ
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行商(公行)とは

清朝時代の広州における行商、すなわち「広州十三行」の商人たちの活動を理解するためには、まずその背景となった広州システム、またはカントンシステムと呼ばれる貿易体制そのものを深く掘り下げる必要があります。このシステムは、17世紀から19世紀にかけて、中国と西洋諸国の間の貿易を規定した、非常に特徴的な制度でした。 その本質は、すべての対外貿易を広州(カントン)一港に限定し、さらにその貿易活動を「行商」と呼ばれる政府公認の特許商人ギルドを通じてのみ行うという二重の制限にありました。
この体制が確立される以前、17世紀後半の康熙帝の時代、清朝は海禁(海外渡航・貿易の禁止)政策を緩和し、1684年には広州、厦門、寧波、松江の四つの港を対外貿易のために開港しました。 当初、西洋の商人たちはこれらの港で比較的自由に貿易を行うことができましたが、次第に広州がその中心地として頭角を現していきます。 広州は東南アジアへのアクセスが良く、また茶や絹といった西洋で需要の高い商品の主要な集散地であったため、多くの外国商船が自然とこの港に集まるようになったのです。



しかし、清朝政府にとって、外国人との自由な接触は潜在的な脅威と映りました。文化的・社会的な影響を警戒し、また貿易から得られる利益を確実に管理下に置きたいという思惑から、政府は次第に貿易に対する規制を強化していきます。 1757年、乾隆帝はついに布告を出し、西洋との貿易を公式に広州一港に限定しました。 これが、約85年間にわたって続く広州システムの正式な始まりです。この決定は、英国商人が寧波など他の港での貿易拡大を試みたことへの直接的な反応であったとも言われています。
このシステムの中核を担ったのが、「公行(こうこう)」、西洋人には「コホン」として知られる商人組織でした。 これは、政府から対外貿易の独占権を与えられた十数家の豪商たちで構成される組織です。 西洋の商人は、商品を売買する際、必ずこの公行に属する特定の商人(行商)を介さなければなりませんでした。 直接、中国の生産者や一般の市場と取引することは固く禁じられていたのです。
行商たちは、この独占権と引き換えに、清朝政府に対して多岐にわたる重い責任を負いました。彼らは、外国商船が入港する際の身元保証人となり、船員たちの行動すべてに責任を持つことを義務付けられました。 万が一、外国人が問題を起こせば、その責任は保証人である行商が問われることになります。 さらに、彼らは関税の徴収を代行し、それを確実に政府に納める役割も担っていました。 このように、公行は単なる商業ギルドではなく、政府の対外管理政策を末端で実行する、半官半民の特殊な機関としての性格を色濃く持っていたのです。
このシステムを監督する重要な役職として、「粤海関部監督」、通称「ホッポ」が存在しました。 ホッポは皇帝によって直接任命された満州人官僚で、広州における貿易の監督、関税の徴収、そして秩序の維持という絶大な権限を握っていました。 彼らは、通常の官僚機構とは一線を画し、徴収した税収の一部を直接、皇帝の私的な財源である内務府に上納する役割を担っていたため、皇帝からの信頼も厚く、極めて重要なポストでした。 行商たちは、このホッポに対して巨額の献金や手数料を支払うことで、貿易の独占権を維持していました。 そのため、行商、ホッポ、そして清朝宮廷は、広州システムを通じて相互に依存し合う、複雑な利害関係で結ばれていたのです。
西洋商人たちの活動は、広州城壁外の南西、珠江のほとりに設けられた「十三行」と呼ばれる特定の地区に厳しく制限されていました。 この地区は、東西約300メートルほどの狭いエリアで、塀で囲まれ、中国人との自由な往来は禁じられていました。 商人たちは、貿易シーズンである10月から1月頃にかけてのみこの「十三行」に滞在することが許され、シーズンが終わるとマカオへ退去しなければなりませんでした。 「十三行」内での生活も制約が多く、外国人の女性や銃器の持ち込みは禁止され、中国語を学ぶことさえ許されませんでした。
このように、広州システムは、清朝が自らを世界の中心「中華」とみなし、朝貢関係の枠組みの中で外国を位置づけようとする伝統的な世界観を反映したものでした。 貿易はあくまで皇帝が辺境の「夷狄(いてき)」に与える恩恵であり、対等な国家間の自由な通商という概念は存在しなかったのです。西洋商人たちは、この厳格で一方的な規制に不満を抱きながらも、中国の茶、絹、陶磁器などがもたらす莫大な利益のために、このシステムに従わざるを得ませんでした。 こうして、広州の珠江沿いの小さな一角は、18世紀から19世紀にかけて、異なる文明が互いに警戒しつつも、経済的な利益のために密接に関わりあう、世界で最もユニークで重要な貿易の舞台となったのです。
公行(コホン)の組織と機能

広州システムの中核を成した公行(コホン)は、単なる商人の集まりではなく、清朝の対外貿易政策を具現化するための、高度に組織化された独占体でした。 その起源は17世紀後半にまで遡ることができますが、制度として確立されたのは1720年代からで、1760年には乾隆帝の勅命により、その独占的地位が公式に追認されました。 西洋側では、この組織は「コホン」と呼ばれましたが、これは中国語の「公行」が訛ったものです。
公行の構成員と選定

公行を構成する商人は「行商」と呼ばれ、その数は時代によって変動しましたが、おおむね5人から26人の間で推移しました。 最も安定していた時期には、13の商家がギルドを形成していたことから、「十三行」という呼称が定着しました。 しかし、この「十三」という数字は象徴的なものであり、実際の加盟商家数と常に一致していたわけではありません。
行商になるためには、莫大な資本力と社会的信用はもちろんのこと、何よりも政府、特に広州の税関監督であるホッポからの認可を得る必要がありました。 貿易の独占権を得るためには、ホッポや他の役人に対して多額の礼金や献金を支払うことが不可欠であり、その地位は事実上、金で買われるものでした。 一度行商に任命されると、彼らは西洋との貿易、特に茶、絹、陶磁器といった主要な輸出品の取引を独占することができました。
公行の内部には厳格な階層が存在しました。 特に潘啓官に代表されるような、最も裕福で影響力のある数名の行商がギルドの指導的役割を担い、全体の価格設定や西洋商人との交渉方針などを決定していました。 1760年に公行が正式に組織化された際には、既存の17の商家の中から10家のみが加盟を許され、残りは西洋との直接取引から排除されるなど、その選定は非常に排他的でした。
貿易における独占的役割

公行の最も重要な機能は、対西洋貿易の完全な独占です。 外国商船が広州に入港すると、まず公行に属するいずれかの行商を「保商」として選定しなければなりませんでした。 この保商が、その船に関するすべての取引と責任を負うことになります。 外国商人は、商品の価格交渉、貨物の積み下ろし、倉庫の手配、通訳の雇用といった貿易に関わる一切の業務を、この保商を通じて行いました。
公行は、ギルド全体として、毎年、茶や絹などの主要な輸出品の価格を協定して決定しました。 これにより、行商間の過度な価格競争を防ぎ、西洋商人に対して有利な立場で交渉を進めることができたのです。また、商品の品質基準や計量単位、さらには為替レートに至るまで、貿易に関するあらゆる規則を標準化する役割も担っていました。 このようにして、公行は広州の貿易市場を完全にコントロール下に置いていたのです。
彼らのビジネスは輸出だけにとどまりませんでした。西洋から持ち込まれる輸入品、例えば毛織物、綿製品、時計、そして後には銀なども、すべて公行を通じて中国国内に販売されました。 清朝後期、イギリスが貿易赤字を解消するためにアヘンを持ち込むようになると、公行の一部の商人は、非合法であることを知りながらも、その密貿易に深く関与していくことになります。
政府に対する責任と義務

貿易の独占という莫大な利益の裏側で、行商たちは清朝政府に対して極めて重い責任を負わされていました。
第一に、彼らは関税の徴収代理人でした。 外国商船が支払うべき様々な税金や手数料は、すべて担当の行商を通じて徴収され、ホッポへと納められました。 政府は、このシステムを利用することで、煩雑な徴税業務を民間の商人に肩代わりさせ、安定した税収を確保することができたのです。
第二に、彼らは外国人の監督者としての役割を担っていました。 前述の通り、保商は担当する船の船員たちの行動に全責任を負いました。 喧嘩や密輸、その他の違法行為があれば、保商が罰せられ、場合によっては莫大な罰金を科されたり、貿易ライセンスを剥奪されたりすることもありました。 この連帯責任制度は、清朝が直接外国人を管理する手間を省き、行商にその役割を押し付けるための、巧みな統治策でした。
第三に、彼らは政府からの不定期な資金要求に応える義務がありました。 例えば、国内で洪水や飢饉が発生した際には、被災者救済のための「寄付」を強要されました。 また、皇帝の誕生日やその他の慶事の際にも、多額の献金を求められることが常でした。これらの要求は拒否することができず、行商たちの財政を圧迫する大きな要因となりました。
コンス―金(公所金)

行商たちは、こうした政府からの要求や、仲間の行商が破産した際の負債を共同で処理するために、「公所金」、通称「コンス―金」と呼ばれる積立金制度を1775年頃に設立しました。 これは、各行商が取引額の一定割合(当初は茶の取引額の3%)をギルドの共有基金に拠出するというものです。
この基金は、主に二つの目的で使われました。一つは、破産した行商が外国商人に対して抱えていた負債を肩代わりするためです。行商の経営は、政府からの搾取や市場の変動により常に不安定であり、破産は決して珍しいことではありませんでした。 誰かが破産して外国商人への支払いが滞ると、貿易全体の信用が揺らぐため、ギルド全体でその負債を補填する必要があったのです。
もう一つの目的は、ホッポや他の役人からの不規則な金銭要求に応じるための資金源とすることでした。 コンス―金は、公行が組織として存続し、巨大な貿易システムを円滑に運営していくための、いわばセーフティーネットであり、同時に腐敗した官僚機構との関係を維持するための必要悪ともいえる制度でした。
このように、公行は単なる利益追求団体ではなく、貿易の独占、価格の統制、政府への奉仕、そして内部の相互扶助という、多岐にわたる機能を持つ複雑な組織体でした。彼らは、清朝の厳格な管理体制と、西洋の旺盛な商業的欲求との間に立ち、両者の緩衝材として、また唯一の接点として、約一世紀にわたり中国の対外貿易を支配し続けたのです。
十三行地区での生活

広州システム下において、西洋商人たちの活動と生活は、珠江の北岸に広がる「十三行」というごく限られた地区に厳しく制限されていました。 この地区は、西洋と中国という二つの異なる文明が、日常的に、そして極めて密接に接触する、特異な空間でした。それは西洋人にとって、利益を生む「黄金のゲットー」であると同時に、多くの制約を課せられた閉鎖的な居留地でもあったのです。
「十三行」の構造と配置

「十三行」という言葉は、本来は「代理人(Factor)の事業所」を意味する言葉です。 つまり、各国の貿易会社が派遣した代理人たちが、ビジネスを行い、居住するための商館でした。
この地区は、広州の城壁の南西郊外に位置し、東西約300メートル、奥行きは90メートルほどの広さしかありませんでした。 地区の北側は十三行街という通りに面し、東側は小川、西側は別の通りで区切られていました。 珠江に面して、西からデンマーク、スペイン、アメリカ、スウェーデン、イギリス、オランダといった国々の商館が、それぞれの国旗を掲げてずらりと並んでいました。 これらの建物は、もともと公行に属する行商たちが所有する倉庫兼事務所(「行」と呼ばれる)であり、それを西洋の商社が賃借する形をとっていました。
建物自体は、間口が狭く奥行きが深いという、広州特有の伝統的な建築様式に基づいていました。 通常は2階建てか3階建てで、1階が倉庫や事務所、2階以上が居住スペースとして使われていました。 しかし、西洋人たちはこれらの建物のファサード(正面)を、柱やアーチ、三角のペディメント(破風)といった西洋の新古典主義様式で装飾し、自分たちの存在を主張しました。 その結果、建物の構造は中国式でありながら、外観は西洋風という、文化が融合した独特の景観が生まれました。
「十三行」群の間には、「旧チャイナ・ストリート」や「新チャイナ・ストリート」といった狭い路地があり、そこには漆器、象牙細工、扇子、絵画など、様々な中国製品を売る小売店が軒を連ね、西洋人向けの土産物屋街として賑わっていました。
厳格な生活規制

「十三行」地区での西洋人の生活は、清朝政府によって定められた厳しい規則、いわゆる「防範外夷規条」によって縛られていました。その主な内容は以下の通りです。
居住期間の制限: 西洋商人は、貿易シーズン(通常は秋から冬)の間のみ「十三行」に滞在でき、シーズンオフにはマカオへ退去しなければなりませんでした。 広州での永住は認められませんでした。
行動範囲の制限: 彼らの行動は、原則として「十三行」地区内に限られました。 広州の城内に入ることは固く禁じられていました。例外的に、月に数回、通訳の同伴のもとで、近隣の公園などへ外出することが許可される程度でした。
女性の立ち入り禁止: 「十三行」地区への西洋人女性の立ち入りは、一切禁止されていました。 商人たちは、任期中、家族と離れて単身で生活することを強いられました。
中国人との直接接触の禁止: 商売以外の目的で、一般の中国人と直接交流することは禁じられていました。 また、中国人を個人的に雇用することや、中国人から金銭を借りることもできませんでした。
中国語学習の禁止: 西洋人が中国語を学ぶことは、スパイ行為につながる恐れがあるとして、公式には禁止されていました。
武器の持ち込み禁止: 銃器などの武器を「十三行」に持ち込むことは許されませんでした。
これらの規則は、外国人の影響力が中国社会に浸透することを防ぎ、彼らを管理しやすい状態に置くことを目的としていました。 違反した場合は、保証人である行商が厳しく罰せられました。
「十三行」での日常生活

このような厳しい制約の中でも、「十三行」地区は活気に満ちた国際的なコミュニティを形成していました。
商館の内部では、商社の社長や上級職員が豪華な居住空間を持っていた一方で、若い書記や見習いたちは共同で生活していました。 日々の食事や身の回りの世話は、「コンプラドール(Comprador)」と呼ばれる中国人買弁がすべてを取り仕切っていました。 コンプラドールは、政府から認可を受けた特定の業者で、食料や飲料水、日用品の調達から、中国人使用人の雇用・管理、さらには金銭の出納まで、商館の運営に関わるあらゆる雑務を請け負いました。 彼らは西洋人と中国人社会の間に立つ重要な仲介者であり、その立場を利用して莫大な富を築く者もいました。
「十三行」には井戸がなく、水道も整備されていなかったため、飲料水や洗濯水はすべて外部から中国人使用人によって運び込まれました。
退屈な単身生活を紛らわすため、商人たちは様々な娯楽を楽しみました。ボートレースやビリヤード、読書などが人気でした。また、彼らは中国の芸術家たちに、「十三行」の風景や自分たちの肖像画を描かせることを好みました。 当時、西洋の油彩画の技法は中国の画家にとって新しいものでしたが、彼らはすぐにそれを習得し、西洋人向けの輸出絵画という新しいジャンルを生み出しました。 これらの絵画は、当時の「十三行」の様子や貿易の活況を今に伝える貴重な資料となっています。
西洋人と中国人の相互作用

公式には厳しく分離されていたにもかかわらず、「十三行」という狭い空間では、西洋人と中国人の間で日常的な相互作用が絶えず生まれていました。
貿易の現場では、西洋商人と行商、そして通訳たちが、日々顔を合わせ、丁々発止の交渉を繰り広げていました。時には文化や商習慣の違いから対立することもありましたが、多くの場合、互いの利益のために協力的な関係が築かれていました。 特に、ハウクアのような大行商と、彼らを相手にする外国商社の幹部との間には、ビジネスパートナーシップを超えた個人的な友情が芽生えることもありました。
また、「十三行」で働く多数の中国人使用人、コンプラドール、小売店の店主、船頭たちと西洋人との間にも、日常的な交流がありました。 このような非公式な接触を通じて、言葉や文化、情報が少しずつ混じり合っていきました。西洋人はピジン英語(中国語の単語や文法が混じった簡易な英語)を使って意思疎通を図り、中国の習慣や文化の一端に触れました。一方、中国人もまた、西洋の文物や考え方に接する機会を得たのです。
しかし、この交流は常に平和的だったわけではありません。賃金や商品の価格をめぐる些細なトラブル、あるいは文化的な誤解から、暴力事件に発展することも少なくありませんでした。特に、停泊中の船の船員たちが起こす問題は絶えず、そのたびに行商と清朝当局は対応に追われました。
十三行地区は、まさに清朝の管理貿易体制を象徴する空間でした。それは、厳格な隔離政策のもとで、それでもなお止めることのできない異文化間の接触と相互作用が繰り広げられた、矛盾に満ちた場所だったのです。この小さな居留地での経験は、西洋人の中国に対する見方を形成すると同時に、後のアヘン戦争へとつながる緊張の火種を育んでいくことにもなりました。
貿易の構造と主要な商品

広州システム下での貿易は、18世紀から19世紀初頭にかけて、世界経済に大きな影響を与える巨大な規模にまで発展しました。その構造は、中国からの一方的な輸出超過という特徴を持ち、取引される商品は、双方の文化や経済の需要を色濃く反映していました。
輸出:茶、絹、陶磁器の時代

広州から西洋へ輸出される商品の中心は、何と言っても茶、絹、そして陶磁器でした。 これらは「三大輸出品」として知られ、西洋、特にイギリスで爆発的な人気を博しました。
茶: 18世紀を通じて、イギリスでは茶を飲む習慣が社会のあらゆる階層に急速に広まり、茶は生活必需品と化していました。 イギリス東インド会社にとって、中国からの茶の輸入は最も重要かつ利益の大きい事業であり、会社の存立そのものを支える柱でした。 広州に集められる茶は、福建省の武夷山で生産される紅茶や、緑茶など多岐にわたりました。行商たちは、内陸の産地から茶を買い付け、広州の倉庫で品質ごとに選別・箱詰めし、西洋商人に販売しました。 茶の取引額は、広州貿易全体の半分以上を占めることもあり、まさにこの貿易システムの原動力でした。
絹: 古代から中国の特産品として知られる絹製品もまた、重要な輸出品でした。 生糸だけでなく、精巧な刺繍が施された絹織物や衣服は、ヨーロッパの富裕層の間で非常に高い価値を持ち、ステータスシンボルとされました。
陶磁器: 中国の陶磁器、特に景徳鎮などで作られる精巧で美しい磁器は、ヨーロッパの王侯貴族を魅了し、「チャイナウェア」として珍重されました。 当初は中国伝統の意匠のものが輸出されていましたが、次第に西洋の商社の紋章を入れたり、西洋の風景画を模したりするなど、ヨーロッパ市場の好みに合わせた特注品が数多く作られるようになりました。 これらの輸出用磁器は、異文化交流の具体的な証として、今も世界中の美術館や個人コレクションに残されています。
これらの三大輸出品に加えて、大黄(薬用植物)、樟脳、漆器、象牙細工、扇子といった工芸品も人気がありました。
輸入:銀の流入と貿易不均衡

一方で、西洋から中国への輸入品は、非常に限られていました。当時の中国は、自給自足的な経済が確立しており、外国製品に対する需要がほとんどなかったのです。 イギリスは毛織物(ラシャ)や綿製品を輸出しようと試みましたが、中国の温暖な気候や、より高品質で安価な国内産の綿織物や絹織物の存在のために、販売は振るいませんでした。時計やオルゴールのような珍しい機械製品(西洋の「珍品」として知られる)は、皇帝や一部の富裕層には喜ばれましたが、市場規模はごくわずかでした。
その結果、西洋諸国、特にイギリスは、中国から茶や絹を大量に輸入する一方で、中国に売れるものがほとんどないという、極端な貿易不均衡(入超)に陥りました。 中国側が、商品の代金として唯一受け入れたのが銀でした。 そのため、18世紀を通じて、アメリカ大陸のポトシ銀山などで産出された大量の銀が、ヨーロッパを経由して中国へと一方的に流入し続けました。 この銀の流入は、清朝の経済を潤し、銀を基軸とする通貨制度を支える重要な要素となりました。 一方で、イギリスをはじめとする西洋諸国にとっては、国富である銀が流出し続けることは、国家経済を揺るがしかねない深刻な問題でした。
カントリー・トレードの役割

広州貿易の構造を語る上で、「カントリー・トレード」と呼ばれるアジア域内貿易の存在が極めて重要です。これは、ヨーロッパと中国を直接結ぶ本国貿易とは異なり、イギリス東インド会社の社員や認可を受けた民間商人(プライベート・トレーダー)が、インドと中国、あるいは東南アジアと中国の間で行った貿易を指します。
イギリス東インド会社は、中国での茶の買い付け資金(銀)を調達するため、このカントリー・トレードを積極的に活用しました。彼らは、インドで栽培した綿花や、そして後にはアヘンを中国に輸出し、その代金として得た銀を広州の金庫に預け入れ、茶の購入費用に充てたのです。 つまり、インド(綿・アヘン)→中国(銀)→イギリス(茶)という、三角貿易の構造が形成されていました。この仕組みによって、イギリスは本国から銀を持ち出すことなく、茶の輸入を続けることが可能になりました。
アヘン貿易の台頭

18世紀末から19世紀にかけて、この貿易構造に劇的な、そして破滅的な変化をもたらしたのがアヘンでした。 当初、インド産の綿花が主要な輸入品でしたが、中国国内での綿花生産が増加するにつれて、その需要は頭打ちになりました。貿易不均衡を是正するための新たな商品を模索していたイギリス商人たちは、インドのベンガル地方で大量生産したアヘンに目をつけます。
アヘンは、清朝では1729年にその吸引が、1796年には輸入と栽培が法律で厳しく禁止されていました。 しかし、その中毒性の高さから、一度広まると需要はとどまることを知りませんでした。イギリス東インド会社は、表向きはアヘン貿易への関与を否定しつつも、民間商人にアヘンを卸し、彼らが中国の密輸業者に販売することを黙認、むしろ奨励しました。
密輸業者は、広州湾外の伶仃島(リンディン島)などに停泊するイギリスの古い船(アヘンを保管する浮き倉庫)でアヘンを買い付け、俊敏な小舟で当局の監視をかいくぐり、中国国内に運び込みました。 この非合法な取引には、一部の行商や、腐敗した地方官吏も深く関与していました。
アヘン貿易は爆発的に拡大し、1820年代から1830年代にかけて、それまで中国に流入していた銀が、今度はアヘンの代金として国外へ大量に流出するという、貿易収支の劇的な逆転現象が起こりました。 銀の流出は清朝の経済に深刻な打撃を与え、アヘン中毒者の増加は社会を蝕みました。この状況に危機感を抱いた清朝政府が、林則徐を広州に派遣し、アヘンの徹底的な取締りを断行したことが、最終的に1839年のアヘン戦争勃発の直接的な引き金となったのです。
広州システム下の貿易は、当初は西洋の茶への渇望と中国の銀への需要によって支えられていましたが、その構造的矛盾はやがてアヘンという名の麻薬によって歪められ、最終的には戦争によるシステムの崩壊という悲劇的な結末を迎えることになりました。
広州システムの衰退と終焉

1757年から約85年間にわたり、清朝の対外貿易を規定し続けた広州システムは、19世紀に入ると、その内外に深刻な矛盾と緊張を抱え込むようになります。 西洋諸国、特に産業革命を経て自由貿易を国是とするようになったイギリスの圧力と、アヘン貿易がもたらした破滅的な影響が、この古びたシステムを根底から揺るがし、最終的にはアヘン戦争の砲火によって崩壊へと導きました。
内部からの軋み:行商の財政難と腐敗

システムの内部でも、その矛盾は深刻化していました。貿易の独占権を持つ行商たちは、一見すると莫大な富を手にしているように見えましたが、その経営は常に不安定で、多くの者が財政的な困難に苦しんでいました。
その最大の原因は、ホッポをはじめとする官僚からの絶え間ない搾取でした。 行商たちは、貿易の独占権を維持するために、正規の税金とは別に、多額の賄賂や非公式な献金を支払わなければなりませんでした。 ホッポの任期は通常3年でしたが、彼らはその短い期間に自らの私腹を肥やすため、あらゆる名目で行商から金を搾り取ったのです。 加えて、政府は災害復興や軍事費などを理由に、不定期に巨額の「寄付」を強要しました。
こうした負担は、行商たちの利益を圧迫し、多くの者を破産の危機に追い込みました。18世紀後半には、外国商人から高利で資金を借り入れる行商が続出し、その負債総額は数百万ドルに達しました。 これは違法な行為でしたが、他に資金調達の手段がなかったのです。 破産した行商の負債は、コンス―金(公所金)や残りの行商たちによって肩代わりされましたが、それはギルド全体の財政をさらに悪化させる悪循環を生み出しました。
また、アヘン密貿易の蔓延は、システムの腐敗を加速させました。一部の行商や役人たちは、密輸業者と結託して非合法な利益を得るようになり、公的な貿易システムの権威は内側から蝕まれていきました。
外部からの圧力:自由貿易の要求と外交的衝突

19世紀に入ると、西洋からの圧力はかつてないほど高まります。その中心にいたのが、世界最大の海洋帝国へと成長したイギリスでした。
1834年、イギリス議会は東インド会社の対中貿易独占権を廃止しました。 これにより、多数の民間商人が中国貿易に参入し、彼らは広州システムの制限に縛られない、より自由な貿易を声高に要求するようになります。 彼らにとって、貿易を広州一港に限定し、公行という独占ギルドを介さなければならないシステムは、時代遅れの不合理な障壁としか映りませんでした。
また、外交的な対立が先鋭化しました。イギリス政府は、国王の名において正式な外交使節を派遣し、清朝皇帝と対等な国家としての関係を結び、北京に大使を駐在させ、広州以外の港も開港するよう繰り返し要求しました。1793年のマカートニー使節団や、その後のアマースト使節団などがその代表例です。しかし、清朝は、自らを世界の中心とする中華思想の立場から、これらの要求をことごとく拒絶しました。 清朝にとって、イギリスはあくまで朝貢国の一つであり、対等な外交関係を結ぶ相手ではなかったのです。 このような両国の世界観の根本的な違いが、相互不信を増幅させました。
アヘン戦争:システムの崩壊

こうした内外の緊張が臨界点に達したのが、アヘン問題をめぐる対立でした。前述の通り、アヘン貿易の蔓延は、銀の大量流出による経済危機と、深刻な社会問題を引き起こしていました。 事態を憂慮した道光帝は、1839年、欽差大臣に任命した林則徐を広州に派遣し、アヘンの撲滅を命じます。
林則徐は、断固たる態度で臨み、外国人商人たちが所有していた2万箱以上のアヘンを没収し、すべて処分しました。 さらに、今後アヘンを持ち込まないという誓約書への署名を拒否したイギリス商人たちを、「十三行」地区から追放しました。この強硬な措置は、イギリス国内の強硬派に、武力行使の絶好の口実を与えることになります。
イギリス政府は、「自由貿易の原則」と「自国民の財産の保護」を大義名分に掲げ、1840年、中国への遠征軍の派遣を決定しました。 こうして、第一次アヘン戦争(1839-1842)の火蓋が切られたのです。
戦争の帰趨は、両国の軍事技術の圧倒的な差によって、初めから明らかでした。イギリスの蒸気軍艦は、清朝の旧式な帆船(ジャンク船)をいとも簡単に打ち破り、沿岸の要塞を次々と陥落させていきました。 戦局の不利を悟った清朝は、イギリスの要求を受け入れざるを得なくなり、1842年8月、屈辱的な南京条約に調印しました。

南京条約と広州システムの終焉

南京条約は、広州システムを完全に解体し、中国の対外関係のあり方を根本から覆すものでした。その主な内容は以下の通りです。
公行の解体: 条約の第5条で、公行(コホン)による貿易独占は明確に廃止されました。これにより、イギリス商人は、広州において誰とでも自由に取引できる権利を獲得しました。約一世紀にわたり中国貿易を支配してきた行商ギルドは、その歴史的役割を終えたのです。
五港の開港: 広州に加え、厦門、福州、寧波、上海の計五つの港が対外貿易のために開かれました。これにより、貿易を広州一港に限定するという広州システムの根幹が崩壊しました。
香港の割譲: 香港島がイギリスに永久割譲されました。これは、イギリスが中国沿岸に自由貿易と軍事活動の拠点を得たことを意味しました。
賠償金の支払い: 清朝は、没収されたアヘンの代金、戦費、そして行商が抱えていた負債の肩代わりとして、総額2100万ドルという莫大な賠償金をイギリスに支払うことを義務付けられました。
この南京条約と、翌年に結ばれた虎門寨追加条約によって、広州システムは法的に消滅しました。行商たちはその独占的地位を失い、多くは時代の変化に対応できずに没落していきました。かつて珠江のほとりで栄華を誇った十三行も、その後の戦乱の中でその多くが焼失し、往時の面影を失っていきました。
アヘン戦争と南京条約は、単に一つの貿易システムを終わらせただけではありませんでした。それは、清朝が長年維持してきた中華思想に基づく朝貢体制が、西洋の近代的な国民国家システムと自由貿易の論理の前に屈服したことを象徴する出来事でした。この後、中国は欧米列強との間で次々と不平等条約を結ばされることになり、「半植民地化」の道を歩むことになります。広州システムの終焉は、近代中国が経験する長い苦難の時代の幕開けでもあったのです。
行商たちの栄華と没落

広州システムの主役であった行商たちは、西洋と中国という二つの世界の間に立ち、その類稀なる商才と政治的手腕によって、一時代を築き上げた豪商たちでした。彼らの生涯は、巨万の富と絶大な影響力を手にした栄光の物語であると同時に、常に政治的な危険と経済的な破綻のリスクに晒された、危うい均衡の上に成り立つものでした。
代表的な行商たち

十三行の歴史を通じて、数多くの行商が活躍しましたが、中でも特にその名を知られた人物が何人かいます。
潘啓官: 潘振承(1714-1788)は、福建省出身で、18世紀半ばに広州で同文行を創業し、初代・潘啓官として知られました。彼は、卓越したビジネスセンスと誠実な人柄で、スウェーデン東インド会社をはじめとする西洋商人から絶大な信頼を得て、十三行の指導者的な存在となりました。彼の築いた富は莫大で、その事業は息子や養子に引き継がれ、潘家は数代にわたって広州で最も影響力のある商家の一つとして君臨しました。
伍秉鑑: 伍秉鑑(1769-1843)は、怡和行の主であり、二代目・浩官(ハウクア)として知られています。彼は19世紀初頭からアヘン戦争直後にかけて活躍し、十三行の歴史の中で最も裕福で、世界的に最も有名な商人でした。その個人資産は、一説には2600万ドルに達したと言われ、これは当時の世界でも有数の大富豪に匹敵する額でした。ハウクアは、アメリカの商人ジョン・パーキンス・カッシングなど、多くの西洋商人と深い個人的な信頼関係を築きました。彼は、アメリカの鉄道や保険業にも投資を行うなど、国際的な視野を持ったビジネスマンでした。その一方で、アヘン戦争時には、清朝政府から多額の資金提供を強要され、南京条約の賠償金の一部も負担させられるなど、時代の波に翻弄されました。彼は条約締結の翌年、失意のうちにこの世を去りました。彼の死は、行商の時代の終わりを象徴する出来事でした。
盧観恒: 広利行の主であった盧観恒は、18世紀末から19世紀初頭にかけて活躍した有力な行商の一人です。彼は広大な庭園を所有し、西洋人を招いてもてなすなど、その豪華な生活ぶりで知られていました。しかし、彼は外国商人からの多額の借金を抱え、1820年代後半に破産に追い込まれ、イリ地方へ流刑となりました。彼の没落は、行商という地位がいかに不安定なものであったかを物語っています。
富と文化のパトロンとして

行商たちは、その莫大な富を背景に、壮麗な邸宅や庭園を築き、贅を尽くした生活を送りました。彼らの邸宅は、珠江の南岸、河南地区に多くあり、伝統的な中国建築の中に、西洋から輸入された時計、鏡、シャンデリアといった珍しい品々が飾られていました。
彼らはまた、文化のパトロンとしての役割も果たしました。多くの行商が書画や骨董品を収集し、文人や芸術家を支援しました。特に、前述の輸出用絵画の制作は、行商たちの後援なしには成り立ちませんでした。彼らは、「十三行」地区で活動する中国人画家たちに工房を提供し、西洋人からの注文を仲介することで、この新しい芸術ジャンルの発展を支えたのです。
没落の道

しかし、その栄華は常に危険と隣り合わせでした。彼らは、一方では西洋商人との厳しい価格交渉や、仲間内での競争に晒され、もう一方ではホッポや中央政府からの絶え間ない金銭的要求に苦しめられました。少しでも経営が傾けば、外国商人からの借金が膨らみ、破産の淵に立たされることも珍しくありませんでした。
さらに、彼らは政治的な立場も極めて脆弱でした。清朝の官僚機構の中では、商人は「士農工商」の身分制度の最下位に位置づけられていました。どれほど富を築こうとも、彼らは皇帝や官僚の意向一つで、その財産も地位も、時には生命さえも奪われかねない存在だったのです。
アヘン戦争は、彼らにとどめを刺しました。戦争中、彼らはイギリス軍への抵抗資金として巨額の献金を強いられ、財産を大きく消耗しました。そして、南京条約によって貿易の独占権というビジネスの根幹を失ったことで、その存在意義そのものが失われました。
一部の行商は、条約後の新しい貿易環境に適応しようと試みましたが、自由競争の波の中で、かつての勢いを取り戻すことはできませんでした。ハウクアの死後、怡和行はしばらく事業を続けましたが、かつての輝きを失い、やがて歴史の中に消えていきました。こうして、広州の珠江沿いを舞台に約一世紀にわたって繰り広げられた行商たちの壮大な物語は、時代の大きな転換点の中で、静かに幕を閉じたのです。彼らが残した富と文化、そして西洋との交流の記憶は、その後の中国と世界の歴史に、複雑で多岐にわたる影響を与え続けることになります。
広州システムが残した遺産

アヘン戦争によって広州システムは崩壊しましたが、それが約一世紀にわたって中国と西洋の間に存在したという事実は、その後の歴史に深く、そして多面的な遺産を残しました。その影響は、経済、文化、政治の各方面に及び、現代に至るまでその痕跡を見て取ることができます。
経済的遺産

広州システムは、18世紀の世界的な貿易ネットワークにおいて、極めて重要な結節点でした。このシステムを通じて、中国の茶がイギリスの国民的飲料となり、その後の世界的な茶文化の普及の基礎を築きました。また、中国の陶磁器や絹製品がヨーロッパの生活文化に大きな影響を与えた一方で、アメリカ大陸で産出された銀が大量に中国に流入し、当時の世界的な銀の循環を方向づけました。
行商たちが築いた莫大な富の一部は、中国国内のインフラ整備や商業ネットワークの発展に再投資されました。また、ハウクアのように、アメリカの産業にまで投資を行った例は、国境を越えた資本移動の初期の形態と見なすことができます。
しかし、その最も負の経済的遺産は、アヘン貿易の拡大を許し、最終的に中国経済に深刻な打撃を与えたことです。アヘン戦争後の不平等条約体制は、中国に関税自主権の喪失を強いました。これにより、安価な外国製品が大量に流入し、中国の伝統的な手工業、特に綿織物業などは壊滅的な打撃を受け、その後の中国経済の近代化を歪める一因となりました。
文化的遺産

文化的な側面では、広州システムは異文化接触のユニークな実験場でした。厳格な隔離政策にもかかわらず、十三行という限られた空間では、言語、芸術、生活様式の交流が絶えず行われていました。
その最も具体的な成果物が、いわゆる「チャイナ・トレード・ペインティング」と呼ばれる輸出用絵画です。ジョージ・チナリーのような西洋人画家が広州やマカオで活動し、その技法を林呱(ラムクア)などの中国人画家に伝えました。彼らは、「十三行」の風景、港に停泊する外国船、行商や西洋商人の肖像画などを、西洋の写実的な技法と中国的な感性を融合させて描き、西洋人向けの土産物として人気を博しました。これらの絵画は、当時の広州の様子を視覚的に伝える、他に代えがたい貴重な歴史資料となっています。
また、ピジン英語の形成も、この時代の重要な文化的遺産です。異なる言語を話す商人たちが、商取引という実用的な目的のために生み出したこの混成言語は、その後、アジアの他の開港地にも広まり、異文化コミュニケーションの一つのモデルとなりました。
さらに、行商たちが収集した西洋の文物や、彼らが建てた西洋風の意匠を取り入れた建築物は、中国の知識人や職人たちに西洋文化への窓を提供しました。この限定的ながらも継続的な接触が、後の時代に中国が本格的に西洋の知識や技術を導入しようとする際の、ささやかな下地となった側面も否定できません。
政治的・社会的遺産

広州システムの崩壊がもたらした政治的影響は、計り知れません。アヘン戦争の敗北と南京条約は、清朝の権威を失墜させ、国内の不満を増大させました。これは、その後の太平天国の乱をはじめとする大規模な内乱の遠因となります。
対外的には、中国は西洋中心の国際秩序の中に強制的に組み込まれていきました。朝貢システムという自己完結した世界観は崩壊し、不平等条約に基づく従属的な地位を受け入れざるを得なくなりました。この屈辱的な経験は、その後の中国のナショナリズム形成に決定的な影響を与え、「富国強兵」をスローガンとする近代化運動(洋務運動など)へとつながっていきます。
また、広州システム下で貿易実務を担ったコンプラドール(買弁)や通訳たちは、条約による開港後、その語学力と西洋の商習慣に関する知識を活かして、新しい時代の主役となっていきました。彼らは外国資本と中国市場を結ぶ仲介者として活躍し、上海などの新しい条約港で新たな中国人エリート層を形成しました。これは、行商という旧来の特権商人が没落したのとは対照的でした。

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