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ブーヴェ(白進)とは わかりやすい世界史用語2476 |
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著作名:
ピアソラ
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ブーヴェ(白進)とは
17世紀後半から18世紀初頭にかけて、ヨーロッパとアジア、特にフランスと中国の間で、かつてないほどの知的・文化的交流が花開きました。この時代の中心人物の一人が、フランス出身のイエズス会士、ジョアシャン・ブーヴェです。彼は宣教師として、また数学者、外交官として、遠く離れた二つの文明を結びつける上で極めて重要な役割を果たしました。ブーヴェの生涯は、単なる一人の宣教師の物語にとどまらず、当時の政治的、宗教的、そして科学的な思惑が複雑に絡み合った、壮大な歴史の一幕を映し出しています。彼の活動は、清朝の康熙帝とフランスのルイ14世という、同時代を生きた二人の偉大な君主の関心を引きつけ、ヨーロッパにおける中国理解、すなわちシノロジーの発展に大きく貢献しました。
若き日のブーヴェと中国への道
イエズス会への入会と初期の教育
ジョアシャン・ブーヴェは、1656年7月18日、フランス北西部の都市ル・マンで生を受けました。 彼の青年期に関する詳細な記録は多くありませんが、1673年、17歳の時にイエズス会に入会したことが知られています。 この決断は、彼のその後の人生を決定づける重要な一歩となりました。イエズス会は、当時、世界各地への宣教活動、特にアジアでの活動に力を入れており、高度な教育と科学的知識を布教の手段として用いることで知られていました。ブーヴェがイエズス会に入った当初から、中国での宣教活動に強い願望を抱いていたと伝えられています。
イエズス会士としての養成期間中、ブーヴェは神学や哲学はもちろんのこと、数学や天文学といった科学分野においても優れた才能を発揮しました。彼はラ・フレーシュのコレージュ・ロワイヤル・アンリ4世校で学び、その後カンペールやブールジュで教鞭をとった経験もあります。 この時期に培われた幅広い学識、特に数学に関する深い知識は、後に彼が中国の宮廷で活躍するための大きな武器となりました。イエズス会は、マテオ・リッチをはじめとする先人たちが築き上げた「適応政策」のもと、中国の知識人層や支配階級にキリスト教を浸透させるためには、西洋の進んだ科学技術を提示することが有効であると考えていました。ブーヴェは、まさにこの方針を体現する人材として、早くから嘱望されていたのです。
ルイ14世による「国王の数学者」派遣計画
17世紀後半のフランスは、「太陽王」ルイ14世の治世下で絶対王政の絶頂期を迎えていました。 彼の関心はヨーロッパ大陸内にとどまらず、海外へと向けられていました。特に、マルコ=ポーロの時代からヨーロッパ人の想像力をかき立ててきた遠い東方の帝国、中国に対する関心は高まる一方でした。ルイ14世は、フランスの国威を世界に示すとともに、カトリック教会の保護者としての役割を果たすため、中国への宣教師派遣を計画します。
この計画は、単なる宗教的な布教活動にとどまるものではありませんでした。ルイ14世は、ポルトガルが独占していたアジアでの宣教保護権に対抗し、フランス独自のルートで中国との関係を築こうとしました。そのために選ばれたのが、科学の衣をまとった宣教師団の派遣でした。1685年、ルイ14世は、ブーヴェを含む6名のイエズス会士を「国王の数学者」として任命し、中国へ派遣することを決定しました。 この称号は、彼らが単なる宣教師ではなく、フランス国王の勅命を受けた科学使節であることを示すものでした。
彼らに与えられた任務は多岐にわたっていました。第一に、キリスト教の布教。第二に、フランス科学アカデミーの会員として、天体観測や地理測量を行い、中国に関する正確な科学的データを収集すること。 そして第三に、フランスの威信を中国皇帝に伝え、両国間の良好な関係を構築することです。この壮大な計画のために、一行には国王の命令によって最新の科学機器が与えられました。 ブーヴェは、ジャン・ド・フォンタネーを団長とするこの使節団の一員として、長年の夢であった中国行きの機会を得たのです。
中国への長い旅路
1685年3月3日、ブーヴェら一行はフランスのブレスト港を出航しました。 彼らの旅は、決して平坦なものではありませんでした。当時の航海は危険に満ちており、数ヶ月、時には年単位の時間を要するものでした。一行はまずシャム(現在のタイ)に立ち寄り、しばらく滞在した後、中国本土を目指しました。 シャムでの滞在は、アジアの文化や政治状況に触れる貴重な機会となりました。
長い航海の末、一行がようやく中国の港、寧波に到着したのは1687年のことでした。 そして、旅の最終目的地である北京にたどり着いたのは、1688年2月7日のことでした。 フランスを出てから実に3年近くの歳月が流れていました。この長い旅路は、彼らにとって心身ともに過酷な試練であったに違いありませんが、同時に、これから始まる未知の国での活動に向けた準備期間でもありました。彼らはこの間、中国語や満州語の学習に励んだとされています。 ヨーロッパとは全く異なる文化、言語、そして政治体制を持つ巨大な帝国を前にして、ブーヴェの胸には、期待と不安が入り混じった複雑な思いが去来していたことでしょう。しかし、彼らを待っていたのは、想像を超えるほどの知的好奇心に満ちた一人の皇帝との出会いでした。
康熙帝との出会いと宮廷での活動
皇帝の師父となる
ブーヴェたちが北京に到着したとき、清朝を治めていたのは、中国史上屈指の名君として知られる康熙帝でした。 康熙帝は、幼くして即位し、長年にわたる治世の中で広大な帝国を巧みに統治した傑出した為政者であると同時に、学問、特に科学に対して並外れた知的好奇心を持つ人物でした。 彼は、西洋から来た宣教師たちがもたらす新しい知識に強い関心を示しました。
ブーヴェら一行が紫禁城に迎えられると、康熙帝は彼らの知識と人柄を自ら見極めました。その結果、ブーヴェとジャン=フランソワ・ジェルビヨンの二人を自らの側近として宮廷に留め、数学と天文学の教師とすることを命じました。 これは、ブーヴェにとって望外の幸運でした。皇帝の個人的な庇護のもと、宮廷という中国社会の中枢で活動する機会を得たのです。他の3人の宣教師たちは、帝国内の好きな場所で布教活動を行う許可を与えられました。
ブーヴェとジェルビヨンは、康熙帝に対して、幾何学、天文学、哲学などの西洋科学を熱心に教えました。 授業は満州語で行われ、皇帝の理解を助けるために、彼らはフランスのイエズス会士イニャス=ガストン・パルディが著した幾何学の教科書などを満州語に翻訳しました。 康熙帝は非常に熱心な生徒であり、毎日のように数時間にわたって彼らの講義を受け、自ら問題を解き、議論を交わしたと伝えられています。 皇帝は、彼らが翻訳した数学の教科書に自ら序文を書き、中国語版と満州語版の両方で多数印刷させ、帝国内に配布させるほどでした。 このようにして、ブーヴェは単なる宣教師ではなく、偉大な皇帝の「師父」という特別な地位を確立していったのです。
科学技術による貢献
ブーヴェたちの貢献は、皇帝への個人的な教育にとどまりませんでした。彼らは、フランスから持参した天体観測儀や時計、各種の測定機器といった最新の科学技術を皇帝に紹介し、その使い方を教えました。 康熙帝はこれらの機器に魅了され、その仕組みや応用について熱心に学びました。
特に重要だったのが、地図作成事業への貢献です。康熙帝は、広大な清朝の領土を正確に把握し、統治を盤石なものにするため、全国的な地図の作成を計画していました。ブーヴェは、1708年から1715年にかけて、ジャン=バティスト・レジスら他のイエズス会士とともに、この壮大な事業に従事しました。 彼らはヨーロッパの測量技術を用いて、中国各地を実地調査し、それまでの中国の地図とは比較にならないほど精密な各省の地図を作成しました。 この事業は、ブーヴェが途中で落馬による負傷のために北京に戻るというアクシデントに見舞われながらも、最終的に「皇輿全覧図」として結実し、中国の地理学の歴史における画期的な成果となりました。
また、ブーヴェは西洋医学の知識も康熙帝に伝えました。康熙帝がマラリアに罹患した際には、イエズス会士たちが献上したキニーネ(キナの樹皮から作られた特効薬)によって快癒したという有名な逸話があります。 この出来事は、西洋医学の有効性を皇帝に強く印象づけ、宣教師たちへの信頼をさらに深めることになりました。ブーヴェは、解剖学に関するヨーロッパの書物を満州語に翻訳するなど、医学知識の伝達にも貢献しました。
これらの科学技術を通じた貢献により、ブーヴェらイエズス会士は康熙帝から絶大な信頼を得ることに成功しました。皇帝は彼らの功績を称え、1702年には紫禁城内の土地を与え、そこに教会と住居を建設することを許可しました。 これは、キリスト教の布教活動にとって大きな前進であり、ブーヴェたちの宮廷での地位を象徴する出来事でした。
ルイ14世への使節としての帰国
康熙帝のブーヴェに対する信頼は、彼をフランス国王ルイ14世への個人的な使節に任命するという、前例のない形で示されました。1693年(いくつかの資料では1697年)、康熙帝はブーヴェをフランスへ派遣することを決定します。 その目的は、ルイ14世が贈った科学機器に対する感謝を伝えるとともに、さらなる知識と才能を持つ宣教師を中国に招聘することでした。
康熙帝は、ブーヴェに託す贈り物として、49巻にも及ぶ貴重な漢籍を選びました。 これは、中国文化の精髄をフランス国王に紹介しようとする、康熙帝の意図の表れでした。ブーヴェは、皇帝の勅使という名誉ある身分で、1697年にフランスに帰国しました。
フランスに滞在中、ブーヴェはヨーロッパの知識人社会で大きな注目を集めました。彼は、ドイツの碩学ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツと書簡を交わし、中国の思想、特に『易経』について議論しました。 この交流は、ライプニッツの二進法の着想に影響を与えたとも言われ、ヨーロッパの思想史においても重要な意味を持っています。
また、ブーヴェはこの滞在期間中に2冊の著書を出版しました。 そのうちの一冊、『中国皇帝の歴史的肖像、1697年』は、康熙帝の人柄や統治、そして中国の現状をヨーロッパに紹介するものでした。 この本の中で、ブーヴェは康熙帝を勤勉で知性に溢れ、公正な君主として描き、ルイ14世に比肩する偉大な統治者であると称賛しています。 この著作は大きな反響を呼び、英語、オランダ語、ドイツ語など各国の言語に翻訳され、18世紀ヨーロッパの「シノワズリ(中国趣味)」の流行に火をつける一因となりました。 もう一冊の『図説・中国の現状、1697年』は、中国の衣装や風俗を美しい銅版画で紹介するものでした。
ブーヴェの報告と著作は、ルイ14世とフランス宮廷に強い印象を与えました。ルイ14世は返礼として、豪華な装丁の版画集をブーヴェに託し、康熙帝に献上させました。 そして、ブーヴェの要請に応え、ジョゼフ・アンリ・マリー・ド・プレマールやジャン=バティスト・レジスといった有能な宣教師を含む、新たな派遣団を組織しました。
1699年、ブーヴェは10人の新しい宣教師たちを伴い、再び中国の土を踏みました。 彼は、康熙帝から皇太子の通訳という、さらなる名誉ある地位を与えられました。 このようにして、ブーヴェは二つの大国の君主の間を行き来する外交官としての役割を果たし、フランスと中国の文化交流の黄金時代を築く上で、中心的な役割を担ったのです。
フィギュリズム:聖書と中国古典の融合を目指して
フィギュリズムの誕生とその思想
中国での生活が長くなるにつれて、ブーヴェの研究と思索は、単なる科学技術の紹介から、より深く、より根源的なテーマへと向かっていきました。彼は、中国の古代思想、特に儒教の経典である「五経」の中に、キリスト教の教えと共通する要素、あるいはその原型を見出そうと試みるようになります。この独創的かつ野心的な試みから生まれたのが、「形象主義」、「索隠主義」と呼ばれる神学体系です。
フィギュリズムの根底にあるのは、古代中国の聖人たちが、実は旧約聖書の預言者たちと同様に、神からの啓示を受けていたという信念です。 ブーヴェは、ノアの大洪水の後、人類の祖先(ノアの息子セムなど)が東方に移り住み、アダムから受け継いだ原初の真理を中国に伝えたと考えました。 しかし、長い年月の中でその真理は失われ、断片的な「形象」や「象徴」として、中国の古典籍、とりわけ『易経』の中に秘められていると主張したのです。
したがって、フィギュリストたちの使命は、古代の経典を注意深く読み解き、そこに隠されたキリスト教の真理(例えば、三位一体や救世主の到来など)を「発見」し、再構築することでした。 彼らにとって、中国古典は異教の書物ではなく、旧約聖書と同様に、キリストの到来を予言する預言の書だったのです。この解釈方法を用いれば、キリスト教は中国人にとって全く異質な外来の宗教ではなく、自らの偉大な古代文化の中にすでに存在していた真理の完成形として提示できる、とブーヴェは考えました。
『易経』研究とライプニッツとの交流
ブーヴェがフィギュリズムの探求において特に重視したのが、『易経』でした。 『易経』は、八卦と六十四卦と呼ばれる記号システムを用いて宇宙と人生のあらゆる変化を説明しようとする、中国で最も古く、最も難解な経典の一つです。ブーヴェは、この抽象的な記号体系の中にこそ、失われた原初の神聖な知識が凝縮されていると確信しました。 彼は、『易経』の伝説的な作者とされる伏羲を、旧約聖書の預言者エノクと同一視さえしました。
康熙帝自身も『易経』に深い関心を寄せており、ブーヴェにその研究を命じたことが、彼の研究をさらに加速させるきっかけとなりました。 ブーヴェは、皇帝の支援のもと、多くの満州語やラテン語の『易経』に関する稿本を執筆しました。
ブーヴェの『易経』研究は、ヨーロッパの知性にも大きな影響を与えました。特に重要なのが、ドイツの哲学者・数学者であるゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツとの書簡交換です。 1701年、ブーヴェはライプニッツに、『易経』の六十四卦の配列図(邵雍が考案したとされる先天図)を送りました。 この図を見たライプニッツは、陰(--)と陽(―)の二つの記号の組み合わせが、自身が発見した二進法(0と1ですべての数を表現するシステム)の原理と完全に一致することに驚嘆しました。 ライプニッツはこれを、神(1)が「無(0)」から万物を創造したことを示す宇宙の普遍的な秩序の証拠とみなし、ブーヴェの研究を高く評価しました。 このように、ブーヴェのフィギュリズムは、ヨーロッパの最先端の科学思想と古代中国の神秘思想とを結びつける、壮大な知的冒険でもあったのです。
典礼問題との関連とフィギュリズムの限界
ブーヴェがフィギュリズムの構築に情熱を注いだ背景には、「典礼問題」として知られる、当時のカトリック教会内部の深刻な論争がありました。 典礼問題とは、中国の信者が伝統的に行ってきた孔子や祖先を祀る儀式(典礼)を、キリスト教徒として容認できるか否かをめぐる対立です。
マテオ・リッチ以来のイエズス会士の多くは、これらの儀式は宗教的な意味を持たない、世俗的な慣習であると解釈し、布教のためには容認すべきだという「適応政策」の立場をとっていました。 一方、ドミニコ会やフランシスコ会などの他の修道会や、パリ外国宣教会などは、これらの儀式を偶像崇拝にあたる異教の行為であるとして厳しく非難しました。
ブーヴェのフィギュリズムは、この典礼問題に対するイエズス会側からの一つの解答の試みと見ることができます。 もし古代中国の思想の中にキリスト教の真理がすでに含まれているのであれば、孔子や祖先への敬意も、キリスト教の教えと矛盾しない形で解釈し直すことが可能になるはずでした。ブーヴェは1700年、他の4人の宣教師と共に康熙帝に上奏文を提出し、中国の典礼が宗教的な意味合いを持たない、純粋に市民的な慣習であるとの公式見解を求めました。 皇帝はこの趣旨を認め、その回答は北京の官報にも掲載されました。
しかし、ブーヴェのフィギュリズムは、あまりにも大胆で思弁的であったため、イエズス会内部ですら全面的な支持を得ることはできませんでした。 彼の解釈は主観的で牽強付会に過ぎると見なされ、多くの同僚から批判を受けました。また、フィギュリズムは、中国の古典をキリスト教の枠組みで解釈するものであり、中国の思想そのものへの深い理解に基づいているとは言い難い側面もありました。
さらに、典礼問題はヨーロッパで激化の一途をたどり、最终的には教皇クレメンス11世が1704年と1715年に中国の典礼を全面的に禁止する教皇令を発布するに至ります。この決定は、康熙帝の怒りを買い、キリスト教の布教活動に大きな打撃を与えることになりました。康熙帝は当初ブーヴェの見解に興味を示していましたが、1716年頃には、西洋とのさらなる接触が中国にもたらす影響について懸念を表明するようになります。 ブーヴェが夢見た、儒教とキリスト教の壮大な融合は、政治的・宗教的な現実の壁の前に、実現することなく終わったのです。
晩年と後世への影響
康熙帝の死と宣教活動の制限
1722年、ブーヴェの最大の庇護者であった康熙帝が崩御しました。これは、ブーヴェだけでなく、中国におけるイエズス会士たち全体の運命にとって、大きな転換点となりました。康熙帝の後を継いだ雍正帝は、父帝とは対照的に、キリスト教に対して厳しい態度で臨みました。
典礼問題をめぐる教皇庁との対立や、宣教師たちが宮廷内の後継者争いに関与したとの疑惑もあり、雍正帝はキリスト教を国家の安定を脅かす危険な教えと見なすようになります。1723年、彼は北京在住の宣教師を除く、地方で活動していたすべての宣教師を広州に追放する命令を下しました。 これにより、中国におけるカトリックの布教活動は、深刻な停滞期に入ります。
しかし、ブーヴェは、長年にわたる宮廷での功績と、科学者としての卓越した能力を評価され、この追放令を免れました。 彼は、ジェルビヨンやレジスといった他の少数のイエズス会士とともに北京に留まることを許され、研究活動や北京のキリスト教徒コミュニティでの司牧活動を続けることができました。 雍正帝はキリスト教そのものには否定的でしたが、宣教師たちが持つ西洋の科学技術の価値は認めていたのです。ブーヴェは、政治的な逆風の中で、静かに自身の研究と思索を深めていきました。
最後の年月と死
晩年のブーヴェに関する記録は限られていますが、彼は北京の教会で、その生涯を終えるまで研究と執筆活動を続けたと考えられています。彼の情熱の対象は、依然としてフィギュリズムと『易経』の研究にあったことでしょう。しかし、彼の思想がかつてのように宮廷やヨーロッパの知識人社会で注目を集めることはもはやありませんでした。彼が夢見た壮大な計画は、時代の大きなうねりの中で挫折し、彼はある種の孤立の中で最後の年月を過ごしたのかもしれません。
ジョアシャン・ブーヴェは、1730年6月28日、北京でその波乱に満ちた生涯を閉じました。 74歳でした。彼は、フランスを遠く離れた異郷の地で、約40年もの歳月を過ごしました。彼の墓石は、他のイエズス会士たちのものとともに、北京の墓地に建てられましたが、その後の歴史の中で失われ、現在は北京石刻芸術博物館にその一部が保存されています。
ブーヴェが遺したもの
ブーヴェの生涯と活動は、多岐にわたる遺産を後世に残しました。
第一に、彼は17世紀末から18世紀初頭にかけてのフランスと中国の間の科学的・文化的交流において、比類のない役割を果たしました。 康熙帝の師父として西洋の数学や天文学を伝え、中国全土の地図作成に貢献した功績は、中国の近代科学の発展に少なからぬ影響を与えました。 同時に、彼は康熙帝の使節としてフランスに帰国し、中国の文化や皇帝の姿をヨーロッパに紹介することで、ヨーロッパ人の中国に対する理解を深め、シノワズリの流行を促進しました。 彼が架け橋となった二人の偉大な君主、ルイ14世と康熙帝の間の交流は、近世における東西文化交流史の象徴的な一章として記憶されています。
第二に、彼のフィギュリズムという思想は、成功には至らなかったものの、異文化理解の一つの野心的な試みとして思想史的に重要です。 フィギュリズムは、中国の古典籍をキリスト教の視点から解釈しようとするものであり、その方法論には多くの問題点がありました。しかし、それは異なる文明の根源に共通の真理を見出そうとする普遍主義的な探求であり、後の比較宗教学や比較思想研究の先駆けと見ることもできます。 特に、彼の『易経』研究とライプニッツとの交流は、東洋の思想が西洋の哲学・科学に与えた影響の初期の重要な事例として注目されます。
第三に、ブーヴェの生涯は、典礼問題という、文化と宗教が衝突する複雑な問題の渦中にあった一人の知識人の苦悩と葛藤を映し出しています。 彼は、自らの信仰と、敬愛する中国の文化とを調和させようと懸命に努力しました。その試みは最終的に政治的な力によって阻まれましたが、異文化に真摯に向き合おうとした彼の姿勢は、グローバル化が進む現代社会に生きる私たちにとっても、多くの示唆を与えてくれます。
ブーヴェは、宣教師、科学者、外交官、そして思想家として、いくつもの顔を持つ複雑な人物でした。
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