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マザランとは わかりやすい世界史用語2739
著作名: ピアソラ
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マザランとは

ジュール=マザラン(1602–1661)。その名は、17世紀半ばのフランスを、そして絶対王政の確立期を語る上で、決して避けては通れない存在です。イタリアの貧しい貴族の家に生まれながら、その類稀なる知性と外交手腕、そして不屈の精神力によって、フランス王国の宰相にまで上り詰め、ヨーロッパの政治を動かした人物。彼は、偉大な先代宰相リシュリュー枢機卿の影に隠れがちであり、また、彼が育て上げた太陽王ルイ14世の輝かしい光によって、その姿はしばしば霞んで見えます。しかし、リシュリューの死からルイ14世の親政開始までの約20年間、フランスという大船の舵取りを一身に担ったのは、まさしくこのマザランでした。
彼の生涯は、波乱万丈という言葉そのものです。教皇庁の外交官としてキャリアをスタートさせ、リシュリューに見出されてフランスに仕え、その死後には、幼い国王ルイ14世を支える摂政アンヌ・ドートリッシュの絶対的な信頼を得て、国政の頂点に立ちました。彼は、リシュリューから引き継いだ三十年戦争という巨大な遺産を、フランスの覇権を確立するという輝かしい勝利へと導きました。ヴェストファーレン条約とピレネー条約という、17世紀ヨーロッパの国際秩序を画する二つの重要な講和条約は、彼の粘り強い外交努力の賜物です。
しかし、その一方で、彼は生涯を通じて「外国人」というレッテルと、それに伴うフランス国民の根強い不信と憎悪に苦しめられました。彼の強引な増税政策と、一族を優遇する縁故主義は、激しい反発を招き、フランス絶対王政史上、最後にして最大の反乱である「フロンドの乱」を引き起こしました。この内乱の中で、彼は二度も国外への亡命を余儀なくされ、その首には賞金がかけられ、彼の名は無数の風刺文書(マザリナード)の中で嘲笑と罵倒の対象となりました。
それでもなお、彼は決して屈しませんでした。亡命先から摂政アンヌと密に連絡を取り合い、巧みな政治工作によって政敵を分断し、ついには奇跡的な復活を遂げます。この試練を乗り越えた彼は、王権をかつてないほど強固なものとし、ルイ14世が絶対君主として君臨するための道を、完全に舗装しました。
ここでは、この謎めいたイタリア人宰相、ジュール・マザランの生涯を、その出自から権力の頂点、そしてその死に至るまで、多角的に探求していきます。まず、彼がどのようにしてイタリアの片田舎から身を起こし、リシュリューという偉大な師に見出されたのか、その若き日の軌跡を追います。次に、リシュリューの後継者として、彼がいかにして摂政アンヌ・ドートリッシュの心を掴み、フランスの国政を掌握していったのかを明らかにします。そして、彼のキャリアの頂点である三十年戦争の終結と、その外交手腕の真髄に迫ります。
さらに、彼の治世における最大の試練であるフロンドの乱について、その原因、経過、そして彼がいかにしてこの危機を乗り越えたのかを詳細に分析します。この内乱は、彼の政治家としての能力を試す、最大の試金石でした。
最後に、フロンドの乱を乗り越えた彼が、どのようにしてフランスの覇権を最終的に確立し、若きルイ14世を次代の統治者として教育し、そしてヨーロッパ随一の美術収集家として、また自らの一族の繁栄を築く家長として、その複雑な晩年を過ごしたのかを描き出します。



権力への道

イタリアでの出自と教育

ジュール・マザラン、イタリア語の名をジュリオ・ライモンド・マッツァリーノとして、1602年7月14日、中央イタリアのアブルッツォ地方、ペシーナという小さな町で生を受けました。彼の家系は、シチリア島に起源を持つ、さほど裕福ではない貴族の家柄でした。父のピエトロ・マッツァリーノは、ローマの有力な貴族であるコロンナ家に執事として仕えており、その縁でジュリオは幼い頃からローマで生活する機会を得ました。
ローマは、当時のヨーロッパにおける政治、宗教、そして文化の中心地の一つであり、野心を持つ若者にとっては、無限の可能性を秘めた舞台でした。マザランは、イエズス会が運営するローマ学院で、当時最高水準の人文主義教育を受けます。彼は、ラテン語、修辞学、哲学、そして神学において、早くからその並外れた知性と才能を示しました。彼は、記憶力に優れ、弁舌爽やかで、そして何よりも、人の心を読むことに長けていました。
学業を終えた後、彼は、スペインのアルカラ・デ・エナレス大学で法学を学び、法学博士号を取得します。しかし、彼の関心は、法律そのものよりも、むしろそれを取り巻く現実の政治や外交の世界にありました。彼は、若い頃から賭博に熱中し、しばしば借金を作りましたが、この経験は、リスクを計算し、相手の心理を読み、大胆な賭けに出るという、後の彼の政治スタイルを形成する上で、ある種の訓練となったのかもしれません。
教皇庁の外交官として

マザランのキャリアは、軍人として始まりました。彼は、教皇ウルバヌス8世の軍隊に大尉として加わり、北イタリアのヴァルテッリーナ地方の領有をめぐる紛争に関わります。しかし、彼が本当にその才能を発揮したのは、戦場ではなく、交渉のテーブルでした。
彼の外交官としての名声を一躍高めたのが、1630年のマントヴァ公国継承戦争における活躍です。この戦争は、フランスが支援するヌヴェール公と、スペイン=ハプスブルク家が支援する候補者の間で、北イタリアの戦略的要衝であるマントヴァとモンフェッラートの支配をめぐって争われたものでした。フランス軍とスペイン軍が、カザーレ・モンフェッラートの要塞を挟んで一触即発の状態にあった時、教皇特使として両軍の間を奔走したのが、28歳のマザランでした。
彼は、まさに両軍が激突しようとするその瞬間、馬を駆って戦場の真ん中に割って入り、「平和を!平和を!(Pace! Pace!)」と叫びながら、停戦協定が結ばれたことを伝えました。この劇的な行動によって、彼は破滅的な戦闘を回避させ、その後のケラスコ条約の締結に道を開きました。この条約は、フランスの候補者であるヌヴェール公の継承を認めさせるという、フランスにとって極めて有利な内容であり、マザランの粘り強い交渉と、現実的な妥協点を見出す能力の賜物でした。
この一件で、マザランの名は、ヨーロッパの外交界に広く知れ渡ることになります。そして何よりも、フランスの宰相、リシュリュー枢機卿の目に留まったことが、彼の運命を決定づけることになりました。
リシュリューとの出会いとフランスへの奉仕

リシュリューは、この若きイタリア人外交官の才能に、深く感銘を受けました。彼は、マザランの、複雑な状況を素早く把握する能力、相手の意図を見抜く洞察力、そして目的を達成するためには手段を選ばない柔軟な現実主義に、自分と共通するものを見出したのです。リシュリューは、マザランを自らの後継者候補の一人として見定め、彼をフランスに仕えさせるべく、動き始めます。
1634年、マザランは、教皇特使としてパリに派遣されます。これは、表向きは教皇庁の外交官としての任務でしたが、実際には、リシュリューが彼をフランスの宮廷に引き入れるための布石でした。マザランは、この機会を最大限に活用し、リシュリューやルイ13世との個人的な関係を築き、フランスの政治の内情を深く学びました。
そして1639年、マザランは、教皇庁でのキャリアを捨て、公式にフランス国王ルイ13世に仕えることを決意します。彼はフランスに帰化し、リシュリューの最も信頼する協力者の一人となりました。リシュリューは、彼に様々な外交上の機密任務を与え、自らの政治哲学と統治の技術を授けました。
リシュリューの強力な後押しにより、マザランは、聖職者ではないにもかかわらず、異例の出世を遂げます。1641年、彼は、リシュリューの推薦によって、枢機卿の地位に就きました。これは、彼に、フランス国内だけでなく、ヨーロッパの政治舞台における絶大な権威と威信を与えるものでした。もはや彼は、単なる有能な外交官ではなく、フランスの最高指導者の一人となったのです。
1642年12月、リシュリューが死去します。その死の床で、リシュリューは、ルイ13世に対して、自らの後継者としてマザランを推薦したと言われています。ルイ13世もまた、マザランの能力を高く評価しており、彼を首席国務卿に任命し、国政の運営を委ねました。こうして、イタリアの無名の貴族の息子は、わずか十数年のうちに、ヨーロッパ最強国の一つであるフランスの事実上の支配者へと、驚くべき飛躍を遂げたのです。彼の権力への道は、まさにその才能と野心、そして偉大な後援者との出会いによって切り開かれたものでした。
権力の掌握と三十年戦争の終結

摂政アンヌ・ドートリッシュとの関係

1643年5月、ルイ13世がリシュリューの後を追うようにして死去すると、フランスの政治情勢は再び不透明なものとなりました。王位を継いだルイ14世は、まだ4歳の幼児であり、国政は、母后であるアンヌ・ドートリッシュが摂政として担うことになりました。
宮廷の多くの人々は、アンヌが、長年にわたり彼女を冷遇し、その出身家であるスペイン=ハプスブルク家と敵対してきたリシュリューの政策を覆し、その腹心であったイタリア人のマザランを追放するだろうと予測していました。しかし、すべての者の予想を裏切り、アンヌはマザランを宰相として留任させ、彼に国政の全権を委ねることを宣言しました。
この決断の背景には、二人の間に芽生えた、極めて深く、そして複雑な個人的関係がありました。アンヌは、マザランの知性、政治的な洞察力、そして何よりも、彼が自分と幼い息子ルイ14世の権威に対して示す、揺るぎない忠誠心に、深く依存するようになります。マザランは、尊大で近寄りがたいリシュリューとは対照的に、魅力的で、洗練された物腰を持ち、アンヌの心を巧みに掴みました。
二人の関係は、単なる政治的なパートナーシップを超え、深い愛情と信頼で結ばれた、親密なものであったと広く信じられています。彼らが交わした膨大な量の手紙は、その親密さを物語っています。一部の歴史家は、二人が秘密裏に結婚していたのではないかとさえ推測していますが、それを裏付ける決定的な証拠はありません。確かなことは、アンヌが、その後の生涯を通じて、マザランを絶対的に信頼し、フロンドの乱という最大の危機の最中にあっても、彼を擁護し続けたということです。この摂政と宰相の揺るぎない同盟こそが、マザランの権力の基盤であり、彼が数々の政敵を退け、その統治を維持することを可能にした、最大の要因でした。
ロクロワの戦いと軍事的勝利

マザランが宰相として直面した最初の大きな課題は、リシュリューから引き継いだ三十年戦争の遂行でした。ルイ13世の死は、フランスの弱体化を狙う敵国、特にスペインにとって、絶好の機会と映りました。1643年、スペイン軍は、フランス北部に侵攻し、ロクロワの要塞を包囲しました。
この危機に対して、マザランは、まだ21歳の若き司令官、アンギャン公ルイ(後の大コンデ)にフランス軍の指揮を委ねるという、大胆な決断を下します。アンギャン公は、ロクロワで、数に勝る歴戦のスペイン軍と対峙しました。彼は、伝統的な戦術に捉われない、大胆な騎兵突撃を敢行し、ヨーロッパ最強と謳われたスペインのテルシオ(歩兵方陣)を、歴史上初めて野戦で完全に打ち破るという、輝かしい勝利を収めました。
ロクロワの戦いの勝利は、単なる一戦闘の勝利以上の意味を持っていました。それは、スペインの陸軍力の神話が崩壊し、ヨーロッパの軍事的な覇権が、スペインからフランスへと移ったことを象C徴する、時代の転換点でした。また、この勝利は、ルイ14世の治世の輝かしい始まりを告げ、摂政政府の権威を内外に示し、マザランの立場を大きく強化しました。彼は、この軍事的な成功を背景に、和平交渉を有利に進めるための、強力なカードを手に入れたのです。
ヴェストファーレン条約と外交の勝利

三十年戦争は、ヨーロッパ全土を荒廃させた、複雑で長期にわたる紛争でした。その和平交渉は、1644年から、ヴェストファーレン地方の二つの都市、ミュンスターとオスナブリュックで、数年間にわたって続けられました。マザランは、自ら交渉の席に着くことはありませんでしたが、パリから、フランスの交渉団に対して詳細な指示を送り、交渉の全局を巧みに操りました。
彼の外交戦略の目標は、リシュリューのそれを引き継ぐものであり、以下の三点に集約されていました。第一に、フランスの長年の宿敵であるハプスブルク家(オーストリアとスペイン)の力を削ぐこと。第二に、フランスの北東国境を、アルザス地方を獲得することによって、ライン川まで拡大すること。そして第三に、神聖ローマ帝国内のドイツ諸侯の領邦主権を強化し、皇帝の権力を弱体化させることで、ドイツが将来的にフランスの脅威となることを防ぐことでした。
マザランは、軍事的な圧力をかけ続ける一方で、巧みな外交交渉を展開しました。彼は、スウェーデンや、ドイツのプロテスタント諸侯といった同盟国との連携を保ちつつ、カトリックであるバイエルン公国とも個別に交渉するなど、敵の陣営を巧みに分断しました。
1648年、ついにヴェストファーレン条約が締結され、三十年戦争は終結します。この条約は、マザランの外交の完全な勝利でした。フランスは、アルザス地方の大部分の領有権を認められ、その国境をライン川へと大きく前進させました。神聖ローマ帝国内の各領邦は、ほぼ完全な主権を認められ、帝国は事実上、有名無実化しました。ハプスブルク家の皇帝の権威は大きく失墜し、ドイツはその後、長きにわたって分裂状態に留まることになります。
ヴェストファーレン条約は、近代ヨーロッパの国際関係の基礎を築いた、画期的な条約と見なされています。それは、宗教が国益に従属する「国家理性」の原則と、各国家が主権を持つという概念を確立し、近代的な主権国家体制の始まりを告げるものでした。そして、この新たな国際秩序の最大の受益者こそ、フランスでした。マザランは、リシュリューの蒔いた種を見事に刈り取り、フランスをヨーロッパの覇権国へと押し上げる上で、決定的な功績を挙げたのです。しかし、この外交的な栄光の絶頂のすぐ後に、彼を待ち受けていたのは、国内における最大の危機、フロンドの乱でした。
フロンドの乱=最大の試練

反乱の原因=増税と外国人宰相への反感

ヴェストファーレン条約によって、フランスは対外的に輝かしい勝利を収めましたが、その国内は、長年の戦争によって深刻な疲弊状態にありました。三十年戦争の莫大な戦費を賄うため、マザランは、リシュリューから引き継いだ重税政策を、さらに強化せざるを得ませんでした。新たな税が次々と導入され、既存の税は引き上げられ、国民の負担は限界に達していました。
この重税政策に対する不満は、社会のあらゆる階層に広がっていました。農民や都市の民衆は、日々の生活に苦しみ、しばしば暴動を起こしました。そして、より深刻だったのは、特権階級の不満でした。
特に、パリ高等法院をはじめとする司法官僚たちは、マザランの財政政策に強く反発しました。彼らは、自らの官職の価値や、免税特権が脅かされることを恐れました。また、彼らは、伝統的に国王の権力を法によって制限する役割を自認しており、マザランによる中央集権的な統治を、王国の伝統を破壊する「専制」であると見なしました。
さらに、大貴族たちもまた、マザランに対して強い不満を抱いていました。彼らは、リシュリューによって政治的な力を奪われており、ルイ13世の死を、自らの影響力を回復する好機と捉えていました。しかし、マザランが権力を握り続けたことで、その期待は裏切られました。彼らは、マザランを、王の権威を笠に着て私腹を肥やす、成り上がりの寵臣と見なして、侮蔑していました。
これらの様々な不満が、一点に集中する格好の標的となったのが、マザラン自身でした。彼がイタリア人、つまり「外国人」であるという事実は、彼に対するあらゆる非難を、正当化する便利な口実となりました。彼は、フランスの富を食い物にし、自らの一族を不当に優遇する、貪欲で狡猾な外国人と見なされ、国民的な憎悪の対象となっていったのです。この鬱積した不満が、1648年、ついに爆発します。
二度の亡命と不屈の抵抗

フロンドの乱は、1648年から1653年までの5年間にわたり、フランスを内戦状態に陥れました。それは、まず、パリ高等法院が主導する「高等法院のフロンド」として始まりました。高等法院が、マザランの財政政策に反対し、人身の自由や課税の同意権を要求すると、パリの民衆がこれを支持して蜂起しました。摂政アンヌと幼いルイ14世、そしてマザランは、パリからの脱出を余儀なくされます。
この第一段階の反乱が一旦は収束すると、次に、大コンデ公をはじめとする大貴族たちが、反乱の主導権を握ります。これが「貴族のフロンド」であり、事態をより深刻な内戦へと発展させました。反乱者たちの要求は、ただ一点、マザランの追放でした。
追いつめられたマザランは、摂政アンヌの身の安全と、王室の権威を守るため、自ら国を去るという苦渋の決断を下します。1651年2月、彼は初めての亡命に旅立ち、ドイツのケルン近郊に身を寄せました。彼の財産は没収され、パリ高等法院は、彼の首に15万リーブルという莫大な賞金をかけました。
しかし、マザランは、亡命先から決して闘いを諦めませんでした。彼は、摂政アンヌとの間に、暗号を用いた膨大な量の秘密書簡を交わし続け、パリから遠く離れた場所から、フランスの政治を操り続けました。彼は、アンヌに対して、誰を信頼し、誰を警戒すべきか、どのような戦略を取るべきかを、詳細に指示しました。
彼の戦略は、反乱者たちの内部対立を利用し、彼らを自滅させることでした。フロンドの反乱者たちは、「マザラン憎し」という一点以外に、共通の目標を持っていませんでした。高等法院は、大貴族の野心を警戒し、大貴族たちは、互いに主導権を争って分裂しました。マザランは、この亀裂を巧みに利用し、一方と交渉し、もう一方を孤立させるという、得意の外交手腕を国内の政敵に対して応用したのです。
1651年末、彼は、自ら集めた軍隊を率いて、フランスに帰国するという大胆な賭けに出ます。しかし、これは時期尚早であり、敵対勢力の反発を再燃させただけで、彼は1652年8月、再び国外への亡命を余儀なくされます。
二度目の亡命は、彼にとってさらに厳しい試練でした。しかし、彼は不屈の精神で、アンヌへの助言と政治工作を続けました。その間、フランス国内では、フロンドの混乱は極限に達していました。貴族同士の戦闘が国土を荒廃させ、民衆は終わりの見えない無秩序に疲れ果てていました。人々は、反乱者たちの利己的な権力闘争に幻滅し、強力な王政による秩序の回復を、心の底から望むようになっていました。
勝利と権力の再確立

民衆の支持を失い、内部対立によって弱体化した反乱は、もはや維持できなくなりました。1652年10月、パリ市民の熱狂的な歓迎を受け、若きルイ14世は首都に帰還しました。反乱の指導者であったコンデ公は、スペインに亡命し、フロンドの乱は事実上、終結しました。
そして1653年2月、マザランは、ついにパリに帰還します。かつて、彼の追放を叫んだ同じパリの民衆が、今度は、彼を秩序の回復者として、歓呼の声で迎えました。彼は、最大の危機を乗り越え、再びフランスの権力の頂点に返り咲いたのです。
フロンドの乱の勝利は、マザランの政治家としてのキャリアの頂点でした。それは、彼の忍耐力、不屈の精神、そして人間心理を巧みに操る能力の、完全な勝利でした。彼は、この試練を通じて、王権に反抗する勢力を完全に打ち負かし、その後の絶対王政の道を、盤石なものとしました。
彼は、反乱の指導者たちに対して、意外なほど寛大な態度で臨みました。彼は、復讐よりも、国家の和解を優先したのです。しかし、彼は、二度とこのような反乱が起こらないように、その制度的な基盤を解体していきました。高等法院の政治的な権限は大きく制限され、大貴族たちは、その政治的な影響力を完全に失いました。
マザランは、フロンドの乱という炎の中から、不死鳥のようによみがえりました。そして、彼が再建した強固な王権の上に、彼の後継者であるルイ14世が、その輝かしい絶対王政を築き上げていくことになるのです。
晩年と遺産

ピレネー条約とフランスの覇権

フロンドの乱を乗り越え、国内の権力基盤を再確立したマザランは、その最後の仕事として、長年にわたり続いてきたスペインとの戦争を終結させることに取り組みました。ヴェストファーレン条約の後も、フランスとスペインは、互いに相手国の内乱(フランスのフロンド、スペインのカタルーニャ反乱)を支援しながら、消耗戦を続けていました。
マザランは、ここでも軍事と外交を巧みに組み合わせる戦略を取りました。彼は、イングランドの護国卿オリバー・クロムウェルと同盟を結び、英仏連合軍を結成します。1658年、この連合軍は、「砂丘の戦い」でスペイン軍に決定的な勝利を収め、ダンケルクを占領しました。
この軍事的な勝利によって、交渉の優位を確立したマザランは、スペインとの和平交渉に臨みました。交渉は、両国の国境を流れるビダソア川の中洲、フェザント島(雉の島)に設けられた特設会場で、マザラン自身と、スペインの首席大臣ルイス・デ・アロによって、数ヶ月にわたって行われました。
1659年、ついにピレネー条約が締結されます。この条約は、フランスにとって、再び大きな勝利となりました。フランスは、北方のアルトワ地方と、南方のルシヨン地方を獲得し、その国境をさらに拡大・確定させました。
しかし、この条約の最も重要な成果は、領土問題以上に、その中に盛り込まれた婚姻契約でした。すなわち、フランス国王ルイ14世と、スペイン国王フェリペ4世の娘であるマリア・テレサ(マリー・テレーズ)との結婚が取り決められたのです。この結婚は、長年にわたる両国の敵対関係に終止符を打ち、ヨーロッパに平和をもたらす象徴とされました。
マザランは、この婚姻契約に、極めて巧妙な仕掛けを施していました。マリー・テレーズは、莫大な額の持参金と引き換えに、スペイン王位の継承権を放棄することになっていました。しかし、マザランは、財政難に苦しむスペインが、この持参金を到底支払えないことを見越していました。そして、もし持参金が支払われなければ、この王位継承権の放棄も無効になる、という含みを残したのです。この条項は、将来、スペインの王位継承問題が発生した際に、フランスが介入する絶好の口実を与えるものでした。事実、約40年後、このマザランの布石が、スペイン継承戦争へとつながっていくことになります。
ピレネー条約の締結は、マザランの外交官としてのキャリアの集大成でした。ヴェストファーレン条約とピレネー条約によって、フランスはハプスブルク家の脅威を完全に退け、ヨーロッパにおける議論の余地のない覇権国としての地位を確立したのです。
ルイ14世の教育と権力の移譲

マザランは、宰相として国政を担う一方で、若きルイ14世の教育者としての役割も果たしました。彼は、ルイ14世の代父でもあり、幼い頃から、彼を次代の偉大な君主として育てることに、大きな情熱を注ぎました。
彼の教育は、伝統的な座学よりも、むしろ実践的な帝王学に重きを置くものでした。彼は、ルイ14世を、閣議(国務会議)に同席させ、国家の重要な問題がどのように議論され、決定されていくのかを、直接学ばせました。彼は、各国の歴史、君主たちの性格、そして外交交渉の駆け引きの機微について、生きた教材を用いて教えました。
特に、フロンドの乱の経験は、ルイ14世にとって、何よりの教訓となりました。マザランは、この内乱を通じて、国王の権威がいかに脆いものであるか、そして臣下の忠誠心がいかに移ろいやすいものであるかを、身をもって示しました。彼は、ルイ14世に、二度と臣下に権力を委ねることなく、自らが国家を統治する「王の職業」の重要性を説きました。
1661年、自らの死期が近いことを悟ったマザランは、ルイ14世を枕元に呼び、最後の政治的な遺言を授けました。彼は、国王に対して、決して宰相を置かず、自ら統治を行うよう助言しました。そして、コルベール、ル・テリエ、フーケといった、有能な大臣たちの能力と性格をそれぞれ説明し、彼らをうまく使いこなすよう諭しました。
マザランの死の翌日、ルイ14世が、大臣たちに対して、自らの親政を宣言したとき、彼は、まさにマザランが長年にわたって準備してきたシナリオを実行に移したのです。マザランは、自らの死によって、フランス絶対王政の最後の仕上げを完成させ、太陽王の時代の幕を開けたのでした。
美術収集と一族の繁栄

マザランは、冷徹な政治家であると同時に、当代随一の洗練された趣味を持つ、偉大な芸術のパトロンであり、収集家でもありました。彼は、その莫大な富を用いて、絵画、彫刻、タペストリー、そして何よりも、古代の写本や稀覯本を、ヨーロッパ中から情熱的に収集しました。
彼がパリに建てたマザラン宮殿(現在のフランス国立図書館リシュリュー館の一部)は、彼の膨大な美術コレクションと、約5万冊に上る蔵書を収める、壮麗な知識と芸術の殿堂でした。彼の図書館は、当時、ヨーロッパで最も優れた私設図書館であり、彼はそれを学者たちに公開しました。このマザラン図書館は、彼の死後、フランス初の公共図書館の基礎となりました。
彼の美術品への情熱は、単なる個人的な趣味に留まるものではありませんでした。それは、自らの権威と威光を演出し、洗練された文化人としてのイメージを確立するための、高度な政治的戦略の一部でもありました。
また、彼は、自らの一族の繁栄を築くことにも、並々ならぬ情熱を傾けました。彼は、イタリアから、自らの甥や姪たち(マンチーニ家とマルティノッツィ家)を呼び寄せ、彼らをフランスの有力な貴族と結婚させました。彼の姪たちは、「マザリネット」と呼ばれ、その美貌と魅力で、フランスの宮廷を席巻しました。その中の一人、オルタンス・マンチーニは、一時、若きルイ14世の恋愛の対象ともなりました。マザランは、この縁故主義によって多くの非難を浴びましたが、彼の死後、彼の一族は、フランスとヨーロッパの貴族社会に深く根を下ろし、その血脈を後世に伝えていくことになります。
1661年3月9日、ジュール・マザランは、ヴァンセンヌの城で、58年の生涯を閉じました。彼は、その死の床まで、国家の業務と、自らの莫大な財産の管理に、精力的に取り組み続けました。彼が残した遺産は、フランスの覇権、強固な王権、そしてルイ14世という偉大な後継者でした。外国人として、常に憎悪と侮蔑の対象となりながらも、彼は、その卓越した知性と不屈の意志によって、フランスという国家を、その栄光の頂点へと導いた、偉大な建設者の一人として、歴史にその名を刻んでいます。

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