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『鴻門之会・剣の舞』(沛公旦日従百余騎〜)わかりやすい現代語訳・書き下し文と解説
著作名: 走るメロス
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史記『鴻門之会』の原文・書き下し文・あらすじ・現代語訳と文法を徹底解説!

このテキストでは、史記の一節『鴻門之会』(沛公旦日従百余騎〜)の原文(白文)、書き下し文、わかりやすい現代語訳・口語訳とその解説を記しています。書籍によっては「剣の舞」と題するものもあります。

本文のあらすじを知りたい人は、「本文をあらすじにまとめました」のページを参照してください。



史記とは

史記は前漢の第7代皇帝であった武帝(在位期間:前141年3月9日 - 前87年3月29日)の時代に、司馬遷(しば せん)によって編纂された歴史書です。


ここまでのあらすじ

まずは、ここまでのあらすじを簡単に説明します。その後に原文、書き下し分、現代語訳を記しています。

楚という国の懐王は、関中(地名)を最初に平定したものを関中の王とすると武将たちに約束をしました。これをうけて項王(項羽のこと)らは北から、沛公(のちの劉邦)らは南から関中を目指しました。先に関中を攻略したのは沛公でした。

そんな中で「沛公は項王を出し抜いて関中の王となろうとしている」と項王に告げ口をした者がいました。告げ口をしたのは沛公軍に所属する曹無傷という者でした。これを聞いた項王は(先に関中に入られたこともあって)怒り、沛公の軍を攻撃しようとしました。

沛公は、項王が怒っている理由を知り、項王のもとへと謝罪におもむいたのでした。




白文(原文)

沛公旦日従百余騎、来項王、至鴻門。謝曰、
与将軍戮力而攻秦。
将軍戦河北、臣戦河南。
然不自意、能先入関破秦、得復見将軍於此。
今者有小人之言、令将軍与臣有郤。」

項王曰、
「此沛公左司馬曹無傷言之。
不然、籍何以至此。」




項王即日、因留沛公与飲。
項王・項伯東嚮坐亜父南嚮坐。
亜父者、范増也。
沛公北嚮坐、張良西嚮侍。
范増数目項王、挙所玉玦、以示之者三
項王黙然不応。

范増起、出召項荘謂曰、
「君王為人不忍。
入前為寿。
寿畢、請以剣舞、因撃沛公於坐殺之。
不者若属皆且為所虜。」


荘則入為寿。
寿畢曰、
「君王与沛公飲。
軍中無以為楽。
請以剣舞。」


項王曰、
「諾。」


項荘抜剣起舞。
項伯亦抜剣起舞、常以身翼蔽沛公。
荘不得撃。

※つづく:於是張良至軍門、見樊噲〜



書き下し文

沛公旦日百余騎を従へ、来たりて項王に見(まみ)えんとし、鴻門に至る。
(※別解釈:沛公旦日百余騎を従へ、来たりて項王に見えんとす。鴻門に至り、)
謝して曰はく、

「臣将軍と与に力を戮(あ)はせて秦を攻む。
将軍は河北に戦ひ、臣は河南に戦ふ。
然れども自ら意(おも)はざりき、能く先に関に入りて秦を破り、復た将軍に此(ここ)に見ゆるを得んとは。
(※別解釈:然れども自ら意はざりき、能く先づ関に入りて秦を破り、復た将軍に此に見ゆるを得んとは。)
今者(いま)小人の言有り、将軍をして臣と郤(げき)有らしむ。」と。






項王曰はく、
「此(こ)れ沛公の左司馬曹無傷之を言へり。
(※別解釈:此れ沛公の左司馬曹無傷之を言ふなり。)
然らずんば、籍何を以つてか此に至らん。」と。


項王即日、因りて沛公を留めて与(とも)に飲す。
(※別解釈:項王即日、因りて沛公を留めて与に飲む。)
項王・項伯は東嚮して坐し、亜父は南嚮して坐す。
亜父とは、范増なり。
沛公は北嚮して坐し、張良は西嚮して侍す。
范増数(しばしば)項王に目し、佩(お)ぶる所の玉玦を挙げて、以つて之に示すこと三たびす。
項王黙然として応ぜず。





范増起ち、出でて項荘を召して謂ひて曰はく、
「君王人と為り忍びず。
若入り前(すす)みて寿を為せ。
寿畢(を)はらば、請ひて剣を以つて舞ひ、因りて沛公を坐に撃ちて之を殺せ。
(※別解釈:寿畢はらば、剣を以て舞はんことを請ひ、因りて沛公を坐に撃ちて之を殺せ。)
不者(しからず)んば、若が属皆且(まさ)に虜とする所と為らんとす。」と。


荘則ち入りて寿を為す。
寿畢はりて曰はく、
「君王沛公と飲す。
軍中以つて楽を為すなし。
請ふ剣を以つて舞はん。」と。






項王曰はく、
「諾」と。


項荘剣を抜き起ちて舞ふ。
項伯も亦剣を抜き起ちて舞ひ、常に身を以つて沛公を翼蔽す。
荘撃つことを得ず。
(※別解釈:荘撃つを得ず。)

※つづく:是に於いて張良軍門に至り、樊噲を見る〜

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