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絶対王政とは わかりやすい世界史用語2613
著作名: ピアソラ
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絶対王政とは

絶対王政、あるいは絶対主義とは、主として16世紀から18世紀にかけてのヨーロッパにおいて、その頂点を見ることができる統治形態です。この体制の核心にあるのは、君主が国家における究極的かつ分割不可能な主権を一身に体現するという理念です。絶対君主の権力は、理論上、神以外のいかなる地上の権威、すなわち貴族、聖職者、議会、あるいは伝統的な法慣習によっても法的に拘束されることはありません。ローマ法の原則である「皇帝は法に拘束されず」という言葉が、この君主の立場を端的に表現しています。君主は法を創造する者であり、自らはその法の上に立つ存在とされました。この強大な権力を正当化するために、王権神授説というイデオロギーがしばしば援用されました。これは、君主の権威が人民の同意や世俗的な契約によるものではなく、神から直接授けられた神聖なものであると説く教義です。したがって、君主に従うことは神の意志に従うことであり、君主への反逆は神への冒涜と見なされました。
しかし、この「絶対」という言葉は、現代における独裁や全体主義のような、無制限で恣意的な権力を意味するものではありませんでした。絶対君主の権力には、理論的かつ実践的な限界が存在したのです。君主は、神の法(自然法や十戒など)と、王国の基本法(サリカ法のような王位継承法や、王領の不可侵といった、王国そのものの構造に関わる不文律)を遵守する道徳的・宗教的義務を負っていました。また、君主は、臣民の私有財産を尊重することが期待されていました。さらに、広大な領土を統治するためには、官僚機構、常備軍、そして地方に根を張る様々な中間団体(ギルド、都市、地方の高等法院など)の協力が不可欠であり、これらの組織は、君主の意志の貫徹に対して、時に抵抗勢力ともなりえました。
絶対王政は、中世の封建的な権力分散状態から、近代的な中央集権国家へと移行する過渡期に現れた歴史的現象です。封建領主の私的な権力が錯綜し、普遍的な権威を主張するローマ=カトリック教会との間で絶え間ない緊張関係にあった中世の状況から、国王は、戦争と官僚制を通じて、国内の権力を一元化し、明確な国境を持つ領域国家を形成していきました。この過程で、国王は、伝統的な封建貴族の軍事力を解体し、彼らを宮廷貴族として自らの権威の下に従属させる一方、ブルジョワジーと呼ばれる新興の市民階級から財政的支援や有能な官僚を登用し、両者のバランスの上に立つことで、その権力を強化しました。経済面では、重商主義政策が採用され、国家の介入によって貿易黒字を確保し、国富(特に貴金属)を増大させることが、軍事力と国家威信の維持に不可欠であると考えられました。
この絶対王政の最も輝かしい典型例として、フランスのルイ14世の治世が挙げられます。彼は「朕は国家なり」という言葉に象徴されるように、王権の神聖さと絶対性を壮麗なヴェルサイユ宮殿の建設や華やかな宮廷儀礼を通じて演出し、フランスをヨーロッパにおける政治・文化の中心へと押し上げました。しかし、その絶対主義的な統治も、18世紀に入ると啓蒙思想の批判に晒され、社会契約説や人民主権論といった新しい政治思想が台頭する中で、その正当性を失っていきます。最終的に、フランス革命に代表される市民革命によって、絶対王政は歴史の舞台から姿を消し、権力の源泉が君主から国民へと移行する、近代的な国民国家の時代が到来することになるのです。



絶対王政の成立

中世封建制の遺産

絶対王政という統治形態を理解するためには、その前段階である中世ヨーロッパの封建社会の構造をまず把握する必要があります。中世の権力は、極めて分散的かつ多元的でした。国王は、理論上は王国の頂点に立つ存在でしたが、その実権はしばしば限定的でした。現実の支配は、国王と主従関係の契約を結んだ諸侯や騎士たちによって、それぞれの領地(フューダム)で独立して行われていました。彼らは自らの領内で裁判権、警察権、徴税権といった統治権能(バン領主権)を行使し、国王の直接的な支配は、王領と呼ばれる直轄地に限られていました。国王の権力は、いわば「同輩中の首席」としての性格が強く、他の大諸侯の権力と本質的な差がない場合も少なくありませんでした。
この権力の分散状態は、主従関係の複雑なネットワークによってさらに強化されていました。一人の家臣が複数の主君に仕えることも珍しくなく、誰に対する忠誠が優先されるのかは常に曖昧でした。また、国王の権威は、もう一つの普遍的な権威、すなわちローマ=カトリック教会によっても絶えず挑戦されていました。教皇は、全ヨーロッパのキリスト教徒の精神的指導者として、時には国王を破門し、その臣民の忠誠義務を解除するほどの力を持っていました。聖職叙任権闘争に代表される、聖俗両権力の間の長い闘争は、中世を通じてヨーロッパの政治を規定する主要なテーマでした。
しかし、この封建的な権力構造の中にも、後の絶対王政につながる変化の芽は育っていました。中世後期、11世紀から13世紀にかけて、ヨーロッパは農業生産の向上、商業の復活、そして都市の成長といった、一連の社会経済的な変動を経験します(「12世紀ルネサンス」)。国王たちは、この変化を巧みに利用しました。彼らは、新たに勃興してきた都市の商人や職人(ブルジョワジー)と同盟を結び、彼らから財政的な支援を得る見返りに、商業活動を保護するための特権を与えました。この貨幣経済の浸透は、国王が封建的な軍役奉仕に代わって、傭兵からなる常備軍を維持することを可能にし、反抗的な諸侯を抑え込むための実力となりました。
また、国王たちは、ローマ法の再発見と研究を利用して、自らの権威を理論的に強化しようと試みました。大学でローマ法を学んだ法律家たちは、国王の宮廷に仕え、「皇帝は自らの王国において皇帝である」という原則を唱えました。これは、国王が自らの領内では、神聖ローマ皇帝や教皇といった外部の権威から独立した、最高の主権者であることを主張するものでした。さらに、国王の権力が神の恩寵に由来するという観念(塗油の儀式など)も、教皇の権威に対抗するための重要なイデオロギー的支柱となりました。
14世紀から15世紀にかけて、百年戦争や黒死病(ペスト)の流行といった危機は、封建社会の構造を大きく揺るがしました。戦争は、国家的な規模での軍事・財政組織の必要性を高め、国民的な意識の形成を促しました。黒死病による人口の激減は、労働力不足を通じて農奴制の解体を促進し、伝統的な荘園制に打撃を与えました。これらの危機を通じて、多くの封建貴族が没落する一方で、国王は、国家の防衛と秩序の維持という役割を担うことで、その権威を相対的に高めていきました。こうして、中世末期には、分散的だった権力が徐々に国王の下に集約され始め、フランスのヴァロワ朝やイングランドのテューダー朝に代表されるような、より中央集権化された「新君主国」が出現する土壌が整えられていったのです。
宗教改革と主権国家の形成

16世紀の宗教改革は、ヨーロッパの政治地図を塗り替え、絶対王政の確立を決定的に後押しした、画期的な出来事でした。マルティン=ルターがローマ教皇の権威に異を唱えたとき、彼は意図せずして、ヨーロッパのキリスト教世界という統一された観念を破壊し、世俗君主がその権力を飛躍的に増大させるための道を開いたのです。
宗教改革以前、ヨーロッパの君主たちは、常に自らの上に立つ教皇という普遍的な精神的権威を意識しなければなりませんでした。しかし、ルターが教皇の権威を否定し、聖書のみを信仰の拠り所とすべきだと説いたことで、この長年の軛が外れました。ドイツでは、多くの諸侯がルター派に改宗し、自領内の教会の首長となりました。彼らは、これまでローマに流れていた富を自らのものとし、臣民の信仰生活をも統制下に置くことで、領邦国家の支配権を確立しました。1555年のアウクスブルクの和議で「領主の宗教が、その地の宗教となる」という原則が承認されたことは、君主が領域内の宗教を決定する権能を持つという、主権国家の重要な属性が公的に認められたことを意味します。
イングランドでは、このプロセスがさらに国王主導で進められました。ヘンリー8世は、自身の離婚問題をきっかけに、ローマ教皇庁と決別し、「国王至上法(首長令)」によって、自らがイングランド国教会の唯一最高の首長であると宣言しました。これにより、イングランド国王は、聖俗両面にわたる最高権力を掌握し、修道院の解散を通じてその財産を没収することで、王室の財政基盤を大幅に強化しました。
宗教改革がもたらしたもう一つの重要な帰結は、長期にわたる悲惨な宗教戦争でした。フランスのユグノー戦争や、ドイツを荒廃させた三十年戦争は、宗派間の対立がいかに国家を分裂させ、社会を破壊するかを白日の下に晒しました。この混乱と無秩序の中から、宗派的対立を超越した、強力で中立的な国家権力によってのみ、平和と秩序は回復されうる、という切実な要求が生まれてきました。フランスの思想家ジャン=ボダンは、この経験を背景に、主著『国家論六編』で近代的な主権の概念を提唱しました。彼によれば、主権とは「国家における絶対的かつ永続的な権力」であり、それは法を制定し、破棄する最高の権能を含みます。この主権は、国内のいかなる党派や団体にも分割されることなく、一人の君主(あるいは一つの団体)に帰属しなければならないとされました。ボダンの理論は、宗教内戦を克服し、国家の統一を維持するためには、絶対的な君主主権が必要であるという、絶対王政の理論的基礎を提供したのです。
1648年のウェストファリア条約は、三十年戦争を終結させ、この主権国家体制をヨーロッパの国際秩序の基本原則として確立しました。この条約によって、各国の君主は、自らの領土内において最高の統治権を持つことが相互に承認され、内政(特に宗教問題)に干渉しないことが原則となりました。教皇が条約交渉から事実上排除されたことは、中世以来の教皇の普遍的権威が失墜し、ヨーロッパが、それぞれが主権を持つ多数の独立国家から構成されるシステムへと移行したことを象G徴していました。この主権国家体制の確立こそが、絶対王政がその権力を行使するための国際的な枠組みを提供したのです。君主は今や、名実ともに自国における最高の支配者となったのでした。
絶対王政の構造

官僚制と中央集権

絶対王政の権力は、君主個人のカリスマや威光だけで支えられていたわけではありません。その統治を現実のものとするためには、君主の意志を全国津々浦々にまで浸透させ、効率的に実行するための行政機構、すなわち官僚制の整備が不可欠でした。絶対君主たちは、中世以来の封建的な統治構造を乗り越え、より近代的で中央集権的な国家を建設するために、官僚組織の拡充に心血を注ぎました。
中世の国王の宮廷は、主として王の家政を管理する家産官僚と、大貴族や高位聖職者からなる顧問団で構成されていました。しかし、絶対王政の時代になると、国家の機能が拡大・複雑化するにつれて、より専門的な知識と実務能力を持つ官僚が必要とされるようになります。国王たちは、伝統的な門閥貴族(帯剣貴族)に代わって、大学で法学を学んだ平民や下級貴族出身の有能な人材を積極的に登用しました。彼らは、その出自ゆえに国王への忠誠心が高く、貴族的な特権意識に縛られることなく、国家全体の利益という視点から統治に当たることが期待されました。フランスにおける「法服貴族」がその典型例です。彼らは、高等法院(パルルマン)の法官や、地方監察官(アンタンダン)といった要職を占め、国王の権力を地方にまで及ぼすための重要な担い手となりました。特にアンタンダンは、国王から直接派遣され、司法、警察、財政という広範な権限を与えられて地方を巡察し、地方総督として勢力を保っていた大貴族の権力を牽制し、中央政府の統制を強化する上で絶大な役割を果たしました。
官僚機構の整備は、国家の財政基盤の強化と密接に結びついていました。効率的な徴税システムの構築は、絶対王政の最重要課題の一つでした。フランスでは、タイユ(直接税)やガベル(塩税)といった税金が、官僚組織を通じて全国的に徴収されるようになりました。しかし、その徴税方法はしばしば不公平であり、貴族や聖職者が免税特権を享受する一方で、その負担はもっぱら平民、特に農民に重くのしかかりました。また、財政難を補うために、官職を売買する「売官制」が広く行われました。これは、短期的には国王に収入をもたらしましたが、長期的には、官職を私有財産と見なす独立した官僚層を生み出し、国王の統制を困難にするという矛盾もはらんでいました。
中央政府では、国王の諮問機関として機能する各種の国務会議が整備され、財政、軍事、外交といった専門分野ごとに政策が審議されるようになりました。国王は、これらの会議を主宰し、少数の腹心の閣僚や国務卿とともに、最終的な意思決定を行いました。リシュリュー、マザラン、コルベールといったフランスの偉大な宰相たちは、この中央集権化のプロセスを強力に推進し、国王の権威の下に国家の諸機能を統合していきました。このようにして、国家は、もはや君主の私的な家産ではなく、それ自体が独自の論理と永続性を持つ、非人格的な統治機構としての性格を強めていったのです。これは、近代国家の形成における決定的な一歩でした。
常備軍と戦争

「戦争は国家をつくり、国家は戦争をつくった」という歴史家チャールズ=ティリーの有名な言葉は、絶対王政の時代を的確に表現しています。常備軍の創設と維持は、絶対君主が国内の権力を確立し、対外的に国益を追求するための、最も重要な手段でした。
中世の軍事力は、国王が家臣である諸侯や騎士に軍役奉仕を命じて召集する封建軍が主力でした。しかし、この軍隊は、召集に時間がかかり、忠誠心も不安定で、奉仕期間も限られているなど、多くの欠点を抱えていました。絶対君主たちは、こうした封建軍に代わって、国王に直接忠誠を誓い、平時においても維持される、専門的な職業軍人からなる常備軍の創設を目指しました。この常備軍は、国王が国内の反抗的な貴族を制圧し、民衆の反乱を鎮圧するための、強力な国内的強制力となりました。同時に、それは、絶え間ない国際紛争の中で、国家の領土を防衛し、拡大するための、対外的な実力でもありました。
17世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパでは軍事技術の革新、いわゆる「軍事革命」が進行しました。火薬兵器(マスケット銃や大砲)の改良と普及、整然とした歩兵の集団戦術(オランダのマウリッツ・ファン・ナッサウやスウェーデンのグスタフ=アドルフが開発した反復横隊など)の導入、そして築城術の高度化(ヴォーバンの星形要塞など)は、戦争の様相を一変させました。これらの新しい軍事技術を導入し、大規模な軍隊を訓練・維持するためには、莫大な財政支出と高度な兵站管理能力が不可欠でした。このような資源を動員できるのは、中央集権化された徴税・行政機構を持つ国家だけでした。その結果、戦争を遂行する能力が、国家の存亡を左右する決定的な要因となり、軍事力の増強をめぐる国家間の競争が、国家機構そのものの発展を強力に促すことになったのです。
常備軍の規模は、この時代を通じて劇的に増大しました。例えば、フランス軍の兵力は、17世紀初頭には数万人規模でしたが、ルイ14世の治世末期には40万人近くにまで膨れ上がりました。この巨大な軍事機構を維持するために、国家は財政収入の大部分を軍事費に注ぎ込みました。徴兵制度が導入され、兵士の訓練、給与、装備、兵舎の管理などを専門に行う軍事官僚機構が整備されました。軍服の統一は、兵士の帰属意識を高めるとともに、国王の軍隊としての視覚的な一体性を生み出しました。
しかし、この絶え間ない戦争と軍拡競争は、絶対王政にとって諸刃の剣でもありました。戦争は、国家の財政を常に圧迫し、増税や国債の乱発につながりました。これが、民衆の不満を高め、革命の遠因となることも少なくありませんでした。また、戦争は、君主の個人的な栄光や、王朝的な利害のために行われることが多く、国家や国民全体の利益とは必ずしも一致しませんでした。それでもなお、常備軍の存在は、国内における暴力の独占を完成させ、明確な国境を持つ領域国家の輪郭を確定させる上で、決定的な役割を果たしました。中世の多元的な権力主体がそれぞれに武力を持っていた状態から、国家のみが正統な暴力行使の主体であるとする、近代国家の基本的な属性が、この時代に確立されたのです。
重商主義と経済

絶対王政の時代の経済政策は、一般に重商主義として知られています。これは、経済活動を、国家の富と権力を増大させるための主要な手段と見なす思想と政策の総体です。重商主義者たちは、国際経済を、一国の利益が他国の損失となるゼロサムゲームとして捉えていました。そして、国富の指標は、国内に蓄積された金銀(貴金属)の量であると考えられていました。なぜなら、貴金属こそが、常備軍を維持し、戦争を遂行するための軍資金(いわゆる「戦争の神経」)となるからです。
この基本的な考え方から、重商主義政策の二つの主要な柱が導き出されました。第一に、貿易差額主義です。国家は、輸出を最大限に奨励し、輸入を可能な限り抑制することで、貿易黒字を生み出し、その差額を金銀の流入として確保することを目指しました。そのために、輸入製品には高い関税が課され、時には輸入そのものが禁止されました。一方で、国内の製造業者には、補助金、独占権(マニュファクチュア)、税の免除といった様々な特権が与えられ、輸出産業の育成が図られました。フランスのコルベールが推進した一連の政策(コルベール主義)は、この重商主義の典型例であり、王立のゴブラン織製作所のようなマニュファクチュアを設立し、奢侈品産業を育成して、フランスの輸出を増大させようとしました。
第二に、植民地の獲得と収奪です。植民地は、本国の経済的利益に奉仕するための、二重の役割を期待されていました。一つは、本国が必要とする原材料(砂糖、タバコ、木材、毛皮など)を安価に供給する供給源としての役割です。もう一つは、本国の工業製品を売りさばくための、排他的な市場としての役割です。この関係を維持するために、本国は、航海法(イングランド)や「排他的植民地契約」(フランス)のような法律を制定し、植民地が本国以外の国と直接貿易を行うことや、本国の産業と競合するような工業を発展させることを厳しく制限しました。植民地は、本国の経済的繁栄のための、従属的な存在と位置づけられていたのです。
重商主義は、国家が経済に深く介入し、規制することを特徴としています。国内の度量衡や通貨の統一、道路や運河といった交通インフラの整備も、国内市場の統合と商業の円滑化を図るために、国家の主導で進められました。これらの政策は、封建的な地域ごとの障壁を取り払い、国民経済の形成を促すという点で、歴史的な進歩性を持っていました。
しかし、重商主義は多くの問題を抱えていました。国家による独占権の付与は、自由な競争を阻害し、経済の非効率を招きました。また、保護主義的な貿易政策は、国家間の経済的対立を激化させ、しばしば貿易戦争や植民地をめぐる武力紛争へと発展しました。18世紀後半になると、アダム=スミスに代表される古典派経済学が登場し、重商主義の理論は根本から批判されることになります。スミスは、『国富論』の中で、国富の源泉は貴金属の蓄積ではなく、国民の労働による生産物の総量であると説き、政府の介入を排して、市場の「見えざる手」に委ねる自由放任主義(レッセフェール)を提唱しました。この新しい経済思想の台頭とともに、重商主義は次第に時代遅れとなり、絶対王政の経済的基盤もまた、揺らぎ始めることになります。
絶対王政の展開と典型

フランス

フランスは、絶対王政の最も古典的で完成されたモデルと見なされています。その発展は、16世紀の宗教内戦(ユグノー戦争)の混乱を克服する過程で始まり、ブルボン朝の初代国王アンリ4世の下で基礎が築かれました。彼は、プロテスタントからカトリックに改宗して国内の和解を図る一方、1598年にナントの勅令を発して、プロテスタントにも限定的な信仰の自由を認め、長期にわたる宗教対立に終止符を打ちました。
その事業を継承し、フランス絶対王政の確立に決定的な役割を果たしたのが、ルイ13世の宰相を務めたリシュリュー枢機卿です。彼は、生涯をかけて三つの目標の実現に尽力しました。第一に、国内におけるプロテスタント(ユグノー)の政治的・軍事的勢力を解体すること。第二に、王権に反抗する大貴族の権力を抑制すること。そして第三に、フランスを囲むハプスブルク家の勢力を打破し、フランスの国際的地位を高めることです。彼は、ユグノーの拠点であったラ=ロシェルを攻略し、大貴族の城砦を破壊し、国王直属の地方監察官(アンタンダン)制度を強化して、中央集権化を強力に推し進めました。
リシュリューの後を継いだマザラン枢機卿の時代には、増税や中央集権化に反発する貴族や民衆による大規模な反乱(フロンドの乱)が起こりましたが、最終的にこれを鎮圧したことで、王権の優位は不動のものとなりました。この幼少期の反乱の記憶は、若きルイ14世に、貴族勢力への深い不信感と、強力な王権の必要性を痛感させることになります。
1661年にマザランが死去すると、ルイ14世は宰相を置かずに自ら統治を行う「親政」を開始し、フランス絶対王政はその絶頂期を迎えます。「太陽王」と称された彼は、王権の威光を内外に示すための壮大な自己演出を行いました。その最大の舞台となったのが、パリ郊外に建設されたヴェルサイユ宮殿です。この壮麗な宮殿は、単なる王の住居ではなく、絶対王政の権力構造を視覚化した、巨大な政治的装置でした。全国の大貴族たちは、地方の領地に留まることを許されず、ヴェルサイユでの宮廷生活を送ることを義務づけられました。彼らは、国王の起床から就寝に至るまでの、複雑で儀式化された日常生活の中で、国王への奉仕における序列を競い合いました。こうして、かつては王権に反抗した大貴族たちは、その政治的実権を奪われ、国王の威光を飾る、金ぴかの籠の中の鳥、すなわち宮廷貴族へと変貌させられたのです。
ルイ14世は、「朕は国家なり」という言葉に象徴されるように、自らを国家そのものと同一視しました。彼の治世下で、コルベールによる重商主義政策が推進され、軍制改革によってヨーロッパ最強と謳われる陸軍が創設されました。また、フランス語とフランス文化は、ヨーロッパ中の宮廷で模倣される、洗練された文明の規範となりました。しかし、その栄光の裏で、スペイン継承戦争をはじめとする相次ぐ侵略戦争と、ヴェルサイユ宮殿の建設は、国家財政を破綻寸前にまで追い込みました。さらに、1685年にナントの勅令を廃止したことは、多数の有能なプロテスタント商工業者が国外に亡命する結果を招き、フランス経済に長期的な打撃を与えました。ルイ14世が築き上げた壮大な絶対王政のシステムは、その輝かしい外観とは裏腹に、深刻な構造的矛盾を内包しており、その矛盾は、18世紀を通じて増幅され、最終的にフランス革命という形で爆発することになるのです。
イングランド

フランスが絶対王政の典型であったとすれば、イングランドは、絶対王政の試みが挫折し、代わりに議会主権に基づく立憲王政が確立された、対照的な事例を提供します。
イングランドでは、テューダー朝の時代、特にエリザベス1世の治世に、国王の権威は大きく高まりました。しかし、テューダー朝の君主たちは、議会を無視するのではなく、むしろ議会と協調し、その同意を取り付けながら統治を行うという、巧みな政治手腕を発揮しました。議会、特にジェントリと呼ばれる地方の名士層が議席の多くを占める下院は、国王の重要な統治パートナーと見なされていました。
この比較的安定した関係は、1603年にスコットランドからジェームズ1世を迎えてステュアート朝が始まると、一変します。ジェームズ1世とその子チャールズ1世は、王権神授説の熱心な信奉者であり、国王の権力は議会や法によって制限されるべきではないと考えました。彼らは、議会の承認なしに課税を行おうとしたり、国王大権を濫用したりしたため、議会との間に深刻な対立を引き起こしました。この対立は、国王が国教会の儀式を強化しようとしたことに対し、議会内で勢力を増していたピューリタンが強く反発したことで、宗教的な次元も帯びていました。
対立はついに、1642年、国王軍と議会軍の間の武力衝突、すなわちイングランド内戦(ピューリタン革命)へと発展します。オリバー=クロムウェル率いる議会軍が勝利し、1649年には国王チャールズ1世が「人民への反逆者」として処刑されるという、ヨーロッパ中を震撼させる事態に至りました。これは、王権神授説に対する、最も劇的な否定でした。
その後の共和政とクロムウェルの独裁を経て、1660年に王政復古が実現しますが、国王と議会の間の緊張関係は依然として続きました。カトリック教徒であるジェームズ2世が、議会の法を無視してカトリック擁護政策を推し進めると、議会は再び国王と対決します。1688年、議会の指導者たちは、ジェームズ2世を追放し、プロテスタントである彼の娘メアリと、その夫でオランダ総督のウィレムを共同統治者として迎えるという、クーデターを敢行しました。この無血の政変が名誉革命です。
翌1689年、ウィリアムとメアリは、議会が起草した「権利の章典」を承認した上で王位に就きました。この文書は、国王が議会の承認なしに法を停止したり、課税したり、常備軍を維持したりすることを禁じ、議会における言論の自由などを保障するものでした。これにより、イングランドでは、国王の権力は法と議会の下にあるという原則が確立され、絶対王政の可能性は完全に断たれました。主権は国王個人ではなく、「議会における国王」に存するとされる、立憲君主制の基礎がここに築かれたのです。思想家ジョン=ロックは、この革命を、政府の権力は人民の信託に基づくという社会契約論によって理論的に正当化し、後の近代民主主義思想に絶大な影響を与えました。イングランドの経験は、絶対王政がヨーロッパにおける唯一の道ではなく、近代国家への道筋には多様な可能性があることを示しています。
絶対王政の終焉

啓蒙思想の挑戦

18世紀、ヨーロッパの知的世界では、啓蒙思想として知られる新しい思潮が支配的となりました。理性、科学、進歩への揺るぎない信頼を特徴とするこの思想運動は、旧来の権威や伝統、特に絶対王政とそのイデオロギー的支柱であった教会に対して、根本的な批判の目を向けました。
啓蒙思想家たちは、人間理性の光を掲げ、社会や政治のあり方を合理的に検証しようと試みました。フランスのモンテスキューは、その主著『法の精神』の中で、イングランドの立憲君主制を分析し、権力の濫用を防ぐためには、立法、行政、司法の権力を分立させる必要があると説きました。彼の権力分立論は、権力が君主一人に集中する絶対王政の原理とは真っ向から対立するものでした。ヴォルテールは、辛辣な筆致で、教会の狂信や、理不尽な権力による圧制を攻撃し、言論の自由と宗教的寛容の重要性を訴えました。
中でも、絶対王政の理論的基盤を根底から覆したのが、ジャン=ジャック=ルソーです。彼は『社会契約論』の中で、正統な権力の唯一の源泉は、統治される人民の同意にあると主張しました。彼によれば、人々は、自らの自由と平等を守るために社会契約を結び、共同の意志である「一般意志」を形成します。主権はこの一般意志に存し、それは分割も譲渡もできません。政府は、この人民主権を実行するための単なる代理人に過ぎず、もし政府が一般意志に反するならば、人民はいつでもそれを覆すことができるとしました。この人民主権の理論は、権力が神から与えられ、上から下へと行使されるという王権神授説を、完全に逆転させるものでした。
これらの啓蒙思想は、検閲の目をかいくぐり、サロンやコーヒーハウス、あるいはディドロらが編纂した『百科全書』などを通じて、貴族やブルジョワジーといった知識人層に広く浸透していきました。王権の神聖さや、生まれに基づく身分制度の正当性は、合理的な批判精神の前で、次第にその説得力を失っていきました。「理性」や「自然権」、「人民」、「世論」といった新しい言葉が、古い秩序を支えていた「神」、「王」、「身分」といった言葉に取って代わり始めました。
18世紀後半には、「啓蒙専制君主」と呼ばれる君主たちも現れました。プロイセンのフリードリヒ2世や、オーストリアのマリア=テレジアとヨーゼフ2世、ロシアのエカチェリーナ2世などがその代表です。彼らは、啓蒙思想の合理主義的な側面に影響を受け、上からの行政改革、法典の編纂、教育の振興、宗教的寛容の推進などを試みました。フリードリヒ2世が自らを「国家第一の僕」と称したように、彼らは、統治の目的を、もはや王朝の栄光ではなく、国家の福祉と繁栄に置こうとしました。しかし、彼らの改革は、あくまで君主主権という絶対王政の枠内で行われるものであり、身分制社会の構造そのものに手をつけるものではありませんでした。彼らは、啓蒙思想を、統治をより効率化するための道具として利用したのであり、人民に主権を渡すつもりは毛頭なかったのです。それでも、彼らが改革の必要性を認めたこと自体が、伝統的な絶対王政がもはや時代遅れとなりつつあることを示していました。啓蒙思想は、絶対王政の正当性を内側から静かに、しかし確実に蝕んでいたのです。
フランス革命と国民国家の誕生

絶対王政の劇的な終焉を告げたのは、1789年に勃発したフランス革命でした。18世紀後半のフランスは、ルイ14世以来の度重なる戦争と宮廷の浪費によって、国家財政は破綻の危機に瀕していました。聖職者と貴族という特権身分が免税特権を享受する一方で、税負担はもっぱら第三身分、特に農民や都市の民衆に重くのしかかり、社会の不満は頂点に達していました。
財政改革のために国王ルイ16世が召集した三部会は、身分ごとの議決方法をめぐって紛糾し、第三身分の代表たちは、自らこそが国民を代表するとして「国民議会」を設立し、憲法制定までは解散しないことを誓いました(球戯場の誓い)。これに続いて、パリの民衆が圧政の象徴であったバスティーユ牢獄を襲撃したことで、革命は全国に波及しました。
革命の初期段階で国民議会が採択した「人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)」は、絶対王政のイデオロギーに対する、決定的な死亡宣告でした。その第3条は、「あらゆる主権の根源は、本質的に国民に存する。いかなる団体も、いかなる個人も、国民から明示的に発しない権威を行使することはできない」と高らかに宣言しました。これは、主権が神から授けられた君主にあるとする王権神授説を完全に否定し、ルソーの人民主権(国民主権)の思想を革命の基本原則として打ち立てるものでした。権力の正当性の源泉は、天上の神から、地上の国民へと、不可逆的に移行したのです。
当初、革命の指導者たちの多くは、イングランドのような立憲君主制を目指していました。しかし、国王ルイ16世が革命の進展に抵抗し、国外逃亡を図った(ヴァレンヌ逃亡事件)ことで、国王に対する国民の信頼は完全に失われました。革命は次第に急進化し、内外の反革命の脅威に対抗する中で、1792年、ついに王政は廃止され、フランスは第一共和政を宣言しました。そして翌1793年1月、かつては神聖不可侵とされた国王ルイ16世が、国民の名において裁かれ、「一市民ルイ=カペー」としてギロチンで処刑されました。この出来事は、単に一人の国王の死を意味するものではありませんでした。それは、何世紀にもわたってヨーロッパの政治秩序の根幹にあった、君主の人格と国家主権が一体であるという観念そのものの、公的な処刑でした。
フランス革命は、絶対君主の「臣民」を、国民国家の「市民」へと変えました。人々はもはや、特定の君主や王朝にではなく、法の下の平等な市民から構成される抽象的な共同体、すなわち「国民(ネーション)」に忠誠を誓うことになります。革命戦争とナポレオン戦争を通じて、「自由、平等、友愛」の理念と、国民国家という新しいモデルがヨーロッパ中に広まりました。ナポレオンの支配に対する各地の抵抗は、皮肉にも、それぞれの場所で国民意識を覚醒させる結果を招きました。
19世紀を通じて、ヨーロッパでは自由主義とナショナリズムの運動が高まり、絶対主義的な旧体制は次々と覆されていきました。多くの国で憲法が制定され、議会が開設され、君主の権力は法的に制限されるか、あるいは完全に廃止されました。もちろん、絶対主義の残滓は、特に東ヨーロッパや中央ヨーロッパでは長く存続しましたが、フランス革命によって打ち立てられた国民国家という新しいパラダイムが、近代世界の政治的標準となっていったことは疑いようがありません。絶対王政は、封建的な権力分散状態から近代的で中央集権的な国家を形成するという歴史的役割を果たし終え、国民が主権の担い手となる新しい時代に、その席を譲ったのです。それは、ヨーロッパが真に近代へと移行したことを示す、決定的な分水嶺でした。

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