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無敵艦隊(アルマダ)とは わかりやすい世界史用語2638 |
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著作名:
ピアソラ
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無敵艦隊(アルマダ)とは
1588年という年は、ヨーロッパ史、とりわけイングランドとスペインの歴史において、一つの転換点として深く記憶されています。この年、スペイン王フェリペ2世が、異端の国イングランドを征服し、カトリックの秩序を回復するために送り込んだ大艦隊、すなわち「グランデ・イ・フェリシスマ・アルマダ(偉大にして最も幸運な艦隊)」、後に皮肉を込めて「無敵艦隊(インヴィンシブル=アルマダ)」と呼ばれる艦隊が、イギリス海峡にその威容を現しました。これは、16世紀ヨーロッパにおける宗教的、政治的、そして経済的な対立が、一つの壮大な軍事行動として頂点に達した瞬間でした。
この遠征は、単なる二国間の戦争ではありませんでした。それは、カトリック改革の強力な擁護者であり、ヨーロッパで最も広大な領土を支配するハプスブルク家の君主フェリペ2世が、プロテスタント宗教改革の波に抗い、神聖ローマ帝国から受け継いだ「普遍的キリスト教君主」としての使命を果たそうとする、壮大な試みでした。彼にとって、プロテスタントの女王エリザベス1世が統治するイングランドは、ヨーロッパにおける異端思想の源泉であり、ネーデルラントで続くプロテスタントの反乱を支援し、そしてフランシス=ドレークのような海賊(私拿捕船乗り)を使い、スペインの新世界からの富を略奪する、許しがたい敵でした。イングランドの征服は、神に対する奉仕であり、王としての責務であると、彼は固く信じていました。
一方、エリザベス女王にとって、この艦隊の来襲は、彼女の治世における最大の危機であり、イングランドという国家の独立そのものが問われる存亡の時でした。宗教的に分裂し、大陸の強国に比べて国力で劣るイングランドが、この巨大な軍事力にどう立ち向かうのか。その帰趨は、ヨーロッパの勢力図を塗り替え、その後の海洋史の流れを決定づける可能性を秘めていました。
無敵艦隊の物語は、しばしば、小国イングランドの勇敢な船乗りたちが、巨大なスペインの圧制を打ち破った、ダヴィデとゴリアテの戦いとして単純化されて語られます。しかし、その実像は、はるかに複雑な要因が絡み合った壮大な歴史ドラマでした。それは、両国の戦略、艦船の設計思想、兵器技術、そして指揮官の能力がぶつかり合った、軍事史上の画期的な出来事でした。また、天候という人間の力を超えた要素が、いかに歴史の行方を左右するかを、劇的に示した事例でもあります。
派遣の背景
1588年の無敵艦隊の派遣は、突発的な出来事ではなく、数十年にわたって蓄積されてきた、イングランドとスペインの間の宗教的、経済的、そして政治的な対立が、ついに臨界点に達した結果でした。その根は深く、16世紀ヨーロッパを揺るがした、二つの大きな歴史の潮流、すなわち宗教改革と、大航海時代に始まる海外への膨張にまで遡ることができます。
宗教的対立
無敵艦隊の遠征の最も根源的な動機は、宗教にありました。スペイン王フェリペ2世は、カトリック教会の最も熱心な擁護者であり、プロテスタントの「異端」を根絶することを、自らの神聖な使命と見なしていました。彼の父、神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)は、マルティン=ルターの宗教改革に直面し、その生涯を、ヨーロッパにおけるカトリックの統一性を守るための戦いに捧げました。フェリペ2世は、その父の遺志を継ぎ、カトリック改革(対抗宗教改革)の強力な推進者となったのです。
一方、イングランドでは、ヘンリー8世の離婚問題に端を発した宗教改革が、複雑な経緯を辿っていました。ヘンリー8世の息子エドワード6世の治世に急進的なプロテスタント化が進んだ後、フェリペ2世の妻でもあったメアリー1世(カトリック)の治世には、イングランドは一時的にカトリックに復帰しました。しかし、1558年にエリザベス1世が即位すると、彼女は、プロテスタント的な教義とカトリック的な儀式の一部を組み合わせた、独自の「イングランド国教会」を確立し、再びローマ=カトリック教会から離脱しました。
フェリペ2世は、当初、エリザベスとの関係を比較的穏便に保とうとしました。彼は、エリザベスの異母姉メアリー1世の夫であったことから、イングランドの王位継承権を主張することも可能でしたが、それを行いませんでした。その背景には、もしエリザベスが失脚した場合、次に王位に就く可能性が最も高かったのがスコットランド女王メアリー=スチュアートであり、彼女がフランス王妃でもあったことから、イングランドがフランスの影響下に置かれることを、何よりも恐れたという政治的な計算がありました。
しかし、時が経つにつれて、エリザベスがプロテスタントの君主としてその地位を固めていくと、フェリペ2世の態度は次第に硬化していきます。1570年、教皇ピウス5世は、エリザベスを正式に破門し、彼女をイングランドの正統な君主ではないと宣言する教皇勅書を発布しました。これにより、イングランド国内のカトリック教徒は、女王への忠誠義務を解かれ、彼女を打倒するための陰謀が正当化されることになりました。その後、イングランド国内ではイエズス会の宣教師が潜入し、カトリック信仰を維持しようとする地下活動が活発化し、それに対してエリザベス政府は厳しい弾圧で応じました。
フェリペ2世は、これらのイングランド国内のカトリック教徒による、エリザベス暗殺や王位転覆の陰謀(リドルフィ事件やスロックモートン事件など)を、背後から支援しました。彼にとって、異端の女王エリザベスを排除し、カトリックの君主(例えば、イングランドに亡命していたメアリー=スチュアート)を王位に就けることは、神の御心にかなう行為でした。
経済的・政治的対立
宗教的な対立に加えて、経済的、政治的な領域でも両国の緊張は高まっていきました。その主な舞台となったのが、新世界(アメリカ大陸)とネーデルラントでした。
16世紀、スペインは、教皇子午線を根拠に、アメリカ大陸の広大な領域に対する独占的な支配権を主張していました。ペルーやメキシコの鉱山から産出される莫大な量の銀は、スペイン帝国の財政を支え、ヨーロッパにおけるその覇権の源泉となっていました。スペインは、この富を独占するため、セビリアの商人以外が新世界の植民地と貿易することを固く禁じていました。
しかし、エリザベス朝のイングランドの野心的で冒険心に満ちた船乗りたちは、このスペインの独占を公然と無視しました。ジョン=ホーキンスはアフリカから奴隷をスペイン領西インド諸島に密輸し、フランシス=ドレークはスペインの船や植民地を襲撃してその富を略奪しました。エリザベス女王は、表向きは彼らの海賊行為を非難しつつも、裏ではそれを奨励し、略奪品の分け前にあずかっていました。ドレークが、1577年から1580年にかけての世界一周航海で、スペインの財宝船「カカフエゴ号」を拿捕し、イングランドの国家歳入を上回るほどの富を持ち帰ったことは、フェリペ2世にとって、許しがたい侮辱であり、経済的な打撃でした。
もう一つの、そしてより深刻な火種がネーデルラント(現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク)でした。ネーデルラントは、ヨーロッパで最も経済的に豊かで、都市が発達した地域であり、ハプスブルク家にとって、スペイン本国に次ぐ重要な領土でした。しかし、この地では、プロテスタント(特にカルヴァン派)の教えが急速に広まっていました。フェリペ2世が異端審問を強化し、ネーデルラントの伝統的な自治権を制限しようとすると、1566年についに大規模な反乱(八十年戦争)が勃発しました。
エリザベスにとって、このネーデルラントの反乱は対岸の火事ではありませんでした。もし、フェリペ2世が反乱を完全に鎮圧し、この地に強大なスペイン陸軍を恒久的に駐留させることになれば、その軍事力はドーバー海峡を隔てたすぐ対岸からイングランドを直接脅かすことになります。また、イングランドの主要な貿易相手であったアントウェルペンなどのネーデルラントの都市が、スペインの完全な支配下に置かれることは、イングランド経済にとっても大きな打撃でした。
そのため、エリザベスは長年にわたり、ネーデルラントの反乱軍に対して、非公式な資金援助や義勇兵の派遣といった間接的な支援を続けてきました。しかし、1584年に反乱軍の指導者であったオラニエ公ウィレムが暗殺され、反乱が崩壊の危機に瀕すると、エリザベスはついに、より直接的な介入を決断します。1585年、彼女はノンサッチ条約に署名し、ネーデルラントの反乱軍に公的な軍隊を派遣することを約束しました。
このノンサッチ条約こそが、フェリペ2世にイングランドとの全面戦争を決意させた最後の一押しでした。イングランドが公然と彼の領土における反逆者たちに軍事支援を行うことは、主権に対する許しがたい侵害でした。もはや外交的な解決の道は閉ざされたと、彼は判断したのです。
メアリー=スチュアートの処刑
そして、1587年2月、フェリペ2世のイングランド侵攻の決意を不動のものとする、決定的な出来事が起こります。それが、スコットランド女王メアリー=スチュアートの処刑でした。
カトリック教徒であったメアリーは、スコットランドでプロテスタント貴族に敗れてイングランドに亡命して以来、18年以上にわたりエリザベスの監視下で軟禁生活を送っていました。彼女は、イングランド王ヘンリー7世の血を引くことから、多くのカトリック教徒によってエリザベスに代わるイングランドの正統な王位継承者と見なされていました。そのため、彼女の存在そのものが、エリザベス打倒の陰謀の絶え間ない火種となっていました。
1586年、エリザベスの首席秘書官フランシス=ウォルシンガムの巧妙な諜報活動により、メアリーがエリザベス暗殺計画(バビントン事件)に直接関与していたことを示す動かぬ証拠が掴まれました。エリザベスは、王位にある君主を処刑することに長くためらいましたが、最終的に枢密院の圧力に屈し、メアリーの処刑命令書に署名しました。
カトリックの君主であり元フランス王妃でもあったメアリーの処刑は、ヨーロッパ中のカトリック君主たちに衝撃と怒りを与えました。特に、カトリックの擁護者を自任するフェリペ2世にとって、これは異端者による神聖な君主の権利に対する究極の冒涜行為でした。彼は、この殉教者の血に報いることを神聖な義務と感じました。メアリーは、その死の直前に、自らのイングランド王位継承権をフェリペ2世に譲ると遺言していました。これにより、フェリペ2世は、イングランド侵攻のための大義名分をも手に入れたのです。
こうして、宗教的使命感、経済的・政治的利害、そして個人的な侮辱と復讐心といった様々な要因が絡み合い、フェリペ2世の中で、イングランド侵攻という壮大な計画、「イングランドの事業」が、最終的に形作られていったのです。
艦隊の準備と計画
「イングランドの事業」を決意したフェリペ2世は、その壮大な計画を実行に移すため、スペイン帝国が持つ莫大な資源のすべてを動員し始めました。ヨーロッパ史上、前例のない規模の大艦隊を編成するというこの巨大なプロジェクトは、数年にわたる困難な準備を必要としました。その過程で、計画そのものも練り上げられていきました。
艦隊の編成
艦隊の編成は、スペイン帝国全土にわたる一大事業でした。主要な軍艦は、スペインと、1580年に併合したばかりのポルトガルの大西洋岸の港で建造、あるいは改装されました。地中海からはナポリやシチリアのガレー船部隊が呼び寄せられました。バルト海沿岸のハンザ同盟都市からは、船の建造に不可欠な木材、タール、帆布といった海軍用資材が大量に輸入されました。
最終的に、1588年春にリスボンに集結した艦隊は、約130隻の艦船から構成されていました。その内訳は、多様な種類の船の寄せ集めでした。
戦闘部隊の中核: 艦隊の主力は、ポルトガルとスペインのビスカヤ地方で建造された、大型のガレオン船でした。これらは、高い船首楼と船尾楼を持つ頑丈な船で、多数の兵士を乗せ、接舷戦闘を行うことを主な目的として設計されていました。また、地中海での海戦で活躍した大型のガレー船を改造したガレアス船も、4隻加わっていました。ガレアス船は、帆走能力と多数の大砲、そして漕ぎ手による機動力を兼ね備えた強力なハイブリッド船でした。
輸送船と補給船: 艦隊の約半分は、兵士や馬、そして膨大な量の補給物資を運ぶための武装した輸送船(ウラカ)や小型の補給船でした。これらの船は、主に地中海や帝国の他の地域から徴用されたもので、戦闘能力は主力艦に比べて劣っていました。
艦隊には、約8,000人の船員と19,000人以上の陸軍兵士が乗り込んでいました。兵士たちは、イタリアやスペイン本国で長年実戦を経験してきた精鋭部隊でした。さらに、約300頭の馬やラバも、上陸後の騎兵隊や大砲の輸送のために船に乗せられました。
艦隊の武装は、合計で約2,500門の大砲からなっていました。しかし、その多くは、近距離での戦闘を想定した射程の短い旧式の青銅砲でした。また、砲弾の種類や口径も統一されておらず、これは後の戦闘において深刻な問題を引き起こすことになります。
この大艦隊は、「グランデ・イ・フェリシスマ・アルマダ(偉大にして最も幸運な艦隊)」と公式に命名されました。その威容は、見る者を圧倒し、ヨーロッパ最強の海軍力であると誰もが信じて疑いませんでした。
指揮官の任命
この壮大な艦隊の最初の総司令官に任命されたのは、スペインで最も経験豊富で尊敬されていた提督、サンタ=クルス侯爵アルバロ=デ=バサンでした。彼は、1571年のレパントの海戦でキリスト教連合艦隊の勝利に決定的な貢献をした英雄であり、海軍戦略の第一人者でした。
しかし、サンタ=クルス侯は、この計画の実現可能性に当初から深い懸念を抱いていました。彼は、イングランド海軍の能力を高く評価しており、遠征にはより多くの艦船とより周到な準備が必要であると、フェリペ2世に繰り返し進言しました。この慎重な姿勢は、計画の遅延を招き、一刻も早い出航を望む王を苛立たせました。
そして、1588年2月、艦隊の出航を目前にして、サンタ=クルス侯は急病で亡くなってしまいます。これは、艦隊にとって大きな打撃でした。
フェリペ2世は、後任の総司令官として、アロンソ=ペレス=デ=グスマン、メディナ=シドニア公爵を任命しました。メディナ=シドニア公は、スペインで最も高貴で裕福な大貴族の一人であり、優れた行政官として知られていましたが、海戦の経験は全くありませんでした。彼自身、そのことを深く自覚しており、「私は、船酔いするし、海戦のことも何も知らない」と述べ、総司令官の任を固辞しようとしました。
しかし、フェリペ2世は彼の辞退を許しませんでした。王が彼を選んだ理由は、その卓越した社会的地位が、艦隊内の様々な出自を持つ気位の高い指揮官たちをまとめ上げるのに不可欠であると考えたからでした。また、彼の優れた兵站管理能力が、この巨大な艦隊を目的地まで無事に送り届けるのに必要であるとも考えました。王は、艦隊の戦略はすでにマドリードの宮殿ですべて決定されており、総司令官の役割は、その計画を忠実に実行することにあると考えていたのです。メディナ-シドニア公は、王への忠誠心から、この重責を不承不応ながら引き受けることになりました。
戦略と計画
無敵艦隊の作戦計画は、フェリペ2世自身と彼の側近たちによって練り上げられたもので、その核心は、陸軍と海軍の二つの戦力を連携させることにありました。
計画の第一段階は、メディナ-シドニア公率いる無敵艦隊がリスボンを出航し、イギリス海峡を北上することでした。この過程で、彼らはイングランド艦隊との決定的な海戦を極力避けるように指示されていました。彼らの任務は戦闘ではなく、海峡を安全に航行し、艦隊の戦力を温存することにありました。
第二段階、そして作戦の最も重要な部分が、ネーデルラントで待機しているパルマ公アレッサンドロ=ファルネーゼの陸軍との合流でした。パルマ公は当代随一の名称と謳われた人物であり、彼の率いる約3万の陸軍部隊は、長年の実戦で鍛え上げられたヨーロッパ最強の精鋭部隊でした。彼らはダンケルクやニューポールといったフランドル地方の港に集結し、無敵艦隊が到着するのを待っていました。
第三段階として、無敵艦隊はイギリス海峡のフランドル沿岸の海域の制海権を確保し、パルマ公の陸軍が特別に用意した平底の輸送船団に乗り込み、海峡を横断するのを護衛することになっていました。
そして最終段階で、パルマ公の陸軍はイングランド南東部のケント州の海岸に上陸し、ロンドンへと進軍します。スペイン側は、防御の整っていないロンドンは、この精鋭部隊の前にたやすく陥落すると確信していました。ロンドンを占領しエリザベス女王を捕らえれば、戦争は終結し、「イングランドの事業」は達成されるはずでした。
この計画は、机上では壮大で論理的に見えました。しかし、それはいくつかの致命的な欠陥を内包していました。
第一に、二人の指揮官、メディナ=シドニア公とパルマ公の間のコミュニケーションが絶望的に不足していました。彼らの間には海を隔てた信頼性の低い連絡手段しかなく、作戦のタイミングを正確に合わせることは極めて困難でした。
第二に、そして最も致命的な欠陥は、パルマ公の陸軍が集結しているフランドルの港にありました。ダンケルクなどの港は水深が浅く、砂州に囲まれており、無敵艦隊のような喫水の深い大型のガレオン船が安全に停泊できるような深水港ではなかったのです。つまり、無敵艦隊はパルマ公の軍隊を港の中で直接船に乗せることはできず、沖合で待機し、兵士たちが小型の輸送船で外海に出てくるのを待つしかありませんでした。この沖合での待機は、艦隊を敵の攻撃や悪天候に対して極めて脆弱な状態に晒すことになります。
この根本的な兵站上の問題は、サンタ=クルス侯もパルマ公自身も繰り返し指摘していましたが、マドリードにいるフェリペ2世は、その深刻さを十分に理解していませんでした。彼は、神がこの神聖な事業を祝福し、細かな問題は奇跡によって解決されるだろうと楽観的に信じていた節があります。この楽観主義と現実の兵站上の困難との間のギャップが、後に無敵艦隊の運命を決定づけることになります。
海峡の戦い
1588年5月末、ついに「偉大にして最も幸運な艦隊」はリスボンの港を出航しました。しかし、その前途は、その輝かしい名前とは裏腹に、初めから困難に満ちていました。悪天候に見舞われ、一度はスペイン北西部のラ=コルーニャ港に引き返すことを余儀なくされます。船の修理と補給のやり直しに一ヶ月以上を費やした後、7月22日、艦隊は再びイングランドを目指して出航しました。
イングランド艦隊の迎撃
一方、イングランド側では、チャールズ=ハワード卿を最高司令官、サー=フランシス=ドレークを副司令官とする、約200隻の艦船が、プリマスと海峡東部のダウンズに分かれてスペイン艦隊の来襲を待ち構えていました。イングランド艦隊の船は、スペインのガレオン船に比べて全体的に小型で船楼も低く、よりスマートな設計でした。これは、兵士を多く乗せての接舷戦闘よりも、速度と操船性能(ウェザー=ゲージ)を重視した設計思想の現れでした。
武装に関しても重要な違いがありました。イングランドの船は、より射程が長く速射性に優れた新型の鋳鉄製の大砲(カルヴァリン砲など)を主力としていました。彼らの戦術は、敵の射程外から一方的に砲撃を加え、敵船の船体や帆、索具を破壊し、その戦闘能力を奪うことにありました。
7月29日の夜、無敵艦隊がイングランド南西端のリザード岬の沖合に姿を現したという知らせがプリマスにもたらされました。伝説では、この知らせを受けたとき、ドレークはボウルズ(芝生の上で行う球技)に興じており、「試合を終えてからでも、スペイン艦隊を打ち破る時間は十分にある」と、平然と言いのけたと伝えられています。
7月31日、プリマス港から出撃したイングランド艦隊は、巧みな操船で無敵艦隊の風上を取り、その後方から攻撃を開始しました。ここから約一週間にわたる追跡戦がイギリス海峡を舞台に繰り広げられることになります。
メディナ=シドニア公は、艦隊に極めて堅固な三日月形の防御陣形を組ませました。最も強力な戦闘艦を陣形の前衛と両翼に配置し、脆弱な輸送船団をその内側で保護するという鉄壁の陣形でした。イングランド艦隊は、この陣形を崩そうと繰り返し攻撃を仕掛けましたが、スペイン側の厳格な規律と密集した防御砲火の前に、決定的な損害を与えることができませんでした。
海峡を進む中で、いくつかの小競り合いが起こりました。スペイン側は、偶発的な事故やイングランド側の攻撃で、「サン=サルバドル号」や「ロサリオ号」といった数隻の有力な艦を失いました。しかし、艦隊全体としてはその陣形を維持し続け、着実に海峡を東へと進んでいきました。イングランド側は、敵の陣形を崩せないことに焦りを募らせていました。彼らの砲撃は、スペイン船の厚い船体を貫通することができず、弾薬だけが急速に消費されていきました。
火船攻撃
8月6日、無敵艦隊はついにフランス沿岸のカレーの沖合に投錨しました。メディナ=シドニア公は、ここからパルマ公に使者を送り、陸軍の準備が整い次第、海峡を渡る用意があることを伝えました。しかし、パルマ公からの返答は絶望的なものでした。彼の軍隊を輸送船に乗せるには、少なくともあと6日はかかるというのです。
メディナ=シドニア公は、カレーの開けた無防備な停泊地で、艦隊を投錨させたまま待機するという極めて危険な状況に陥りました。彼の背後には、風と潮に乗って攻撃の機会をうかがうイングランド艦隊が控えていました。
そして、8月7日の深夜、イングランドの指揮官たちはこの膠着状態を打破するための決定的な作戦を実行に移します。彼らは、8隻の比較的小型の船を「火船」として選び、その船内にタール、火薬、ピッチといった燃えやすいものを満載しました。そして、真夜中過ぎ、風と潮の流れがスペイン艦隊の方向へと向かうのを見計らって、これらの火船に火を放ち、敵艦隊の真っただ中へと送り込んだのです。
燃え盛る船が夜の闇の中を自分たちの方へとまっすぐに迫ってくるのを見たスペインの船乗りたちはパニックに陥りました。彼らの脳裏には、数年前にアントウェルペンの港でネーデルラントの反乱軍が使用した爆薬を満載した火船「ヘルバーナー」の恐ろしい記憶が蘇りました。
パニックを避けるため、メディナ=シドニア公は、各船が一時的に錨を離し、火船をやり過ごした後、再び元の場所に戻るように命令しました。しかし、混乱の中でこの命令は正しく実行されませんでした。多くの船長は、ゆっくりと錨を揚げる時間的余裕はないと判断し、斧で錨綱を断ち切って一斉に沖へと逃げ出したのです。
この火船攻撃そのものは、直接的にはスペインの船を一隻も沈めたり燃やしたりはしませんでした。しかし、その心理的な効果は絶大でした。何よりも、それは無敵艦隊の最大の強みであった鉄壁の三日月形の陣形を完全に崩壊させたのです。夜が明けたとき、スペインの艦船は統制を失い、フランドル沿岸の危険な砂州が広がるグラヴリンヌの沖合に散り散りになって漂っていました。
グラヴリンヌ沖海戦
8月8日、イングランド艦隊はこの絶好の機会を逃しませんでした。ハワード、ドレーク、ホーキンスらが率いる艦隊は、風上の有利な位置から、陣形を失い混乱しているスペイン艦隊に襲いかかりました。これが、この一連の戦いにおける唯一の、そして決定的な大会戦となったグラヴリンヌ沖海戦です。
イングランド艦隊は戦術を変更していました。これまでの長距離からの砲撃ではなく、彼らは敵船にマスケット銃の射程内まで大胆に接近し、至近距離からその船体めがけて猛烈な砲撃を浴びせかけました。
約8時間にわたる激しい戦闘で、スペイン艦隊は一方的に打ちのめされました。イングランドの砲撃は、スペインのガレオン船の船体を打ち抜き、マストをへし折り、甲板上の兵士たちをなぎ倒しました。スペイン側も勇敢に応戦しましたが、彼らの大砲は装填に時間がかかりすぎ、また砲手たちの訓練も不十分でした。多くの砲弾が敵に届くことなく虚しく海に落ちていきました。
この戦いで、スペインのガレオン船「サン=マテオ」と「サン=フェリペ」は航行不能になるほどの深刻な損傷を受け、座礁しました。他の多くの船も浸水し、死傷者で溢れかえりました。スペイン側は、少なくとも600人が戦死し、800人以上が負傷したと推定されています。一方、イングランド側の損害はごく軽微なものでした。
戦闘の終わりごろ、風向きが急に北西へと変わりました。この風の変化が、スペイン艦隊を全滅の危機から救いました。もし風がそのまま陸に向かって吹き続けていれば、損傷した多くのスペイン船はフランドル沿岸の砂州に座礁し破壊されていたでしょう。しかし、新しい風は、彼らを北の開けた海、すなわち北海へと押し流していきました。
イングランド艦隊は弾薬が尽きかけていたため追撃を断念しました。しかし、その必要はもはやありませんでした。無敵艦隊は壊滅的な打撃を受け、その士気は完全に打ち砕かれていました。何よりも、彼らはパルマ公の陸軍と合流するという作戦の根本的な目的を達成する望みを完全に絶たれてしまったのです。メディナ=シドニア公に残された唯一の選択肢は、敗北した艦隊を率いて故国スペインへと帰還することだけでした。
帰還とその後
グラヴリンヌ沖海戦での敗北は、無敵艦隊の運命を決定づけました。パルマ公の陸軍と合流するという作戦の核心が不可能となった今、彼らに残された道はただ一つ、故国スペインへの長く絶望的な帰還の旅路だけでした。しかし、この帰還の旅は、戦闘そのものよりもはるかに多くの犠牲を艦隊に強いることになります。
嵐と難破
イングランド艦隊の追撃とイギリス海峡の南寄りの風に行く手を阻まれたメディナ=シドニア公は、艦隊をスコットランドの北を大きく迂回し、アイルランドの西岸を南下して大西洋を回ってスペインに帰還するという過酷な航路を選択せざるを得ませんでした。
この時、艦隊はすでに深刻な状況にありました。多くの船は戦闘で損傷し浸水していました。食料と、特に新鮮な水は底を突きかけていました。ドレークが1587年のカディス奇襲で良質な樽材を焼き払った影響で、急ごしらえの樽に詰められた食料や水は腐敗が進んでいました。船内には壊血病や赤痢といった病気が蔓延し、多くの兵士や船員が衰弱しきっていました。
このような状態で、彼らは北大西洋の荒れ狂う海に乗り出していきました。そして、9月に入ると、艦隊は前例のない規模の激しい嵐の連続に見舞われます。この嵐は、後に「プロテスタントの風」とも呼ばれるようになりますが、それは無敵艦隊にとどめの一撃を加えることになりました。
損傷した船はマストを折られ、舵を失い、嵐の中で木の葉のように翻弄されました。統制を失った艦隊は散り散りになり、多くの船がスコットランドや、特にアイルランドの岩の多い荒涼とした西海岸へと打ち寄せられていきました。
アイルランドの海岸で難破した船の数は24隻以上にのぼると言われています。船が岩に叩きつけられて粉々になり、何百人もの人々が荒れ狂う波に飲み込まれていきました。
奇跡的に岸にたどり着くことができた者たちの運命もまた悲惨なものでした。彼らは飢えと寒さ、そして疲労で衰弱しきっていました。彼らを待ち受けていたのは、現地の貧しいアイルランド人たちによる略奪でした。また、アイルランドに駐留していたイングランドの総督代理は、上陸したスペイン兵は一人残らず処刑するように厳命を下しました。その結果、何千人ものスペイン兵が捕らえられた後、冷酷に殺害されました。ごく一部の者だけがアイルランド人の豪族に匿われたり、スコットランド経由で何とか大陸へと脱出したりすることができましたが、その数は微々たるものでした。
この悲劇的な帰還の旅路の末、1588年の秋から冬にかけて、ぼろぼろになった艦隊の残りがようやくスペイン北部の港にたどり着き始めました。総司令官メディナ=シドニア公の船もその中にありました。出航時に約130隻あった艦船のうち、無事にスペインに帰り着くことができたのはわずか60隻あまりでした。人的な損失はさらに壊滅的でした。約3万人の兵員のうち、半数以上にあたる1万5千人から2万人が、戦闘、病気、飢餓、そして難破によって命を落としたと推定されています。
「偉大にして最も幸運な艦隊」は、その名の由来となったはずの神の祝福を受けることなく、ヨーロッパの海軍史上、最も悲劇的な結末の一つを迎えたのです。
敗因の分析
無敵艦隊の失敗は、単一の原因によるものではなく、戦略、技術、兵站、そして天候といった複数の要因が複合的に絡み合った結果でした。
戦略計画の欠陥: 作戦計画そのものが根本的な欠陥を抱えていました。海軍と陸軍という二つの異なる部隊を、敵地に近い海域で完璧なタイミングで合流させるという計画は、16世紀の通信技術ではあまりにも楽観的で非現実的でした。特に、パルマ公の軍隊が集結するフランドルの港が、無敵艦隊の大型船を収容できる深水港ではないという致命的な兵站上の問題が、計画の初期段階から軽視されていました。
指揮官の問題: 経験豊富な提督サンタ=クルス侯の死と、海戦経験のないメディナ=シドニア公の任命は、艦隊にとって大きな痛手でした。メディナ=シドニア公は、困難な状況の中で勇敢に誠実にその責務を果たそうとしましたが、彼にはドレークのような独創的で機敏な判断を下す能力が欠けていました。彼は王の命令を忠実に実行することに固執しすぎたのです。
艦船と兵器の思想の違い: スペインとイングランドの海戦に対する思想の違いが、艦船の設計と兵器の性能に明確に表れていました。スペインのガレオン船は兵士を運んで敵船に乗り移る「接舷戦闘」を主眼とした「浮かぶ城」でした。それに対して、イングランドの船は、速度と操船性能を活かし、射程の長い大砲で遠距離から敵を攻撃する「砲撃戦」に特化していました。イギリス海峡の戦いは、この新しい海戦術が古い海戦術に対して優位に立つことを証明しました。
天候: 最後に、そしておそらく最も決定的な要因として、天候の役割を無視することはできません。カレー沖での火船攻撃の後、艦隊を北海へと押し流した風、そしてアイルランド沖で艦隊にとどめを刺した壊滅的な嵐。これらはイングランド側にとってはまさに「神の風」でした。フェリペ2世は、「私は、艦隊をイングランド人と戦わせるために送ったのであって、神が遣わされた風や波と戦わせるために送ったのではない」と語ったと伝えられています。彼は、自らの敗北を神の意志として受け入れようとしたのです。
歴史的影響
無敵艦隊の敗北がヨーロッパ史に与えた影響は極めて大きく、その後の歴史の流れを決定づけるものとなりました。
イングランドの独立とナショナリズムの高揚: イングランドにとって、この勝利は国家の独立を守り抜いた奇跡的な出来事でした。それは、プロテスタントの小国がカトリックの巨大帝国の侵略を自らの力で打ち破ったという強烈な成功体験となりました。この勝利は、イングランド人のナショナル=アイデンティティを飛躍的に高め、エリザベス女王の治世の黄金時代を象徴する出来事となりました。それは、イングランドが海洋国家として自信を深め、将来、世界的な帝国を築き上げていく上での精神的な礎となったのです。
スペイン帝国の衰退の始まり: 一方、スペインにとって、この敗北はその国力と威信に対する深刻な打撃でした。無敵艦隊の喪失は莫大な財政的損失であっただけでなく、「無敵」であると信じられていたスペインの軍事力の神話を打ち砕きました。もちろん、スペインはこの後もすぐにその海軍を再建し、なお数十年にわたってヨーロッパ最強国の一つであり続けました。しかし、多くの歴史家は、この1588年の敗北を、スペイン帝国がその絶頂期を過ぎ、長い緩やかな衰退の時代へと入っていく一つの象徴的な転換点と見なしています。
海軍戦術の転換: 軍事史において、無敵艦隊の海戦は海軍戦術の大きな転換点を示しました。それは、中世以来の兵士が乗り移って戦う接舷戦闘の時代が終わり、大砲による砲撃戦が海戦の主役となる新しい時代の幕開けを告げるものでした。この後、各国の海軍は、より多くの大砲をより効果的に搭載できる新しいタイプの軍艦(後の戦列艦につながる)の開発へと、しのぎを削っていくことになります。
フェリペ2世の無敵艦隊の物語は、単なる一つの軍事遠征の失敗談ではありません。それは、16世紀後半のヨーロッパが抱えていた、宗教的、政治的、経済的なあらゆる対立が集約された壮大な歴史の縮図です。神への揺るぎない信仰と、普遍的君主としての使命感に燃えた一人の王が、自らの帝国の総力を挙げて壮大な賭けに打って出た物語です。
その計画は、壮大でありながらも、現実の兵站と地理的な制約を軽視した致命的な欠陥を抱えていました。そして、その運命は、新しい時代の海戦術を身につけた、より機敏な敵と、人間の力を超えた自然の猛威によって決定づけられました。
この出来事は、スペインにとってはその覇権の黄昏を告げる悲劇的な序曲となり、イングランドにとっては海洋帝国としての輝かしい未来を切り開く栄光の勝利となりました。無敵艦隊の残骸がアイルランドの荒涼とした海岸に朽ち果てていったように、中世的なキリスト教世界の統一というフェリペ2世の夢もまた、近代的な主権国家がしのぎを削る新しいヨーロッパの現実の前に打ち砕かれていったのです。
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