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グスタフ=アドルフとは わかりやすい世界史用語2659 |
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著作名:
ピアソラ
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グスタフ=アドルフとは
グスタフ=アドルフの生涯は、ヨーロッパの片隅にあった貧しい国スウェーデンを、大陸の運命を左右する軍事大国へと押し上げた、一人の非凡な君主の物語です。彼は「北方の獅子」と畏怖され、その名は三十年戦争の戦場で雷鳴のごとく轟きました。彼は、単なる軍事の天才ではありませんでした。敬虔なプロテスタントとしての大義を掲げ、革新的な軍事戦術と効率的な国家機構を結びつけ、近代的な戦争のあり方を根本から変革した革命家でもありました。彼の治世は、スウェーデン史における「大国時代」の幕開けを告げ、その短いながらも閃光のような生涯は、ヨーロッパの勢力図を塗り替え、歴史の流れに決定的な影響を与えました。しかし、彼の物語は栄光だけではありません。それは、戦争という破壊の渦の中心で、自らの理想と国家の野望、そして個人の運命を背負い、燃え尽きるように生きた一人の人間の記録でもあるのです。リュッツェンの戦場で若くして散った彼の死は、その伝説を不滅のものとしました。
王国の継承者(1594年ー1611年)
後の「偉大王」の幼少期と青年期は、スウェーデンが内外に深刻な問題を抱えていた、極めて不安定な時代でした。彼が受けた教育と、若き日に直面した困難は、彼の強靭な精神と、君主としての卓越した資質を育むための試練の時であったと言えます。
ヴァーサ家の血筋と混乱の時代
グスタフ=アドルフは、1594年12月9日、ストックホルムのトレ・クローノル城で、後のスウェーデン王カール9世とその二番目の妻クリスティーナ・ア・ホルシュタイン=ゴットルプの間に生まれました。彼は、スウェーデンをカルマル同盟の支配から解放した英雄グスタフ・ヴァーサの孫にあたります。このヴァーサ家の血筋は、彼に国民からの期待と、同時に王朝内の深刻な対立という重荷を背負わせることになりました。
当時のスウェーデンは、王朝内の争いの真っ只中にありました。グスタフ=アドルフの父カールは、甥にあたるポーランド王ジグムント3世とスウェーデン王位をめぐって激しく対立していました。ジグムントは熱心なカトリック教徒であり、プロテスタント(ルター派)が国教となっていたスウェーデンの貴族や民衆の支持を失っていました。1598年のストーンゲブローの戦いで、カールはジグムントの軍を破り、翌年にはジグムントを王位から追放して、自らが摂政として実権を握ります。そして1604年、カール9世として正式に即位しました。
この一連の出来事は、幼いグスタフ=アドルフの心に深い刻印を残しました。彼は、カトリックであるポーランドのヴァーサ家を、スウェーデンの独立とプロテスタント信仰を脅かす不倶戴天の敵と見なすようになります。ジグムント3世がスウェーデン王位への要求を取り下げなかったため、両国の対立は宿命的なものとなり、グスタフ=アドルフの治世における外交政策の根幹を形成することになるのです。
君主としての教育
父カール9世は、息子が将来偉大な君主となることを見抜き、彼に徹底した英才教育を施しました。グスタフ=アドルフは、驚くべき知性と学習意欲を示し、その教育は多岐にわたりました。
彼の家庭教師には、優れた学者であったヨハン・シュッテが任命されました。シュッテの指導の下、彼は古典(特にタキトゥスやクセノポンといった歴史家)、修辞学、神学、法学、そして政治学を学びました。彼は生まれながらの語学の天才であり、母語であるスウェーデン語とドイツ語に加え、ラテン語、オランダ語、フランス語、イタリア語を流暢に操り、ロシア語やポーランド語にも通じていたと言われています。この語学力は、後に彼が多国籍の軍隊を指揮し、複雑な外交交渉を行う上で、絶大な力となりました。
彼の教育は、書斎の中だけに留まりませんでした。カール9世は、息子を幼い頃から国政の場に同席させ、国会の議論に耳を傾けさせ、外交使節との会見にも立ち会わせました。15歳になる頃には、彼はすでに自らの意見を述べ、父王の代理として公務をこなすまでになっていました。
さらに重要なのが、軍事教育です。彼は、当代一流の軍事理論家たちの著作を読みふけり、特にオランダのマウリッツ・ファン・ナッサウが進めていた軍事改革に強い関心を寄せました。築城術、砲術、戦術といった実践的な軍事技術も熱心に学び、父王に従って戦場にも赴きました。理論と実践の両面におけるこの徹底した軍事教育が、彼を「近代戦の父」と呼ばれるほどの軍事革命家へと成長させる土台となったのです。
初恋と王位継承
青年期のグスタフ=アドルフは、情熱的でロマンティックな一面も持っていました。彼は、宮廷の女官であったエッバ・ブラーエと激しい恋に落ちます。しかし、この結婚は、王母クリスティーナの猛烈な反対によって阻まれました。彼女は、一介の貴族の娘が王妃となることに反対し、息子には国益にかなう外国の王女との結婚を望んだのです。この失恋は、若きグスタフ=アドルフに深い傷を残しましたが、彼は最終的に個人の感情よりも君主としての公的な義務を優先させることを学びました。
1611年10月、父カール9世が崩御します。グスタフ=アドルフは、まだ17歳の誕生日を迎える直前でした。法的にはまだ未成年でしたが、彼は国会で感動的な演説を行い、自らが統治の責任を担うことを宣言し、満場一致で承認されました。
しかし、彼が継承した王国は、破滅の淵にありました。国庫は空で、貴族層は王権に反感を抱いていました。そして何よりも、スウェーデンはデンマーク、ポーランド、ロシアという三つの隣国と同時に戦争状態にあったのです。この絶望的な状況の中で、若き国王の治世は幕を開けました。それは、スウェーデンの歴史において最も輝かしい、しかし同時に最も過酷な時代の始まりでした。
王国の再建者(1611年ー1629年)
即位した若き国王がまず直面したのは、三つの戦線での戦争と、国内の政治的・経済的混乱でした。彼は、この危機を乗り越えるため、有能な協力者を得て、内政と軍事の両面で抜本的な改革に着手します。この時期の国内基盤の強化こそが、後のドイツ遠征という大事業を可能にしたのです。
オクセンシェルナとの二頭体制
グスタフ=アドルフの成功を語る上で、大法官アクセル・オクセンシェルナの存在は不可欠です。国王より5歳年上のオクセンシェルナは、博識で冷静沈着な政治家であり、その行政手腕は天才的でした。グスタフ=アドルフは即位直後、28歳の若さであったオクセンシェルナを大法官(宰相)に任命し、彼に絶大な信頼を寄せました。
こうして始まった国王と宰相の緊密な協力関係、いわゆる「二頭体制」は、スウェーデン大国時代の原動力となりました。グスタフ=アドルフが軍事と外交の最終決定権を握るカリスマ的な指導者であったとすれば、オクセンシェルナは、そのビジョンを現実の政策へと落とし込み、戦争遂行に必要な官僚機構と財政基盤を整備する、稀代の行政家でした。国王が戦場で軍を率いている間、オクセンシェルナはストックホルムで国政を預かり、両者は頻繁な書簡のやり取りを通じて常に意思疎通を図りました。この二人の完璧なパートナーシップは、ヨーロッパの他の絶対君主制国家には見られない、スウェーデンの強さの源泉となったのです。
国内改革 近代国家の建設
グスタフ=アドルフとオクセンシェルナは、まず国内の安定化と国家機構の近代化に取り組みました。国王は、父の治世下で王権と対立していた貴族層に対し、彼らの特権を認める代わりに、国家への奉仕を義務付けるという和解策を採りました。1612年の「国王保証書」により、貴族は王国参事会を通じて国政に参加する権利を保障され、その見返りとして、官僚や士官として王に仕えることになったのです。
オクセンシェルナは、中央政府の行政改革を断行しました。彼は、財務、陸軍、海軍、司法、宰相府という5つのコレギウム(参議会)を設置し、行政の専門化と効率化を図りました。地方行政も再編され、全国に地方長官が置かれ、中央政府の命令が末端まで届くようになりました。
特筆すべきは、効率的な税収システムと徴兵制度の確立です。教区の牧師が作成する詳細な住民登録簿に基づいて、全国民が課税と兵役の対象として把握されました。これにより、スウェーデンは、その乏しい人口と経済力にもかかわらず、驚くほど効率的に人的・物的資源を動員できる、当時としては極めて近代的な国家機構を構築することに成功したのです。
軍事革命の推進
グスタフ2世アドルフの名は、何よりもまず「軍事革命」の偉大な推進者として歴史に刻まれています。彼は、オランダの軍事改革をさらに発展させ、機動力、火力、そして衝撃力を組み合わせた、全く新しい戦術システムを創り上げました。
国民軍の創設:スウェーデン軍の根幹をなしたのは、傭兵ではなく、国民から徴兵された兵士でした。各地方の教区は、10人の壮健な男子の中から1人をくじ引きで選び、兵士として提供する義務を負いました。こうして集められた兵士たちは、共通の言語と信仰を持ち、郷土と国王への忠誠心に燃える、規律正しい国民軍を形成しました。これは、金で雇われ、忠誠心が当てにならない多国籍の傭兵軍とは比較にならない強みでした。
歩兵戦術の革新:彼は、当時の主流であった巨大な方陣(テルシオ)を捨て、より浅い横隊(6列)を採用しました。これにより、より多くの銃を同時に発射できるようになり、火力が飛躍的に向上しました。彼は兵士たちに、装填時間を短縮するための規格化された薬包(カートリッジ)を導入し、連続的な一斉射撃(サルヴォー)を行う訓練を徹底しました。
砲兵の機動的運用:彼の最も独創的な革新は、砲兵の運用にありました。彼は、従来の重く移動が困難な攻城砲とは別に、軽量で機動性に富む「連隊砲」を開発しました。この3ポンド砲は、わずか数頭の馬で牽引でき、歩兵連隊に直接配備されました。これにより、スウェーデン軍は戦闘の最中に砲兵を柔軟に移動させ、敵の陣形に直接、散弾(キャニスター弾)を浴びせることが可能となり、その火力は敵を圧倒しました。
騎兵の衝撃力の復活:彼は、当時の騎兵が用いていた、ピストルを撃っては後退する「カラコール」戦術を時代遅れと断じ、サーベルによる突撃を重視しました。スウェーデン騎兵は、敵陣に高速で突入し、その衝撃力で敵の隊列を粉砕する役割を担いました。
これらの革新的な戦術は、歩兵、騎兵、砲兵という三つの兵種が緊密に連携(三兵戦術)することで、最大の効果を発揮しました。グスタフ=アドルフの軍隊は、柔軟で、攻撃的で、そして圧倒的な火力を備えた、恐るべき戦闘機械へと変貌を遂げたのです。
東方への拡大 対ロシア・ポーランド戦争
国内の基盤を固めたグスタフ=アドルフは、まず東方の敵との戦いにその新しい軍隊を投入しました。彼は、即位時に継承したデンマークとのカルマル戦争を、1613年に多額の賠償金を支払うという屈辱的な形で終結させ、東方に戦力を集中させました。
1617年、彼はロシアとのイングリア戦争を、ストルボヴァの和約によって有利に終結させます。スウェーデンは、フィンランド湾の奥に位置するイングリアとケックスホルムを獲得し、ロシアをバルト海から完全に締め出しました。これにより、バルト海東岸におけるスウェーデンの覇権の基礎が築かれました。
次なる、そして最大の敵は、従兄であるジグムント3世が統治するポーランド=リトアニア共和国でした。この戦争は、単なる領土紛争ではなく、ヴァーサ家内の王位をめぐる宿命の対決でした。1621年、グスタフ=アドルフはリヴォニアに侵攻し、その中心都市であるリガを攻略します。さらに1626年には、プロイセンにまで戦線を拡大し、ヴィスワ川河口の穀物貿易の拠点である港湾都市群を占領しました。これらの港から徴収される関税は、スウェーデンの国家財政を大いに潤し、来るべきドイツ遠征の重要な資金源となりました。
1629年、フランスの仲介でアルトマルクの休戦条約が結ばれ、スウェーデンは6年間の期限付きでリヴォニアとプロイセンの港湾の支配を認められました。このポーランドとの一連の戦争は、グスタフ=アドルフの軍隊にとって、三十年戦争という大舞台に上がる前の、貴重な実戦訓練の場となりました。ここで完成された軍事組織と戦術が、まもなくドイツの地で世界を震撼させることになるのです。
ドイツの解放者(1630年ー1632年)
1629年、デンマークが三十年戦争から脱落し、皇帝フェルディナント2世が「復旧勅令」によってドイツのプロテスタントを弾圧すると、グスタフ2世アドルフは、ドイツへの軍事介入を決断します。それは、スウェーデンの国家安全保障を守るための予防戦争であると同時に、ヨーロッパのプロテスタントの大義を背負った、宗教的使命でもありました。
介入の動機
グスタフ=アドルフがドイツ遠征に踏み切った動機は、複合的でした。
安全保障:皇帝軍の司令官ヴァレンシュタインが北ドイツを席巻し、バルト海沿岸に拠点を築いたことは、スウェーデンにとって看過できない脅威でした。バルト海が「ハプスブルクの湖」になることは、スウェーデンの生命線が断たれることを意味しました。彼は、自国の安全を確保するためには、敵をドイツの地で叩く必要があると考えました。
宗教:敬虔なルター派であったグスタフ=アドルフは、ハプスブルク家によるドイツの強制的な再カトリック化を、プロテスタント信仰に対する許しがたい攻撃と見なしていました。彼は、自らを神に選ばれた、ドイツのプロテスタントの解放者であると信じていました。この宗教的情熱は、彼の行動を貫く真摯な動機でした。
経済と帝国:ドイツ北部の沿岸地域、特にポメラニアを支配下に置くことは、バルト海を「スウェーデンの湖」にするという、スウェーデンの長年の国家目標を達成することを意味しました。これにより、バルト海貿易の支配権を確立し、スウェーデンをヨーロッパの強国(バルト帝国)の地位へと押し上げようとしたのです。
これらの動機は、「プロテスタントの大義を守ることは、スウェーデンの安全と繁栄を守ることである」という一つの論理に統合されていました。
ブライテンフェルトの奇跡
1630年7月4日、グスタフ=アドルフは、わずか1万3000の精鋭部隊を率いて、北ドイツのポメラニアにあるウーゼドム島に上陸しました。彼の遠征は、フランスの宰相リシュリューとの間に結ばれたベールヴァルデ条約による財政援助によって支えられていました。
当初、ドイツのプロテスタント諸侯は、皇帝を恐れてスウェーデンへの協力をためらいました。しかし、1631年5月に皇帝軍がマクデブルク市を攻略し、2万人以上の市民を虐殺するという残虐行為が起こると、状況は一変します。この事件は、プロテスタント諸侯に皇帝との妥協の道がないことを悟らせ、彼らをスウェーデンとの同盟へと向かわせました。
そして1631年9月17日、三十年戦争の行方を決定づける戦いが、ライプツィヒ近郊のブライテンフェルトで起こりました。グスタフ=アドルフ率いるスウェーデン軍と、同盟を結んだザクセン選帝侯の軍は、歴戦の将ティリー伯が率いる皇帝=カトリック連盟軍と対峙しました。
戦闘が始まると、皇帝軍の猛攻を受けたザクセン軍は早々に潰走し、スウェーデン軍の左翼ががら空きになるという絶体絶命の危機に陥ります。しかし、グスタフ=アドルフは全く動じませんでした。彼は、予備兵力を巧みに再配置して新たな戦線を構築し、スウェーデン軍の優れた機動力と火力を駆使して、逆に皇帝軍の側面を攻撃しました。スウェーデン歩兵の連続的な一斉射撃と、機動的な連隊砲の砲撃は、旧態依然とした皇帝軍のテルシオ方陣を粉砕しました。結果は、スウェーデン軍の歴史的な大勝利でした。ティリー伯の軍は壊滅し、三十年戦争の開始以来、プロテスタント側が初めて収めた大規模な会戦での勝利となりました。
ブライテンフェルトの戦いは、ヨーロッパの軍事史における一大転換点でした。それは、グスタフ=アドルフが完成させた新しい戦術システムが、旧来の戦術に対して決定的優位性を持つことを全世界に証明したのです。この勝利により、彼は「北方の獅子」と称えられ、その名はヨーロッパ中に轟きました。
ドイツの征服者
ブライテンフェルトの勝利の後、グスタフ=アドルフの進撃を阻むものはもはやありませんでした。彼は、ドイツのプロテスタント諸侯から解放者として熱狂的に迎えられながら、南ドイツへと軍を進めました。彼はライン川を渡り、マインツを占領して冬営に入ります。彼の宮廷には、ヨーロッパ中から外交使節が訪れ、彼は事実上、ドイツの運命を左右する裁定者の地位にありました。
1632年春、彼は再び進撃を開始し、レヒ川の戦いでティリー伯の軍を再び破り、ティリー自身もこの戦いで受けた傷がもとで死亡しました。その後、グスタフ=アドルフはバイエルンに侵攻し、その首都ミュンヘンに無血入城を果たします。ハプスブルク家の支配は、まさに崩壊寸前でした。
この時、グスタフ=アドルフは、単なるスウェーデン王ではなく、ドイツのプロテスタント諸侯を束ねる「福音同盟」の盟主として、新たな帝国の創設さえ構想していたと言われています。彼の野心は、もはやスウェーデンの国益を超え、ヨーロッパの新たな秩序を創造する方向へと向かっていました。
リュッツェンの英雄(1632年)
グスタフ=アドルフの輝かしい成功は、彼の最大のライバルを歴史の舞台に呼び戻すことになりました。皇帝フェルディナント2世は、かつて罷免したヴァレンシュタインを再起用し、スウェーデン王の前に立ちはだかります。二人の巨人の対決は、三十年戦争のクライマックスであり、グスタフ=アドルフの生涯の最終章となりました。
ヴァレンシュタインとの対決
1632年、最高司令官に復帰したヴァレンシュタインは、巨大な軍団を再建し、グスタフ=アドルフの前に立ちはだかりました。ヴァレンシュタインは、ブライテンフェルトの教訓から、スウェーデン軍との会戦を避け、巧みな機動戦と焦土作戦で敵を疲弊させる戦略を採りました。
同年夏、ヴァレンシュタインはニュルンベルク近郊で堅固な陣地を築き、グスタフ=アドルフの軍を兵糧攻めにしようとします。グスタフ=アドルフは、この陣地(アルテ・フェステ)への強襲を試みますが、大損害を受けて撃退され、撤退を余儀なくされました。これは、彼がドイツで経験した初めての明確な敗北であり、ヴァレンシュタインが恐るべき敵であることを示していました。
秋が深まり、両軍は冬営に入るかと思われました。ヴァレンシュタインは、軍をザクセンへと移動させ、一部を分散させました。グスタフ=アドルフは、これを敵を各個撃破する好機と捉え、悪天候の中、ヴァレンシュタイン軍を急追します。そして、1632年11月16日(グレゴリオ暦)、両軍はライプツィヒ南西のリュッツェンの野で対峙することになりました。
英雄の死
その日の朝は、深い霧に包まれていました。グスタフ=アドルフは、自軍の兵士たちと共に祈りを捧げ、賛美歌を歌い、攻撃命令を下しました。スウェーデン軍は、国王自身が右翼の騎兵部隊の先頭に立ち、猛然と突撃を開始しました。
戦闘は、両軍が一進一退を繰り返す、三十年戦争の中でも最も激しいものとなりました。スウェーデン軍の左翼が敵の猛攻を受けて後退すると、グスタフ=アドルフは、それを救援するために少数の供回りだけを連れて戦場を駆け抜けました。しかし、彼は極度の近視であり、濃い霧と硝煙の中で方向を見失い、敵の騎兵部隊のただ中に迷い込んでしまいます。
彼は、腕と背中に銃弾を受け、乗っていた馬も首を撃たれて暴れ、彼は落馬しました。地面に倒れた彼を、皇帝軍のキュイラッシェ(胸甲騎兵)が取り囲みました。彼らは、この身なりの良い士官が高位の人物であることに気づき、「お前は何者だ」と尋ねました。グスタフ=アドルフは、最後の力を振り絞り、「私はスウェーデン王だ」と答えたと言われています。その言葉が、彼の運命を決定づけました。彼は、ピストルで頭を撃ち抜かれ、何度も剣で突き刺されて、その場で絶命しました。享年38歳。その遺体は、衣服や装飾品を剥ぎ取られ、泥の中に無残に放置されました。
勝利と喪失
国王の戦死の報は、スウェーデン軍に衝撃と混乱をもたらしました。しかし、それは兵士たちを恐慌ではなく、復讐の炎に燃え上がらせました。副官であったベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマールが指揮を引き継ぎ、「王は死んだ!復讐せよ!」と叫びながら、全軍に最後の突撃を命じました。スウェーデン兵の鬼気迫る猛攻の前に、ヴァレンシュタイン軍はついに崩れ、戦場から撤退しました。
スウェーデン軍は、戦場を確保し、戦術的には勝利を収めました。彼らは、泥の中から王の無残な遺体を発見し、丁重に本国へと送りました。しかし、その勝利の代償は、あまりにも大きなものでした。彼らは、その精神的支柱であり、勝利の源泉であった、偉大な指導者を永遠に失ったのです。
グスタフ2世アドルフの死は、三十年戦争の様相を一変させました。スウェーデンのドイツ遠征は、その求心力を失い、戦争は宗教的な大義から、より冷徹な国家間の権力闘争へとその性格を変えていくことになります。しかし、彼が戦場で死んだという事実は、彼をプロテスタントの大義のために命を捧げた殉教者として神格化し、その伝説を不滅のものとしました。
グスタフ=アドルフの遺産
グスタフ2世アドルフは、わずか21年の治世の間に、そして38年という短い生涯の間に、スウェーデンとヨーロッパの歴史に計り知れない遺産を残しました。
彼は、何よりもまず、スウェーデンという国家の偉大な建設者でした。彼は、有能な宰相オクセンシェルナと共に、中世的な王国を、効率的な官僚機構と強力な軍隊を持つ近代的な国家へと変貌させました。彼が築いた国家システムは、彼の死後もスウェーデンの「大国時代」を支え続けました。
軍事史上において、彼は「近代戦の父」として不滅の名声を得ています。彼が完成させた三兵戦術、機動的な砲兵の運用、そして規律正しい国民軍の思想は、その後のヨーロッパの戦争のあり方を決定づけ、ナポレオンに至るまでの軍事思想に大きな影響を与えました。
三十年戦争において、彼の介入は決定的な転換点となりました。ブライテンフェルトの勝利は、ハプスブルク家の野望を打ち砕き、ドイツのプロテスタントを絶滅の危機から救いました。彼の死後も、彼が築いた軍隊と、彼が結んだフランスとの同盟は、最終的にヴェストファーレン条約による新たなヨーロッパ秩序の形成へと繋がっていきます。
グスタフ2世アドルフは、その人格においても、矛盾をはらんだ魅力的な人物でした。彼は、敬虔な信仰心と冷徹な政治的計算、燃えるような情熱と冷静な理性を併せ持っていました。彼は、兵士たちと辛苦を共にし、常に陣頭に立って戦う勇敢な戦士王であり、同時に、壮大な戦略を構想する優れた政治家でもありました。
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