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主権国家体制とは わかりやすい世界史用語2611 |
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著作名:
ピアソラ
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主権国家体制とは
主権国家体制とは、国際関係を規定する根源的な枠組みであり、それぞれが独立した主権を持つ国家が、互いの存在を法的に承認し、国際社会の主要な構成主体として並存するシステムを指します。この体制の核心をなす「主権」という概念は、国家が自らの領土内において他のいかなる権力にも優越する最高の権威(国内主権)を有し、同時に外部のいかなる権力からも干渉や支配を受けない独立性(対外主権)を保持するという二つの側面から成り立っています。このシステムは、一朝一夕に成立したものではなく、数世紀にわたるヨーロッパの激しい政治的闘争、深刻な社会的変動、そして深遠な思想的革新の末に、複雑な歴史的プロセスを経て誕生しました。その起源は中世ヨーロッパの普遍主義的な権威構造の解体にまで遡り、ウェストファリア条約によってその基本原則が確立され、フランス革命とナショナリズムの波を経て変質しました。
主権概念の揺籃期
普遍的権威と多元的支配
主権国家という概念が支配的になる以前の中世ヨーロッパの世界像は、現代の我々が自明視する、明確な国境線によって整然と分割された地図とは全く異なっていました。そこは、権威と権力が複雑に絡み合い、重層的かつ多元的に分散した、いわば「権力のモザイク模様」とでも言うべき社会でした。この世界の頂点には、二つの普遍的な権威が君臨していました。一つは、精神世界を司るローマ教皇であり、もう一つは、世俗世界を統べる神聖ローマ皇帝です。教皇は、聖ペテロの後継者として、キリスト教共同体(クリステンタス)全体の霊的指導者としての権威を主張し、破門や聖務停止といった強力な精神的武器を手に、時には世俗の君主さえも屈服させる力を持っていました。一方、神聖ローマ皇帝は、古代ローマ帝国の栄光を受け継ぐ者として、ヨーロッパ全土にわたる世俗的な最高権威を標榜していました。この教皇権と皇帝権の二元的な支配構造が、中世ヨーロッパの秩序の根幹をなしていたのです。
しかし、これらの普遍的権威の支配は、決して一枚岩ではありませんでした。その下には、国王、大諸侯、司教、騎士、そして自治都市といった、無数の権力主体が階層的に存在し、それぞれが独自の権利、特権、そして裁判権を保持していました。封建制度の下では、君主と臣下の関係は、土地(封土)の授与と、それに対する軍役奉仕や忠誠の誓いといった、双務的な契約に基づいていました。したがって、国王の権力は絶対的なものではなく、常に有力な貴族たちの合意形成に依存していました。国王が新たな税を課そうとすれば、身分制議会の承認が必要であり、戦争を遂行するためには、諸侯の軍事的な協力を仰がねばなりませんでした。
さらに、権力の多元性は、地理的な錯綜としても現れていました。一人の貴族が、複数の異なる君主に対して臣従の誓いを立てていることは珍しくなく、例えば、ノルマンディー公はフランス国王の臣下でありながら、同時にイングランド国王でもありました。領地は婚姻政策や相続によって頻繁に分割・統合され、国境線は極めて流動的で曖昧でした。人々のアイデンティティや忠誠心は、現代のように単一の「国家」に向けられるのではなく、直接の領主、出身の村、所属するギルド、そしてキリスト教世界全体といった、複数の共同体に対して多層的に向けられていたのです。このように、権威は垂直的にも水平的にも分散し、個人の法的地位は、どの君主の臣下であるかよりも、どの共同体に属し、どのような身分であるかによって規定されていました。この複雑で多元的な権力構造こそが、単一で排他的な主権という近代的な概念が生まれる前の、ヨーロッパ社会の基本的な姿でした。
普遍主義の黄昏と世俗権力の台頭
14世紀から16世紀にかけて、中世ヨーロッパを支えてきた普遍主義的な秩序は、一連の深刻な危機に見舞われ、その基盤から揺らぎ始めます。この地殻変動が、やがて主権国家という新しい政治形態が生まれるための歴史的空間を切り開くことになります。
第一の変動は、教皇権の劇的な失墜です。1303年、フランス国王フィリップ4世が、課税権をめぐる対立から教皇ボニファティウス8世をアナーニで捕縛するという衝撃的な事件(アナーニ事件)が発生します。これは、世俗権力が教皇権に対して公然と牙をむいた象徴的な出来事でした。その後、教皇庁がローマから南フランスのアヴィニョンに移され、フランス国王の強い影響下に置かれた「アヴィニョン捕囚」(1309年=1377年)、さらにはローマとアヴィニョンの両方に教皇が並び立ち、キリスト教世界が二つに分裂した教会大分裂(大シスマ、1378年=1417年)へと至る混乱は、教皇の普遍的な権威と道徳的威信を地に堕としました。この権威の隙間を埋めるように、各国の君主たちは、自国内の教会に対する人事権や課税権を掌握し(ガリカニスムやアングリカニスムなど)、教皇の普遍的な支配からの自立を強めていきました。
第二に、神聖ローマ皇帝の権威もまた、名目化の一途をたどります。1356年の金印勅書は、皇帝選出権を7人の選帝侯に限定し、帝国内の諸侯の特権を大幅に認めるものであり、皇帝の権力が帝国内の有力諸侯の集合的な意思決定に依存する構造を固定化しました。皇帝の支配はイタリアやブルゴーニュではとうに失われ、ドイツにおいてさえ、その権威は実体を伴わない象徴的なものへと変化していきました。
第三に、百年戦争(1337年=1453年)は、イングランドとフランスにおいて、封建的な主従関係を超えた、より広範な国民的アイデンティティの形成を促しました。当初は王家の継承権をめぐる封建的な争いであったこの戦争は、長期化する中で、両国の人々に「イングランド人」「フランス人」という共通の意識を芽生えさせました。特に、フランスにおけるジャンヌ=ダルクの劇的な登場と活躍は、国王シャルル7世のもとに人々を結集させ、フランスという一つの運命共同体のための戦いというナショナルな物語を創出しました。常備軍の創設や直接税(タイユ税)の恒久化といった中央集権化の試みも、この戦争を契機に進展しました。
そして、この時代の精神構造を根底から揺るがしたのが、ルネサンスと宗教改革です。ルネサンスは、古代ギリシャ・ローマの古典文化への回帰を通じて、神中心の中世的世界観から人間中心の理性的・批判的な精神を解放しました。ニッコロ=マキャヴェッリは『君主論』において、宗教や道徳から切り離された、権力維持のための冷徹な政治技術(国家理性)を論じ、近代的な政治学の扉を開きました。一方、1517年にマルティン=ルターが開始した宗教改革は、ローマ=カトリック教会の普遍的な権威に決定的な打撃を与えました。ルターの「信仰のみ」という教えは、個人の内面的な信仰を重視し、教皇を頂点とする聖職者の階層構造の意義を問い直すものでした。宗教改革の波はヨーロッパ全土に広がり、各地で激しい宗教戦争を引き起こしました。その結果、アウクスブルクの和議(1555年)で「領主の宗教が、その地の宗教となる」という原則が確立され、信仰のあり方を決定する権限が、教皇から各領邦の世俗君主の手に移りました。これにより、ヨーロッパのキリスト教世界は回復不可能な分裂を遂げ、宗教的統一という普遍主義の理念は完全に崩壊したのです。これらの巨大な歴史的変動が重なり合う中で、古い秩序は解体され、主権国家という新しい政治的単位が歴史の舞台に登場するための土壌が、着実に整えられていきました。
近代国家の思想的基礎
ジャン=ボダンと国内主権の定式化
「主権」という言葉に、近代的で体系的な定義を与え、政治思想史における中心的な概念として確立したのは、16世紀フランスの法学者・思想家であるジャン=ボダンです。彼が生きた16世紀後半のフランスは、カトリックとプロテスタント(ユグノー)の間で血で血を洗う宗教内戦(ユグノー戦争)が30年以上にわたって続き、国家は分裂と崩壊の危機に瀕していました。サン=バルテルミの虐殺(1572年)に象徴されるような狂信と暴力が吹き荒れる中で、ボダンは、いかにしてこの内戦を終結させ、国内に秩序と平和を再建するかという、極めて切実な課題に直面していました。彼は、いずれの宗教的党派にも与しない「ポリティーク派」と呼ばれる穏健なカトリック教徒のグループに属し、宗教的寛容と強力な王権による国家統一を主張しました。
その思想的集大成が、1576年に刊行された主著『国家論六編』です。この中でボダンは、主権を「国家における絶対的かつ永続的な権力」と定義しました。この定義に含まれる「絶対的」および「永続的」という言葉は、極めて重要な意味を持っています。
第一に、「絶対的」とは、主権者が、自らが制定したものを含む、いかなる人間の実定法にも拘束されないことを意味します。主権者は法を創造する源泉であり、法の上に立つ存在です。彼は、誰の同意も得ることなく、法を制定し、改正し、そして廃止する最高の権能を有します。この権能こそが、主権の最も本質的なしるしである「立法権」です。ボダンによれば、宣戦布告、講和条約の締結、最高裁判権の行使、官吏の任免、貨幣の鋳造といった、国家の他のすべての権限は、この根源的な立法権から派生するものに他なりません。主権者は、過去の慣習や先王の定めた法にも縛られず、ただ国家の福利のために必要と判断すれば、新たな法を制定できるのです。
第二に、「永続的」とは、主権が特定の統治者個人の生命と共に消え去るものではなく、国家そのものに恒久的に内在する属性であることを意味します。国王や為政者は一時的に主権の行使を委託されているに過ぎず、その地位を退いたり死亡したりしても、主権そのものは国家と共に存続し、次の統治者へと引き継がれます。これにより、主権は統治者の個人的な資質やカリスマから切り離され、より非人格的で恒久的な国家の属性として理論化されました。
さらにボダンは、主権が「不可分」であるとも論じました。主権は分割することができず、常に単一の主体(君主、貴族団体、あるいは人民)に帰属しなければなりません。もし主権が複数の主体に分割されれば、権力間の対立が生じ、国家は混乱に陥ると考えたのです。
ただし、ボダンが構想した「絶対」主権は、現代の全体主義のような無制限の専制を意味するものではありませんでした。彼は、主権者であっても、超えることのできない三つの拘束を受けるとしました。それは、神の法(自然法)、万民法(諸国民に共通の法)、そして王国の基本法(サリカ法典に定められた王位継承ルールや国土の不可譲性など)です。特に、臣民の私有財産を恣意的に奪うことは、神の法に反する行為として厳しく戒められています。ボダンの理論は、宗教的対立を超越した、世俗的で強力な中央権力の必要性を論証し、絶対王政のイデオロギー的基盤を築きました。彼の功績は、国家の内部における最高の権威、すなわち「国内主権」の概念を初めて明確に定式化した点にあり、近代国家論の出発点となりました。
フーゴー=グロティウスと国際社会の構想
ジャン=ボダンが国家内部の秩序構築に主眼を置いたのに対し、その半世紀後、17世紀オランダの法学者であり外交官でもあったフーゴー=グロティウスは、主権国家が並び立つ国際社会において、いかにして秩序を維持し、無法な暴力の連鎖を断ち切るかという、より大きな問題に取り組みました。彼が生きた時代は、三十年戦争という、ヨーロッパ史上最も破壊的な宗教戦争が猛威を振るっていた時期です。国家間の関係を規律する共通のルールが存在しない中で、剥き出しの暴力が横行する惨状を目の当たりにしたグロティウスは、国家間の関係を律する法の体系、すなわち「国際法」の必要性を痛感しました。
彼の不朽の主著『戦争と平和の法』(1625年)は、この課題に対する壮大な応答であり、「国際法の父」としての彼の名を不滅のものにしました。この著作の画期的な点は、国際法の基礎を、神学的な権威から切り離し、人間の理性に基づかせたことにあります。グロティウスは、たとえ神が存在しないと仮定しても、あるいは神が人間の事柄に関心を持たないとしても、人間の理性によって発見されうる、普遍的で不変の道徳法則、すなわち「自然法」が存在すると主張しました。この自然法は、約束を守る義務、他人の財産を尊重する義務、与えた損害を賠償する義務といった、人間社会が存続するための基本的な原則から成り立っています。そして、この自然法は、個人間の関係だけでなく、国家間の関係にも等しく適用されるべきであると、彼は論じたのです。
グロティウスは、ボダン以降の思想を受け継ぎ、国家をそれぞれが独立した主権を持つ自由な主体として捉えました。しかし彼は、これらの主権国家が孤立して存在するのではなく、自然法によって結ばれた一つの大きな「人類社会」の構成員であると考えました。そして、この人類社会の中で、各国家が相互の合意(条約や慣習)に基づいて形成する法、すなわち「万民法」が、自然法を補完し、国家間の具体的な行動を規律するとしました。
彼の理論の核心の一つは、戦争に関する詳細な法的考察、すなわち「正戦論」の体系化です。彼は、戦争を全面的に否定するのではなく、無法な戦争と法的な戦争を区別しようと試みました。そして、戦争が法的に正当化されるための条件(開戦の正当事由)と、戦争遂行中に遵守されるべきルール(戦闘における規律)を詳細に論じました。例えば、開戦事由は、自衛、財産の回復、そして処罰といった、権利侵害への対応に限定されるべきであり、また、戦闘行為においては、女性や子供といった非戦闘員の生命は保護され、捕虜の虐待や無用な破壊行為は禁じられるべきだと主張しました。
グロティウスの功績は、主権国家がそれぞれ独立した存在でありながらも、アナーキー(無政府状態)な自然状態にあるのではなく、理性に基づく自然法と相互の合意に基づく国際法によって規律される一つの「国際社会」を形成している、という壮大なヴィジョンを提示した点にあります。彼は、ボダンが確立した「国内主権」の概念を、国家の外部に対する独立性としての「対外主権」へと拡張し、同時に、その主権の行使が無法であってはならず、国際的な法の支配に服すべきであると論じました。彼の思想は、主権国家体制が単なる国家の集合体ではなく、共通のルールと規範を持つ一つの国際システムとして機能するための、決定的な理論的枠組みを提供したのです。
ウェストファリア体制の確立
三十年戦争という分水嶺
三十年戦争(1618年=1648年)は、ヨーロッパの歴史を根底から揺るがし、中世から近代への移行を決定づけた、画期的な出来事でした。この戦争の発端は、神聖ローマ帝国内の領邦であったボヘミアにおいて、ハプスブルク家のカトリック強硬策に反発したプロテスタント貴族が反乱を起こしたことでした(1618年、プラハ窓外放出事件)。当初は帝国内の宗教紛争であったこの対立は、瞬く間に国際的な次元へと拡大します。プロテスタント側のデンマーク王クリスチャン4世、次いでスウェーデン王グスタフ=アドルフが介入し、カトリック側ではスペイン=ハプスブルク家が神聖ローマ皇帝を支援しました。そして、戦争の最終段階では、カトリック国でありながらハプスブルク家の覇権を恐れるフランスが、宰相リシュリューの指導のもと、プロテスタント側で参戦するという、宗教的論理を超えた、純粋な国益(国家理性)に基づくパワーポリティクスの様相を呈しました。
この戦争がもたらした破壊は、ヨーロッパの人々の記憶に深く刻み込まれました。主たる戦場となったドイツでは、傭兵軍による略奪、虐殺、そして疫病の蔓延により、人口の3分の1から、地域によっては半分以上が失われたと推定されています。都市は廃墟と化し、田園は荒廃し、社会秩序は崩壊しました。30年にも及ぶこの凄惨な殺戮の連鎖は、ヨーロッパの人々に、宗教的信条の絶対性を掲げて戦うことの不毛さと、破滅的な暴力を抑制し、国家間の共存を可能にするための新しい秩序の構築が急務であることを痛感させました。普遍的なキリスト教世界という理念は、血塗られた戦場で完全に息の根を止められ、それぞれの国家が自らの安全保障と国益を最優先に追求する、より現実的で世俗的な国際関係の枠組みが、切実に求められるようになったのです。この深い疲弊と幻滅の中から、近代国際システムの礎となるウェストファリア条約が生まれました。
ウェストファリア条約の歴史的意義
1648年、三十年戦争の主要な交戦国が、ヴェストファーレン地方のミュンスターとオスナブリュックという二つの都市に集い、一連の講和条約を締結しました。これがウェストファリア条約です。この条約は、単に一つの戦争を終結させただけでなく、その後のヨーロッパ、ひいては世界の国際秩序の基本原則を確立したという点で、比類のない歴史的重要性を持っています。この条約によって創出された国際システムは「ウェストファリア体制」と呼ばれ、主権国家体制の成立を告げる画期と広く認識されています。
ウェストファリア条約が確立した最も根源的な原則は、「国家主権の尊重」です。条約は、神聖ローマ帝国内の約300に及ぶ領邦国家(帝国等族)に対して、ほぼ完全な主権(Landeshoheit)を公式に認めました。これにより、各領邦の君主は、自らの領土内において最高の統治権を行使し、さらに他国と自由に条約を結び、同盟を組むといった外交権を持つことが承認されたのです(ただし、皇帝および帝国に敵対しないという留保付き)。これは、神聖ローマ皇帝やローマ教皇といった、国境を越える普遍的権威からの事実上の独立を意味し、ヨーロッパの政治地図が、主権を持つ独立した政治単位によって構成されることを決定づけました。
第二に、この主権の承認から論理的に導き出されるのが、「主権平等の原則」です。これは、国家の規模、人口、軍事力、あるいは政治体制の如何にかかわらず、すべての主権国家は国際法上、平等な法人格と権利を持つという考え方です。理論上は、小国も大国も、それぞれが一つの独立した主体として等しく尊重されるべきことになります。この原則は、中世の階層的な権威構造を、主権国家が水平的に並び立つ、より平等主義的な構造へと転換させるものでした。
第三に、そして最も重要な帰結の一つが、「内政不干渉の原則」です。国家は、他国の国内問題、特にその統治形態や宗教政策に対して、武力やその他の強制的な手段を用いて介入してはならない、という原則です。ウェストファリア条約は、1555年のアウクスブルクの和議で認められた「領主の宗教がその地の宗教となる」という原則を再確認し、それをルター派だけでなくカルヴァン派にも拡大適用しました。これにより、ある国家の宗教的選択に対して他国が介入し、戦争を仕掛けるという、三十年戦争の原因となった構図が法的に否定されました。宗教は、国際的な紛争の原因から、それぞれの国家が主権に基づいて決定する国内問題へとその位置づけを変えたのです。これは、ヨーロッパの国際関係が、宗教的動機から世俗的な国益の追求へと、その軸足を完全に移したことを象徴しています。
これらの原則、すなわち国家主権、主権平等、内政不干渉は、総体としてウェストファリア体制の根幹をなし、その後の国際法の基本的なパラダイムを形成しました。もちろん、条約が即座に完全な主権国家体制を実現したわけではなく、その後の歴史の中でこれらの原則は何度も侵害されました。しかし、ウェストファリア条約が、主権国家を国際関係における唯一の正統なアクターとして位置づけ、国家間の関係を規律する基本的な法的・政治的枠組みの青写真を描いたことの歴史的意義は、計り知れないものがあります。
主権国家体制のグローバルな展開と変容
君主主権から国民主権へ
ウェストファリア体制の確立後、17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパは、絶対王政の時代を迎えました。フランスのルイ14世が「朕は国家なり」という言葉で象徴したように、国王は官僚制と常備軍という二つの強力な装置を用いて中央集権化を断行し、封建貴族の力を削ぎ、国内における絶対的な権力をその手に集中させました。この時代、ボダンの理論を背景に、国家の主権は君主個人に宿るものと観念されていました(君主主権)。国家の領土は君主の家産であり、戦争は君主間の領土や継承権をめぐる争いでした。
しかし、18世紀末に大西洋の両岸で勃発した二つの革命、すなわちアメリカ独立革命(1775年=1783年)とフランス革命(1789年=1799年)は、主権の所在に関するこの伝統的な観念を根底から覆し、近代史を新たな段階へと導きました。これらの革命の思想的背景には、ジョン=ロックや、とりわけジャン=ジャック=ルソーに代表される啓蒙思想がありました。ルソーは主著『社会契約論』(1762年)において、正統な権力は神や血統に由来するのではなく、自由で平等な個人が、自らの権利と安全を守るために相互に契約を結び、共同体を形成することによって生まれると主張しました。そして、この共同体の成員全体が持つ共通の利益を目指す意志、すなわち「一般意志」こそが、主権の唯一の源泉であると説いたのです。主権は分割も譲渡もできず、常に人民(国民)に存する(国民主権)。政府は、人民の主権を代行する単なる執行機関に過ぎないとされました。
この国民主権の理念は、フランス革命によって現実の政治プログラムとなりました。「人および市民の権利宣言」(1789年)は、その第3条で「あらゆる主権の根源は、本質的に国民に存する」と高らかに宣言し、絶対王政を打倒して、国民が主権者である共和国を樹立しました。この革命は、それまで「臣民」であった人々を、国家の運命を決定する権利と責任を持つ「市民」へと変貌させました。
革命と、それに続くナポレオン戦争は、この国民主権の理念を、銃剣と法典と共にヨーロッパ全土へと輸出し、各地でナショナリズム(国民主義)の覚醒を促しました。ナショナリズムとは、言語、文化、歴史、あるいは共通の敵といった要素によって結ばれた「国民」という想像の共同体が、自らを統治するための政治的単位、すなわち「国家」を持つべきである、あるいは持つ権利があるという強力なイデオロギーです。ナポレオンの支配に対するスペインやドイツでの抵抗運動は、このナショナルな感情に火をつけました。19世紀は、まさに「ナショナリズムの世紀」でした。ギリシャのオスマン帝国からの独立、ベルギーのオランダからの分離、そして何よりも、長らく分裂していたドイツとイタリアが、それぞれビスマルクとカヴールの指導のもと、強力な国民国家として統一を達成したことは、その象徴的な出来事です。
この「国民国家」の形成は、主権国家体制のあり方を大きく変質させました。国家はもはや君主の私的な領地ではなく、国民という共同体の公的な表現形態と見なされるようになりました。主権は、抽象的な法人格としての国家に帰属し、その行使は国民の代表者からなる議会を通じて行われる、という立憲主義的な考え方が広まります。国民教育や国語の標準化、国旗や国歌といったシンボルの創造を通じて、国民の一体感が醸成され、国家への忠誠心は、かつての宗教に代わる強力な統合原理となりました。主権国家体制は、このナショナリズムという情熱的なイデオロギーと結びつくことで、人々を動員し、戦争を遂行するための、かつてないほどの強大な力を手に入れたのです。
帝国主義の論理と「文明の基準」
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、産業革命によって圧倒的な経済力と軍事力を手にしたヨーロッパの主要な国民国家は、その力をヨーロッパ域外へと爆発的に展開させました。これは、アフリカ、アジア、太平洋の広大な地域を植民地や勢力圏として分割・支配する、帝国主義の時代です。この時期、ウェストファリア体制が掲げる国家主権、主権平等、内政不干渉といった原則は、極めて恣意的かつ二重基準で適用されることになります。
当時のヨーロッパ中心的な国際法学では、世界は「文明国」「半文明国」「未開国」という階層的な秩序で捉えられていました。主権国家として国際法の完全な主体性を認められるのは、ヨーロッパのキリスト教国と、それにアメリカ合衆国などを加えた、ごく一部の「文明国」に限られていました。これらの国々の間では、ウェストファリアの原則が(少なくとも建前上は)尊重されました。
しかし、非ヨーロッパ世界の広大な地域は、この「文明国のファミリー」の外部に置かれました。アジアやアフリカの社会は、主権を持つに値する政治組織や法的秩序を欠いた「未開」な存在と見なされ、国際法の客体、すなわち支配の対象とされたのです。国際法は、この植民地化を正当化し、円滑に進めるための便利な道具として機能しました。例えば、ヨーロッパ人が到達する以前に先住民が居住していた土地を、法的に所有者のいない「無主の地」であると宣言し、先占によって領有権を主張する論理。あるいは、軍事力を背景に、治外法権や関税自主権の喪失などを内容とする「不平等条約」を現地の支配者に強制する手法。これらはすべて、主権平等の原則を公然と踏みにじるものでした。
このように、主権国家体制のグローバルな拡大は、深い自己矛盾を孕んでいました。一方では、ヨーロッパ内部で国民国家がその主権を強化し、互いの独立を尊重するシステムが洗練されていくと同時に、他方では、そのシステムの外部で、主権を完全に剥奪された広大な植民地帝国が築き上げられていったのです。世界の大多数の人口は、主権を持つ少数の宗主国の市民と、主権を持たない多数の植民地の臣民へと二分されました。この帝国主義の時代は、主権国家体制が真に普遍的な(グローバルな)システムとなるためには、この根本的な階層構造を打破する、脱植民地化という巨大な歴史的変動を必要とすることを示唆していました。
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