ブルゴーニュ公とは
百年戦争は、フランス王国の王位継承を巡るヴァロワ家とプランタジネット家(イングランド王家)の対立を主軸としながらも、その実態はフランス国内の諸侯を巻き込んだ複雑な内乱の様相を呈していました。この長期にわたる紛争の中で、フランス王国の東部に位置するブルゴーニュ公国は、単なる一地方勢力からヨーロッパ政治の主要な担い手へと変貌を遂げました。特に、フィリップ2世(豪胆公)、ジャン1世(無怖公)、フィリップ3世(善良公)の三代にわたる公爵たちは、巧みな外交戦略、軍事行動、そして婚姻政策を駆使して公国の領土を拡大し、フランス王権から半ば独立した強大な国家、すなわち「ブルゴーニュ国家」とも呼べる勢力圏を築き上げました。
彼らの行動は、百年戦争の戦局そのものに決定的な影響を与えました。フランス王家との血縁関係にありながら、時にはイングランドと同盟を結び、フランスを窮地に陥れる一方で、またある時にはフランス王家と和解し、イングランドを大陸から駆逐する原動力となりました。ブルゴーニュ公の動向は、常にフランスとイングランド双方にとって最大の関心事であり、その選択一つひとつが戦争の帰趨を左右したのです。
ヴァロワ家によるブルゴーニュ公国の創設
百年戦争初期のブルゴーニュ公国は、カペー家の支流である旧ブルゴーニュ家によって統治されていました。しかし、1361年にフィリップ1世が男子後継者を残さずに死去したことで、この家系は断絶します。彼の死により、ブルゴーニュ公領はフランス王領に返還されることになりました。当時のフランス王は、ヴァロワ家のジャン2世(善良王)でした。彼は、1356年のポワティエの戦いでイングランド軍の捕虜となり、ロンドンに囚われていましたが、釈放後の1363年、重大な決断を下します。それは、自身の末息子であるフィリップ(後の豪胆公)にブルゴーニュ公領を与えるというものでした。
この決定の背景には、いくつかの戦略的意図がありました。第一に、ブルゴーニュはフランス王国の東の辺境に位置し、神聖ローマ帝国との国境地帯であるため、信頼できる王族を配置して防衛を固める必要がありました。第二に、ジャン2世はポワティエの戦いにおいて、当時まだ若かったフィリップが父の側を離れずに勇敢に戦った姿に感銘を受けており、その功績に報いるという側面もありました。このフィリップこそが、後に「豪胆公」として知られるフィリップ2世であり、ヴァロワ家ブルゴーニュ公国の初代公爵となります。1364年6月、兄であるシャルル5世がフランス王に即位すると、フィリップのブルゴーニュ公位は正式に承認され、ここに新たなブルゴーニュ公国が誕生しました。この出来事は、単なる一公爵家の創設にとどまらず、今後100年以上にわたってフランスとヨーロッパの政治を揺るがす巨大な勢力の出発点となったのです。
フィリップ豪胆公の領土拡大戦略:フランドル伯領の継承
フィリップ豪胆公の治世における最大の功績は、婚姻政策による領土拡大、特にフランドル伯領の獲得でした。フランドル(現在のベルギー西部、オランダ南西部、フランス北部を含む地域)は、当時ヨーロッパで最も豊かで都市化された地域の一つでした。ヘント、ブルッヘ、イーペルといった都市は毛織物産業の中心地として繁栄し、その経済力は一国の王に匹敵するほどでした。この豊かな土地の相続人であったのが、フランドル伯ルイ2世・ド・マールの娘、マルグリットでした。
フィリップ豪胆公は、兄であるフランス王シャルル5世の巧みな外交的支援を受け、1369年にマルグリットと結婚しました。この結婚は、イングランド王エドワード3世の息子であるケンブリッジ伯エドマンド・オブ・ラングリーも彼女を狙っていたため、フランスとイングランドの間の熾烈な外交戦の末に実現したものでした。シャルル5世は、ローマ教皇に働きかけてイングランドとの婚姻に必要な特免状の発行を阻止する一方、フィリップとマルグリットの血縁関係(彼らはいとこ半であった)に対する特免状を確保することに成功しました。
この結婚の成果は、15年後の1384年に現実のものとなります。舅であるフランドル伯ルイ2世が死去し、妻マルグリットを通じて、フィリップはフランドル、アルトワ、ブルゴーニュ伯領(フランシュ=コンテ)、ヌヴェール、ルテルの広大な領地を継承しました。これにより、ブルゴーニュ公国の領土と歳入は劇的に増大します。南のブルゴーニュ公領と北のフランドルという、地理的に離れた二つの核を持つ複合国家が形成されたのです。この南北の領土は、それぞれ異なる言語、文化、法制度を持っていましたが、フィリップ豪胆公は両者を巧みに統治し、ブルゴーニュ国家の基礎を築きました。特にフランドルの経済力は、彼の宮廷をヨーロッパで最も華麗なものの一つにし、後のブルゴーニュ公たちの野心的な政策を財政的に支える基盤となりました。
フランス宮廷における影響力と治世
フィリップ豪胆公は、ブルゴーニュ公として独立した領主であると同時に、フランス王族として宮廷内でも絶大な影響力を行使しました。1380年に兄シャルル5世が死去し、甥であるシャルル6世がわずか11歳で即位すると、フィリップは叔父であるアンジュー公ルイ、ベリー公ジャン、ブルボン公ルイと共に摂政の一人としてフランスの国政を掌握しました。摂政たちの間では権力闘争が絶えませんでしたが、フィリップはその中でも主導的な役割を果たしました。
彼の政治的立場は、フランス王国の利益とブルゴーニュ公国の利益という二つの側面を持っていました。例えば、彼はフランドルにおける都市の反乱(1382年のローゼベーケの戦いなど)を鎮圧するためにフランス王軍を動員しましたが、これはフランス王の権威を示すと同時に、自身のフランドルにおける支配を確立するための行動でもありました。
1388年にシャルル6世が親政を開始すると、フィリップの影響力は一時的に低下しますが、1392年にシャルル6世が最初の精神錯乱の発作を起こすと、再び国政の中心に返り咲きます。シャルル6世の病は断続的に続いたため、フランスの統治は王の弟であるオルレアン公ルイと、叔父であるフィリップ豪胆公との間の対立によって麻痺状態に陥りました。この対立は、個人的な権力欲だけでなく、政治路線を巡る根本的な違いにも根ざしていました。オルレアン公がイングランドとの対決姿勢を強め、重税を課して軍備を拡張しようとしたのに対し、フィリップ豪胆公はフランドルの経済的利益(イングランドとの羊毛貿易)を考慮し、より穏健で和平を模索する姿勢を取りました。この対立構造は、後のアルマニャック派とブルゴーニュ派の深刻な内戦へと発展する萌芽を含んでいました。フィリップ豪胆公は1404年に死去しますが、彼が築いた強大な公国と、フランス宮廷内に残した対立の火種は、次代のジャン無怖公へと引き継がれていきました。
父の遺産の継承とオルレアン公との対立
1404年、フィリップ豪胆公の死を受けて、その息子であるジャン1世、通称「無怖公」がブルゴーニュ公位を継承しました。彼は父が築き上げた広大で豊かな領土だけでなく、フランス宮廷におけるオルレアン公ルイとの激しい権力闘争という負の遺産も引き継ぎました。ジャン無怖公は、父と同様にフランスの国政における主導権を握ることを渇望していましたが、彼の性格は父よりも衝動的で冷徹でした。
宮廷における対立は、瞬く間にエスカレートしました。オルレアン公ルイは王弟という立場を利用して国庫を私物化し、自身の支持者を要職に就けるなどして権勢を振るっていました。これに対し、ジャン無怖公は民衆の支持を得るために、オルレアン公による重税を批判し、改革者としての立場をアピールしました。彼はパリの民衆やパリ大学の支持を取り付け、政治的な正当性を確保しようと試みます。しかし、宮廷内での駆け引きは膠着状態に陥り、両者の憎悪は深まるばかりでした。ジャン無怖公は、オルレアン公が自身の妻であるマルグリット・ド・バヴィエールと不義の関係にあるという噂にも苦しめられ、個人的な侮辱も感じていました。
オルレアン公ルイの暗殺
政治的対立が頂点に達した1407年11月23日、ジャン無怖公は決定的な行動に出ます。彼は刺客を雇い、パリの路上でオルレアン公ルイを暗殺させたのです。この事件はフランス全土に衝撃を与えました。当初、ジャンは犯行への関与を否定していましたが、すぐに自らが暗殺を計画したことを公に認めました。
彼はこの凶行を正当化するために、パリ大学の神学者ジャン・プティに理論武装を依頼しました。プティは「暴君殺しは正当である」という理論を展開し、オルレアン公は王を欺き、国家を危機に陥れた暴君であり、彼を殺害することは義務でさえあったと主張しました。この大胆な主張は、一時的にジャンの立場を有利にし、彼はパリの支配権を確立しました。しかし、この暗殺はフランス王国内に決して癒えることのない深い亀裂を生み出しました。暗殺されたオルレアン公の息子、シャルル・ド・オルレアンは、舅であるアルマニャック伯ベルナール7世の支援を受け、父の復讐とジャン無怖公の打倒を誓います。こうして、フランスは「ブルゴーニュ派」と「アルマニャック派」という二つの派閥に分かれ、全面的な内戦へと突入していったのです。
アルマニャック派との内戦とイングランドとの連携
アルマニャック派とブルゴーニュ派の内戦は、フランス全土を巻き込み、百年戦争の様相をさらに複雑なものにしました。両派は互いにフランスの覇権を争い、各地で残虐な戦闘を繰り広げました。この内戦は、イングランド王ヘンリー5世にとって、フランス侵攻の絶好の機会となりました。
ジャン無怖公は、アルマニャック派に対抗するため、イングランドとの交渉を開始します。彼は公然と同盟を結ぶことには慎重でしたが、少なくとも中立を保つことで、ヘンリー5世のフランス侵攻を黙認しました。1415年、ヘンリー5世がフランスに上陸し、アジャンクールの戦いでフランス騎士団に壊滅的な打撃を与えた際、ブルゴーニュ軍は参戦しませんでした。この戦いで多くのアルマニャック派の貴族が戦死または捕虜となったことは、結果的にジャン無怖公の政治的地位を強化しました。
アジャンクールの勝利後、ヘンリー5世がノルマンディー地方の征服を進める中、ジャン無怖公はアルマニャック派が支配するパリの奪還に成功します(1418年)。この際、パリでは大規模な虐殺が発生し、アルマニャック伯ベルナール7世を含む多くの人々が殺害されました。ジャンは精神に異常をきたしたシャルル6世と王妃イザボー・ド・バヴィエールを保護下に置き、フランス政府を事実上掌握しました。しかし、イングランドの勢力拡大はフランス王国そのものの存続を脅かすレベルに達しており、ジャン無怖公もいずれイングランドと対決しなければならないことを認識していました。
モントローの橋での暗殺
イングランドの脅威が迫る中、フランス国内の統一が急務であると考える人々が増えてきました。特に、アルマニャック派の新たな指導者となっていた王太子シャルル(後のシャルル7世)の側近たちは、ブルゴーニュ公との和解を模索しました。ジャン無怖公も、イングランドとの全面的な同盟には踏み切れず、王太子との和解に傾き始めます。
1419年9月10日、両者はモントローの橋の上で会見を行うことになりました。和平交渉のための会談でしたが、この場所は悲劇の舞台となります。橋の上で王太子シャルルとジャン無怖公が言葉を交わしている最中、王太子の側近の一人が斧でジャン無怖公に斬りかかり、彼はその場で殺害されてしまいました。これは、12年前にジャン自身が行ったオルレアン公暗殺に対する、アルマニャック派による血の復讐でした。
この暗殺事件は、フランスにとって致命的な結果をもたらしました。父の死を目の当たりにした新たなブルゴーニュ公フィリップ(後の善良公)は、アルマニャック派への復讐心に燃え、あらゆる躊躇を捨ててイングランドとの完全な同盟に踏み切ります。フランス国内の和解の可能性は完全に断たれ、ブルゴーニュ公国とイングランドが手を組むことで、フランス王国は建国以来最大の危機に瀕することになるのです。
フィリップ善良公とブルゴーニュ国家の絶頂
ジャン無怖公の暗殺は、彼の息子であり後継者であるフィリップ3世、通称「善良公」の政治方針を決定づけました。父の仇である王太子シャルルへの復讐を誓ったフィリップは、これまで父がためらっていたイングランドとの全面的な同盟へと舵を切ります。この決断が、百年戦争の歴史における最も重要な転換点の一つとなりました。
フィリップ善良公は、イングランド王ヘンリー5世と交渉を重ね、1420年に「トロワ条約」の締結に至ります。この条約は、フランス王国にとって屈辱的な内容でした。条約の主な内容は以下の通りです。
フランス王シャルル6世の娘カトリーヌ・ド・ヴァロワをヘンリー5世と結婚させる。
ヘンリー5世をシャルル6世の摂政および後継者と認め、シャルル6世の死後はフランス王位をヘンリー5世とその子孫が継承する。
王太子シャルルは王位継承権を剥奪され、「いわゆる王太子」と蔑称される。
この条約は、事実上フランス王国をイングランドに売り渡すものでした。フィリップ善良公は、父の仇である王太子を排除するため、フランスの独立さえも犠牲にしたのです。この条約は、精神を病んだシャルル6世と、ブルゴーニュ派の支配下にあった王妃イザボーによって承認され、パリ高等法院にも登録されました。これにより、フランスは法的に二つに分裂しました。イングランドとブルゴーニュが支配する北部フランス(ヘンリー6世を王とする)と、王太子シャルルが支配するロワール川以南のフランス(「ブールジュの王国」と揶揄された)です。フィリップ善良公の復讐心は、ブルゴーニュ公国をイングランドの最も強力な同盟者へと変え、フランスを滅亡の淵へと追いやりました。
ブルゴーニュ・イングランド同盟とジャンヌ・ダルクの出現
トロワ条約締結後、ブルゴーニュとイングランドの連合軍は、王太子シャルルの勢力を着実に南へと追い詰めていきました。1422年にヘンリー5世とシャルル6世が相次いで死去すると、ヘンリー5世の幼い息子ヘンリー6世がイングランドとフランスの王として即位し、ヘンリー5世の弟であるベッドフォード公ジョンがフランス摂政として統治を担いました。ベッドフォード公は有能な統治者であり、フィリップ善良公との同盟関係を維持することに努めました。彼はフィリップの妹アンヌと結婚し、両家の絆を強固なものにしました。
連合軍の優勢は続き、1428年には王太子側の最後の拠点の一つであるオルレアンを包囲します。オルレアンが陥落すれば、王太子シャルルの大義は潰え、フランス全土がイングランドの支配下に入るかと思われました。しかし、この絶望的な状況を一変させたのが、ジャンヌ・ダルクの出現でした。1429年、神の啓示を受けたと主張する農夫の娘ジャンヌは、王太子シャルルを説得して軍の指揮権の一部を与えられ、オルレアンの包囲を奇跡的に解放します。
ジャンヌの勝利は、フランス軍の士気を劇的に高め、戦局の転換点となりました。彼女はさらにシャルルを伴って、敵地であるランスへと進軍し、歴代フランス王が戴冠式を行ってきた大聖堂で、シャルルを正式なフランス王シャルル7世として戴冠させました。この戴冠式は、トロワ条約によって失われたシャルルの正統性を回復させる上で、極めて大きな象徴的意味を持ちました。
フィリップ善良公にとって、ジャンヌ・ダルクの存在は厄介なものでした。ブルゴーニュ軍はジャンヌが率いるフランス軍と各地で戦い、1430年5月、コンピエーニュの包囲戦でついにジャンヌを捕縛することに成功します。フィリップはジャンヌをイングランドに引き渡し、彼女は異端として裁判にかけられ、1431年に火刑に処されました。しかし、ジャンヌの死後も、フランスの反撃の勢いは衰えませんでした。
アラスの和約とフランスとの和解
ジャンヌ・ダルクの登場とシャルル7世の戴冠以降、フィリップ善良公の立場は徐々に変化していきました。イングランドとの同盟は、父の復讐という当初の目的を達成する手段でしたが、フランスにおけるイングランドの支配が恒久化することは、ブルゴーニュ公国自身の将来にとっても望ましいことではありませんでした。公国の領民、特にフランドルの都市は、フランスとの伝統的な経済的結びつきが断たれることを懸念していました。また、摂政ベッドフォード公の妻であり、フィリップの妹であったアンヌが1432年に死去したことで、イングランドとの個人的な絆も弱まりました。
一方、シャルル7世側も、ブルゴーニュとの和解なしにイングランドを大陸から完全に駆逐することは不可能であると理解していました。フランスのコネタブル(総司令官)であったアルテュール・ド・リッシュモン(後のブルターニュ公)など、宮廷内の和平派がフィリップ善良公との交渉を粘り強く続けました。
これらの動きが結実したのが、1435年に開催されたアラス会議でした。この会議には、ブルゴーニュ、フランス、イングランドの代表に加え、ローマ教皇の使節も参加し、ヨーロッパ中の注目を集めました。イングランドはフランス王位の放棄を拒否したため交渉から脱落しましたが、フランスとブルゴーニュの交渉は続けられました。シャルル7世は、フィリップ善良公に対して、モントローでのジャン無怖公暗殺への関与を公式に謝罪し、暗殺者を処罰することを約束しました。
この謝罪を受け、フィリップ善良公はフランスとの和解を決断します。アラスの和約の主な内容は以下の通りです。
フィリップ善良公は、シャルル7世を正統なフランス王として承認する。
その見返りとして、フィリップはシャルル7世に対する臣下の礼を生涯免除される。
ブルゴーニュは、ピカルディー地方のソンム川沿いの諸都市(ソンム諸都市)を獲得する。
この和約は、ブルゴーニュにとって大勝利でした。フランス王への臣従義務を免除されたことで、フィリップ善良公は事実上の独立君主としての地位を確立しました。ブルゴーニュ・イングランド同盟の崩壊は、百年戦争の帰趨を決定づけました。最強の同盟者を失ったイングランドは、以後守勢に立たされ、徐々に大陸の領土を失っていきます。フィリップ善良公は、父の復讐を果たし、公国の領土と権威を最大化するという目的を達成し、巧みな外交手腕によって百年戦争の最終的な勝者の一人となったのです。
「大西欧公」としての治世とブルゴーニュ文化の黄金時代
アラスの和約以降、フィリップ善良公はフランスとイングランドの間の戦争から距離を置き、自身の広大な領地の統治と発展に専念しました。彼の治世下で、ブルゴーニュ公国は経済的・文化的な絶頂期を迎えます。彼の宮廷はヨーロッパで最も豪華で洗練されたものとして知られました。
フィリップは、ブルゴーニュ、フランドル、ブラバント、ホラント、ゼーラント、ルクセンブルクなど、ネーデルラント(低地地方)の多くの領土を次々と獲得し、ブルゴーニュ国家の版図を最大化しました。彼はこれらの多様な領土を統合するため、中央集権的な行政機関(中央会計法院や大評議会など)を設立し、共通の通貨を導入するなど、国家としての制度を整備しました。
彼の宮廷は、芸術と文化のパトロンとしても名高く、ブルゴーニュ文化の黄金時代を築きました。画家ヤン・ファン・エイクやロヒール・ファン・デル・ウェイデンといった初期フランドル派の巨匠たちは、フィリップやその宮廷人たちの庇護の下で、油彩画の技法を完成させ、写実的な肖像画や宗教画の傑作を数多く生み出しました。また、宮廷音楽も盛んで、ギヨーム・デュファイやジル・バンショワといった作曲家たちが活躍しました。
1430年、フィリップ善良公はポルトガル王女イザベラとの結婚を記念して、カトリックの騎士修道会である「金羊毛騎士団」を創設しました。この騎士団は、ブルゴーニュ公に忠誠を誓う高位貴族たちで構成され、ヨーロッパで最も名誉ある騎士団の一つと見なされました。騎士団の会合は、豪華絢爛な祝祭や馬上槍試合と共に開催され、ブルゴーニュ公の権威と富を内外に誇示する場となりました。フィリップ善良公の治世は、百年戦争の混乱の中から、政治的独立、経済的繁栄、そして文化的栄華を極めた「ブルゴーニュ国家」を誕生させた時代として、歴史に記憶されています。
百年戦争がブルゴーニュ公国に残した遺産
百年戦争の終結(1453年)からフィリップ善良公の死(1467年)を経て、その息子シャルル豪胆公の代になると、ブルゴーニュ公国はさらなる拡大を目指し、フランス王ルイ11世や神聖ローマ皇帝、スイス盟約者団と激しく対立します。シャルルはブルゴーニュとネーデルラントの領土を陸路で連結し、ロタリンギアの古王国を復興させて自らが王となることを夢見ましたが、その野心的な計画は1477年のナンシーの戦いでの彼の戦死によって潰えました。
シャルルの死後、男子後継者がいなかったため、ブルゴーニュ公国は再び継承の危機に直面します。フランス王ルイ11世はブルゴーニュ公領とピカルディーを併合しましたが、シャルルの娘マリー・ド・ブルゴーニュはハプスブルク家のマクシミリアン(後の神聖ローマ皇帝)と結婚し、ネーデルラントの広大な領地はハプスブルク家の手に渡りました。これにより、ブルゴーニュ公国の遺産はフランス王国とハプスブルク家によって分割され、その後のヨーロッパにおけるフランスとハプスブルク家の長期にわたる対立の源流の一つとなりました。
百年戦争時のブルゴーニュ公たちは、フランス王国の存亡を左右する極めて重要な役割を演じました。彼らはフランス王族でありながら、自らの公国の利益を最優先し、時にはイングランドと結んでフランスを危機に陥れ、またある時にはフランスと和解して戦争の終結を導きました。フィリップ豪胆公が築いた国家の基礎、ジャン無怖公が引き起こした内戦の激化、そしてフィリップ善良公が達成した政治的絶頂と文化的繁栄は、百年戦争という大きな枠組みの中で展開された、もう一つの壮大な物語です。彼らが残した「ブルゴーニュ国家」は、シャルル豪胆公の死と共に消滅しましたが、その豊かな文化遺産と、ヨーロッパの勢力図に与えた影響は、その後も長く生き続けました。百年戦争は、ブルゴーニュ公国という類まれな政治的実体の誕生、発展、そして崩壊の触媒となったのです。