地動説とは
地動説、すなわち太陽を中心として地球を含む惑星がその周りを公転しているという宇宙モデルは、人類の宇宙に対する理解を根底から覆した、科学史上最も重要なパラダイムシフトの一つです。この考え方が広く受け入れられるまでには、古代の思索に始まり、ルネサンス期の天文学者による数学的な体系化、そしてその後の世代による観測的証拠の発見と物理法則の確立という、数千年にもわたる長く険しい知の探求の道のりがありました。
古代ギリシャにおける太陽中心思想の萌芽
一般的に地動説は16世紀のニコラウス=コペルニクスによって提唱されたと認識されていますが、その思想の源流は、遥か古代ギリシャの哲学者たちの思索の中にすでに存在していました。当時の主流であったアリストテレスやプトレマイオスに代表される地球中心の宇宙観、すなわち天動説が支配的な世界において、太陽を宇宙の中心に据えるという革新的なアイデアを打ち出した思想家たちが少数ながら存在したのです。
ピタゴラス学派の宇宙観
地動説につながる最初の重要な一歩は、紀元前6世紀から5世紀にかけて南イタリアで活動したピタゴラスとその学派によって踏み出されました。ピタゴラス学派は、宇宙の根源を「数」とその調和(ハルモニア)に見出そうとした哲学者=数学者の集団でした。彼らにとって、宇宙は無秩序な混沌ではなく、数学的な法則によって支配された秩序ある全体、すなわち「コスモス」でした。
この思想を宇宙の構造に適用したのが、紀元前5世紀のピタゴラス派の哲学者フィロラオスです。彼は、宇宙の中心には地球ではなく、「中心火」と呼ばれる巨大な火の塊が存在すると考えました。そして、地球、太陽、月、そして当時知られていた5つの惑星(水星、金星、火星、木星、土星)が、すべてこの中心火の周りを円軌道で公転していると主張しました。さらに彼は、地球と中心火の間には「反地球」という、我々からは見えないもう一つの天体が存在すると仮定しました。これは、地球=反地球=月=太陽=5惑星=恒星天球の合計10個の天体が運動するという、彼らが神聖視した数である「10」に宇宙の構造を合致させるための理論的な要請から生まれたアイデアでした。
フィロラオスのモデルは、太陽そのものを中心に据えたわけではないため、厳密な意味での地動説とは異なります。地球は依然として宇宙の中心近くにあり、しかも太陽もまた中心火の周りを回る一つの天体に過ぎませんでした。しかし、彼の理論の画期的な点は、それまで不動の中心であると固く信じられていた地球を、他の天体と同様に運動する一つの惑星として扱ったことにあります。宇宙の中心という特権的な地位から地球を引きずり下ろしたこの発想は、後の地動説への道を開く、極めて重要な知的跳躍だったのです。彼らは、観測結果を説明するためというよりは、自らの数学的=哲学的な理念に基づいて宇宙のモデルを構築しました。このアプローチは、後の科学とは異なりますが、宇宙を合理的な原理で説明しようとする試みの先駆けでした。
サモスのアリスタルコス
古代ギリシャにおいて、完全な形での地動説を明確に提唱した最初の人物は、紀元前3世紀に活動したサモス島出身の天文学者アリスタルコスです。彼は、その大胆な発想から「古代のコペルニクス」とも称されます。残念ながら、彼が地動説について詳述したとされる主著は失われてしまいましたが、その思想の断片は、同時代の偉大な数学者アルキメデスや、後の時代のプルタルコスといった著述家たちの記録によって後世に伝えられています。
アルキメデスの著作『砂粒を数えるもの』によれば、アリスタルコスは「恒星と太陽は不動であり、地球が太陽を中心とする円軌道上を回転している」という仮説を立てたと記されています。これは、まさしくコペルニクスが約1800年後に再発見することになる太陽中心モデルそのものでした。
アリスタルコスがこのような結論に至った背景には、彼自身の驚くべき天文学的測定がありました。現存する彼の唯一の著作『太陽と月の大きさと距離について』の中で、彼は巧みな幾何学的手法を用いて、地球から月までの距離と、地球から太陽までの距離の比率を算出しようと試みました。彼は、月がちょうど半月(上弦または下弦の月)に見えるとき、地球=月=太陽が直角三角形をなすことに着目しました。このとき、地球から見た月と太陽のなす角度を測定すれば、三角法によって距離の比が計算できるはずです。
彼の測定した角度には現代の観測値と比べると大きな誤差がありましたが、それでも彼の計算結果は、太陽が月よりも遥かに遠くにあり、そしてその大きさも地球よりずっと巨大であるという結論を導き出しました。彼は、太陽が地球の約19倍の距離にあり、体積は地球の数千倍にもなると見積もりました。この「太陽が地球よりも圧倒的に大きい」という観測に基づく発見が、彼を地動説へと導いた重要な論理的根拠となったと考えられます。常識的に考えて、巨大な天体(太陽)が、それより遥かに小さな天体(地球)の周りを回るというのは不自然であり、むしろ小さな地球が巨大な太陽の周りを回ると考える方が合理的である、と彼は推論したのです。これは、単なる哲学的思弁ではなく、観測と数学的推論に基づいた科学的な思考の現れでした。
さらにアリスタルコスは、地球が太陽の周りを公転しているにもかかわらず、なぜ恒星の位置が一年を通じて変化しないように見えるのか(年周視差が観測されないのか)という、地動説に対する最も強力な反論にも答えを用意していました。彼は、恒星が我々が想像するよりも遥かに遠くに存在するため、地球が公転軌道上を移動したとしても、その位置の変化は観測できないほど小さいのだと説明しました。これもまた、驚くほど近代的な洞察でした。
しかし、アリスタルコスの地動説は、当時の学界ではほとんど受け入れられませんでした。その最大の理由は、当時の支配的な物理学であったアリストテレスの哲学と真っ向から対立したからです。アリストテレスの体系では、宇宙は地球を中心とする同心円状の階層構造をなし、重い物質でできた地球は自然に宇宙の中心に静止し、軽い物質でできた天体は円運動をするのが自然な状態であるとされていました。運動する地球という考えは、この物理学の根本原理を覆すものであり、到底受け入れられるものではなかったのです。また、地球が高速で自転し、公転しているならば、地上で投げ上げた物体はなぜ真下に落ちてくるのか、なぜ地上の我々は猛烈な風を感じないのか、といった日常的な感覚に根差した素朴な疑問に、当時の物理学では答えることができませんでした。
こうして、アリスタルコスの先駆的な業績は、アリストテレスと、その宇宙観をさらに精緻な数学モデルとして完成させたプトレマイオスの天動説の巨大な権威の前に、歴史の影へと追いやられてしまいました。しかし、彼の思想は完全に消え去ったわけではなく、後の時代の文献の中にその記録が残り、ルネサンス期のコペルニクスが自らの理論を構築する際に、その古代の先駆者の存在を知り、大きな勇気を得たことが知られています。古代ギリシャの地動説は、一つの完成した理論として受け継がれることはありませんでしたが、人類の知性の歴史の中に、未来への重要な種子として蒔かれたのです。
プトレマイオス体系の確立と天動説の千年王国
アリスタルコスの太陽中心説が歴史の片隅に追いやられた後、古代末期から中世にかけての約1500年間、西洋世界の宇宙観を完全に支配したのは、地球を宇宙の中心に据える天動説でした。この天動説を、単なる哲学的な概念から、天体の動きを驚くほど正確に予測できる、精緻な数学的=天文学的体系へと昇華させたのが、2世紀にエジプトのアレクサンドリアで活動したクラウディオス=プトレマイオスです。彼が著した天文学の大著『アルマゲスト』は、その後の中世ヨーロッパおよびイスラム世界において、天文学の絶対的な権威を持つ聖典として君臨し続けました。
『アルマゲスト』=天動説の集大成
プトレマイオスの最大の功績は、それまでのギリシャ天文学の成果、特にヒッパルコスの観測データや理論を継承し、それらを一つの壮大で首尾一貫した数学的モデルとして統合したことです。彼の目的は、日々の天体の複雑な動き、特に惑星の不可解な「逆行運動」を、幾何学的な仕組みを用いて完全に説明し、予測することでした。
惑星の逆行運動とは、地球から惑星を観測していると、普段は恒星の間を西から東へ移動している惑星が、時折、その動きを止め、逆向きに東から西へと進み、再び元の方向に戻るように見える現象です。これは、地球中心の単純な円運動モデルでは到底説明できません。この難問を解決するために、プトレマイオスは「周転円」と「従円」という巧妙な幾何学的装置を導入しました。
彼のモデルでは、惑星は「周転円」と呼ばれる小さな円の上を公転します。そして、その周転円の中心自体が、「従円」と呼ばれる、地球を中心とする大きな円の上を公転するのです。これは、遊園地のコーヒーカップを想像すると分かりやすいかもしれません。個々のカップが回転しながら(周転円)、全体が大きな円盤の上を回っていく(従円)ようなものです。地球からこの動きを観測すると、惑星が前に進んだり後ろに戻ったりするように見え、逆行運動が見事に説明できるのです。
しかし、これだけでは実際の惑星の観測位置とモデルの予測を完全に一致させることはできませんでした。惑星の軌道速度は一定ではなく、またその軌道も完全な円ではないように見えました。この問題を解決するため、プトレマイオスはさらに二つの独創的な概念を導入しました。それが「離心円」と「エカント(均衡点)」です。
「離心円」とは、従円の中心を地球から少しずらした位置に置くという考え方です。これにより、惑星が地球に近づいたり遠ざかったりする現象を説明できました。
さらに巧妙だったのが「エカント」です。これは、従円の中心と地球を結ぶ直線上で、地球とは反対側に、従円の中心から同じ距離だけ離れた点(エカント)を仮想的に設定するものです。そして、惑星を運ぶ周転円の中心は、地球を中心とする円運動ではなく、このエカントから見たときに角速度が一定になるような運動をすると仮定したのです。これは、アリストテレス以来の「天体は完全な等速円運動をする」という哲学的な原則からは逸脱するものでしたが、観測結果との一致を優先した、プトレマイオスの実用主義的な姿勢の表れでした。
これらの周転円、従円、離心円、エカントといった複雑な装置を組み合わせることで、プトレマイオスの体系は、当時の観測技術の範囲内において、惑星の位置を驚くべき精度で予測することに成功しました。その予測能力の高さこそが、『アルマゲスト』がその後1500年近くもの間、天文学のバイブルであり続けた最大の理由でした。
アリストテレス物理学とキリスト教神学との融合
プトレマイオスの数学的モデルがこれほどまでに長く受け入れられたもう一つの重要な理由は、それがアリストテレスの物理学と哲学、そして後にヨーロッパの支配的な思想となるキリスト教神学と非常に親和性が高かったからです。
アリストテレスの宇宙観では、宇宙は不完全で変化する「月下界」(地上世界)と、完全で不変な「月上界」(天上世界)に二分されていました。重い土や水で構成される地球は、その性質上、宇宙の中心で静止しているのが自然な状態です。一方、エーテルという第五の元素でできた天体は、その完全性の証として、永遠の等速円運動を行うとされました。プトレマイオスの地球中心モデルは、このアリストテレスの物理学的な世界像と完全に一致していました。
さらに、中世ヨーロッパにおいてアリストテレス哲学がキリスト教神学に取り入れられると(特にトマス=アクィナスによるスコラ学の体系化)、プトレマイオスの宇宙観は神学的な権威によっても裏打ちされることになりました。聖書には、神が地球を固く据え、動かないようにしたと解釈できる箇所や、ヨシュアが神に祈って太陽の動きを止めたという記述があります。これらは、文字通りに解釈すれば、地球が静止し、太陽が動いていることの証拠とされました。
こうして、プトレマイオス的な宇宙像は、神が創造した秩序ある世界の階層構造を反映していると見なされるようになりました。宇宙の中心にある不動の地球は、神による創造の中心であり、人類の救済というドラマが繰り広げられる特別な舞台でした。その周りを月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星の天球が回り、さらにその外側には恒星天、そして最高天(エンピリアン)=神の住まう場所が存在するという階層的な宇宙像は、地上の教会や社会の階層構造とも対応し、人々に分かりやすく、安心感を与える世界観を提供したのです。
このように、プトレマイオスの天動説は、単なる天文学の理論に留まらず、物理学、哲学、神学、そして社会秩序と一体化した、一個の巨大で堅固な世界観=パラダイムを形成していました。その予測精度の高さと、支配的な思想体系との親和性の高さゆえに、この「プトレマイオス体系」は、西洋世界の知性を1500年近くにわたって規定し続け、これに異を唱えることは、単に天文学的な異説を述べることではなく、世界の秩序そのものに挑戦することを意味したのです。コペルニクスが立ち向かわなければならなかったのは、まさにこの巨大な知的伝統の壁でした。
ニコラウス=コペルニクスと『天球の回転について』
1500年近くにわたって西洋の宇宙観を支配してきたプトレマイオスの天動説に、数学的な体系をもって真っ向から挑戦し、科学革命の扉を開いた人物が、ポーランドの天文学者ニコラウス=コペルニクスです。彼がその死の直前に出版した主著『天球の回転について』(1543年)は、宇宙の中心を地球から太陽へと移し替えるという、まさに「コペルニクス的転回」を成し遂げた、歴史的な著作でした。
コペルニクスの動機=プトレマイオス体系への不満
コペルニクスは、決してプトレマイオス体系を全面的に否定する革命家として出発したわけではありませんでした。彼は、ルネサンス期の人文主義者として、古代ギリシャの文献に深く親しんでおり、プトレマイオスの『アルマゲスト』を偉大な業績として尊敬していました。しかし、その体系を深く研究すればするほど、彼はいくつかの深刻な問題点に気づき、不満を抱くようになります。
彼の最大の不満は、プトレマイオスが惑星の運動を説明するために導入した「エカント(均衡点)」という概念に向けられました。エカントは、惑星の軌道運動が、その軌道の中心(地球でも従円の中心でもない)とは異なる点から見て等しい角速度を持つと仮定するものでした。これは、観測結果を説明するためには有効な手段でしたが、コペルニクスにとっては、アリストテレス以来の天文学の第一原理である「天体は完全な等速円運動を行わなければならない」という美学的な要請を破る、醜いごまかしのように思えました。彼は、宇宙はもっと調和的で、数学的に美しい、統一された原理で説明できるはずだと信じていました。
また、プトレマイオス体系は、個々の惑星の動きを説明するためには機能しましたが、太陽系の全体的な構造や規模については何も語りませんでした。なぜ水星と金星は太陽の近くから決して離れず、火星、木星、土星は空のどこにでも現れるのか。なぜ外惑星の逆行は、その惑星が地球から見て太陽と反対側に来たとき(衝)にのみ起こるのか。これらの現象は、プトレマイオス体系では個別の事実として受け入れるしかなく、それらを結びつける統一的な説明原理が存在しませんでした。コペルニクスは、これらの偶然に見える事柄が、一つのシンプルな原理から必然的に導き出されるような、より合理的で調和のとれたシステムを求めたのです。
太陽中心モデルの構築
このような問題意識から、コペルニクスは古代の文献を渉猟し、かつてアリスタルコスらが太陽中心の考えを持っていたことを知ります。彼はこのアイデアに触発され、もし宇宙の中心に太陽を置き、地球を太陽の周りを公転する一個の惑星と考えてみたらどうなるだろうか、という思考実験を始めました。
この視点の転換は、驚くべき結果をもたらしました。これまで不可解だった多くの現象が、見事に、そして自然に説明できることが明らかになったのです。
第一に、惑星の逆行運動です。地動説では、逆行は惑星が実際に軌道上を逆戻りするのではなく、地球が内側の軌道で外側の惑星(火星、木星、土星)を追い越すとき、あるいは内側の惑星(水星、金星)が地球を追い越すときに生じる、見かけ上の動きとして説明されます。これは、高速で走る電車から、並走する遅い電車を見ると、一時的に後ろ向きに進んでいるように見えるのと同じ原理です。この説明は、周転円という人工的な装置を必要とせず、極めてシンプルでエレガントでした。
第二に、水星と金星が太陽から一定以上離れない理由も明らかになりました。これらの惑星の公転軌道が地球の軌道よりも内側にあるため、地球から見れば、常に太陽の方向に見えるのは当然のことでした。
第三に、外惑星の逆行が衝の時にのみ起こる理由も説明できました。地球が外惑星を追い越すのは、まさに地球が太陽と外惑星の間に来たとき、すなわち衝の時だからです。
さらに、コペルニクスの体系は、プトレマイオス体系ができなかった、太陽系の相対的な構造と規模を決定することを可能にしました。各惑星の公転周期を観測し、簡単な幾何学を適用することで、太陽から各惑星までの距離を、地球=太陽間の距離を1単位として、数学的に一意に決定することができたのです。これにより、太陽系の惑星の配列(太陽から水星、金星、地球、火星、木星、土星の順)が初めて確定し、宇宙が偶然の寄せ集めではなく、調和のとれた一つのシステムであることが示されました。
『天球の回転について』の出版と限界
コペルニクスは、自らの理論が引き起こすであろう宗教的、哲学的な論争を恐れ、その発表に非常に慎重でした。彼は何十年にもわたって原稿を推敲し続け、友人たちの強い勧めがあってようやく、その死の床で完成した著書の初版を手に取ることができたと言われています。
『天球の回転について』は、プトレマイオスの『アルマゲスト』の構成を意識して書かれた、高度に数学的な専門書でした。コペルニクスは、自らの体系の数学的な優位性と調和を強調することで、専門家である天文学者たちを説得しようと試みたのです。
しかし、コペルニクスのモデルにも限界がありました。彼は、依然として古代ギリシャ以来の「天体の軌道は完全な円である」というドグマに囚われていました。実際の惑星の軌道は円ではなく楕円であるため、単純な円軌道モデルでは、観測結果と予測を完全に一致させることができませんでした。この問題を解決するため、皮肉なことに、コペルニクスはプトレマイオスが用いた周転円や離心円といった装置を、自らの体系の中に再び導入せざるを得ませんでした。その結果、彼のモデルはプトレマイオスのモデルよりも必ずしもシンプルとは言えず、予測精度においても劇的な改善を示すことはありませんでした。
また、出版に際して、コペルニクスの友人でルター派の神学者であったアンドレアス=オジアンダーが、著者には無断で、この理論はあくまで天体の位置を計算するための数学的な仮説に過ぎず、物理的な真実を主張するものではない、という趣旨の序文を付け加えました。この序文は、カトリック教会やプロテスタント教会からの即座の非難を和らげる効果がありましたが、同時にコペルニクスの真の意図を曖昧にする結果ともなりました。
こうした限界にもかかわらず、『天球の回転について』の出版は、天文学の歴史における分水嶺となりました。それは、天動説という1500年続いたパラダイムに代わる、首尾一貫した対抗馬を初めて提示したからです。それはすぐには受け入れられませんでしたが、ティコ=ブラーエ、ヨハネス=ケプラー、ガリレオ=ガリレイといった次世代の天文学者たちに、宇宙を探求するための新たな視点と、解決すべき新たな問いを提供しました。コペルニクスが蒔いた種は、彼らの手によって育てられ、やがて科学革命という大きな花を咲かせることになるのです。
ティコ=ブラーエの観測と折衷的宇宙モデル
コペルニクスの地動説が発表された後、天文学の世界は二つの競合する宇宙モデル、すなわち伝統的なプトレマイオス流の天動説と、新しいコペルニクス流の地動説が並立する時代に入りました。しかし、どちらのモデルも観測結果を完全に説明するには至らず、決定的な証拠に欠けていました。この膠着状態を打破し、天文学を次の段階へと進める上で決定的な役割を果たしたのが、デンマークの偉大な天文学者ティコ=ブラーエです。彼は、理論家というよりは、前例のない規模と精度で天体観測に生涯を捧げた、観測の巨人でした。
ウラニボリとスティエルネボリ=観測の殿堂
ティコ=ブラーエの業績の基盤は、デンマーク王フレデリク2世の庇護の下、ヴェン島に建設した二つの壮大な天文台、ウラニボリ(「ウラニアの城」の意)とスティエルネネボリ(「星の城」の意)にありました。これらは、単なる観測施設ではなく、研究室、図書館、印刷所、さらには錬金術の実験室まで備えた、当時としては世界最高の総合科学研究所でした。
ティコは、天文学の進歩には、何よりもまず正確で体系的な観測データの蓄積が不可欠であると固く信じていました。彼は、巨額の資金を投じて、巨大な四分儀、天球儀、渾天儀といった、当時考えうる限り最も精密な観測装置を自ら設計し、職人に作らせました。これらの装置は望遠鏡が発明される以前のものでしたが、巧みな照準器と巨大な目盛り盤を備えることで、角度の測定精度を1分(1度の60分の1)という驚異的なレベルにまで高めました。これは、それ以前の観測精度を10倍以上も向上させるものでした。
ティコと彼の助手たちは、この天文台で約20年間にわたり、毎晩のように恒星や惑星の位置を体系的に記録し続けました。彼らが蓄積した膨大かつ高精度な観測データは、ティコ自身の理論構築のためだけでなく、彼の死後、後継者であるヨハネス=ケプラーの手に渡り、惑星運動の法則を発見するための基礎となる、かけがえのない宝となりました。
1572年の新星と1577年の大彗星
ティコのキャリアを決定づけたのは、二つの重要な天文学的発見でした。最初の発見は1572年、カシオペヤ座に突如として現れた非常に明るい「新星」(現代でいう超新星)の観測です。当時、アリストテレスの宇宙観によれば、恒星天は完全で不変の世界であり、そこではいかなる変化も起こり得ないとされていました。新星のような現象は、大気圏内で起こる気象現象、すなわち「月下界」の出来事だと考えられていました。
ティコは、自らの精密な観測機器を用いて、この新星の視差(観測地点による見え方の違い)を測定しようと試みました。もし新星が月よりも近い大気圏内の現象であれば、地球上の異なる場所から見ると、背景の恒星に対してその位置がずれて見えるはずです。しかし、ティコが数か月にわたって注意深く測定した結果、新星には全く視差が観測されませんでした。これは、新星が月よりも遥か遠く、恒星天の領域に属していることを決定的に示していました。不変であるはずの天界で、新しい星が生まれ、そして消えていく。この事実は、アリストテレス的な宇宙観の根幹を揺るがす、衝撃的な発見でした。
二つ目の発見は、1577年に現れた大彗星の観測です。彗星もまた、伝統的には大気圏内の現象と考えられていました。しかしティコは、この彗星の軌道を精密に追跡し、その視差を測定することで、彗星が月よりもずっと遠くにあり、さらに金星や火星といった惑星の天球を突き抜けて運動していることを突き止めました。これは、惑星が固定された水晶のような透明な天球(スフィア)にはめ込まれて回転しているという、古代以来の考えを否定するものでした。天界は、天体が自由に運動できる空間だったのです。
ティコ体系=地動説と天動説の折衷
これらの発見により、ティコはプトレマイオスとアリストテレスの伝統的な宇宙観に深刻な欠陥があることを確信しました。しかし、彼はコペルニクスの地動説を全面的に受け入れることにも躊躇しました。その最大の理由は、物理学的な、そして聖書解釈上の問題でした。もし地球が高速で自転・公転しているならば、なぜ我々はその運動を感じないのか。また、聖書は地球が不動であることを示唆している。さらに、彼自身の精密な観測をもってしても、恒星の年周視差(地球の公転に伴う恒星の見かけの位置の変化)を検出することができませんでした。彼は、もし地球が公転しているならば、恒星は想像を絶するほど遠くにあり、恒星自体の大きさも信じられないほど巨大でなければならないと計算し、それを不自然だと考えたのです。
そこでティコは、両者の利点を組み合わせた、独自の折衷的な宇宙モデル「ティコ体系」を提唱しました。彼の体系では、宇宙の中心には依然として不動の地球が位置しています。そして、太陽と月は地球の周りを公転します。ここまでは天動説と同じです。しかし、他の5つの惑星(水星、金星、火星、木星、土星)は、地球の周りを回るのではなく、太陽の周りを公転するとしたのです。つまり、惑星系全体が、太陽を伴って地球の周りを回るという、複雑な構造でした。
このティコ体系は、数学的にはコペルニクス体系と等価でした。地球から見た天体の動きは、両方のモデルで全く同じように記述できます。そして、ティコ体系はコペルニクス体系の利点の多くを享受できました。例えば、惑星の逆行運動は、地球の周りを公転する太陽の軌道と、太陽の周りを公転する惑星の軌道の組み合わせによって、周転円なしで説明できました。また、水星と金星が太陽の近くに留まる理由も明らかでした。
同時に、ティコ体系は地動説の持つ「問題点」を回避できました。地球は不動であるため、運動する地球に関する物理学的な反論や、聖書との矛盾を気にする必要がありません。年周視差が観測されないことも、何ら問題にはなりませんでした。このため、ティコ体系は、コペルニクスの数学的利点を認めつつも、地動説の持つ哲学的・神学的な過激さを受け入れがたいと考えた多くの天文学者たちにとって、魅力的な代替案となりました。特にイエズス会の天文学者たちはこのモデルを積極的に採用し、17世紀を通じてコペルニクス体系と勢力を二分する主要な宇宙モデルとなりました。
ティコ=ブラーエは、最終的に正しい宇宙モデルを提示したわけではありませんでした。しかし、彼の遺産は、彼が提唱した理論そのものよりも、彼が確立した観測の精神と、彼が残した膨大なデータにあります。彼は、天文学が哲学的な思弁から、精密な観測データに基づいた実証的な科学へと脱皮するための、決定的な基礎を築いたのです。そして、その貴重なデータというバトンは、彼の助手であったヨハネス=ケプラーへと手渡され、真の惑星運動の法則の発見へとつながっていくのです。
ヨハネス=ケプラーと惑星運動の法則
ティコ=ブラーエが残した精密な観測データという宝の山を解析し、そこから惑星運動を支配する真の数学的法則を発見するという大事業を成し遂げたのが、ドイツの天文学者ヨハネス=ケプラーです。彼は、ピタゴラス的な宇宙の数学的調和への深い信念と、ティコのデータに忠実であろうとする実証的な科学者の精神を併せ持っていました。この二つの資質の融合が、彼を「ケプラーの三法則」として知られる、天文学史上不滅の金字塔へと導きました。
ティコ=ブラーエとの出会いと火星との格闘
ケプラーは若い頃から熱心なコペルニクス主義者であり、宇宙は神が創造した幾何学的な設計図に基づいて構築されていると信じていました。彼の初期の著作『宇宙の神秘』(1596年)では、当時知られていた6つの惑星(地球を含む)の軌道が、5種類の正多面体(正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体)を入れ子状に配置することで説明できるという、独創的で神秘主義的な理論を展開しました。この理論は科学的には誤りでしたが、宇宙の根底にある数学的秩序を探求しようとする彼の情熱をよく示しています。
この著作がティコ=ブラーエの目に留まったことがきっかけで、ケプラーは1600年にプラハでティコの助手となります。ティコは、ケプラーの数学的な才能を高く評価し、彼に最も困難な課題を与えました。それは、ティコ自身が長年にわたって観測してきた、火星の軌道を決定することでした。火星は、他の惑星に比べて軌道が円から大きくずれており(離心率が比較的大きい)、その運動はプトレマイオス体系でもコペルニクス体系でも正確に説明することが困難でした。
ティコの死後、彼の膨大な観測データを引き継いだケプラーは、この火星の軌道との、後に彼自身が「火星との戦争」と呼んだ、長年にわたる壮絶な計算との戦いに身を投じます。彼は当初、コペルニクスと同様に、火星の軌道は円であると仮定し、エカントや離心円といった様々な装置を組み合わせて、ティコの観測データに合うモデルを構築しようとしました。何年にもわたる膨大な計算の末、彼はついに観測データとほぼ一致する円軌道モデルを見つけ出します。しかし、そのモデルとティコの観測値との間には、わずか8分角(1度の約7.5分の1)という、ごく小さな誤差が2か所で残りました。
以前の天文学者であれば、この程度の誤差は観測の誤差として無視したかもしれません。しかし、ケプラーはティコの観測の正確さを誰よりも深く信頼していました。彼は、このわずかな誤差を無視することを良しとせず、それは観測の誤りではなく、自らの理論の根本的な誤りを示しているのだと結論付けました。そして、彼は2000年以上にわたって天文学を支配してきた「惑星の軌道は完全な円である」という神聖なドグマを、ついに放棄する決断を下したのです。これは、科学史における最も誠実で、最も重要な決断の一つでした。
ケプラーの第一法則と第二法則の発見
円軌道の仮定を捨てたケプラーは、様々な卵形の曲線を試した後、ついに火星の軌道が「楕円」であることを発見します。そして、太陽はその楕円の一つの焦点に位置していることを見出しました。これが「ケプラーの第一法則(楕円軌道の法則)」です。これにより、惑星の軌道の形が初めて正確に記述されました。
しかし、惑星は楕円軌道上をどのような速さで運動するのでしょうか。ケプラーは、惑星が太陽に近づくときには速く動き、遠ざかるときには遅く動くことに気づいていました。彼は、この速度の変化を支配する法則を探求し、やがて驚くべき関係を発見します。それは、「惑星と太陽とを結ぶ線分が、等しい時間内に掃き過ぐる面積は、常に一定である」というものでした。これが「ケプラーの第二法則(面積速度一定の法則)」です。
これは、惑星が太陽に近づいて速く動くときも、遠ざかって遅く動くときも、その運動が完璧な数学的秩序に従っていることを示していました。惑星の速度はもはや一定ではありませんでしたが、その代わりに面積速度が一定であるという、より高次の法則性が見出されたのです。
これら第一法則と第二法則は、ケプラーが1609年に出版した『新天文学、あるいは天体物理学、ティコ=ブラーエの観測に基づく火星運動の研究』の中で発表されました。この著作によって、プトレマイオスやコペルニクスが苦心して導入した周転円やエカントといった複雑な装置は一掃され、惑星の運動は二つのシンプルで強力な法則によって見事に記述されることになりました。
ケプラーの第三法則=宇宙の調和の探求
第一法則と第二法則は、個々の惑星がどのように運動するかを説明しましたが、ケプラーはそれに満足しませんでした。彼は、異なる惑星の軌道間に存在するはずの、太陽系全体を貫く「調和」を探し求めていました。なぜ惑星は現在の距離にあり、現在の周期で公転しているのか。その問いへの答えを、彼は執拗に探し続けました。
そして、『新天文学』の出版から約10年後の1619年、彼はついにその答えを見出します。彼は、各惑星の公転周期と、その軌道の大きさ(楕円の長半径)との間に、驚くほど正確な数学的関係が存在することを発見しました。それは、「任意の二つの惑星について、その公転周期の2乗の比は、軌道の長半径の3乗の比に等しい」というものでした。これが「ケプラーの第三法則(調和の法則)」です。
この法則は、数式で表現すると (P1/P2)^2 = (a1/a2)^3 となります(Pは公転周期、aは軌道の長半径)。あるいは、よりシンプルに、すべての惑星について P^2 / a^3 が一定の値になる、ということです。この法則は、一見無関係に見えた各惑星の運動が、実は太陽系全体を支配する一つの普遍的な数学的法則によって固く結びついていることを示していました。水星の素早い動きから土星のゆったりとした動きまで、すべてがこの「調和の法則」に従っていたのです。ケプラーにとって、これは神が創造した宇宙の音楽的なハルモニアを聴き取ることに他ならず、彼の生涯にわたる探求が報われた瞬間でした。彼はこの発見を、1619年の著作『宇宙の調和』の中で発表しました。
ケプラーの業績の歴史的意義
ケプラーの三法則は、地動説の歴史において決定的な転換点となりました。
第一に、それはコペルニクスの地動説を、単なる哲学的・美学的なモデルから、観測データと寸分違わず一致する、精密な科学理論へと昇華させました。ケプラーの法則を用いることで、惑星の位置は、プトレマイオス体系とは比較にならないほどの精度で予測できるようになりました。これにより、地動説は計算上の優位性を完全に確立しました。
第二に、ケプラーは天文学に「物理学」の視点を導入しました。彼は、惑星が運動するのは、アリストテレスが考えたような天体の「本性」によるものではなく、太陽から発せられる何らかの「力」が作用しているからだと考えました。彼はその力を磁力のようなものだと推測しましたが、これは後のニュートンによる万有引力の発見を予感させる、画期的な発想でした。天文学は、もはや単に天体の位置を幾何学的に記述するだけでなく、その運動の原因を物理的に探求する科学へと変貌し始めたのです。彼の主著のタイトルが『新天文学、あるいは天体物理学』とされているのは、その意識の表れでした。
第三に、ケプラーは、ティコの観測データという経験的事実に絶対的な敬意を払い、自らの先入観(円軌道)が事実と合わないと知るや、それを潔く捨てるという、近代的な科学者の姿勢を貫きました。理論は観測によって検証されなければならないという科学的方法論の精神を、彼は身をもって示したのです。
しかし、ケプラーの業績もすぐには広く受け入れられませんでした。彼の著作は高度に数学的で難解であり、また彼の神秘主義的な思弁は、多くの同時代人には理解されませんでした。そして何よりも、彼の理論が正しいためには、地球が実際に運動していることの直接的な証拠が必要でした。その決定的な証拠を、天にもたらす人物が、ケプラーと時を同じくしてイタリアに現れます。その人物こそ、ガリレオ=ガリレイでした。
ガリレオ=ガリレイと望遠鏡による決定的証拠
ヨハネス=ケプラーが、ティコの観測データを基に惑星運動の真の法則を数学的に解明していた頃、イタリアの物理学者ガリレオ=ガリレイは、新しく発明されたばかりの道具「望遠鏡」を天空に向け、地動説を支持する決定的な観測的証拠を次々と発見していました。ガリレオの業績は、難解な数学理論であった地動説を、誰もが視覚的に理解できる、動かしがたい事実へと変貌させ、科学革命を一般社会にまで広める上で絶大な役割を果たしました。
望遠鏡による天界の発見
1609年、ガリレオはオランダで望遠鏡が発明されたという噂を耳にします。彼はその原理を独自に解明し、すぐさま自作の、より高性能な望遠鏡を製作しました。当初は軍事的な目的や商業的な利用が考えられていましたが、彼の真の情熱は、その新しい「眼」を、これまで誰も見たことのない天の世界に向けることにありました。その結果は、彼自身にとっても、そして世界にとっても驚くべきものでした。
彼の発見は、1610年に出版された小冊子『星界の報告』によって、ヨーロッパ中の知識層に衝撃を与えました。
第一の発見は、「月の表面」です。古代ギリシャ以来、月は完全な球体であり、その表面は水晶のように滑らかであると信じられていました。しかし、ガリレオの望遠鏡は、月の表面が山脈や谷、クレーターで覆われている、地球とよく似た凹凸のある世界であることを明らかにしました。これは、天界が地上とは異なる完全な物質でできているというアリストテレス的な「月上界」と「月下界」の区別を根底から覆すものでした。天も地も、同じ物質でできている可能性が示されたのです。
第二の発見は、「無数の恒星」です。肉眼では一つのぼんやりとした光の帯にしか見えない天の川が、望遠鏡を通すと、無数の恒星の集まりであることが分かりました。また、プレアデス星団(すばる)のように肉眼では6つか7つしか見えない星の集まりが、実際には40以上の星々で構成されていることも明らかになりました。これは、宇宙が我々の想像を遥かに超えて広大であることを示唆していました。
地動説を支持する決定的証拠
『星界の報告』の中でも最も衝撃的で、地動説の歴史において決定的な意味を持ったのが、次の二つの発見でした。
一つ目は、「木星の衛星」の発見です。ガリレオは、木星の周りを公転する4つの小さな天体を発見し、それらを「メディチ家の星」(彼のパトロンであったトスカーナ大公にちなんで)と名付けました。これがガリレオ衛星(イオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト)です。この発見の重要性は計り知れませんでした。なぜなら、それは「宇宙のすべての天体が地球の周りを回っているわけではない」ことの動かぬ証拠だったからです。天動説論者は、もし地球が動いているなら、月はなぜ取り残されないのかと反論していましたが、木星が4つもの衛星を引き連れて運動しているという事実は、その反論を無力化しました。木星とその衛星は、それ自体が太陽系のミニチュアモデルのように見え、地球が太陽の周りを回るのと同じように、衛星が惑星の周りを回ることが可能であることを示していました。
二つ目は、「金星の満ち欠け」の発見です。コペルニクスの地動説が正しければ、地球よりも内側の軌道を公転する金星は、月のように満ち欠けして見えるはずでした。特に重要なのは、金星が「満ちて」見える(満月のような円形に見える)局面が観測されるかどうかでした。地動説では、金星が太陽の向こう側にあるときに、地球から見てその全体が照らされて見えるため、満ちた形(ただし視直径は小さい)で観測されるはずです。一方、プトレマイオスの天動説では、金星の周転円は常に地球と太陽を結ぶ線上に中心があるため、金星が地球から見て満ちた形になることは決してあり得ず、三日月形か半月形までしか見えないはずでした。
ガリレオが望遠鏡で金星を継続的に観測した結果、金星はまさに地動説が予測した通りに、三日月形から半月、そして完全な円形へと満ち欠けをすることが確認されたのです。これは、プトレマイオスの天動説が明確に誤りであることを示す、最初の直接的な観測的証拠でした。金星は、地球ではなく、太陽の周りを公転していることが疑いようもなく証明されたのです。(ただし、これはティコの折衷モデルでも説明可能でした。)
宗教裁判とその後
これらの発見に自信を深めたガリレオは、公然とコペルニクスの地動説を擁護し始めます。彼は、難解なラテン語の論文ではなく、一般の人々にも読めるイタリア語で、対話形式の著作『天文対話』(1632年)を執筆し、地動説の正しさを雄弁に論じました。この本の中で、彼は天動説を主張する人物を「シンプリチオ(間抜け)」という名前で登場させ、その議論を徹底的に論破しました。
しかし、この行動は、プロテスタントの宗教改革に対抗して教義の統一を強化していたカトリック教会の権威を刺激することになりました。教会は、1616年にすでにコペルニクスの説を「異端の疑いがある」として、その擁護を禁じていました。ガリレオの『天文対話』は、この禁止令を破るものと見なされ、彼は1633年にローマの異端審問所に召喚されます。高齢のガリレオは、拷問の脅威の下で、自らの地動説を撤回することを強制され、終身禁固(後に自宅軟禁に減刑)を言い渡されました。有名な「それでも地球は動く」という言葉は、後世の創作であるとされていますが、彼の内心の信念を表す逸話として語り継がれています。
ガリレオの有罪判決は、科学の自由な探求に対する宗教的権威の介入という、科学史上の悲劇的な出来事として記憶されています。しかし、皮肉なことに、この劇的な裁判は、かえって地動説への注目をヨーロッパ中に広める結果となりました。一度、望遠鏡によって明らかにされた天界の真実を、もはや権威の力で覆い隠すことはできなかったのです。
ガリレオは、ケプラーのような数学的な理論家ではありませんでした。しかし、彼は実験と観測という実証的な手法を重んじ、自らの発見を力強く世に問うことで、科学革命を新たな段階へと押し進めました。彼がもたらした視覚的な証拠は、地動説を、もはや少数の専門家だけのものではなく、近代的な世界観の基礎として確立させる上で、不可欠な役割を果たしたのです。
アイザック=ニュートンによる物理学的完成
コペルニクスが提唱し、ティコのデータに基づいてケプラーが数学的に洗練させ、ガリレオが観測によってその証拠を固めた地動説。それは17世紀半ばには、天文学的なモデルとしてほぼ確立されていました。しかし、まだ最後の、そして最も重要なピースが欠けていました。それは、「なぜ」惑星はそのように運動するのか、という問いに対する物理学的な説明です。惑星を楕円軌道に留め、面積速度一定の法則に従わせ、そしてすべての惑星を調和の法則で結びつけている根源的な力とは何なのか。この問いに最終的な答えを与え、天上の物理学と地上の物理学を一つの壮大な体系へと統合したのが、イギリスの科学者アイザック=ニュートンでした。
『プリンキピア』と万有引力の法則
ニュートンの科学的業績の集大成は、1687年に出版された彼の主著『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア・マテマティカ)にあります。この著作は、科学史上最も重要な文献の一つとされ、近代物理学の基礎を築きました。その中でニュートンは、有名な「運動の三法則」と「万有引力の法則」を定式化し、それらを用いて天体の運動を数学的に説明することに成功したのです。
ニュートンの出発点は、ガリレオが確立した慣性の法則(運動の第一法則)でした。すなわち、力が働かなければ、物体は静止し続けるか、等速直線運動を続ける、というものです。惑星は円や楕円を描いて運動しており、これは等速直線運動ではないため、常にその軌道の内側(太陽の方向)に向かって何らかの力が作用し続けているはずだとニュートンは考えました。
彼は、この力が、地上の物体を落下させる重力と同じものではないか、という大胆な仮説を立てました。有名な「リンゴの逸話」が象徴するように、彼は月がなぜ地球に落ちてこないのかを考え、月は地球に向かって「落下」し続けているが、同時に前方へ進む慣性を持っているために、地表に衝突することなく地球の周りを回り続けているのだと結論付けました。
そしてニュートンは、この引力が、二つの物体の質量の積に比例し、物体間の距離の2乗に反比例するという「逆2乗の法則」に従うことを数学的に導き出しました。これが「万有引力の法則」です。この法則は、宇宙のあらゆる物体が、互いに引き合っていることを示しています。太陽が惑星を、地球が月を、そして地上のリンゴを引きつける力は、すべて同じ一つの普遍的な法則によって支配されていたのです。
ケプラーの法則の数学的証明
『プリンキピア』におけるニュートンの最大の功績の一つは、彼が定式化した運動法則と万有引力の法則から、ケプラーが経験的に見出した惑星運動の三法則を、すべて数学的に導き出せることを証明したことです。
彼は、太陽から逆2乗の引力を受ける物体が、どのような軌道を描くかを微分・積分などの新しい数学的手法(彼が発明した流率法)を用いて計算しました。その結果、その軌道はまさしく「楕円」となり、太陽はその焦点の一つに位置することが示されました。これは、ケプラーの第一法則の完全な物理学的説明でした。
次に、彼は中心力(太陽に向かう力)を受けて運動する物体は、常に「面積速度が一定」になることを数学的に証明しました。これは、力が物体の進行方向を変えるだけで、その速度の角運動量成分には影響を与えないためです。これにより、ケプラーの第二法則もまた、普遍的な力学の原理から導かれる必然的な帰結であることが示されました。
さらにニュートンは、逆2乗の法則に従う引力の下で円軌道(楕円の特殊な場合として)を描く惑星について、その公転周期の2乗が軌道半径の3乗に比例することを証明し、ケプラーの第三法則(調和の法則)にも物理学的な裏付けを与えました。
このようにして、ケプラーが長年の観測データの分析から帰納的に見出した三つの法則は、ニュートンの普遍的な力学体系から演繹的に導き出される、一つの統一された現象として見事に説明されたのです。これは、地動説が単に天体の動きをうまく記述するモデルであるだけでなく、宇宙を支配する根本的な物理法則の現れであることを証明するものでした。
地動説の物理学的完成とニュートン宇宙
ニュートンの業績によって、コペルニクスに始まる宇宙観の変革は、ついにその頂点を迎えました。
第一に、彼は「天上の物理学」と「地上の物理学」を統一しました。アリストテレス以来、天界と地上は異なる法則に支配されていると考えられてきましたが、ニュートンは、惑星を動かす力とリンゴを落とす力が、同じ「万有引力」という一つの法則で説明できることを示しました。これにより、宇宙はどこでも同じ物理法則が成り立つ、均質な空間であるという近代的な宇宙像が確立されました。
第二に、彼は地動説に、揺るぎない物理学的な基礎を与えました。惑星が太陽の周りを回るのは、太陽が圧倒的に大きな質量を持ち、その強大な引力で惑星を束縛しているからでした。太陽系の中心が太陽であることは、もはや美学的な要請や計算上の都合ではなく、力学的な必然だったのです。
ニュートンが描き出した宇宙は、神が定めた普遍的な数学的法則によって、時計のように正確に運行する、巨大で合理的な機械でした。この「ニュートン宇宙」観は、その後の啓蒙思想に大きな影響を与え、18世紀から19世紀にかけての西洋の科学と哲学の世界観を支配することになります。
もちろん、ニュートンの体系も完璧ではありませんでした。例えば、水星の近日点の移動が彼の理論では完全に説明できないことなど、わずかな綻びが残されていました。これらの問題は、20世紀初頭にアインシュタインの一般相対性理論が登場するまで解決を待つことになります。しかし、ニュートンの力学体系は、地動説を巡る数千年にわたる探求の歴史に一つの壮大な終止符を打ち、近代科学の時代の幕開けを告げるものでした。コペルニクスが蒔いた種は、ケプラーとガリレオによって育てられ、ニュートンによって見事な果実を実らせたのです。
地動説の確立以後の展開と証明
アイザック=ニュートンによって地動説の物理学的な基礎が確立された後も、科学者たちの探求は続きました。その焦点は、地球が実際に運動していることを示す、より直接的で決定的な証拠を見つけ出すことに移っていきました。18世紀から19世紀にかけて、天文学と物理学の進歩は、ついに地球の「自転」と「公転」を疑いようのない事実として証明する、いくつかの重要な発見をもたらしました。
地球の公転の直接的証明
地球が太陽の周りを公転しているならば、二つの現象が観測されるはずでした。一つは、地球の運動によって恒星の見かけの位置が変化する「光行差」、もう一つは、地球が公転軌道上の異なる位置から恒星を見ることによって生じる「年周視差」です。
最初の証拠は、1728年にイギリスの天文学者ジェームズ=ブラッドリーによって発見されました。彼は、りゅう座のガンマ星の年周視差を測定しようと試みている過程で、恒星の位置が一年を周期として、予測とは異なる方向に、小さな円(または楕円)を描くように変化することに気づきました。彼は当初、この現象の原因を解明できずにいましたが、ある日、テムズ川を航行する船の上で、風の向きとは関係なく、船の動きによって旗がなびく方向が変わるのを見て、ひらめきました。
彼は、この恒星の見かけの位置の変化が、地球の公転運動と、有限の速度を持つ光との組み合わせによって生じる「光行差」であると結論付けました。これは、雨が降っている中で前に進むと、雨粒が前方から斜めに降ってくるように見えるのと同じ原理です。地球が秒速約30kmという高速で公転しているため、遥か彼方からやってくる恒星の光は、地球の進行方向に対してわずかに傾いて観測されるのです。この光行差の発見は、地球が実際に公転していることの、最初の直接的な物理学的証拠となりました。ブラッドリーは、この観測結果から、光の速度を非常に高い精度で算出することにも成功しました。
地動説に対するもう一つの、そして古代ギリシャ時代から待ち望まれていた証拠である「年周視差」の検出は、さらに困難を極めました。年周視差とは、地球が公転軌道の両端(例えば夏と冬)から同じ恒星を見たときに、遠くの背景の星々に対してその位置がわずかにずれて見える現象です。このずれの角度は、恒星までの距離が遠ければ遠いほど小さくなるため、その検出には極めて高い精度の観測技術が必要でした。
ティコ=ブラーエをはじめ、多くの天文学者がその検出に失敗し、それが地動説への反論の根拠ともなっていました。しかし、19世紀に入り、望遠鏡の性能と測定技術が飛躍的に向上したことで、ついにその検出が可能となります。1838年、ドイツの天文学者フリードリヒ=ベッセルが、白鳥座61番星という、比較的地球に近い恒星の年周視差を測定することに、世界で初めて成功しました。彼は、この星が約0.3秒角という、極めて小さな角度で一年を周期に位置を変えることを突き止めたのです。この発見は、地球が太陽の周りを公転していることの動かぬ証拠であると同時に、三角測量の原理を用いて、初めて恒星までの具体的な距離を測定することを可能にしました。アリスタルコスが予言した通り、恒星は想像を絶するほど遠くにあり、だからこそ視差がこれほど小さかったのです。
地球の自転の直接的証明
地球の公転と並行して、地球が地軸を中心に一日に一回回転している「自転」の直接的な証明も、長年の課題でした。ニュートン力学によれば、自転する回転体の上では「コリオリの力」と呼ばれる見かけの力が働くことが予測されていました。この力は、北半球では運動する物体を右向きに、南半球では左向きに逸らす効果を持ちます。台風の渦が北半球で反時計回りになるのも、この力によるものです。しかし、この効果を実験室で明確に示すことは困難でした。
地球の自転を、誰の目にも明らかで、直感的に理解できる形で証明してみせたのが、1851年、フランスの物理学者レオン=フーコーが行った公開実験でした。彼は、パリのパンテオンの大聖堂の高いドームから、長さ67メートルのワイヤーで重さ28キログラムの鉄球を吊るし、巨大な振り子を作りました。
振り子は、一度揺らし始めると、慣性の法則によって、外部から力が加わらない限り、宇宙空間に対して一定の平面内を振動し続けます。もし地球が静止していれば、振り子の振動面はいつまでも同じ方向を保つはずです。しかし、フーコーの実験では、振り子の振動面は、床に置かれた目盛りに対して、時計回りにゆっくりと回転していくように見えました。
これは、実際には振り子の振動面が一定の方向を保っているのに対して、その下の地球(パンテオンの床)の方が、反時計回りに回転している(自転している)ことを示していたのです。この壮大な実験は、集まった大勢の観客の前で、地球の自転という目に見えない運動を、動かしがたい事実として可視化してみせました。フーコーの振り子は、地動説の最後のピースを埋める、象徴的な実験となりました。
これらの発見により、コペルニクスが数学的な仮説として提示した地動説は、19世紀半ばには、天文学的にも物理学的にも完全に証明された科学的真実として確立されました。それは、古代の思索から始まり、ルネサンスの数学的革命、望遠鏡による観測、そして近代物理学の確立という、数千年にわたる人類の知が最終的に結論づけたものでした。