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18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / 清代の中国と隣接諸地域(清朝と諸地域)

互市とは わかりやすい世界史用語2405

著者名: ピアソラ
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互市とは

清朝(1644年-1912年)の時代における「互市」は、国境地帯で隣接する国家や民族との間で行われた公認の貿易市場を指します。これは単なる経済活動の場ではなく、清朝の外交政策、辺境統治、そして多民族国家を形成する上で極めて重要な役割を果たしました。清朝の互市は、その前代である明朝の制度を継承しつつも、満洲人という非漢民族が中国を統治するという特殊な状況下で、より柔軟かつ戦略的に運用された点に特徴があります。その対象は北方のロシア帝国、中央アジアの諸民族、そして南西のチベットや東南アジア諸国にまで及び、それぞれの地域特性や相手国との力関係に応じて、多様な形態をとりながら展開されました。



互市制度の歴史的背景と清朝の基本方針

中国の歴代王朝は、周辺諸国との関係を「朝貢体制」という枠組みの中で捉えてきました。これは、中国皇帝が「天子」として世界の中心に君臨し、その徳を慕う周辺諸国が貢物を献上し臣従の意を示すという、華夷秩序に基づいた国際関係の理念です。朝貢使節団に付随する貿易は許可されましたが、それはあくまでも皇帝の恩恵として与えられるものであり、対等な国家間の自由な通商とは一線を画すものでした。しかし、広大な国境線を持つ中国にとって、朝貢という儀礼的な関係だけでは、国境地帯の平和と安定を維持し、現実的な経済需要を満たすことは困難でした。そこで、朝貢体制を補完する形で、国境地帯に限定的な公設市場、すなわち「互市」が設けられることになりました。
清朝は、明朝を打倒して成立しましたが、その支配層である満洲人は、もともと中国東北部の辺境民族でした。彼らは、中国を支配する以前から、モンゴル諸部族や朝鮮などとの間で交易を行っており、貿易の重要性を深く認識していました。清朝が中国全土を支配下に置くと、その広大な領土は北はシベリア、西は中央アジア、南は東南アジアに至るまで、多様な国家や民族と隣接することになります。これらの辺境地域を安定的に統治し、潜在的な脅威を管理することは、清朝にとって最重要課題の一つでした。
このような背景から、清朝は明朝の互市制度を継承し、さらに発展させました。清朝の互市政策の基本方針は、単なる経済的利益の追求にとどまらず、高度に政治的・戦略的な目的を持っていました。第一に、互市は辺境の遊牧民や諸外国との関係を安定させるための「撫育」策として位置づけられました。彼らにとって不可欠な茶、絹、穀物などの生活必需品を供給する一方で、馬や家畜、毛皮などの彼らの産品を買い上げることで、経済的な相互依存関係を構築し、敵対行動を抑制しようとしました。第二に、互市は重要な戦略物資を調達する場でもありました。特に、軍事的に不可欠であった馬の確保は、互市の重要な機能の一つでした。第三に、互市は国境を越える人々の往来を特定の場所に集中させ、監視・管理するための手段でもありました。これにより、密貿易や情報の漏洩、敵対勢力の侵入を防ぐことが意図されました。
清朝は、これらの目的を達成するために、理藩院という特別な官庁を設置しました。理藩院は、主にモンゴル、チベット、新疆(東トルキスタン)など、内陸アジアの藩部を管轄し、彼らとの朝貢や互市に関する実務を取り仕切りました。これは、漢人官僚が中心の伝統的な礼部が朝貢国を管轄するのとは異なる、清朝独自の二元的な対外関係処理システムでした。この理藩院の存在は、清朝が内陸アジアの諸民族との関係を、単なる朝貢国としてではなく、帝国の構成要素として、より直接的かつ実務的に管理しようとしていたことを示しています。
一方で、海からの脅威に対しては、当初、遷界令(沿岸住民を内陸に移住させる政策)のような厳しい海禁政策がとられました。これは、明の残存勢力である鄭成功政権への対策でしたが、1683年に台湾が平定されると、翌1684年には海禁を解き、広州、漳州(厦門)、寧波、雲台山(連雲港)の4つの港に海関(税関)を設置し、海外貿易を公認しました。しかし、その後、ヨーロッパ諸国との貿易が増加するにつれて、清朝は再び管理を強化する方向に転じます。そして1757年、乾隆帝はヨーロッパ船の来航を広州一港に限定する、いわゆる「広東システム」を確立しました。このように、清朝の対外貿易政策は、陸路と海路、そして相手国によって異なるアプローチをとる、複合的で戦略的なものであり、互市制度はその重要な一翼を担っていたのです。
北の巨人:ロシアとの互市

清朝の互市の中でも、最も大規模かつ長期にわたって続いたのが、ロシア帝国との貿易でした。17世紀半ば、シベリアへと東進を続けるロシアと、北方を固めようとする清朝は、アムール川流域で衝突しました。数度にわたる武力衝突の末、両国は1689年にネルチンスク条約を締結します。この条約は、両国の国境を画定しただけでなく、通商関係についても規定した、近代国際法的な性格を持つ画期的なものでした。条約により、両国民は旅券を携帯すれば、国境を越えて自由に貿易を行うことが許可されました。
当初、貿易はネルチンスクで行われましたが、その後、ロシアからの国家隊商が北京に直接赴いて交易を行う「キャラバン貿易」が中心となりました。しかし、キャラバン貿易は数年に一度に限られ、北京での滞在期間や交易額にも厳しい制限が設けられていました。また、隊商のメンバーの素行不良や、清朝側の儀礼をめぐる対立など、多くの問題も抱えていました。清朝にとって、ロシアは朝貢国の枠組みには収まらない対等な交渉相手であり、その扱いは常に慎重を期す必要がありました。
こうした状況を打開し、より安定的で効率的な貿易関係を築くため、両国は新たな交渉に臨みました。その結果、1727年にキャフタ条約が締結されます。この条約は、ネルチンスク条約で未画定だったモンゴル方面の国境を画定するとともに、両国の貿易に関する詳細な取り決めを定めました。キャフタ条約の最も重要な点は、国境地帯のキャフタ(ロシア側)とマイマイチェン(清朝側)に常設の交易所を設置し、北京へのキャラバン貿易に代わって、この場所での国境貿易(互市)を主要な通商ルートと定めたことです。
キャフタにおける互市は、「キャフタ体制」とも呼ばれ、19世紀半ばまで約130年間にわたり、清露貿易の中心地として繁栄しました。この貿易は、厳格な物々交換(バーター)を原則としていました。清朝は主に茶、絹織物、綿織物、陶磁器、大黄(漢方薬の原料)などを輸出し、ロシアからは毛皮(特にクロテン、リス、キツネなど)、皮革、毛織物、金属製品などが輸入されました。特に、ロシアにおける茶の需要は爆発的に増大し、18世紀後半から19世紀にかけて、茶はキャフタ貿易における清朝側の最大の輸出品目となりました。この「茶と毛皮の道」は、シベリアを横断し、ヨーロッパ・ロシアと中国を結ぶ壮大な交易ルートを形成したのです。
清朝政府は、キャフタ貿易を厳格な管理下に置きました。貿易は、政府から許可を得た特定の商人(清朝側では山西商人が中心)に独占させ、取引量や品目にも制限を設けました。また、国境地帯には監督官を派遣し、貿易の監視や紛争の解決にあたりました。貿易は年に一度、特定の期間に集中して行われ、それ以外の時期の接触は厳しく禁じられました。このような厳格な管理は、安全保障上の懸念や、国内産業への影響を最小限に抑えたいという清朝の意図を反映しています。
しかし、こうした公式の貿易とは別に、国境地帯では密貿易も盛んに行われました。公式ルートでは取引が禁じられている品物や、より高い利益を求める商人たちが、監視の目をかいくぐって非合法な交易を行ったのです。
キャフタ貿易は、清露両国に大きな経済的利益をもたらしただけでなく、政治的・文化的な影響も与えました。ロシアにとっては、東方への進出を経済的に支え、ヨーロッパ市場では手に入らない中国産品を入手する重要な手段でした。清朝にとっては、ロシアとの関係を安定させ、北方の安全を確保するための重要な外交ツールでした。また、キャフタは両国の役人や商人が接触する場となり、互いの情報や文化が交換される窓口としての役割も果たしました。ロシア正教会の聖職者が北京に駐在することもキャフタ条約で認められ、限定的ながらも文化交流が続きました。
しかし、19世紀半ばになると、キャフタ体制は大きな転換点を迎えます。アヘン戦争後、清朝がイギリスをはじめとする西欧列強に海港を開放すると、海上ルートを経由した安価な中国茶がロシア市場に流入し始めました。これにより、陸路を経由するキャフタ貿易の優位性は次第に失われていきました。さらに、ロシア自身の東方への野心が高まり、アムール川流域への進出を再び活発化させます。その結果、1858年のアイグン条約、1860年の北京条約によって、清朝は広大な領土をロシアに割譲させられ、両国の力関係は大きく変化しました。これらの条約により、国境貿易はより自由化され、キャフタの独占的な地位は終わりを告げました。
中央アジアの十字路:新疆における互市

清朝の内陸アジアにおけるもう一つの重要な辺境地域が、新疆(東トルキスタン)でした。この地域は、古くからシルクロードの要衝として、東西文明が交差する十字路であり、多様なオアシス都市国家や遊牧民が興亡を繰り返してきました。清朝は、18世紀半ば、長年にわたる宿敵であったジュンガル部を滅ぼし、この広大な地域を版図に組み入れ、「新たな疆域」を意味する「新疆」と名付けました。
新疆の統治にあたり、清朝は軍事的な支配と並行して、経済的な安定を図ることを重視しました。その中心的な政策が、互市の設置と通商の奨励でした。新疆は、北でロシア、西でカザフ、コーカンド・ハン国などの中央アジア諸勢力と隣接しており、これらの勢力との関係を管理することが不可欠でした。
清朝が新疆を征服する以前から、この地域ではジュンガル部が中央アジアの交易を支配していました。ジュンガル部は、清朝に対して朝貢貿易を要求し、北京や国境地帯で交易を行っていました。清朝は、ジュンガルを最大の安全保障上の脅威とみなしつつも、彼らを懐柔するために限定的な貿易を認めていました。
1750年代にジュンガルが滅亡すると、清朝は新疆における新たな交易秩序の構築に着手します。イリ、タルバガタイ、カシュガルといった戦略的な要衝に軍政機関(将軍府)を置き、その周辺に互市を開設しました。これらの互市は、周辺の遊牧民(カザフ人など)や、西方のオアシス商人(コーカンド商人など)との交易の拠点となりました。
新疆における互市の主な目的は、ロシアとのキャフタ貿易と同様に、政治的な安定の確保にありました。カザフ人などの遊牧民に対しては、彼らの生産する馬や羊、牛などの家畜を、清朝側が提供する茶、布地、穀物などと交換させました。これにより、彼らの生活を安定させ、清朝への経済的依存度を高めることで、略奪行為や反乱を防ごうとしました。特に馬は、新疆に駐屯する清朝軍の維持に不可欠であり、安定的な供給源の確保は死活問題でした。
一方、コーカンド・ハン国をはじめとする西方のイスラム商人との交易は、より複雑な様相を呈していました。彼らは、古くからの交易の民であり、中央アジアからロシア、インドに至る広大な交易ネットワークを握っていました。清朝は、彼らの商業活動を公認し、カシュガルなどの都市での交易を許可する一方で、彼らに対して納税の義務を課し、その活動を厳しく監視しました。コーカンド商人は、中央アジアの産品(綿織物、果物、皮革など)を新疆に持ち込むだけでなく、新疆を経由して中国本土の絹や茶、大黄などをロシア方面へ転売することで、大きな利益を上げました。
清朝政府は、新疆の経済を発展させるため、積極的な開発政策も推進しました。毎年、中国本土から大量の銀を軍事費や行政経費として新疆に送り込みました。この銀の流入は、新疆の貨幣経済を刺激し、商業活動を活発化させました。また、屯田(兵士による開墾)を奨励し、食糧の自給率を高めようとしました。これらの政策によって、新疆の農業や商業は、清朝の支配下で大きく発展しました。
新疆における交易品は、地域的な特色を強く反映していました。中央アジアから輸入される商品は、主に新疆内で消費される地域的な産品が多かったのに対し、中国本土から新疆に持ち込まれる茶、絹、大黄などは、新疆を越えてさらに西方のロシア市場まで運ばれる長距離交易品でした。また、新疆特産の玉(ジェイド)も、中国本土で珍重され、重要な輸出品の一つでした。
しかし、新疆における清朝の支配は、常に安定していたわけではありません。19世紀に入ると、コーカンド・ハン国が、カシュガル地方のイスラム教聖者の末裔(ホージャ)を支援して、清朝に対する反乱(ジャハーンギール・ホージャの乱など)を扇動するようになります。コーカンド側は、交易上の特権の拡大を狙って、軍事的な圧力と通商停止を交渉のカードとして利用しました。清朝は、反乱の鎮圧に多大な軍事費を費やし、コーカンドとの間で一進一退の攻防を繰り広げました。最終的に、清朝はコーカンド商人に対して免税特権などの大幅な譲歩を余儀なくされ、新疆における主権の一部を侵害されることになりました。
1851年には、ロシアとの間でイリ・タルバガタイ通商条約が結ばれ、新疆におけるロシア商人の活動が正式に認められました。これにより、ロシアとの貿易はさらに拡大しましたが、同時に、中央アジアにおけるロシアの影響力も増大していくことになります。そして1860年代、新疆で大規模なムスリム反乱が発生し、清朝の支配が一時的に崩壊すると、この地域の貿易は壊滅的な打撃を受けました。清朝が再び新疆を平定するのは1870年代後半のことであり、その頃には、中央アジアの国際情勢は、ロシアの南下によって大きく様変わりしていました。
南西辺境の交易:チベットとの茶馬貿易

清朝の互市は、南西辺境のチベットやその周辺地域においても重要な役割を果たしました。この地域で古くから行われていたのが、「茶馬貿易」と呼ばれる、中国産の茶とチベット産の馬を交換する交易です。茶は、高地で酪農中心の食生活を送るチベット人にとって、ビタミンを補給し、脂肪の分解を助けるために不可欠な生活必需品でした。一方、馬は、中国の歴代王朝にとって、騎馬軍団を編成するための重要な戦略物資でした。この相互の需要が、険しい山岳地帯を越える困難な交易ルートを維持させてきたのです。
明代には、茶馬貿易は政府の厳格な管理下に置かれ、「茶馬司」という専門の役所が設置されていました。政府は茶の専売制を敷き、特定の商人だけに取引を許可する代わりに、チベットの部族長から一定数の馬を貢納させるという形で、交易をコントロールしていました。
清朝もこの茶馬貿易の重要性を認識し、明の制度をおおむね継承しました。四川省の打箭炉(現在の康定)や、雲南省の麗江などが、茶馬貿易の主要な互市として栄えました。清朝は、これらの互市を通じて、チベットやその周辺の諸部族との関係を維持しようとしました。彼らに安定的に茶を供給することは、彼らを懐柔し、清朝の権威を及ぼすための有効な手段でした。
しかし、清朝時代の茶馬貿易は、明代とはいくつかの点で異なっていました。第一に、清朝は明朝ほど厳格な馬の貢納を求めなくなりました。これは、清朝の支配層である満洲人自身が騎馬民族であり、モンゴルなど他の供給源から良質な馬を確保できたため、チベット産の馬への依存度が低下したことが一因と考えられます。その結果、茶馬貿易は、軍事的な性格が薄れ、より商業的な性格を強めていきました。
第二に、政府による管理が緩やかになったことで、民間商人による私的な取引が活発化しました。多くの漢人商人が、利益を求めて茶をチベットに運び込み、馬だけでなく、毛皮、薬材、金などのチベットの産品と交換しました。これにより、交易量は増大し、国境地帯の経済は活性化しましたが、同時に密貿易も横行するようになりました。
清朝とチベットの関係は、単なる交易相手にとどまるものではありませんでした。清朝の皇帝は、チベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマやパンチェン・ラマを厚く保護し、彼らを帝国の宗教的権威として利用しました。ダライ・ラマは、モンゴル諸部族に対しても絶大な影響力を持っており、彼らを通じてモンゴルを間接的に統治することは、清朝の重要な戦略でした。1720年には、ジュンガルの侵攻を撃退するという名目でチベットに軍を派遣し、その後は駐蔵大臣(アンバン)をラサに常駐させて、チベットの内政と外交に対する監督を強化しました。
このような政治的・宗教的な関係の深化は、茶馬貿易にも影響を与えました。ダライ・ラマやチベットの有力寺院も、大規模なキャラバンを組織して中国本土との交易を行い、莫大な利益を得ていました。清朝政府は、こうしたチベット側の交易活動を保護し、彼らの経済的基盤を支えることで、チベットの支配層との良好な関係を維持しようと努めました。
18世紀後半になると、南方のグルカ(ネパール)がチベットに侵攻する事件が起こります。乾隆帝は大規模な軍隊を派遣してグルカ軍を撃退し、チベットにおける清朝の宗主権を改めて誇示しました。この後、清朝はチベットの対外関係に対する管理を一層強化し、外国人のチベットへの立ち入りを厳しく制限する、いわゆる「鎖国政策」を推し進めました。これにより、チベットと外部世界との直接的な交易は大きく制限されることになりましたが、清朝との間の茶馬貿易は、引き続き重要な経済の動脈として機能し続けました。
海の玄関口:広東システムと朝貢貿易

陸路の互市が主に安全保障と辺境統治の文脈で展開されたのに対し、海からの交易は、全く異なる様相を呈していました。17世紀から18世紀にかけて、大航海時代を経て力をつけたヨーロッパ諸国が、中国との直接貿易を求めて次々と来航するようになります。ポルトガル、オランダ、そしてイギリスといった海洋国家は、中国の茶、絹、陶磁器といった商品を渇望していましたが、彼らがもたらす毛織物などの商品は、中国ではほとんど需要がありませんでした。その結果、ヨーロッパ諸国は、対価として大量の銀を支払うことを余儀なくされ、深刻な貿易赤字に悩まされることになります。
清朝は当初、1684年に海禁を解除し、複数の港での貿易を認めました。しかし、キリスト教の布教をめぐる対立(典礼問題)や、外国人商人の行動に対する警戒心から、次第に管理を強化する方向に舵を切ります。そして1757年、乾隆帝は、ヨーロッパとの貿易を広州(カントン)一港に限定する勅令を発しました。これが、その後約80年間にわたって続く「広東システム」の始まりです。
広東システムは、厳格な管理貿易体制でした。外国商人は、広州港外の特定の区域(十三行)にのみ居住と営業が許可され、中国の官憲と直接交渉することは禁じられていました。貿易は、政府から特許を与えられた「行商」と呼ばれる十数人の中国人商人ギルド(公行)を介してのみ行うことができました。この公行が、外国商人とのすべての取引を独占し、彼らの行動に対しても連帯で責任を負う仕組みでした。また、貿易期間は年に一度の季節風が吹く時期に限定され、貿易が終われば外国人はマカオなどに退去しなければならず、女性や銃器の持ち込みも禁止されるなど、厳しい制約が課せられました。
このシステムは、清朝側から見れば、外国人を特定の場所に隔離し、監視下に置くことで、国内の秩序への影響を最小限に抑えつつ、貿易による利益(関税収入)を確実に得るための、非常に効果的な管理方法でした。関税の徴収を担当する粤海関監督(通称ホッポ)は、皇帝の私的な財産を管理する内務府から派遣され、その収益は国庫ではなく皇帝の私庫に納められました。これは、清朝皇帝が広東貿易をいかに重視していたかを示しています。
一方で、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国にとって、広東システムは多くの不満の種でした。公行による価格の独占、役人の腐敗や恣意的な課税、そして行動の自由に対する厳しい制限は、自由な貿易を求める彼らにとって耐えがたいものでした。イギリスは、マカートニー使節団(1793年)などを派遣し、北京の朝廷と直接交渉して、貿易港の拡大や制限の緩和を試みましたが、中華思想の優位性を自負する乾隆帝はこれらの要求をことごとく拒絶しました。
このような状況を打開するため、イギリス東インド会社が見出したのが、インド産アヘンの密輸でした。中国国内でアヘンの吸引が蔓延すると、アヘンの需要は急増し、イギリスは茶の代金を銀ではなくアヘンで支払うことができるようになりました。これにより、長年の貿易赤字は一気に解消され、逆に中国から大量の銀が流出する事態となったのです。銀の流出は、清朝の財政を深刻に揺るがし、社会に大きな混乱をもたらしました。
事態を憂慮した清朝政府は、林則徐を広州に派遣し、アヘンの厳禁を断行します。しかし、これが引き金となり、1840年、イギリスとの間でアヘン戦争が勃発しました。軍事力で圧倒的に劣る清朝は敗北し、1842年に南京条約の締結を余儀なくされます。この条約によって、清朝は香港を割譲し、広州を含む5港を開港し、公行制度を廃止して自由な貿易を認めさせられました。これは、広東システムの崩壊であり、清朝が維持してきた伝統的な対外関係の枠組みが、西洋の近代的な条約体制によって突き崩された瞬間でした。
広東システムは、厳密には国境での「互市」とは異なりますが、特定の場所に外国人を限定し、特許商人を通じて貿易を管理するという点で、その管理手法には共通するものが見られます。しかし、その相手が、陸続きの伝統的な隣国ではなく、遠い海からやってきた、全く異なる価値観を持つ海洋帝国であったという点が、最終的に異なる結末をもたらしたと言えるでしょう。
また、広東システムとは別に、東南アジアや東アジアの伝統的な朝貢国(琉球、シャム、安南など)との間では、引き続き朝貢貿易が行われていました。彼らは定期的に朝貢使節を北京に派遣し、貢物を献上する見返りに、皇帝から莫大な下賜品を受け取りました。この朝貢使節団には多くの商人が随行し、指定された場所(会同館)で交易を行うことが許可されていました。これは、政治的な儀礼と経済的な実利が結びついた、伝統的な互市の一形態でした。しかし、これらの朝貢貿易の規模は、ヨーロッパとの広東貿易や、ロシアとのキャフタ貿易に比べれば、経済的な重要性は限定的でした。
互市制度の管理と実態

清朝の互市制度は、中央政府による厳格な管理と、現場レベルでの柔軟な運用という二つの側面を持っていました。中央では、北方の陸路貿易は理藩院が、南方の海路貿易は礼部と戸部(海関を管轄)が担当するという、二元的な管理体制が敷かれていました。
理藩院は、モンゴル、チベット、新疆といった藩部との関係を専門に扱う機関であり、彼らの爵位の授与、朝貢の受け入れ、そして互市の管理などを一手に担いました。理藩院は、現地の言語や慣習に精通した満洲人やモンゴル人の官僚を多く擁し、実務的な対応能力に長けていました。彼らは、互市の場所、開市期間、取引品目、参加できる商人の資格などを細かく規定し、違反者には厳しい罰則を科しました。例えば、キャフタ貿易では、ロシア商人と私的に接触することや、指定された場所以外で取引することは固く禁じられていました。また、鉄製品や穀物など、軍事転用や戦略物資となりうる品目の輸出は厳しく制限されました。
一方、海港の管理は、粤海関監督(ホッポ)に代表される皇帝直属の役人が担いました。彼らは、関税を徴収し、外国商人の行動を監視する絶大な権限を持っていました。広東システム下では、特許商人ギルドである公行が、ホッポの監督のもとで貿易実務を取り仕切るという、官許の独占体制が敷かれていました。
しかし、こうした中央政府による厳格な管理体制にもかかわらず、国境地帯の現場では、より現実的で柔軟な対応がなされることも少なくありませんでした。広大な国境線のすべてを物理的に監視することは不可能であり、公式の互市を離れた場所での密貿易は後を絶ちませんでした。特に、茶や塩のように、政府の専売品でありながら需要が高い商品は、密貿易の格好の対象となりました。
また、現地の役人や軍人は、しばしば自らの利益のために、規則を緩めたり、密貿易を黙認したりすることがありました。彼らは商人から賄賂を受け取ることで、私腹を肥やしていたのです。特に広東では、ホッポや地方官僚の腐敗が蔓延しており、公行商人は莫大な「献金」を支払うことで、その地位を維持していました。
互市に参加した商人も、多様な階層からなっていました。キャフタ貿易を担った山西商人のように、政府と結びつき、広範なネットワークと莫大な資本を持つ大商人がいる一方で、国境地帯で細々と商売を営む零細な商人や、遊牧民自身が交易に参加することもありました。彼らは、公式の規則の隙間を縫って、たくましく商業活動を展開していました。
互市における取引は、多くの場合、物々交換で行われました。これは、国境を越える貨幣の移動を制限したいという政府の意図や、貨幣経済が十分に浸透していない地域が多かったことによります。しかし、取引規模が拡大するにつれて、銀が決済手段として用いられることも増えていきました。特に、18世紀以降、新大陸から大量の銀が中国に流入すると、銀は中国経済の基軸通貨となり、互市においてもその重要性を増していきました。
互市は、単なる商品の交換の場であるだけでなく、異なる文化や情報が交錯する場でもありました。商人、役人、兵士、通訳など、様々な人々が互市に集い、言葉や習慣、宗教、技術などが相互に伝播しました。キャフタにはロシア正教の教会が建てられ、広州の十三行にはヨーロッパの建築様式が取り入れられました。これらの互市は、清朝という巨大な帝国と外部世界とをつなぐ、限定的ながらも重要な結節点として機能していたのです。
互市の終焉と歴史的意義

19世紀半ば、清朝が築き上げてきた互市を中心とする伝統的な対外貿易システムは、内外からの挑戦を受けて、大きく揺らぎ、そして崩壊へと向かいます。その最大の要因は、西洋列強、特にイギリスによる、自由貿易を求める軍事的な圧力でした。
1840年のアヘン戦争とその敗北は、決定的な転換点となりました。南京条約によって、清朝は広東一港に貿易を限定してきた広東システムを放棄させられ、複数の港(条約港)を開港し、西洋との自由な貿易を認めざるを得なくなりました。さらに、治外法権を認め、関税自主権を失うなど、国家主権を大きく侵害する不平等条約を次々と結ばされていきます。これにより、清朝が自らの管理下に置いてきた対外貿易の主導権は、完全に西洋列強の手に移ってしまいました。海港における「互市」は、条約港体制へと姿を変え、もはや清朝がコントロールできるものではなくなりました。
陸路の互市もまた、同様の運命をたどりました。北方では、ロシアがアヘン戦争後の清朝の弱体化に乗じて、アムール川流域への南下を強めました。1858年のアイグン条約と1860年の北京条約により、清朝は広大な領土を割譲しただけでなく、陸路国境における自由な貿易をロシアに認めさせられました。これにより、130年続いたキャフタ貿易の独占体制は崩壊し、国境貿易は新たな段階に入りました。
西方の新疆では、1860年代に大規模なムスリム反乱が勃発し、清朝の支配が一時的に瓦解します。この混乱に乗じて、ロシアは中央アジアへの影響力をさらに強め、イリ地方を占領しました。清朝は多大な犠牲を払って新疆を再征服しますが、その頃には、中央アジアのハン国は次々とロシアの保護国となっており、清朝がかつてのように自律的な互市政策を展開できる環境は失われていました。1881年のイリ条約では、ロシア商人に対して新疆における広範な通商特権が認められ、この地域の経済はロシアへの従属を深めていくことになります。
このようにして、清朝が辺境統治と安全保障の重要な柱としてきた互市制度は、19世紀後半までに、その本来の機能を失い、西洋列強主導のグローバルな資本主義経済の論理の中に組み込まれていきました。
清朝の互市制度の歴史的意義を振り返ると、いくつかの点を指摘できます。
第一に、互市は、満洲人という非漢民族が支配する清朝が、その広大な多民族帝国を統治するための、極めて現実的で戦略的なツールであったということです。それは、中華思想に基づく理想的な朝貢体制を補完し、時にはそれに取って代わる形で、辺境の多様な民族や国家との関係を安定させ、帝国の安全を確保する上で不可欠な役割を果たしました。
第二に、互市は、近世ユーラシア大陸における広域的な経済ネットワークの重要な構成要素でした。北のキャフタ、西のカシュガル、南西の打箭炉、そして南の広州といった互市は、それぞれが異なる交易圏の結節点となり、茶、絹、毛皮、銀といった商品が、これらの拠点を経由して大陸を横断し、世界経済の動向とも連動していました。清朝の互市は、決して閉鎖的なシステムではなく、グローバルな経済のうねりの中に位置づけられるべきものです。
第三に、互市制度の崩壊の過程は、伝統的な東アジアの国際秩序が、西洋近代の主権国家体制と衝突し、変容を迫られていく象徴的な出来事でした。管理貿易と儀礼を重んじる清朝のシステムは、自由貿易と条約を原則とする西洋のシステムの前にもろくも崩れ去りました。この経験は、その後の中国の近代化の歩みに、長く大きな影を落とすことになります。
清朝の互市は、単なる国境市場ではなく、清帝国の政治、経済、外交、そして文化が凝縮された、複合的な制度でした。その盛衰の歴史は、近世から近代へと移行する激動の時代における、中国と世界の関わりの変遷を映し出す、重要な鏡であると言えるでしょう。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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